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Kool Disrespect Discours/Fuck off! Piss off! テメエの物差しを持たない甘ちょろいやつら同士、群れてショボショボのカスリ傷とちいせえケツの穴でも舐めあってろ!

 
Kool Disrespect Discours/Fuck off! Piss off! テメエの物差しを持たない甘ちょろいやつら同士、群れてショボショボのカスリ傷とちいせえケツの穴でも舐めあってろ!_c0109850_06264743.jpg


おととい来やがれ コラ!
(Fuck off!)

どのツラ下げてきた?
(Fuck off!)

荷物まとめときな!
(Fuck off!)

磨いとけ ヤワな牙!
(Fuck off!)

なにかにすがらにゃなにもできねえシャバ僧!
(Fuck off!)

打算のほかには義理も筋もねぇ Bitch!
(Fuck off!)


Fxxk off - AK-69 a.k.a Kalassy Nikoff(The Cartel From Streets/2009)
 
by enzo_morinari | 2019-03-14 06:36 | KooL DiscourS | Trackback | Comments(0)

また団塊か。Fxxk off! 原発マフィアの親玉の1人、経済談合連合屋のポンコツ屋台店主の中西宏明のキチガイっぷりと細くなった首と視えない自由を撃ち抜くための視えない銃の弾丸をガンガン撃ちこむこと

 
また団塊か。Fxxk off! 原発マフィアの親玉の1人、経済談合連合屋のポンコツ屋台店主の中西宏明のキチガイっぷりと細くなった首と視えない自由を撃ち抜くための視えない銃の弾丸をガンガン撃ちこむこと_c0109850_09333622.jpg
また団塊か。Fxxk off! 原発マフィアの親玉の1人、経済談合連合屋のポンコツ屋台店主の中西宏明のキチガイっぷりと細くなった首と視えない自由を撃ち抜くための視えない銃の弾丸をガンガン撃ちこむこと_c0109850_09332270.jpg


ゴム屋の小倅の米倉の腐れ外道がくたばったと思ったら、今度はこいつのおでましだ。この野郎の傲岸不遜と底意地の悪さとテスタ・ディ・カッツォでファッチャ・ア・クーロでヴァッファンクーロぶりは折り紙付き。口の臭さは当代随一。この下衆外道もゲスデス・ノートのヒット・リストに入れた。棺桶首浸かりの耄碌緑内障糞ったれド腐れ居残り佐平次のジジイをはじめ、イレースするやつがいくたりもいてけっこうなことだ。

この期に及んで「原発の再稼働をどんどんやるべき」とほざくキチガイっぷり。そりゃ、原発作ってる死の商人企業の親玉とくりゃあ親方日の丸税金投入ドンドンジャブジャブで湯水のごとくゼニを使える原発サマサマだ。原発マフィアどもにとっては原発は仏壇/神棚/カネのなる木ということだ。しかも、国からの補助金/交付金つき。そして、めまいがするほどのカネの還流。

それにしても、中西の団塊ド腐れ下衆外道、すんごい御面相だな。BDシャツは唯一の加点要素だが、首寸合ってねえってのよ。それともあれか。癌で首細ったか? 視えない自由を撃ち抜くための視えない銃の弾丸をガンガン撃ちこんでやるからガンガン癌が全身転移、超高速進行すりゃいいぜ。Ψ(`▽´)Ψ Fxxk off! Piss off! カーッ(゚Д゚)≡゚д゚)、ペッ


Fxxk off - AK-69 a.k.a Kalassy Nikoff(The Cartel From Streets/2009)
 
by enzo_morinari | 2019-03-13 09:35 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

泥だらけの死んだ娘を抱いて苦悶の表情を浮かべる泥だらけの母親を前にして

 
泥だらけの死んだ娘を抱いて苦悶の表情を浮かべる泥だらけの母親を前にして_c0109850_553132.jpg


私は告げる。ゆるしてはならない。怒りと憎しみと怨みを回収してはならない。1000年単位で怒れ。1000年単位で憎め。1000年単位で怨め。その怒りと憎しみと怨みを子々孫々に伝えよ。この世は憤怒と憎悪と怨嗟の巡礼である。森鳴燕蔵


なにが祈りだ。なにが安らかにだ。なにが黙祷だ。どのツラ下げてぬかしやがるか。日々のインチキイカサマまやかしをやめてから言え。穢らわしい輩どもめが。反吐が出る。カーッ(゚Д゚)≡゚д゚)、ペッ

泥だらけの死んだ娘を抱いて苦悶の表情を浮かべる泥だらけの母親。彼らの前でもインチキイカサマまやかしができるか? その問いはすべての生き残った者たちひとりびとりにも突きつけられる。いまやっていることは彼らの前でもやれるのかと。

朝食べたECHIRÉの無塩バターを練りこんだクロワッサンは彼らが食べられなかったクロワッサンである。その1杯のコーヒーは彼らが飲めなかったコーヒーである。その映画は彼らが見られなかった映画である。その本は彼らが読めなかった本である。その音楽は彼らが聴けなかった音楽である。
 
by enzo_morinari | 2019-03-13 01:18 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

人生のエアロダイナミクスとプラネタリウム・デイズとIAU No.9

 
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エイブラハム・ジャコービとサー・デレク・ジャコービが手を携えて夢枕に立った夜、空に近い場所へ出かけていきたかった。


人生でもっとも重要なのは空力だ。人生のエアロダイナミクス。そのことを証明したのがF1宇宙の空力大王、エイドリアン・ニューウェイである。エイドリアン・ニューウェイはことあるごとに言ったものだ。

人間には1枚のシールもタグもステッカーもレッテルも必要ない。必要なのは風と翼とほんの少しの勇気と冒険心、そして、ベルヌーイの法則である。それ以外のものはきれいさっぱり剥ぎ落とさなければならない。

なるほど。まさにエイドリアン・ニューウェイの言うとおりだ。しかし、風の谷の小さな村に住む風使いの少女をのぞけば、たいていの人間は風をまともに使いこなすことはできず、巨大で重い金属でできた、やかましいうえに大めし喰らいの翼しか持たず、勇気は古臭い合い言葉として流通しているのみで、冒険心はティファニーとのダブルネームのロレックスのオイスター・ケースの中に閉じこめられてしまった。

熟練の牡蠣打ち職人がこじ開けようと試みても無駄だ。頑なになってしまったオイスター・ケースの心を開かせることは野村沙知代やイカサマ・パルジー・マサシやアホマホばばあや緑内障の下衆外道クソじじい居残り佐平次に品性品格を求めるのと同じくらい困難を極める。つまり、不可能である。「ベルヌーイの法則」に至っては「ベルヌーイの法則」以前の「エネルギー保存則」すらも理解していない者がほとんどである。私のまわりを見渡しても「ベルヌーイの法則」について正確に説明できるのは虹子とミニチュア・セントバーナードのポルコロッソをのぞけばキクラデスの空飛ぶパン屋くらいのものだ。だから、人間は無駄なことばかりをするのだ。私がそのことに気づいたのはエイドリアン・ニューウェイを知るずっと前、まだ世界やら人間やらにいくぶんかの信頼を置いていた昔々の大昔だ。

同一流線上のエネルギーの保存則を知らずに生き、呼吸し、摂取し、排泄し、生殖行為をし、眠り、飛行機に乗っていることが私には驚異である。夕暮れの野毛山動物園に行きさえすれば容易に分け隔てなく同一流線上のエネルギーの保存則を理解できるというのに、だれも夕暮れの野毛山動物園に行こうとしないばかりか、「夕暮れの野毛山動物園」の存在すら知らない者がほとんどだ。嘆かわしいかぎりである。

私はかつて、夕暮れの野毛山動物園における幸福論のための日々を生きた。幸福とはとんと縁のなかった私が幸福について考えるのはとても厄介だった。それはマカロン・パリジャンを食べたことも見たこともない者が「マカロンとアマレッティのちがい」をピエール・エルメやダヴィド・オルデーに説くくらい厄介なうえに馬鹿げている。

夕暮れの野毛山動物園における幸福論のための日々を生きても、私はひとかけらの幸福とも出会えなかった。しかし、私は夕暮れの野毛山動物園における幸福論のための日々を生きることによってアシカとアザラシとオットセイのちがいがわからずに目をまわす不思議な少女と出会うことができた。彼女と出会えたことが私の人生において最大にして最高の幸運であり幸福だったのだと気づくのはずっとあとになってからだった。アシカとアザラシとオットセイのちがいがわからずに目をまわす不思議な少女こそが虹子だ。

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人生のエアロダイナミクスとプラネタリウム・デイズとIAU No.9_c0109850_435170.jpg

遠い日、小学校3年生の私は1年間、毎日欠かすことなく桜木町駅から歩いて15分ほどのところにある紅葉ヶ丘の神奈川県立青少年センターに通った。そして、センター内のプラネタリウムで横浜の季節ごとの夜空を眺めた。休館日をのぞけばかならずだ。

毎日見たところでたいしたかわりばえがないのはわかっていても、紅葉坂をのぼり、座り心地の悪い椅子に座り、作り物の星空を繰り返し繰り返し見る。愚かしく、滑稽で、馬鹿げているが、それが「こども」という得体の知れない生き物の愚直さであり、真摯さであり、特権である。いまから思えば、プラネタリウムはお粗末きわまりないものだったが、当時はみるたびに心ときめいた。

私が夢中になっていたのは、現在のハイテク満載のプラネタリウムのように全自動で制御されたものではないし、あらかじめ録音された声優による自動音声でもなかった。白衣を着た解説者がマイクを片手にリアルタイムで星のことや銀河のことや星座のことや宇宙のことを解説するのだ。解説者の話は実に巧みで、夢やら好奇心やらをかきたてられた。星に魅入られはじめていたその頃の私にとって、彼は星博士であり、ヒーローであった。また、横浜の街並の360度パノラマの影絵などは、(縮尺率/スケールにひどい矛盾があったとはいえ)こども心にもせつなく感じられた。

プラネタリウム観賞後はセンター内の科学ものの遊具、実験器具で遊んだ。フレミングの法則やベルヌーイの法則やアルキメデスの法則など、物理の基本法則を簡易に視覚化立体化した器具は好奇心の塊のような私には実に魅惑的だった。そして、この経験によって私は自然科学に関する基礎知識を身体でおぼえた。

札付きの悪童、筋金入りの不良どもとの出会いとかかわりによって自然科学よりも人間学のほうがよりダイナミックで複雑でたのしく、刺激にみちていると知ることがなければ科学者を目指していたかもしれぬと思うこともあるが、そうはならなかった。悪童、不良どもとの出会いは精妙不可思議な「縁」がもたらしたのであり、その出会いが、私の人生とやらのわかれ道となった。まことにけっこうなことであった。星々はめぐり、因果もまためぐるのだ。そして、そのような日々のただ中、プラネタリウムの帰りがけに立ち寄った夕暮れの野毛山動物園で私は人生のエアロダイナミクスと出会った。

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エイドリアンニューウェイ・ブルーの真実へ。そして、よみがえるプラネタリウム・デイズ

人生のエアロダイナミクスは野毛山動物園のミツユビナマケモノの檻の前でゆっくりと揺れながらたたずんでいた。出会った頃の人生のエアロダイナミクスはいまよりずっと痩せていて、食べものにもほとんど手をつけなかった。人生のエアロダイナミクスはすべてにおいて無駄がなかった。人生のエアロダイナミクスのエイドリアンニューウェイ・ブルーに輝くからだはあざやかだったが、からだのまわりには趣味の悪いモスグリーンのBPエアがいつもまとわりついていた。人生のエアロダイナミクスの不幸はまちがいなくBPエアがもたらしていた。

BPエアは本当に悪いやつだ。BPエアは20世紀世界において、少なくとも人生のエアロダイナミクスを不幸にし、多くの海の生き物たちを殺した。21世紀になったいまもだ。BPエアはいまも世界中にたちの悪い不幸をばらまき、世界を汚し傷つけ、眉ひとつ動かさずに殺戮をつづけている。BPエアとモンサントにはいずれ飢えた思想的な大地の狼たちの午後の襲撃がある。

エイドリアンニューウェイ・ブルーの真実」についてはEliane Eliasの弾く『Blue in Green』が夕暮れの野毛山動物園に聴こえはじめる頃にあきらかにしようと思う。「エイドリアンニューウェイ・ブルーの真実」が明らかになり、世界に向けて解き放たれたとき、再び私のプラネタリウム・デイズは夢の墓場からよみがえるのだ。

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TRUTH - T-SQUARE
 
by enzo_morinari | 2019-03-12 06:03 | 人生のエアロダイナミクス | Trackback | Comments(3)

21107の死の重さ うわっつらうわべのイカサマ・パルジー・マサシの安っぽい祈りの対極にあるもの

 
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千年の服喪の季節を生きるだけの覚悟を持てるかどうか/千年の十字架の軛を背負えるか否かが生き残った者に突きつけられている。


3.11と3.14が近くなると21107の死の重さについて考える。震災と原発事故で非業の死を遂げた者たちの中に知己はいない。住んでいた土地を追われた者はいる。

私は彼らに「怒れ」「憎め」「怨め」「殺せ」と告げる。死者たちにも生きている者たちにも。怒り、憎み、怨み、殺せと。慰めやら励ましやらはなにひとつしない。これまでもこれからもずっとだ。彼らに言葉は意味を持たないと知っているから。できることとしたことはStand by meを小声で歌いつづけること/寄りそうこと/そばにいること/ともにあることだけである。その選択は正しい。

1055.35t. 震災が元で死んだ者21107人の総重量である。21107の死の重さ。1000tを超える動かぬ肉のかたまり。死者たちは黙して語らないが、その無念が晴れることはない。なにものもかれらの無念、憤りを回収することはできない。

イカサマ・パルジー・マサシやアホマホばばあのごときうわっつらうわべのきれいごとは死者と現在進行形の困難困憊を生きている者への冒涜である。故郷を奪われ、追われた者の痛み苦しみ憤怒憎悪がわからぬか。帰りたくても帰れない者/帰りたくても帰る場所がない者の痛み苦しみ憤怒憎悪が。

なにが祈りだ。なにが安らかにだ。なにが黙祷だ。どのツラ下げてぬかしやがるか。日々のインチキイカサマまやかしをやめてから言え。泥だらけの死んだ娘を抱いて苦悶の表情を浮かべる泥だらけの母親。彼らの前でもインチキイカサマまやかしができるか? 穢らわしい輩めが。反吐が出る。カーッ(゚Д゚)≡゚д゚)、ペッ

泥だらけの死んだ娘を抱いて苦悶の表情を浮かべる泥だらけの母親。彼らの前でもインチキイカサマまやかしができるか? その問いは生き残った者たちにも突きつけられる。いまやっていることは彼らの前でもやれるのかと。

朝食べたECHIRÉの無塩バターを練りこんだクロワッサンは彼らが食べられなかったクロワッサンである。その1杯のコーヒーは彼らが飲めなかったコーヒーである。その映画は彼らが見られなかった映画である。その本は彼らが読めなかった本である。その音楽は彼らが聴けなかった音楽である。

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ましてや、脳天気極楽とんぼにも、きのうはECHIRÉの無塩バターを練りこんだクロワッサンでブランチ、きょうはステキステキの女子会ランチ、あすは国立能楽堂で能狂言と浮かれ騒いでいる薄っぺらな輩が3.11と3.14についてなにをほざこうがすべて嘘くさくあさはかで、強度はZEROだ。きゃつらのおつむのデキ同様に。ロマ愛コメのポンコツインチキまやかしの翻訳屋還暦クソババアと居残り佐平次の下衆外道緑内障耄碌ジジイ! てめえらのことだよ!

21107の死の重さ/1055.35tの死者を前に、千年の服喪の季節を生きるだけの覚悟を持てるかどうか/千年の十字架の軛を背負えるか否かが生き残った者に突きつけられている。
 
by enzo_morinari | 2019-03-11 10:38 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

空と海と星の輝きに向けて/1974年3月11日月曜日、午後2時46分18秒。あの午後、アーライン・マットンヤー・ユミーンが見ていた海

 
空と海と星の輝きに向けて/1974年3月11日月曜日、午後2時46分18秒。あの午後、アーライン・マットンヤー・ユミーンが見ていた海_c0109850_06052703.jpg


忘れないでって やっと書いた遠いあの日


「とてつもない災厄がくるのよ」とアーライン・マットンヤー・ユミーンは言い、ピッツァ・マルゲリータを折りかえしてオリーブ・グリーンの皿に立てた。

「なんだそれ?」
「災厄よ。多くの命が奪われるのよ。理不尽、不条理に。憤怒と憎悪の海に」
「いつのことだよ」
「37年後の今日。2011年の3月11日金曜日の午後」

それだけ言うと、アーライン・マットンヤー・ユミーンはそれまでに見せたことのない貌になった。

「憤怒と憎悪の海を見ていた遠いあの日の午後、わたしは21107の命を忘れないって決めたのよ」

狼たちの思想的飢餓と対峙するまで、37年。


海を見ていた午後 荒井由実 (MISSLIM/1974)
 
by enzo_morinari | 2019-03-11 06:09 | 空と海と星の輝きに向けて | Trackback | Comments(0)

最後の春休みのロッカー室に「桜の栞」を盗みにいく

 
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朝起きるとベランダの隅に20センチほどの桜の花だまりができていた。早咲きの桜をゆうべの強い風が散らせたのだ。今が盛りだというのに。盛る花もあり、散る花もありということでもあるか。根方に死体の埋まった桜から散った花びらでもあるまいが、かすかに狂おしいような眺めだった。

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暗鬱で悪意に満ちた冬が終わり、待ちに待った春。梅が盛りを迎えたあと、桜の蕾がほころびはじめて卒業シーズンが近くなると松任谷由実の『最後の春休み』と『卒業写真』を繰り返し聴いてきた。聴きながら別れの朝を迎える人々のことを思った。

明けてぞ今朝は別れゆく人々。明けてぞ別れゆく朝。かれらはその朝をどのような気持ちで迎え、次の朝からはそれぞれの道を別々に歩まなければならないことの痛みをどのように受け止めるのか。春のそよ風がやさしければやさしいだけ、かぐわしければかぐわしいだけ、かれらが感じる痛みはさらに痛みを増すにちがいない。その「痛み」は私もかつて何度か経験したことがある。

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太宰治のようなヘッポコポンコツボンクラなどは金輪際認めないが、太宰治の親分の井伏鱒二の言葉である「さよならだけが人生である」というのは本当だ。別れが待ち受けているからこそ今の出会いを愛おしもうという「心映え」が生まれる。

「心映え」のない人生は味気なく、殺伐とする。そして、この春、世界中の幾千億の春、かけがえのないさまざまな思い出と痛みと心映えをかかえて数えきれぬほど多くの人々が別々の道を歩みはじめるこの季節に聴く曲が1曲加わった。AKB48の『桜の栞』だ。もう8年も前の曲だがつい最近になって知った。

秋元康一味の「やり口」にはさんざっぱらうんざりさせられ、虫酸を走らせてきたが、『桜の栞』はいい。いいものはいい。わるいものはわるい。話は簡単だ。

「一枚の桜の花びら」を栞に見立てて過去の思い出から未来への希望までをヴァリエーションをつけてひとつの「物語」にしたのはみごとだった。

金切り声、カーカーキーキー声ばかりの日本の音楽シーンの中にあって、「乙女たちの合唱」というのも新鮮だ。『桜の栞』を聴いていて、40年以上も昔に母校のロッカー室に忘れ物を取りにいった「最後の春休み」のにおいやら音やらがよみがえりもした。桜の栞。これから先も春がやってくるたびに聴くだろう。

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春がやってくるたび、生まれきた新しい「いのち」の輝きのまぶしさに心ふるえる。私はかれらより先にこのちっぽけな世界からオサラバするはずだが、私のような無頼の徒でも、これから生まれくる「お子」たち、「ひとりぼっち」の新米くんたちが、細々でも、ヤットコサットコでも、オッツカッツでもいいから生きつづけることができ、かなうならば、決して、断じて、まちがっても、「死にたい」などとは思わず、言わず、ときどきは気の合う仲間と大笑いしたり、ドキムネの相手と手を握りあい、みつめあい、慈しみあうことのできる世界であってほしい、ありつづけてほしいと願う。

人間はひとりでは生きてはいけない。人間だけでなく、アフリカ象もキリンも呪われたアルマジロも虹のコヨーテも冬眠を忘れた熊も苦悩するビーバー・カモノハシも黄金の蛙もミツユビナマケモノもサボテンミソサザイもゴイシツバメシジミもミミナガバンディクートも、そしてローランド・ゴリラも、ひとりぼっちではあまりにさびしい。ゴリラくんだって言うはずである。もう、ひとりはコリゴリだと。


ひとりでは生きてはいけない。だからこそ、だれかを愛し、だれかに愛されろ。


親が子に教えてやれるのはそれくらいのことだ。あとは勝手に自由におおらかに、育つように育てばいい。へたな手出し、口出しは無用である。すこしだけ先を歩き、その姿をさりげなく見せてやり、ときどきふりかえり、小声で、しかも簡潔端的に声をかけ、いつもそばにいるよと語りかけ、見守っているだけでいい。

なにも足さない。なにも引かない。 ── これが子育て、新しい命と接するときの極意である。

やがて時がたち、生まれたての「ひとりぼっち」の新米くんが喪失と成熟を繰り返しながら、成就する恋と成就しない恋のふたつみっつを経験し、酒の味をおぼえ、酒の飲み方を学び、一人前一丁前になり、御託やら能書きやら「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!!」やら「逝ってよし」やら「ウザい」やら「氏ね」やらをほざけるようになったとき。それだけではない、この先ずっと、想像すらできないほど遠い未来、世界のありとあらゆる場所に訪れる幾千億の春が芽吹き、匂い満ちあふれ、緑滴ってくれたなら、私にもやっと本当の春がくる。

春、爛漫。
桜花爛漫。


桜の散る頃を見計らってどこぞの高校だか中学に忍び込み、散り落ちた「桜の栞」を盗んでこよう。「花ぬすびと」ならいくぶんかは大目にみてくれるだろう。世界が光り輝き、芽吹き、匂い満ちあふれ、緑滴るのはもうすぐである。


桜の栞 - AKB48

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by enzo_morinari | 2019-03-08 22:36 | Carpe Diem/一日の花を摘め | Trackback | Comments(0)

千年の服喪とはずせぬ喪章/死者に言葉をあてがい、朽ち果てるそのときまで絶えることなく刻め

 
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8年。予想どおり、どの貌にももはや死者にあてがえるような愁いも緊張も嘆きもない。それでいい。そんなことはわかりきっていた。死者たちもなにも期待などしていなかったろう。

3.11の出来事を大雑把で空疎な「抽象」「絵空事」で語る者は直後からいて、そのような輩どもは「絆」「復興」「希望」「友愛」「がんばろう東日本」などという耳心地だけはいい言葉をどこか得意げに、そしていかにも満足げに垂れ流していた。

そのようなたわけた輩どものリアリティのない一群の言葉はこの国の現在の心性をも象徴していたのであって、それらの使いふるされ、手あかにまみれ、虚しく空転する上っ調子で上滑りした薄っぺらい言葉はほどなく力を失った。当然のことだ。死者たちも、これから絶望と苦悩のうちに死にゆく者たちも、おまえたちにはなにひとつ期待などしない。いつか、おまえたちに身も凍るような惨事が降りかかることを祈っているのみだ。のたうちまわり、もがき苦しみ、むごたらしい死が訪れることを。

「絶対の安全圏」が死刑台の抜き板とならないことを保証できる者などいないことを知るがいい。気がつけば13階段へとつづく道を歩いているのだと。

動きつづけるもの変わりつづけるもの転がりつづけるものにしか、力、位置エネルギーは宿らない。一瞬たりとも留まらない。有為転変する。そのことをとやかく言う者どもとは遠く離れてありたい。

変わること/変わりつづけることに異議申し立てをする者は自分の足元をよく見てみるがいい。変わらぬ場所、大地の歌の鳴りわたる場所だと思っていた地面がアスファルトになり、コンクリートになり、大理石になり、プラスチックになり、死刑台の抜き板になっていることをその者たちは知って愕然とし、腰をぬかすだろう。愕然とするだけのナイーヴさがその者たちにあればの話だが。そして、この世界に変わらぬものなどありはしないことを思い知るがいい。

13階段の果てにある死刑台の抜き板が落ちるのは、このたったいま、イマ・ココであるかもしれない。亀速度、牛歩であっても、動いていれば、転がっていれば、つまりは変わりつづけていれば、死刑台の抜き板が天国に至る至上至福の階段になっていたかもしれないのに。だが、時すでに遅し。御愁傷様なことではあるが、もはや、私の知ったことではない。

この先、私に語れることがもしあるとしたら、それは私という1個のリアルが私自身のからだを貫き、言葉を粉々に砕かなければならないし、そうでなければ痛みのリアリティを伴わぬ評論のたぐいに堕するだろう。

評論ならまだしも、3.11をめぐる事態を風景のひとつとして切り取って、それが当然のことでもあるかのように絵葉書として大安売りする愚劣さえ登場している。3.11について語ることが免罪符ででもあるかのように考えて。

1000年後までも通用する免罪符などあるはずもない。われわれに課せられ、突きつけられているのは1000年単位の自戒、苦悩、嘆きであることをこそ知らねばならぬ。

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この春のある明け方、東北の名も知らぬ海を訪れた。夜明けの兆しすらないほど濃密な闇に支配された海辺は、通りすぎる車の前照灯に一瞬だけ照らされた漣も海辺の砂どもも、そして空でさえ、不吉な鈍色に満たされていた。

午前5時54分。時計の針は日の出の刻限を指し示してはいるが、かすかにグレナディンに染まった水平線はそのほとんどを暗雲に占拠されていて、森羅万象は深く沈黙したままだった。そのような暗鬱な静寂のただ中にいると、闇の持つ強靭に圧倒されてしまい、永遠に夜明けはこないのだと納得し、悲観と徒労は際限もなく広がっていき、夜明けの到来をしばし待つことすらできなくなる。踵を返そうにも向ける先もまた別の闇と沈黙に支配され、占拠されていてなんらの手立てもない。

そのとき、背中になにかしらの熱を帯びた積分されたものの一群がぐさりと突き刺さる。ふりかえれば、いましがたの単色の世界が固有時との対話を始めている。海は海の群青、海辺は海辺の代赭、虚空は虚空の蒼穹と役割りを分けて。正確には本来固有の色ではなく、それぞれの色彩に瑠璃の粉末を散りばめて照り映え、それぞれの彩りをさらに深めている。背後に突き刺さったものは雲のあいだから突如として現れた夜明けを告げる日輪のまばゆい陽射しをまとった黙狂の大鴉の嘴だった。

日輪が支配する海辺はそこに在るもののすべてが異なる彩りや動きやざわめきを発しながら、むしろ、異和ある主張をしているからこそ、鈍色の景色に一瞬とはいえ、うつろいの調和あるいは危うい均衡をもたらしている。調和と均衡は異なりと異なりの鬩ぎあいの中に存することを前提としているのだという必然を目の前に現前化した景色の力学に教えられたことを知る。

闇の中に内包されている光/光の中に潜む闇を自明のこととして信じられなかった脆弱と怠慢を恥じながら、このような暁闇の中でこそ人は試されるのだと知る。すなわち、朝陽が地上に顔を出す直前のもっとも暗い状況の中で、もう目の前まで来ているあかるい陽射しのような歓喜と祝福の到来を身じろぎもせずに待ちつづけられるかどうかということだ。しかし、それでもやはり現実は冷厳にして冷徹である。太陽が現れる瞬間まで粘り強く待って劇的瞬間をカメラに収めることができたとしても、理想とする風景を完璧に捉えることはほぼ不可能だ。

あるいは、たとえ残りの何割かを手に入れ、目指す地平に到達できたとしても、周囲はいまだ薄闇の中かも知れないし、むしろその闇の中でこそ、破滅と終末を希求する己が魂の本質をなすもの、困憊や虚脱や諦念に激しく打たれ、至上至福の愉悦さえ感じるかもしれない。そして、そこで力尽き果て、砂浜に倒れてしまうかもしれない。 けれども、その時でさえ、砂に顔をうずめながらも、このまま朽ち果ててなるものかという心願の自由だけは残されているだろう。

その自由を胸に感じているかぎり、目指す地平に到達したのちに崩れ落ちた地点の砂を握りしめ、さらに1歩もう1歩と歩みだすことも可能だろう。同時に、立ちはだかる困難に目の前が霞み沈んでゆく無様でおぼつかない足取りの日々を正直に告白しなければならないだろう。なぜなら、そうすることでこそどんな苦難にも朽ち果てぬ燃える日輪のごとき遥かな永遠を心に刻みつけることができるように思うから。

今、この歴史の最果てで表現することとは、2万を超える死者たち、正確には21107のひとりびとりの唇と肺に言葉をあてがうための無限の努力ででもあるだろう。3.11以前のままの文体で書かれる言葉は言葉をあてがうそばから瓦礫と化してしまうはずだ。それでもなお、表現者は瓦礫の中から言葉と文体をひろいつづけなくてはならない。永遠に石を積み上げつづけるシシューポスの行為を諦めてはならない。諦めることは明瞭に敗北である。

3.11あるいは3.14の滅びを生き残った者もいつか必ず朽ち果てる。だからこそできることはただひとつだ。取りはずしも交換もできない喪章を腕に巻き、千年のあいだ喪に服せ。そして、死者に言葉をあてがい、朽ち果てるそのときまで絶えることなく刻め。

千年の服喪とはずせぬ喪章/死者に言葉をあてがい、朽ち果てるそのときまで絶えることなく刻め_c0109850_5535261.jpg



死者にことばをあてがえ 辺見 庸

わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
百年かけて
海とその影から掬え

砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ

浜菊はまだ咲くな
畔唐菜はまだ悼むな
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけのふさわしいことばが
あてがわれるまで


*辺見 庸『眼の海』より
 
by enzo_morinari | 2019-03-07 21:10 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

バッハの小川/やはり、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの現代的解釈は胎教に悪い。あたしゃ鳥刺しママゲーノ。鳥黐棒でアフォ鳥どもを取っ捕まえる。

 
バッハの小川/やはり、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの現代的解釈は胎教に悪い。あたしゃ鳥刺しママゲーノ。鳥黐棒でアフォ鳥どもを取っ捕まえる。_c0109850_03042030.jpg


ラムセスの時代前夜。トミノの地獄歌がいつも聴こえていた時代。泡劇場崩壊後ほどなくしていくつかの泡企業の役員を解任され、入れ替わりに懐妊した。めでたくもありめでたくもなし。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(JSB)が胎教にいいというので70歳すぎの成り上がり大富豪の愛人からKeith Jarrett & Michala Petri “J.S. Bach: Six Sonatas” のCDとチューブルのペトリV6と聖ペトリ・ペンタックス・ペンタゴンを渡された。

聴いた。繰り返し繰り返し聴いた。窓から見えていた花水木の葉が新緑から黄色くかわる季節まで聴いた。火水木は燃やせるゴミの日だと雨の木の女がしつこく言ったせいで経営破綻した梨花の隣家が燐火で全焼した。燃えあがる雨の木にマーキングする飼犬を雨の木の女の股座に茣蓙がわりに敷いてやった。犬も歩けば棒棒鶏に当たって万々歳だと心の底から思った。

頑固で鼻持ちならない花粉症は鎮静化し、洟水が出なくなった頃、花水木の葉は散った。鼻白んだ。飼犬の皮膚病は目も当てられないほど悪化した。一青窈をひと息にものもらいの物乞いにしたら矢井田瞳にもらい泣きされたばかりか裸足で座りこまれた。天井の節穴から中華高橋のよだれ鶏にフェニルメチルアミノプロパンのガンコロを溶かして頭からかぶった槇原敬之がヨダレをジュルジュル垂らしながら恨めしそうに見ていた。そればかりか、新垣結衣と生田斗真と向井理が3Pを始める始末だった。花水木の呪いだ。ハナからそんな運命だったのだ。サー・ローランド・ハナちゃんの三都物語の最中のSkating in Central Parkのように滑らかにいくなら神サマもクローンしない。電脳羊ドリーはむごたらしく死ぬ運命だったのだ。

ジャジャジャジャーン。珈琲豆60粒の垂れ流しのアスペであるハイリゲンシュタット楽聖の第五の第1楽章の冒頭を皮切りに、第九が歓喜など微塵もない世界に鳴り響く中、屋根の梁を高く上げようとした大工のシーモア・ジョショーがベランダから堕ちて死んだ。そんなようなサリンと象印ジャージャー麺の運命だったのだ。信州のピンヴォケヤリマン女のように空とぼけた運命。何食わぬ顔で手当たり次第に男漁り。花のことや月のことや風のことや光のことを書いたり言ったりしてりゃヴァカな男はコロっと騙される。哀れで愚かなコロ助野郎ども。


Everybody's doing a brand new dance now.
Come on baby do the Loco-motion! Cawaii! Baby Hi! Hi!



W3事件で地に墜ちた空飛ぶ宇宙少年ソランの好物はそら豆だと言ってもだれも信じちゃくれまいが。私だって信じちゃいない。しかし、死んではいないし、芯のあるティンコが好きだ。隙だらけのすき家のタダ牛丼くらい好きだ。座右の凶器は鋤と鍬とQUATTRO FORMAGGIOだ。無性に宇宙航空研究開発機構の理事長になって宇宙マイクロ波背景放射(CMBR)を飼いたい。

ピンとこない。ピンコ勃ちしない。ナオーン&オマーンだからか。ちっともこない。孕んでいるからアレもこない。お腹の子はJSBを聴くたびに腹を激しく蹴った。抗議のマタニティ・キック/プレグランシー・アタック。さらにはパルジー・マサシの右手のようにノイジーなパルスを送ってきた。「バロックは岩でできたサロンで聴く室内楽だろうがよ! 電気通すなよ! ヴォゲェェェ! お能は電気なし照明なしの薪能にかぎる! 薪の爆ぜる音。静寂。幽玄にして幽幻。」とベイビーの放つ信号は言っているように思われた。

どいつもこいつもイタリアもフランスもスペインもポルトガルもギリシャもアルバニアも、マケドニアでさえ真冬の吹きっさらしの都々逸通りのようによそゆき顏であさっての方角を向いていた。生まれた子はセロ弾きとなったがJSBは大きらいだ。おまけに、デキちゃった婚して私にクリソツな小動物を産みやがった。栗もクリもデカいのがいい。頬ばれるくらいのがクライアントのお好み(はあと)。

お腹を痛めたわが子ながら憎い。肉巻きおにぎりにしてバッハの小川に放りこみたいくらい憎い。なにがどうあれ大海には注ぐだろうからいいが。下衆外道の居残り佐平次とクラ本アレ=半基地外びと(19580304)には毎度毎度反吐が出るが。腐れ縁/一蓮托生どもの言語表現の低劣さ陋劣さにはゲロゲーロ・パパゲーノだが。


あたしゃ鳥刺しママゲーノ。鳥黐棒でアフォ鳥どもを取っ捕まえる。


インテリ擬き/インテリ気取り/インテリ癆れのポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊は死ねばいいのに。おまえらの周囲だけ時間が100倍速で流れればいいのに。カーッ(゚Д゚)≡゚д゚)、ペッ

あ。スラウェシ島探検の折りに手にいれた虎の子のトアルコ・トラジャでいれたカッフェーを飲んだら、お腹の子が動いた。そう。またデキたのだ。私も好きねえ。チョンの間、チョットだけヨのつもりだったのに。タブーを犯した罰ね。タ〜ララ〜タララララ〜♪ アンタも好きねえ。カトチャン(゚Д゚)≡゚д゚)、ペッ KinKi Kidsに合わす顔がないくらいバツが悪いわ。×4だけに。

亀のアタマ/タートル・ネックのスウェーターを着たトータス・ヘッドだけのつもりだっのに。私、カザルス・バードに突つかれた海岸瀑河馬よね〜♪ ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『くっちゃべってねえで、静かにしやがれ!』を聴こっと。九段のあいつらの周辺で激烈な気候変動が起きればいいのに。

*70歳すぎの成り上がり大富豪の愛人は妊娠し、夜明けのマタンキのような男の子を産んだが、すぐにババアは死んじまったダー。(行けばわかるさアイノキ)

産まれた子と聴く楽父 哀しく愛しくめでたさも中くらいなり バッハの春


Johann Sebastian Bach - "Schweigt stille, plaudert nicht (Kaffeekantate)" BWV 211 Harnoncourt (1984)
 
by enzo_morinari | 2019-03-07 03:24 | バッハの小川 | Trackback | Comments(2)

Fake Intelligence/カビ臭いオワコン・クラシック音楽と駄本さえなければ辛気くさいインテリ擬き/インテリ気取り/インテリ癆れのポンコツ木偶の坊が減って清々するんだがな。

 
Fake Intelligence/カビ臭いオワコン・クラシック音楽と駄本さえなければ辛気くさいインテリ擬き/インテリ気取り/インテリ癆れのポンコツ木偶の坊が減って清々するんだがな。_c0109850_12293413.jpg
Fake Intelligence/カビ臭いオワコン・クラシック音楽と駄本さえなければ辛気くさいインテリ擬き/インテリ気取り/インテリ癆れのポンコツ木偶の坊が減って清々するんだがな。_c0109850_12291633.jpg


クラ本アレ=半基地外びと(19580304)。反吐が出る。下衆外道の居残り佐平次と一蓮托生。こいつらの共通点は言語表現の基礎技術がないこととインテリ擬き/インテリ気取り/インテリ癆れのポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊であることだ。下衆外道の居残り佐平次はほっといてももうすぐくたばるからいいとして、問題はクラ本アレ=半基地外びとだ。まだ還暦。おまえの周囲だけ時間が10倍速で流れないもんかな。ガミ術使うか。コンレイ術で念入りに甚振ってからにするか。


丘の上のアフォヴァカ キノコ頭4人組のカブト虫楽隊
 
by enzo_morinari | 2019-03-06 12:36 | Fake Intelligence | Trackback | Comments(0)