八尾の朝吉のモデルになった人物は寡黙で、驚くほど静かで、気品に満ちていた。あるものを隠すことはできるが、ないものを隠すことはできない。左手に棍棒を隠し持ち、笑みを絶やさず、穏やかに交渉すればすべてうまくいく。仕事月末を控え、世間は忙しいらしい。しかし、私にはいささかも関係がない。これから連日、月末にかけて何人かの依頼者と交渉相手がかわるがわるある種の記号が刻印された紙っぺら1枚乃至は強制通用力のある記号もしくは幻想の束を持ってくるのを受け取る日だ。こどもでもできる。退屈なことこのうえもない。それが月初だろうと五・十日だろうとおなじである。
厄介事専門交渉人仕事? ふん。仕事か。仕事な。Aの泥水をBに移しかえることも仕事と呼びうるなら、私のやっていることも仕事なんだろう。移しかえているうちに汚れや濁りはわずかだがなくなる。絶対に澄んだりはしないが、それでも見た目と上っ面はよくなる。よくなったような気になる。においも多少は薄くなる。私のやっているのはそんなようなことだ。それを仕事と呼ぶことにはいささかの躊躇を禁じえないが、よく、「あんたはいい仕事師だ」と言われるところからすると世間様には私のやっていることが「仕事」と映るんだろう。なんと思われようと現在の私はこれしかできないし、ほかにやることもないからやっている。ほかにやる者がいないからやっているだけのことだ。ドブさらいは誰かがやらねばならない。こどもの頃から、交渉ごと/ネゴシエーションで負けたことはない。
私の「仕事」によっては誰も救われないかわりに誰も傷つかない。誰も幸せにはならないが不幸せにもならない。それでいい。誰かを救ったり幸せにしたりというのは神様か仏様の仕事だ。傷つけたり不幸せにすることはもう卒業である。松下幸之助の「どのような仕事であれ、その道のプロになれ」という言葉はいくぶんかの励みにはなっている。
履歴書「履歴書」が必要な人生とオサラバしてからもう30年になる。30年の間に昔のことは忘れるに限るし、予定は立てないほうが気が楽であることも知った。悔いはないかと問われれば、「ある」と思い、「ない」と答える。「人間万事塞翁が馬」「禍福は糾える縄のごとし」が人生とやらの実相なんだろう。そうとでも考えなければ「やってられっかよ!」ということだ。
長く生きているといろいろなことを尋ねられる。ついこのあいだのことだが、生きようが死のうがだれも鼻にも引っかけないような知性ゼロ品性下劣の勘ちがい婆さんにいきなり、「スカウト系の方ですか?」とたずねられた。スカウト系? 初めはその婆さんは頭でもおかしいのかと華麗にスルーしようとも思ったが、時間が経つにつれてはらわたが煮えくり返ってくる。「こりゃ、一丁、手加減なし容赦なしの私の手法であらゆる法令、あらゆる手練手管を駆使して婆さんの取り巻きともども踏みつぶしちまおう」とまで腹を決めた。まずはその婆さんの背景を徹底的に調べあげたうえで逃げ場をなくし、退路を断ち、あとはじっくりじわじわと真綿で首を絞めるように…。まあ、暇つぶしにはちょうどいいだろう。
さて、それはさておきだ。このごろ、やけに「前職は?」とか「大学はどちら?」と尋ねられることが多くなった。尋ねられるたびにため息が出る。「そんなことを知ってどうする?」と思わず聞きかえしたくなるけれども我慢する。どうにもならないことに足を踏み入れたり、手を染めたり、首を突っこんだりするのが人間という生き物だから我慢する。誰にも聴こえないようにため息をついて我慢する。同時にわが人生の来し方のいくぶんかを頭の中で要約してもみる。
大学の入学試験が終わった翌日から司法試験受験のための勉強を開始した。20歳、1度目の結婚。相手は高校の同級生。22歳、司法試験合格。司法研修所入所、TO大HO学部卒業。そして離婚。そして2度目の結婚。相手はまたもや高校の同級生。 24歳、司法修習生考試(二回試験)合格。司法修習終了。東京三百代言会に三百代言登録。そして離婚。そして3度目の結婚。相手はやっぱり高校の同級生。26歳、淡々と三百代言業務をこなす。汝の悪しき隣人事務所は絶望製造工場だと思っていたら、『農場』という映画がずいぶんあとにできた。トム・クルーズ主演で。変な映画だった。そして、離婚。
30歳。泡の時代に突入。泡にまみれる。浸る。耽る。楽しかった。気持ちよかった。愚かだった。不動産取引きと証券取引法違反及び所得税法違反並びに法人税法違反をめぐる事件に連座し、東京三百代言会懲罰委員会より懲戒され、東京三百代言会から除名処分される。その過程で、泣く子と地頭と贓物牙保罪の新判例を作ろうと躍起になっている検察官と、公判維持のためなら「毒樹の果実」さえ証拠採用してしまう裁判官には勝てぬことを学ぶ。「人的抗弁の切断」はなにも手形小切手にかぎったことではないという現実の前に慄然愕然腸捻転。そして4度目の結婚。相手はなんと弘前のねいちゃんにして元女優。
31歳、失意。失意。失意。ときどき縄文人。それでも、光の筋は細くだが見えていた。見失わなかった。広告文案家、クリエイティヴ・ディレクター、出版プロデューサーを勝手に名乗り、電2やら博ホードーやら青山通りに面した赤坂の代理人やらと恥も外聞もかなぐり捨てた仕事をする。TCC賞新人賞、TCC賞をなかば強奪。泡の徒花、バブリー・パンタルグラビュールの画集を責任編集制作。企画制作・写植・版下制作・製版・印刷・製本・発送のすべてを引き受ける。宝くじに10回連続当選したも同然の僥倖だった。1冊105,000円。売った。売れた。5万部。コネ売りだけども。
儲かった。浪費した。疲れ果てた。「はやい、うまい、高い」をナカハタ・タカシにパクられたときは
違法性阻却事由なき日本国刑法第199条の構成要件該当性を充足する行為の実行者になる寸前だった。だが、ゆるす! この春、ようやくにして修羅を卒業(下駄を履かせてくれたのは腹ちがい種ちがいの姉ちゃん)。4度目の人生の墓場ライフは細々とつづいている。おたがいが他人ではないのだという確認作業は完了した。ミニチュア・セントバーナードの愛弟子が一匹いる。晴れときどき縄文人。なんてMy foolish heartな人生。笑ってくれ。
世界に冠たるわがおふくろ様妾の彼女は一人九段会館に赴き、当該写真を撮った。彼女の旦那、パトロン、ロクデナシ、わが生物学上のおやじ殿は貸衣装代、ショバ代、写真師代の一切合切を踏み倒した。椿の花よりもなお美しく、艶やかかつ華やかで、しかもビートニク&ファンキファンキ&スマートな傑物であった。手元に残る通知表はすべて全優。生物学上の父親のつまらぬ夢にかかずりあわなければなにごとかを成し遂げたはずである。銀座時代の彼女のパトロンの一人に白洲 "おめえには手がねえのか!" 次郎がいた。遠い日の夏の盛り、丹沢山系で彼女が鈴の音のごとき声で歌った『ダニーボーイ』をしのぐ『ダニーボーイ』にはいまに至るも出会っていない。
納品書ここ最近の私の歴史 ── 薔薇刑もしくはバラ色の人生
薔薇刑(Tour de Rose 2019 in YOYOGI-KŌEN PARK 優勝時)NAGAYA NO HANAMI in Arisugawa-no-miya Memorial Park in Spring, 2019請求書ジャンプするのもショートするのも踏み倒すのも夜逃げするのもバックレるのもあんたの事情であんたの自由だが、姑息と卑怯と裏切りと小児病と A( )C はあとでちょいと高くつくぜ。