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江戸午睡 迷酩亭蟒蛇丸呑升の儀

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私は大酒飲みである。先祖代々の大酒飲みである。大酒飲みの因子は幾世代にも渡って受け継がれ、遺伝子に深く強く濃く刻まれている。母親は若かりし頃、「ビールの飲みっぷり日本一」に輝いたし、父親は酒で身代を潰した上、糖尿病の合併症で視力を失った。母親方の先祖には「千住の酒合戦」に名を連ねるほどの酒豪がいたと聞く。その人物は、「古今東西酒豪番付」に蟒蛇丸呑升(うわばみまる どんしょう)として記録されている。

さて、これより、わが先祖、蟒蛇丸呑升の足跡のいくぶんかをたどる。蟒蛇丸呑升は安永元年(1772年)、儒家・赤坂家の四男として、現在の赤坂4丁目に生まれた。のちに儒家・茨木家と養子縁組。この養子縁組はていのいい放逐であった。呑升のあまりの無法放埒ぶりに業を煮やした実父が激怒し、当時、跡継ぎのいなかった弟(幼少期に同じく茨木家と養子縁組)のところへ養子に出したのだ。呑升はこのことを終生恨み、実父が年老いたのち、激しく打擲する暴挙に出ている。

呑升は名を茨木太朗右衛門明房といい、文化・文政期の儒学者である。『茨木家実記』によれば、呑升の酒豪伝説は元服前にすでにはじまっている。儒学者である実父の赤坂伊兵衛斎房も名だたる大酒飲みであって、少年期、呑升は家人の眼を盗んでは買い置きの酒を盗み酒していた。顔を赤らめて赤坂界隈を千鳥足で徘徊し、眼にあまる傍若無人、乱暴狼藉を働いた。「呑升放逐」の遠因である。ある高名な戯作者との「郭論争」「美少年論争」はつとに有名で、当事者である戯作者はまいったとばかりに両手を膝に添えて頭を下げかけたが、自作に登場する人物を大酒の勢いでくさした呑升に激怒した戯作者が持っていた杖で殴りかかった「諍事之一件」は、お白洲裁き寸前までこじれた。呑升の大トラぶりは確実に私に受け継がれている。

呑升は「ある出来事」を境に少年期から青年前期までの、みずからの放埒無法、傍若無人、乱暴狼藉を深く悔い、以後、酒をいっさい断って、学問を志す。鬼神のごとき読書三昧、夜明け近くまで自室の灯りが消えることはなかった。「ある出来事」とは、実母の涙ながらの懇願であった。茨木家の養子となっても、呑升の放埒、無法はまったく改まらなかった。噂を聞きつけた実母は呑升を茨木家に訪ね、土下座し、涙を茫々と流し、叫ぶように懇願した。

「お頼みいたしますから、どうかどうか、まっとうな人間となってくださいませ。母の最初で最後のお頼みです。」

呑升の実母はそれだけ言うと、着物の裾の泥を払い、くるりと踵を返し、振り返ることもなく、さっさと帰ってしまった。あとに残された呑升は、拳を固く握りしめ、みずからの顔面を何度も打ちすえながら、号泣嗚咽した。

さて、儒学者としての呑升は、実際には格別の業績を残さなかった。呑升は異彩を放つこともないまま、壮年期を迎える。そして、壮年期の初め、再び、「ある出来事」が呑升に起り、呑升は元の木阿弥、大酒飲みの無法放埒、傍若無人、乱暴狼藉者に戻るのだが、それはまた別の話である。

*蟒蛇丸呑升こと茨木太朗右衛門明房は、晩年、おのが人生を揶揄するかのように、みずからを「迷酩亭」と号した。
# by enzo_morinari | 2023-08-22 12:55 | 江戸午睡 | Trackback | Comments(0)

すべての都市伝説の黒幕はゾルタクス・ゼイアンである。

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イリスの卵運び試験に合格し、卵好きどもが画策した鮫島事件を再検証する過程でゾルタクス・ゼイアンを知った。そして、すべての都市伝説の黒幕はゾルタクス・ゼイアンであることがわかった。

Zoltar, BIG (1988)

# by enzo_morinari | 2023-08-20 15:06 | ゾルタクス・ゼイアン劇場 | Trackback | Comments(0)

黄金のカエル

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オイラは黄金のカエルだ。名前なんかねえ。あすの朝一番で旅に出る。北の沼を出るんだ。あてはねえが目的はある。ずっと昔にオイラの前から姿を消した一匹の緋鯉を探しにいくのさ。

オイラがまだオタマジャクシに毛の生えたようなガキの頃によ。北の沼一番の不良でオイラの憧れだった鯉の兄ちゃんが、ある秋の夕暮れ、やけに遠い目をしてこう言ったんだ。「おい、坊や。漂うのはいいが、絶対に沈んだりなんかするんじゃねえぞ」ってな。もちろん、当時のオイラに鯉の兄ちゃんが言った言葉の本当の意味なんかわかるわけねえけども、オイラは「そうか。とにかく沈んじゃいけねえんだな。上のほうで漂ってりゃいいんだな」って、てめえ勝手に納得して、それ以来、ほかのやつらがぎゃーぎゃー沼の底のほうで騒いでいるときでも、オイラだけはあっぷあっぷしながら水面の辺りを漂っていた。

そりゃ、みんなで固まってりゃ安全だし、楽しいだろうけどもよ、憧れの鯉の兄ちゃんの言いつけだ。守らなくちゃならない。おかげでずいぶんと危ない目にもあったぜ。カラスの馬鹿野郎には喰われそうになるし、大風がいきなり吹いてきてすっ飛ばされるし、おまけに 太陽はギラギラまぶしいしよ。年がら年中手足をバタつかせて浮かんでなけりゃいけねえんだから疲れるしな。それでもオイラは鯉の兄ちゃんの言いつけを守りとおしたんだ。単純といえば単純、はっきりいやあ大馬鹿野郎もいいとこだな、オイラはよ。まあたいがいのカエルは頭がいいとは言えないがな。てめえで言ってりゃあ世話もねえな。

次の年の冬、鯉の兄ちゃんは沼から突然姿を消した。龍になったんだっていう奴もいれば、大鯰のうすら馬鹿に喰われちまったって奴もいれば、沼の果てにある大岩の裂け目に身をひそめているらしいって奴もいたが、本当のところは誰にもわからなかった。

そのうち、誰も鯉の兄ちゃんのことは話さなくなり、のっぺりとした平穏な日々が続き、そして忘れた。でも、オイラだけは鯉の兄ちゃんを絶対に忘れなかった。一度だけ沼の果てのあたりを丸一日泳ぎまわってみたが鯉の兄ちゃんとは会えなかった。大岩のかげの淀みにはクヌギやらナラやらブナやらの落ち葉が頼りなげに揺れているだけだった。そんときはさすがのオイラもちょっと泣きそうになったな。

鯉の兄ちゃんがいなくなってもオイラは言いつけをちゃんと守ったぜ。そして今日まで生きてきた。同じ日に生まれたほかのオタマジャクシのやつらは、どいつもこいつもくそ面白くもねえ緑色のカエルだが、オイラは黄金に輝くカエルになった。どういうわけでオイラだけが金ピカのカエルになっちまったのか原因はわからない。たぶん、年がら年中太陽にあたっていたからだろうぜ。目立つから危険も多いけどよ、いまさら他のやつらとおんなじくそ面白くもねえ緑色のカエルになんかなれやしねえし、なりたくもねえな。

そりゃ、おっかなくてキンタマが縮みあがっちまうときだってある。だけど、この世界に決して揺らぐことのない自信を持ちつづけられるやつなんかいるのか? いるわけがねえよ。みんななにかに怯えてるんだからな。

いつ喰われちまうか、いつ裏切られるか、いつ梯子をはずされるか、いつ傷つけられるか、いつ失っちまうか、いつ足元をすくわれるかってな。それが生きるってことだろうぜ。第一からして、オイラのような痩せガエルは、夏にゲコゲコ、冬にグーグーって相場が決まってるが、それだって絶対に生やさしくはねえんだぜ。

夏の恋の季節には恋敵たちがあっちでもこっちでもゲコゲコグワッグワッの大合唱だ。調子っぱずれなのや、やたら美声なのや、カミナリでも落ちたのかってなくらいでっけえ声のやつらが、それこそ死にものぐるいで鳴きわめく。そういうライバルたちをかきわけかきわけ恋の相手を見つけなきゃならねえんだ。それでも相手がみつかりゃあラッキーもいいとこだな。たいていのやつは相手も見つからず、ひと夏中、やかましくもさびしく鳴きつづけるわけさ。わがことながら情けないかぎりだな。

夏が終わり、秋が駆け足で通りすぎれば冬将軍様のおでましだ。冬眠に備えてしこたまエサの虫ども喰らうわけだが、十分にエサを食いだめできなくて眠っているあいだに餓死しちまうやつだっている。カサカサに干からびてよ。冬をやりすごし、狭っくるしい穴ボコから這い出したとき、仲の良かったやつが煎餅みたいな姿に変わり果てているのを目にすると、この世界には絶対に神さまも仏さまもいねえとつくづく思うよ。

真っ暗な穴ボコの中でだんだんと死んでゆく自分を知って、そいつはどんなことを考えたんだろうな。やっと冬眠からさめりゃ、たちの悪いヘビの野郎どもが虎視眈々と狙ってやがるから、いくら春の光が気持ちいいからっておちおち日向ぼっこもできやしねえ。最近はエサの虫どももめっきり少なくなっちまったしな。いつだって飢え死に寸前だ。腹が減ってどうしようもねえからいつもゲコゲコ鳴いてんだよ。鳴きながら泣いているんだ。上等にいやあ、哭いて啼いて慟いてるってなもんだな。こんなふうにオイラたちカエルは一年一年をやっとの思いで生き抜くんだ。情けねえもいいとこの生きざまじゃねえか。

でもな、こんなオイラのような者でさえ誰かがちゃんと見ていてくれるもんなんだ。不思議なもんだな。この広い世界にはスズメやらカエルやら虫けらやらが好きな変わったやつが少なくとも一人はいるもんなんだな。「痩せ蛙よ、負けるんじゃないぞ。いつも応援しているよ」ってな。「救い」だなんて大袈裟なことじゃねえけども、そんなことが生きる支えになるもんだな。

さて、旅の仕度は済んだ。覚悟もできた。明日は早起きしなけりゃならない。夜明け前には沼を出たい。今夜はマイルス・デイヴィスが『So What?』をミュートなしで吹きまくる夢でも見られたらいい。

鯉の兄ちゃんがいなくなっても、オイラは言いつけをちゃんと守ったぜ。そして今日まで生きてきた。同じ日に生まれたほかのオタマジャクシのやつらは、どいつもこいつも、くそ面白くもねえ緑色のカエルだが、オイラは黄金に輝くカエルになった。どういうわけでオイラだけが金ピカのカエルになっちまったのか、原因はわからない。たぶん、年がら年中太陽にあたっていたからだろうぜ。目立つから危険も多いけどよ、いまさら他のやつらとおんなじ、くそ面白くもねえ緑色のカエルになんかなれやしねえし、なりたくもねえな。そりゃ、おっかなくてキンタマが縮みあがっちまうときだってある。だけど、この世界に、決して揺らぐことのない自信を持ちつづけられるやつなんかいるのか? いるわけがねえよ。みんななにかに怯えてるんだからな。いつ喰われちまうか、いつ裏切られるか、いつ傷つけられるか、いつ失っちまうかってな。それが生きるってことだろうぜ。

第一からして、オイラのような痩せガエルは、夏にゲコゲコ、冬にグーグーって相場が決まってるが、それだって絶対に生やさしくはねえんだぜ。夏の恋の季節には恋敵たちが、あっちでもこっちでもゲコゲコ、グワッグワッの大合唱だ。調子っぱずれなのや、やたら美声なのや、カミナリでも落ちたのかってなくらいでっけえ声のやつらが、それこそ死にものぐるいで鳴きわめく。そういうライバルたちをかきわけかきわけ、恋の相手を見つけなきゃならねえんだ。それでも、相手がみつかりゃあ、ラッキーもいいとこだな。たいていのやつは相手も見つからず、ひと夏中、やかましくもさびしく鳴き続けるわけさ。わがことながら、情けないかぎりだな。

夏が終わり、秋が駆け足で通りすぎれば、冬将軍様のおでましだ。冬眠に備えてしこたまエサの虫ども喰らうわけだが、十分にエサを食い貯めできなくて、眠っているあいだに餓死しちまうやつだっている。カサカサに干からびてよ。冬をやりすごし、狭っくるしい穴ボコから這い出したとき、仲の良かったやつが煎餅みたいな姿に変わり果てているのを目にすると、この世界には絶対に神åも仏もいねえとつくづく思うよ。真っ暗な穴ボコの中でだんだんと死んでゆく自分を知って、そいつはどんなことを考えたんだろうな。やっと冬眠からさめりゃ、たちの悪いヘビの野郎どもが虎視眈々と狙ってやがるから、いくら春の光が気持ちいいからって、おちおち日向ぼっこもできやしねえ。最近はエサの虫どももめっきり少なくなっちまったしな。いつだって飢え死に寸前だ。腹が減ってどうしようもねえから、いつもゲコゲコ鳴いてんだよ。鳴きながら泣いているんだ。上等にいやあ、哭いて啼いて慟いてるってなもんだな。こんなふうにオイラたちカエルは、一年一年をやっとの思いで生き抜くんだ。情けねえもいいとこの生きざまじゃねえか。

でもな、こんなオイラのような者でさえ、誰かがちゃんと見ていてくれるもんなんだ。不思議なもんだな。この広い世界にはスズメやらカエルやら虫けらやらが好きな変わったやつが、少なくとも一人はいるもんなんだな。「痩せ蛙よ、負けるんじゃないぞ。いつも応援しているよ。」ってな。「救い」だなんて大袈裟なことじゃねえけども、そんなことが生きる支えになるもんだな。

「カエルの兄ちゃん。顔色悪いよ。」とポーが言った。水たまりには緑色のカエルのくたびれ果てた姿が映っていた。「きっとコノハズクの兄ちゃんがカエルの兄ちゃんにかかっていた呪いを解いたのさ!」

そのときやっと本当のことがわかった。黄金に輝いていたのはオイラじゃなかったんだってことが。自ら黄金に輝いていたのではないってことが。オイラが黄金に見えたのは太陽の光を浴びていたからにすぎない。オイラは太陽の光を浴びなければ輝けなかったんだ。いまオイラはどこにでもいる緑色の普通のカエルに変わっちまったが、普通のカエルどもとちがうところは、オイラはたとえ闇の中にひとり立ちつくしていても、あざやかな緑色に輝いているってことだ。何者にも成り代わりえない自分自身として自ら輝く。そうだ。やっとわかった。太陽の光がなくても、おれはいつでも、どこででも、たとえようもなく、成り代わりようのない、オイラ自身のほかに誰も引き受けようもない、宇宙にただ一匹の本物の緑色のカエルなんだ。

旅は終わった。黄金に輝いていたオイラは、旅のあいだにどこにでもいる緑色のカエルになっちまった。やたらつるつるてらてらしやがってよ。凄みがねえ。迫力がねえ。深みがねえ。ないないずくしのコンコンチキさ。骨折り損のくたびれ儲けとはよく言ったもんだ。まったくもって、がっかりもいいところだぜ。ちくしょうめ!

沼全体が夕陽に染まりはじめた。コノハズクの亡骸もポーもゲンタも夕陽に染まり、黄金に輝いてみえた。おれたちだけじゃない。いまオイラの目の前に広がる世界のすべてが黄金に輝いていた。結局のところ、鯉の兄ちゃんには会えずじまいだったが、オイラは大事なことにやっとこさ気づいた。まんざら無駄な旅ではなかったってこった。

世界にはオイラより強い奴もいれば、頭のいい奴もいれば、イカした奴もいる。そんなことはあたりめえの話だ。言われなくたって百も承知さ。だが、オイラは見た目は緑色ではあるけれども、世界のどのカエルよりも輝いている黄金のカエルだ! オイラはこのまんまいく。馬鹿げてはいるが、それがオイラの唯一の誇りでもあるからな。そして、緑色をした黄金のカエルのままくたばるんだ。もちろん、オイラの墓碑銘には[漂えど沈まず]とだけ刻まれるんだろうぜ。いつか、どこかで、そんな墓碑銘を見かけたら、裏側を見てみな。たぶん、こんなことが書いてあるはずだ。

漂いつつも、決して沈まず、やせ我慢の果てに、ついに蛙の王となりし宇宙一の大馬鹿ガエル、ここに眠る。冬眠ではない。


Stevie Wonder - Stay Gold(The Outsiders/1983)

# by enzo_morinari | 2023-08-15 19:08 | 黄金のカエル | Trackback | Comments(0)

老兵は笑う

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父が死んだ。1週間前のことだ。米寿目前。大往生だった。縁台の陽だまりで眠るように逝った。いくつもシミの浮いた皺だらけの手には前の日に私が贈った真新しい携帯電話がきつく握りしめられていた。

関東大震災、従軍、戦後の混乱、高度経済成長期。父は文字通り激動の時代を生き抜いた。難しい議論はあろうが、現在、我々がまがりなりにも平和に暮らせるのは父の世代の奮闘奮励努力の賜物である。不徳にも父たちの流した汗や涙の重さを計測する秤を、私はいまだみつけられずにいる。「言多きは退くなり」「語りつくせぬことについては沈黙せよ」「沈黙は金。饒舌は銀」が父の口癖だった。母の気質を受け継いで口数の多い私を、父はことあるごとにたしなめた。バブル経済が臨界寸前まで膨らみ、浮かれはしゃいでいる私に父は言ったものだ。

眼差しは高く、手は低く。

志を高く持ち、目先の利害に惑わされるなと父は言いたかったのだろうが、当時の私に父の言葉の本当の意味が理解できようはずもなかった。父の危惧どおりバブル経済はもののみごとに崩壊し、私は完膚なきまでに叩きのめされた。

「朝のこない夜はない。すべては過程にすぎない。世界中が敵にまわっても、おれはおまえの味方だ」

困憊消沈する私にそう言って、父は銀行通帳と印鑑と不動産の権利書と保有する有価証券類の目録を差し出した。父の虎の子だった。私は危機をなんとか脱した。

慌ただしい1週間だった。初七日の雑事をなんとか終え、家族総出で父の形見分けをしていると懐かしい写真が何枚も出てきた。古色蒼然としたそれらの写真の中の一枚。我が家に電話がやってきた日のすこぶる上機嫌な父をとらえた写真。受話器を持つ父は得意満面である。めったに笑うことのない父が一瞬垣間見せたとびきりの笑顔だった。

我が家に電話が開通したのは遅く、私が中学1年の春である。現在からは想像もできないが、当時は電話局に申しこんでから電話が開通するまで何週間も待たされた。

電話が開通した夜、父は親類や知人友人に電話をかけまくり、電話をかけるように頼みこんだ。電話番号を伝えるとき、父はいかにも誇らしげだった。呼び出しのベルが鳴ると同時に、「電話だ。電話だ」と家中に響き渡る雄叫びを上げながら電話のある玄関まで一目散、脱兎のごとく走る父の姿はいまも鮮やかだ。

携帯電話をプレゼントすることを告げたとき、はじめ父は頑なに拒んだ。「携帯電話は不在の権利を行使できないから」というのが理由だった。いかにも父らしい。それでも、携帯電話ならいつでも孫たちとメールのやりとりができることを含めて携帯電話の利点を説明すると、渋々、承知した。

「味気ないメールとやらより、手紙や葉書のほうがうれしいんだがね。本当は」

そのように言いながらも父はうれしそうだった。私は操作が簡単で、番号ボタンも画面表示も大きくて見やすい機種を選び、父に贈った。父は操作マニュアルと首っ引きで生まれて初めての携帯電話と格闘していた。その晩、うれしかったのか好奇心からか、父は夜がふけても携帯電話を手放さなかった。

父が長年使っていた和室は妻や娘たちによって徹底的に片づけられ、いまや父が生きていた痕跡は文机と文箱と硯と筆と数冊の哲学書と漢籍、そして、床の間の壁にかかる奥村土牛の掛け軸に残っているだけだ。

主を失った六畳間はやけに広く感じられた。父が若かりし頃から愛読しつづけていたニーチェの『善悪の彼岸』をぱらぱらとめくり、文机の縁を撫で、筆を手に取り、奥村土牛の掛け軸を眺めていると、父の気配を強く感じた。それは気配というよりも、手ざわりのごときものでさえあった。父との思い出のいくつかが去来する。真冬の天体観測、逗子海岸での蟹獲り、丹沢山系縦走。高度経済成長期のまっただ中を企業戦士として生きた父は家族とすごす時間をほとんど持てなかったが、数少なく宝石のような思い出を残してくれた。思い出がおぼろげに見え隠れする。かなしくも、面影は日々、うすれゆく ──。

私の二十歳の誕生日の朝、父は私を書斎に呼び、正面に正座させ、自分も正座して居ずまいを正し、おごそかに宣言した。

「君は1958年の秋の盛り、夜ふけの10時22分に生まれた。私も君の母さんもたいそうよろこんだ。私に限って言えば、君のその後の経緯については判断留保だがね。私は地方出張中で君の誕生には立ち会えなかった。君の誕生の知らせは電報で届いた。さて、君は本日をもって成人する。以後、自主自律で生きてもらう。この家からも出ていただく。寝倉はすでに用意してある。先々代の時代から懇意にしていただいている本郷の下宿屋さんだ。大昔、私がお世話になった下宿でもある。今日までの私と君とのあいだに存する貸借関係はいったん御破算とする。引っ越し費用と当面の生活費です。受け取りなさい。これについてはいずれ少しずつ返済しなさい」

父は言い、茶封筒を私に手渡すと、脇目もふらずに書斎を出ていった。青天の霹靂だったが、父の意志は固く、懇願する母にとりつく島をいっさい与えなかった。その日の夕方には運送会社のトラックが家に横付けされた。あの朝から50年近くが経つ。当初は父をうらんだ。憎みさえした。冷酷な仕打ちとも思った。だが、いまは感謝の気持ちのほうが強い。

文机の前に正座し、眼をとじる。言葉にならない思いが次から次へと去来する。午後10時22分。49年前の今日、まさに私がこの世に生をうけた時刻。メールの着信を知らせる電子音が鳴った。メールは父の携帯電話からだった。我が眼を疑った。父がメールの送信予約をしていたのだということに気づくのにしばらくかかった。やるじゃないか。親父殿。

「わがむすこよ、たんぜうびおめでたふ。けひたひでんわをありがたふ。かういんやのごとしなれどもらうへいはしなず。ただきへさるのみ。じんせひかかたいせう。にちにちこれかうじつ。こんぱひのときにもおおらかたれ」
(わが息子よ、誕生日おめでとう。携帯電話をありがとう。光陰矢の如しなれども老兵は死なず。ただ消え去るのみ。人生呵々大笑。日々是好日。困憊のときにもおおらかたれ)

父の最初で最後のメールは、私への「応援歌」でもあった。私は曇る目頭をこすりながら、万感の思いをこめて返信文を打った。

「わが親父殿よ、ありがとう。あなたの息子として生まれて幸せだった。老兵よ、ただ静かに眠れ。人生呵々大笑。日々是好日。我、おおらかに委細承知」

静まり返った夜ふけの部屋に着信音が鳴り響く。部屋の隅の文箱の中からだった。それは父の笑い声とも聴こえた。

Old Soldiers Never Die, They Just Fade Away.

# by enzo_morinari | 2023-08-02 09:05 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

流儀と遊戯の王国 ── センス・エリート100箇条

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【センス・エリート100箇条】
30歳を目前にした熱い夏、ある輸入ビールの広告制作の依頼が舞いこんだ。当時はキリンビールが圧倒的なシェアを有していて、どいつもこいつも当たり前のようにキリンビールを飲んでいた。そういった状況に異議申立てしたかった。そして、「センス・エリート/1番が1番いいわけではない。1番ではないことがクールでカッコイイことだってある」というコンセプトで企画を立て、広告文案を書いた。自分自身に言い聞かせるような意味合いもあった。ギャラは安かったけれども、この広告文案が書けたおかげでその夏はいい夏になった。その夏の終わりに手に入れたデイヴィッド・ホックニーのリトグラフはいまも手元にある。

001 30歳を過ぎても少年の好奇心が旺盛である。
002 謎めいた部分を持っている。
003 家庭のことはいっさい口にしない。
004 軽々しく“仕事”という言葉を使わない。
005「男らしさ」を誇示しない。
006 汗を拭き拭き喫茶店の水を飲まない。
007 なにを身につけてもさまになる。
008 健康のためのスポーツ、教養のための読書などはしない。
009 自分の持ち物、ファッション等に関しての入手先、値段を口にしない。
010 つきあいパーティーの類にはいっさい顔を出さない。
011 本物と偽物を見ぬく眼を持ち、好き嫌いがハッキリしている。
012 オートバイに夢中になってもスピードの魅力を口にしない。
013 一流の映画監督よりも三流の映画役者をこよなく愛す。
014 カネがあろうがなかろうが自分の生活を匂わせない。
015 文化人と呼ばれる人間の言うことは簡単に信じない。
016 世の中についての安易な発言はしないし、世論に惑わされることもない。
017 探検旅行が好きなうえに旅慣れている。
018 趣味をひけらかさない。
019 格闘技をこよなく愛する。
020 動物に対して親愛の情を抱いている。
021 クレジットで生活しない。
022 絵心を持っている。
023 仕事仲間よりも遊び仲間を優先する。
024 社会的名誉よりも個人的悦楽を優先する。
025 アメリカン・コレクションにうつつをぬかさない。
026 学校教育以外の独学で世界を知り、独自の美意識を身につけている。
027「ほどほど」という平均値を生きていくうえでの基準にしない。
028 ビール5~6杯で酔っぱらって愚痴をこぼすようなことはしない。
029 自己の行為に反省やら悔恨/悔悟の情はいっさい抱かない。
030 他人がなんと言おうが自分の信じる流儀はすべてにおいて貫きとおす。
031 己のプライドを傷つけるものに対しては徹底して戦う。
032 数少なく信頼できる友を持っている。
033 “なんとなく”という気分はいっさいない。
034 さびしさをまぎらわすために夜な夜な酒場で陰気な酒を飲んだりしない。
035 最終的には一人で物事の決着をつける覚悟を持っている。
036 社会情勢、景気、不景気で信条を変えない。
037 時間に追われる生活をしない。
038 いつもここより他の地への夢想を密やかに胸に抱いている。
039 男には仕事に成功した時の喜びの顔よりも美しい顔があることを知っている。
040 群れない。
041 小さなことにも感動できる少年の心を持っている。
042 笑顔がさわやかである。
043 ウエスト・コーストを卒業。オーセンティックを好む。
044 長い船旅に退屈しない。
045 性に対しての偏見を持たない。
046 女性遍歴の自慢話はしない。
047 アメリカの放浪よりもヨーロッパの漂泊。
048 セクシーだが猥せつではない。
049 売名行為はしない。
050 人に説教、訓戒の類いをいっさいしない。
051 イエス・マンではない。
052 学校教育に関しては無関心である。
053 部屋の壁にはデイヴィッド・ホックニーのリトグラフ。
054 遠くを見つめているような神秘的な瞳を持っている。
055 深刻になったとしても決して眉間に皺を寄せない。
056 群衆が熱狂する祭りのなかに身を投じ、魂を解放できる。
057 流行を創りだすことはあっても追いかけない。
058 社会的地位を得たとしても安閑としない。
059 ファッションでサングラスをかけない。
060 まちがっても、女から「老けたわね」と言われない。
061 生涯を通じてイチかバチかの大冒険を少なくとも三度は体験する。
062 仕事か家庭かの選択を迫られるような生活はしない。
063 笑いはあらゆるマジメを超えていることをわかっている。
064 一生の住みかを構えようとは思わない。
065 自分が身を置いている現実のちっぽけさを知っている。
066 貸し借りなしの人生。
067 滅びゆくもののなかに光る美を発見し、愛惜する情を持っている。
068 どんなことがあろうとも女性に対し暴力をふるわない。
069 郷土愛、祖国愛にしばられることはない。
070 相手の弱みにつけこまない。
071 時として無償の行為に燃える。
072 大空への情熱。そしてアフリカへの憧れ。
073 場末の人間臭さを素直に愛せる。
074 一人旅、一人酒を楽しめる。
075 力の論理や数の論理に圧倒されることがない。
076 “世代”のワクでくくられないような道を歩んでいる。
077 神話世界に深い関心がある。
078 すがるための神なら必要としない。
079 なにごとにつけ女々しさを見せない。
080 はたから見たら馬鹿げたことでも平気でやる。
081 人前で裸になれないような肉体にはならない。
082 感傷的な面もあるが想い出に耽ってしまうことはない。
083 自分だけの隠れ家を持っている。
084 食道楽等のおよそプチブル的道楽志向とは無縁である。
085 あらゆる判断と行動の基準は「美しいか、美しくないか」である。
086 お湯でうすめたアメリカン・コーヒーは飲まない。
087 なにごとにおいても節制によって自分を守ろうとはしない。
088 自然に渋くなることはあっても自分から進んで渋さを求めない。
089 どこまでが真実なんだか虚構なんだか定かでない世界に生きている。
090 カネは貯えない。ひたすら遣う。
091 ヤニ取りフィルターなどを用いない。
092 生き方について考え悩まない。
093 愛誦の詩を心に持っている。
094 やたらハッピーな世界をつまらなく思っている。
095 失くし物をしても探すようなマネはしない。
096 洗いざらしのコンバースがいつまでも似合う。
097 女性に対してはロマンチストである。
098 世に受け入れられないすぐれた芸や人を後援するが表には出ない。
099 内面にこだわる以上に外観にも気を配る。
100 No.1がかならずしも素晴らしいとは思わない。

# by enzo_morinari | 2023-07-25 01:55 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback | Comments(0)