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マルシャンデモールに緑の指で死の花束を

 
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言葉は人類最古のサーカスである。D-K

嘘かマジかは問題じゃねぇ ババァの小便で飯炊きな Bitch O-N-I

現代世界は行為/行動の意味は失われ、アノニマス・ピープルの発する空ろにして虚ろな言辞だけが一人歩きしている。そのような世界においては言行一致などありえない。言霊のない文字/音声が支配する世界。そして、Anonymous Revolutionは竟に成就する。E-M-M


用心深く地中に潜ってめったなことでは姿を現さないモグラのマルシャンデモールの首根っこを今度こそつかまえてやろうとユビーク・ユニーク・ユビキタスは緑の指をヨルムンガンド鬼宿学校仕込みのロード・オブ・ウォーリアーズ型に曲げて待ちかまえている。かたわらにはJolly RogerのVanitas Vanitatumとともに死の花束が置かれている。

アヴェック・ノン・セメーの『星の年代記』によれば、ユビーク・ユニーク・ユビキタスの鬼質はかに座θ、η、γ、δによって構成されている。

ユビーク・ユニーク・ユビキタスの本拠地は鬼の宿/ゴースト・マンションのペントハウスである。

首都高速をオーリオ・ディ・オリーヴァし、途中、一旦、青山通りを疾走し、アノニマス・ガーデンでArs Longa, Vita Brevisについてしばし考え、Anonymous Revolutionの困難を思い、呪われたアルマジロとアッシュ・アスピレ・アンシェヌマンさんと『アメリカの鱒釣り』の死の意味についてすごく腹を立て、「アルマジロと宇宙と僕と」と3回つぶやいてから青山通りから12本目の銀杏の樹の下のベンチで遅い午睡をとる。

再び、青山通りに戻って、渋谷から三宿を抜けて三軒茶屋を過ぎ、右に代赭色の亡国他罰タワーを見ながら世田谷通りを滑走路にして離陸する。

魔物の多い大きな川にぶつかったところで右に進路をとる。魔物の多い大きな川を上流に向けて遡れば、魔物の丘陵地帯まであとわずかだ。


精神病質 - 鬼
J'irai cracher sur vos bombes - Michel Bühler (1971)

精神病質/鬼
未来を語り明日を考えず 絶えず高く飛ぶがために焦る

揺ぎない想いと力は自負するのみだから加速するループ
祈りながらベッドに沈む 汗滲む夢の彩りはまだら
入り組む裏町の路地塗りつぶすクレパス 日も暮れだす
過去を美化できるだけご立派 いびつな折り合いと辻褄
唇が紡ぎ出すrhyme 冷めたcrime baby don't cry please
とけて垂れだしたアイスクリーム舐める快楽とリスクのミルフィーユ
傷口を見せ合う愚かさ そこから生まれる言葉は

<hook>
情におきかける乞食 物乞い 腹の足しになりゃあ美徳も食う
憐れかけた情け貪る 飴に群がる蟻の如く

目を閉じまぶたに浮かぶ過去 なぞる罪に虫酸と情欲
繋がる謎 沈む性と慟哭 闇夜を知らぬ牢獄
無機質な光寄せては返す 微睡みが指掛けるトリガー
淀む時の中を吹きだまる未来 徐々に腐りだす期待
自信の無さ上げた棚の中 不信感が甘いぼた餅なら
それすべて平らげろ 罪の始まりを怨情に掲げよう
つれた手に時の斜面を流れる運命と言う字を嘲る
嘘かマジかは問題じゃねぇ ババァの小便で飯炊きなbitch

<hook>
情におきかける乞食 物乞い 腹の足しになりゃあ美徳も食う
憐れかけた情け貪る 飴に群がる蟻の如く


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by enzo_morinari | 2019-02-28 23:48 | マルシャンデモールに緑の指で死の花束を | Trackback | Comments(0)

子午線の燔祭 団塊の806万54人抹殺計画

 
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神は命じた。下総国相馬郡守谷の山中に0297を生贄として捧げよ。0297は団塊である。烈王紀上 18:38–18:40


常総線に揺られていた。守谷駅まで1時間ほど。偶然開いた『下総国風士紀』の297頁に驚くべきことが記されていた。それは燔祭/Holocaust生贄/Sacrificeに関する記述だった。


Igor Stravinsky - Abraham and Isaac for Baritone and Chamber Orchestra (1962-63) [Score-Video]
 
by enzo_morinari | 2019-02-28 04:07 | 子午線の燔祭 | Trackback | Comments(0)

知らんぷり

 
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Nothing in all the world is more dangerous than sincere ignorance and conscientious stupidity. Martin Luther King, Jr.


いつ頃からだったか。泡劇場閉幕のあとくらいだったか。街で声をかけられても知らんぷり/聴こえないふりをするようになった。名前を呼ばれてもだ。声をかけてきた相手におぼえがあってもおなじだった。相手が私に関する個別具体的な情報を口にしても、頑強に「ちがいます」「人ちがいです」「別人です」と否定した。相手はしきりに首をかしげ、「おかしいなあ。顔も背格好も声もおなじなんだけどなあ」と言い、当惑の表情を浮かべた。おなじで当然だ。本人なんだから。

そのような対応をするようになったのは、すべての過去と訣別すると決めたからだった。例外なし。古い友人/かつて恋愛関係にあった者/親類縁者/元妻/DNAを受け継ぐ者もだ。この世界には知っている者はひとりもいないのだと自分に強く言い聞かせた。

私は例外/特例を作らない。原理原則/Principle以外は一切認めない。私は自分の決めたスタイル/立ち位置をなにがあってもかえない。同調圧力だのKYだのは知ったことではない。変節/転向は絶対にゆるさない。変節漢/転向した輩/手のひらがえしした者/裏切った者は徹底的に手加減なし容赦なしに叩きのめす。

ここ50年でもっともゆるしがたい変節漢/転向組は団塊の不逞不埒愚劣陋劣な輩どもである。時間があるなら、806万54人全員を始末し、806万54の死にざまをさらす。すでに死んだ者についてはその名を汚し、地に堕としてやる。2度目どころか3度目4度目5度目のむごたらしい死をくれてやる。

恨み骨髄。憤怒と憎悪億千万。決して熱りは冷めない。冷めるどころか日々時々刻々いや増す。日本をダメにしたのは霞が関のビューロクラット鼠/豊葦原瑞穂国の津々浦々に寝穢く巣食う木っ端役人とこれを支えてきた団塊老醜の大馬鹿者たわけ者うつけ者不逞不埒愚劣陋劣な輩どもだからだ。ポスト団塊のクソじじいとクソばばあも一蓮托生/同じ穴のムジナである。

プランは完成し、有志に配布済みだ。身近なところから一人一殺。50年経とうが100年経とうが、決して、吐いた唾は飲ませない。これをして至誠一貫という。

知らんぷり/聴こえないふり対応にも慣れた頃、目黒の高野フルーツの前で生物学上の父親に名前を呼ばれた。ほんの少しだが動揺した。生物学上の父親に会うのは5年ぶりだった。

生物学上の父親は3度私の名を呼び、ついには追いすがってきた。権之助坂を下りはじめたときだった。キリンシティの前で足をとめた。

「なんですか?」と私は言った。生物学上の父親にしてみれば、「なんですか?」もないものだったろう。
「なんでだよ?」
「なんでと言うと?」
「なんで知らんぷりするんだよ」
「知らない人に声をかけられても知らんぷりするように死んだ母親から躾られたので」
「知らない人って…」

そのときの生物学上の父親がみせた表情は、いま思い出してもおかしなものだった。近づいてきたカピバラの赤ちゃんがにぎりっ屁をかまされたような表情。そうたとえるしかない。

このごろは、知らんぷり/見て見ぬふりをする輩が増えた。スーフリのワダより始末が悪い。

スーフリのワダは懲役14年の刑期満了で出所し、氏素性をかえて生きているようだが、苦労が多いようだ。しでかしたことの下衆外道っぷりからして当然の報いだが、ワダの取り巻き連中/雑魚どもの取り調べ/公判段階の「全部、ワダさんの指示でやったこと」という卑怯は腹に据えかねている。顔も氏素性もグリップできているから、時期を見てケジメをとる。生まれてきたことを後悔させる。熱りは冷めない。私は見て見ぬふりも知らんぷりもしないし、ゆるさない。

スーフリのワダは「残りの人生はひっそりと生き、そのまま野に朽ちます」と覚悟を決めたという。街で見かけたら声をかけ、ヘッドハンティングしようと思っている。ワダはいい仕事ができると踏んだからだ。やはり、私は見て見ぬふりも知らんぷりもしない。義があるかどうかはともかく、「せざるは勇なきなり」である。

『梟通信~ホンの戯言』の居残り佐平次の下衆外道のごとき、歌舞音曲に血道をあげてうつつを抜かし、あれやこれやとA( )Cし、安酒バカ酒大めしを喰らって酔いどれ酒ぐれた揚げ句のゲップのような寝言たわ言/能書き御託だけはいっちょまえにほざきながら知らんぷり/見て見ぬふり/頰かむりを決めこみ、みみっちくセコいのを担当するポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊はほかに掃いて捨てるほどいる。私の係ではない。

*自宅住所/人相容貌風体/立ち回り先/出入りの店/散歩コース等々の個情はすべて掌握済みだ。そのときがいつになるかは時宜と気分で決まる。腕利きの掃除屋も手配済みだ。完全削除用の王水はポリタンク5本用意した。最後の春休みをせいぜい愉しむがいい。

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Ignorance - Paramore (Brand New Eyes/2009)
 
by enzo_morinari | 2019-02-27 19:56 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(2)

吹きこぼれるように書きたい。いや、殺したい。思想的な乱暴者/詩心を持つ悪党/なにものにも妥協しない暗殺者/夕闇のバス停でひとりふるえる少女に涙する無法者/ひと枝のかすみ草を愛するならず者でありたい。

 
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おれは1億分の1ではない。

×ひとつ。あとみっつでおしまい。

中上健次が死んで、世界は名前のない地図と生死を超えた神話世界と胎内のような路地を失ってしまった。

大江健三郎もじきに死ぬだろうが、そのときはアトミック・エイジの凄腕の神様のピンチヒッターとして、ヒロシマとナガサキの望徳の鐘もロンゲラップ・ピープルの悲しみのHIP-HOPもニガヨモギの核の棺桶もハッピー・アイランドの核のゴミ捨て場も銀河系宇宙の彼方までかっ飛ばし、名うてのピンチランナーとして、充分にリードをとって、同時代ゲームのゲームセットのホイッスルが雨の木球場に鳴り響くまで、涙が魂におよぶまで泣く。リーリーリーリーリーリーと高らかに声をあげて。わが狂気を生き延びる道を教えよと17歳で死んだ政治少年のように。


中上健次の『岬』は1975年のクリスマスに5歳年上のガールフレンドがプレゼントしてくれた。カシミアのネイビー・ブルーのマフラーとそろいのカシミアの手袋と一緒に。17歳の誕生日だった。

中上健次は『岬』のあとがきに書いていた。

吹きこぼれるように、物を書きたい。いや、在りたい。ランボーの言う混乱の振幅を広げ、せめて私は、他者の中から、すっくと屹立する自分をさがす。

翌日の黄金比の朝の沈黙ノートには次のようにと書いた。


吹きこぼれるように書きたい。いや、殺したい。ボードレールのような悪の華を咲かせて世界の混乱の振幅をさらに広げ、他者からすっくと屹立し、孤立する自分を探す。思想的な乱暴者/シジフォスを手玉にとり、まばたきもせずに太陽を凝視する異邦人/やがて大海となるバッハの小川のほとりにたたずむ単独者/饒舌なかごの鳥の前で沈黙する帝王/至上の愛に背を向けるキセノフォーンのコロッサス/あらゆるモノとコトから逃亡する脱走兵/生まれたばかりの赤ん坊から棺桶に首までつかった年寄りまで震えあがるお尋ね者/ファニー&ファンキーなテロリスト/いつも静かに微笑っているペシミスト/だれにもみせない心のうちは沸騰寸前に滾っているニヒリスト/ロマンチシズムを失わないリアリスト/現実を冷厳冷徹に見据える永久革命家/チャプリンを愛する独裁者/心の奥深くに愛誦する一片の詩を密かに隠しもつ悪党/なにものにも妥協しない暗殺者/夕闇のバス停でひとりふるえる少女に涙する無法者/ひと枝のかすみ草を愛するならず者でありたい。


15歳になる年に『十九歳の地図』で中上健次を知り、その濃密な文体と危うさに強く惹かれた。『十九歳の地図』の主人公にならって、自分が現に生きている世界/古今東西のあらゆるものに◯と×をつけた。三島由紀夫の死の痛手から立ちなおれたのは中上健次と『十九歳の地図』のおかげだった。

×をつけたものは手加減なし容赦なしで罰した。世界から葬り去ったものもある。1964年版平凡社世界大百科事典の林達夫の巻頭言を引きちぎり、八つ裂きにし、唾を吐きかけ、踏みつけ、最後は野毛の火葬場で跡形もなく燃やした。林達夫には400字詰め原稿用紙42枚に及ぶ脅迫状を送った。

林達夫からは目のさめるような達筆で礼状が届き、あとから当時最新の1972年版平凡社世界大百科事典が送られてきた。「思想のドラマトゥルギーを持つ共産主義的人間はやることがちがう」と感心した。

林達夫の自宅で大江健三郎と初めて会い、ともだちになった。大江健三郎はまだ痛風を発症しておらず、色白で薄桃色でぷよぷよツヤツヤしていた。大きくておいしそうなミミナガバンディクート耳だった。左の耳たぶをフルニフルニしたら、すごくよろこんだ。宙返りする太ったうしろの百太郎だと思った。

文章は関係代名詞だらけの吃音体で「、」が多すぎるし、脳みそのシワが少ない腰の座らぬポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊の腑抜けどもによる毀誉褒貶は色々あるが、いずれにしても、大江健三郎は人間がいい。洪水が及んでもなんら変節しない魂の質が。

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大江健三郎についてああでもないこうでもない滑った転んだと寝言たわ言をほざく野郎は脳ヘルニアに罹ってむごたらしく死んじまえばよろしい。大江健三郎もじきに死ぬだろうが、そのときはアトミック・エイジの凄腕の神様のピンチヒッターとして、ヒロシマとナガサキの望徳の鐘もロンゲラップ・ピープルの悲しみのHIP-HOPもニガヨモギの核の棺桶もハッピー・アイランドの核のゴミ捨て場も銀河系宇宙の彼方までかっ飛ばし、名うてのピンチランナーとして、充分にリードをとって、同時代ゲームのゲームセットのホイッスルが雨の木球場に鳴り響くまで、涙が魂におよぶまで泣く。リーリーリーリーリーリーと高らかに声をあげて。わが狂気を生き延びる道を教えよと17歳で死んだ政治少年のように。

その後、林達夫の鵠沼の自宅には何度も事前のアポイントメントなしで遊びに行った。それは襲撃と呼ぶにふさわしい。ハヤタツ百科全書屋再襲撃。再々々々々々々襲撃。襲撃のたびに林達夫はお小遣いをくれた。感謝の言葉も言わずにことさらに不満げな顔をして「少ねえな」とつぶやくと、林達夫はニコニコしながら初めにくれたのと同額のカネをくれた。林達夫からもらったカネで本を買った。次に襲撃したときにそのことを克明に記したものを林達夫に見せた。林達夫はすごくよろこんだ。林達夫のところからは金目のものを随分と持ち去った。林達夫はすべてお見通しだったがなにひとつ咎めず、やはり静かに微笑っているだけだった。私をジャンジュネ・ボーイと呼んで頭を撫でてくれさえした。

林達夫とは主にフランス語で会話した。鵠沼海岸にならんで座り、時さえ忘れて宇宙しりとりをやった。すべて私の勝ちだった。ディドロ&ダランベールが守護者としてついている私に勝てる者はこの宇宙/石と氷晶としてのマグリット世界にはいない。宇宙を支配する巨大な意志の力をのぞいて。

林達夫が死んだときは季節みっつ分仕事が手につかなかった。どこのだれとも知れないやつに涙を見られるのがいやで葬式には行かなかった。この世界にもはや林達夫がいないのだということを思い知らされるような気がして、墓参りにも行っていない。くたばる前に参って、「地獄でもよろしく。思想上のおじいちゃん」と伝える。

17歳の誕生日から17歳の地図をつくりはじめた。17歳の地図はまだ完成していない。17歳の地図の製作作業は現在もつづいている。進行中。未完成を前提にした作業。それは、死ぬまでつづく。

ちょうど10年後の1983年に尾崎豊が『十七歳の地図』で世に出たときは激怒した。怒髪天どころか非利発な理髪店を42軒つぶすほどだった。ガミ術の10年殺しを尾崎豊にかけてやった。10年経たずに尾崎豊は死んだ。

世界のどこでもない場所/生と死の境界を超越した神話世界としての物語を中上健次から学び、盗んだ。中上健次には感謝の念が強い。慚愧に堪えないが。刻んだ×印と人肉と怒りと憎しみと悲しみは数えきれないが。

中上健次が死んで、世界は名前のない地図と生死を超えた神話世界と胎内のような路地を失ってしまった。悲しかった。すごく悲しかった。黄金比の朝が、夕暮れのコペルニクスが天井裏を歩きまわる虚数の夜の果ての旅の拳銃無宿にかわり、千年の愉楽がけし飛ぶほどに悲しかった。母親を失った気分だった。世界など割れてしまえ、熔けてしまえ、死んでしまえと強く思った。

×を∞個つけた居残り佐平次には2013年の秋に7年殺しをかけてある。妖怪ヨマズニイイネオシのパルジー・マサシとアホマホ婆(63Kittyと95Psycho)にはついいましがた2年殺しをかけた。のたうちまわり、もがき苦しみ、むごたらしく死ぬがいい。

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by enzo_morinari | 2019-02-27 03:04 | 17歳の地図 | Trackback | Comments(0)

夕暮れのラフマニノフ

 
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遠い昔に聴いた音楽は楽園の記憶をよみがえらせる。E-M-M


中学2年の秋の終わりの夕暮れ。強い北風の日。サッカーの練習を終え、グラウンドの西のはずれのだらだら坂を登って部室のある高台に向かって歩いていた。グラウンドも校舎も裏山の樹々も赤く染まっていた。

坂を登りきる左手には戦前の陸軍の兵舎を移築した古い木造校舎。血みどろの兵士の幽霊が出るというばかげた噂話がまことしやかに囁かれていた。2階には音楽室。音楽室には担任でもある音楽教師のタツゾー先生がいる。

寒いのに窓が開け放たれ、暖かさそうなあかりが漏れていた。立ち止まり、サッカー・ボールを抱えて音楽室のほうを見た。直後、その後の長く曲がりくねった人生の折々に繰り返し聴くことになる天上の音楽の妙なる調べは聴こえてきた。

セルゲイ・ラフマニノフの交響曲第2番第3楽章 アダージョ

全身がふるえ、涙があふれた。涙はいくらでも溢れでてきた。あいた窓からタツゾー先生が身を乗りだしてこちらを見ていた。早足で音楽室を目指した。

音楽室のクリーム色の引戸をあけるとコーヒーのいいにおいがした。満面の笑みを浮かべるタツゾー先生。

「来ると思ったよ。樽に聴かせたくてこのレコードをかけたんだ。練習が終わるの確認して、樽が坂道を登りはじめてからね」
「なんて曲?」
「ラフマニノフの交響曲第2番第3楽章 アダージョ。ソ連の作曲家だよ」
「すごくいい。坂道で聴こえたときからずっとふるえがとまらない」
「うん。…お母さんのことだけど」
「うん」
「だいじょうぶか?」

私は前の週に母親を失っていた。

「めしの支度や洗濯や掃除が面倒くさいけど、しょうがない」
「困ったことがあったらいつでも言ってくれよ」

私は少し考えてから答えた。

「借りはつくらない。貸し借りなしの人生を生きると決めたから」
「そうか…」
「でも、ありがとう。タツゾー先生」

それは生まれて初めて「ありがとう」という言葉を口にした瞬間だった。

タツゾー先生がサイフォンでいれてくれたコーヒーを2杯飲み、ラフマニノフの交響曲第2番第3楽章 アダージョを5回聴いた。音楽室の窓から外を見ると、なにもかもが赤く染まっていた世界には夜の帳が下り、世界は深々とした闇に包まれていた。

「家でレコードは聴けるよな?」
「聴ける。ソニーのぼろっちいポータブル・プレイヤーがある」
「LPもかけられるよな?」
「うん」

帰りがけ、タツゾー先生はハマ楽器のレコード袋をよこした。André Previnが指揮するLondon Symphony Orchestra(LSO)のLPレコードが入っていた。

夕暮れのラフマニノフから45年。木造校舎は取り壊されてモダンなアーキテクチャとなったが、タツゾー先生がくれたラフマニノフの交響曲第2番のビニルのLPレコードは今も手元にある。

45年の歳月を経て、ジャケットはやつれて変色し、レコードの盤面は傷だらけでスクラッチ・ノイズと針飛びを起こすけれども、週に1度は聴く。タツゾー先生とはたまに会う。声楽家の奥様と息子さんと娘さんを立てつづけに亡くしたが達者だ。元気だとは言わない。かけがえのないものを失って元気なはずがない。

タツゾー先生臨終のとき。ラフマニノフの交響曲第2番第3楽章 アダージョとマーラーの交響曲第5番第4楽章 アダージェットが繰り返し流れる部屋。タツゾー先生が身罷る瞬間までずっとタツゾー先生の枕辺にいる。そして、タツゾー先生の手を握り、頭と顔を撫でつづける。

放課後の音楽室と夕暮れのラフマニノフは生きている。放課後の音楽室と夕暮れのラフマニノフの物語は墨汁スミッティー・スミスに語り継いだ。スミスがどのような物語をだれに語り継ぐのかはわからない。わからないけれども、薄紅匂う物語になることを願う。


玄妙の言葉求めて櫻花 薄紅匂う道をこそゆけ

Sergei Rachmaninov; Symphony No. 2 in E minor Op. 27, 3rd mov. "Adagio" André Previn & London Symphony Orchestra (LSO)
 
by enzo_morinari | 2019-02-26 20:14 | 放課後の音楽室 | Trackback | Comments(2)

The Scene #1 Once Upon a Time in America/昔々、アメリカで デボラの舞い

 
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失われたもの、砕け散った夢、傷ついた心をいつまでも抱えているわけにはいかない。すべては過程の中のひとコマにすぎない。


いつからか、エッダ・デル・オルソが歌う『Once Upon a Time in America/昔々、アメリカで』の劇中歌であるエンニオ・モリコーネの『Friendship and Love』がずっと頭の中で鳴っている。小さな音で。静かに。消え入るように。霞むように。二度と取りもどすことのできない宝石のような思い出のように。

横浜馬車道の東宝会館で『Once Upon a Time in America/昔々、アメリカで』をみて以来のことだから、1984年以降ということになる。もう35年にもなるか。

1984年。若かった。嵐のような裏切りと諍いのただ中にあった。それまでおぼろげながらもあった世界と人間に対する信頼が木っ端微塵に消し飛んだ季節だった。世界は冷酷と裏切りと強欲と無関心とで出来あがっていることを知った。

世界と人間と未来は信ずるに値しないと確信するに至るつらい日々だった。だが、そろそろ砕け散った心と夢のかけらをひとつ残らず回収する頃合いだ。失われたもの、砕け散った夢、傷ついた心をいつまでも抱えているわけにはいかない。すべては過程の中のひとコマにすぎない。

人生の大半が友情と裏切りとカネと愛と力と性と喪失でできあがっていることに気づくのに30年かかった。30年以上も前のことだ。友情と裏切りとカネと愛と力と性と喪失を描いた映画が『Once upon a time in America』である。「おとなのいい男」「おとなのいい女」になりたい者はみるがいい。「永遠の少年」でいたい者がみてもなにがしかの参考にはなる。

見終わったあと、いくぶんか人生の深さやら友情の儚さやら裏切りの痛みやら愛の意外さやらについて理解を深めている自分に気づくはずである。ただし、へっぽこ編集屋の上げ底たっぷりの計略にまんまと乗せられて、「ちょいワルおやじ」だのという愚にもつかぬステレオタイプを気取るようなおっちょこちょい、恥を知らぬ有象無象の輩が何百回、何千回みたところで感動も理解もできまい。時間の無駄であるからやめておくがよかろう。(「ちょいワル」だあ? ワルならワルに徹したほうがよっぽどかっちょいいんじゃねえのか? つまりは、「ちょいワルおやじ」てえのは悪党悪漢になれない半端人足のことだろう? まったく笑わせやがる)

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『Once Upon a Time in America/昔々、アメリカで』は志ある者、道半ばにして弊れた者たちのための映画、鎮魂歌である。少なくとも人生のいかなる局面であれ、事情であれ、大事であれ、些事であれ、「最大公約数」を出処進退の基準にするような腰抜け腑抜けがみる映画ではない。

主人公の少年マイケルはある日、初恋の相手デボラが倉庫の一隅でバレエのレッスンに打ちこむ姿を夢見心地で盗みみる。いつか潰える夢だとも知らずに。このシーンは何度みても、甘くせつなく、夢でもみているような気分になる。監督のセルジオ・レオーネはこのシーンをこそ撮りたかったにちがいない。「デボラの舞い」のシーンこそが若く、未成熟で、夢やら希望やらに満ちあふれていたアメリカを象徴しているように思える。「昔々、アメリカで」と。

「宝石のような秘密の場所」を年老いたマイケルは再訪する。覗き穴から幻の「デボラの舞い」をみるマイケル。このとき、マイケルの眼はうるんでいる。うるんではいるが涙は一滴もこぼれない。もはや涙は枯れ果てているからだ。数々の裏切りと喪失と困憊によってマイケルの心は石ころになってしまったのだ。救いなどない。慰藉もない。しかし、それが大方の人生であり、成熟というものだ。

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夢はこどものときに砕け散る。粉々に砕け散るのだ。例外はない。しかし、夢がとっくの昔に砕け散っていたことに気づくのに何十年もかかる。気づいてからのちは、粉々に砕け散った夢のかけら、断片をひとつひとつひろい集め、つなぎあわせ、頬ずりし、そっと口づけ、数知れぬため息をつき、夢の墓場に埋め、あきらめきれずに掘り起こし、さらに埋めもどし、そして疲れ果ててゆく。成熟するというのはそういうことだ。

実現の道筋なき「わたしの夢」「わたしのしあわせ」とやらを得々として吹聴しつつ、おべんちゃら、きれいごと、要領三昧狡猾にまわりの顔色ばかりをうかがいながら「最大公約数」「最大多数の最大幸福」などと臆面もなくほざき、極楽とんぼ能天気に生きてきた者が成熟などしようはずがない。そういった輩どもの上げ底、メッキのまやかしポンコツぶりは目を覆いたくなるほどだ。まやかしはさらなるまやかしを呼び、ポンコツどもはさらなるポンコツと群れるという醜悪きわまりもない図。

好きなものを好きと言い、嫌いなものを嫌いと言う。ただそれだけのことをなぜためらう。好きなものを好きと言い、嫌いなものを嫌いと言っていれば敵は増え、世間は狭くなり、つまりは生きづらくなる。生きづらくはなるが、いさぎよい。清潔だ。汚いより清潔なほうがよほど気持ちよくはないのか? もっとも、熟したからといって甘いわけではない。それどころか苦いばかりである。甘ったるいのがお好みの御仁は天国に一番近い島あたりで余生を送ることを夢みつつ、汲々として日々を、暮らしをやりすごすがいい。夜毎、総天然色の夢がみられるはずである。うらやましいかぎりだ。

砕け散った夢、疲れ果てた心に『Once Upon a Time in America/昔々、アメリカで』はいくぶんかの慰めをあたえてくれる。時間をかけ、10年に1度ほどのペースで何度でも繰り返しみるに値する映画である。みるたびに新しい思い、別の思い、忘れかけていた思いがみつかるはずだ。平均寿命まで生きながらえたとして、あと2、3度みれば THE END と相成る。そのようにおのれの人生を計測してみるのも一興である。蛇足だが、エンニオ・モリコーネの音楽がすこぶるいい。

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Edda Dell'Orso - Deborah's Theme
Ennio Morricone, Edda Dell'Orso - Friendship and Love
Ennio Morricone - Amapola Part I
Ennio Morricone - Amapola Part II
 
by enzo_morinari | 2019-02-26 02:36 | The Scene | Trackback | Comments(0)

ウィンダムヒル・ラプソディ/バビロン再訪あるいはThanksgivingを迎えたくても迎えられなかった者たちへのRequiem

 
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My Lost City. Babylon Revisited. バビロン再訪。失われた都を訪ね、失われ、損なわれたものの痕跡を探す。

過ぎた季節は遠く速く容赦なく残酷に去りゆき、2度と取りもどすことはできないが、カットグラスのボウルは完全にはロストしていない。粉々に砕け散ったガラスの破片にも世界は映る。

夢はこどものときに砕け散る。粉々に砕け散るのだ。例外はない。しかし、夢がとっくの昔に砕け散っていたことに気づくのに何十年もかかる。気づいてからのちは、粉々に砕け散った夢のかけら、断片をひとつひとつひろい集め、つなぎあわせ、頬ずりし、そっと口づけ、数知れぬ溜息をつき、夢の墓場に埋め、あきらめきれずに掘り起こし、さらに埋めもどし、そして疲れ果ててゆく。成熟するというのはそういうことだ。

いまや、ウィンダムヒルにかつての栄光はない。ウィンダムヒルが失われた都、バビロンそのものであることに気づくのはずっとあとになってからだった。

Windham Hillの音楽は「肩の力を抜いて」「だいじょうぶ。いつもそばにいるよ」と言って励ましてくれた。


1980年代初頭。だれもが疲れ果てていた。なんとなくクリスタルな風に吹かれ、浮かれ騒いでいるようでいて、孤衆予備軍の心の中には意地の悪い隙間風が吹いているように感じられた。飲まず食わず恋もせず、おまけにクラシカルな音楽しか聴かない、趣味は読書だけというインテリ・ブローなSittaca Barryの心にさえ。

25mプール1杯分のビールを飲みほしても、気のいいバーテンダーのいる古いジュークボックスから古いうたの流れる居心地のいいバーの床を5cmの厚さのピーナッツの殻で埋めつくしても、古いピンボール・マシンで新記録のスコアを出しても、チャイナのC席に座っても、心にぽっかりと空いた穴は埋められない時代だった。

そのようないやな風向きの時代にWindham Hillは叙情的で透明感のあるアクースティックな音/世界をもたらした。Windham Hillの音/世界はすっと心になじみ、しみこんだ。こわばった心がゆっくりほどけていくようだった。ECMのストイックさとは異なるやさしさ/さりげなさが疲れた心にしみた。

癒し系/ニューエイジという胡散臭いタームとは離れて、アール・クルー/アレックス・デ・グラッシ/ウィリアム・アッカーマン/ジョージ・ウィンストン/タック&パティ/フィリップ・セス/マーク・アイシャム/マイク・マーシャル/マイケル・ヘッジス/リズ・ストーリーらの音/音楽世界は心になにがしかの潤い、豊かさをもたらした。Windham Hillの音楽は「肩の力を抜いて」「だいじょうぶ。いつもそばにいるよ」と言って励ましてくれた。

いまや、ウィンダムヒルにかつての栄光はない。ウィンダムヒルが失われた都、バビロンそのものであることに気づくのはずっとあとになってからだった。

これからここに書きしめすのはだれもが疲れ、心が風邪をひいていた時代の物語、Thanksgivingを迎えたくても迎えられなかった者たちへのRequiem、ある意味のバビロン再訪だ。慰めも教訓もないが、立ち止まり、ふりかえり、失ったもの、手放したものを掘り起こし、温め、埋めもどすきっかけはあるかもしれない。いくぶんかの痛みと悲しみをともなうが、癒えぬ痛み/悲しみではない。そうあればいい。

過ぎた季節は遠く速く容赦なく残酷に去りゆき、2度と取りもどすことはできないが、カットグラスのボウルは完全にはロストしていない。粉々に砕け散ったガラスの破片にも世界は映る。


George Winston: December - Full Album (1982)
 
by enzo_morinari | 2019-02-25 04:42 | ウィンダムヒル・ラプソディ | Trackback | Comments(0)

レモン・テーゼあるいはレモン白書もしくはLemon Sneeze/『魔女の宅急便』の黒猫のジジはネコ・レモンである。

 
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レモン・テーゼとオレンジ・カウンターとグレープフルーツ・シンクとピーチ・バルーンとレモン色のいまにも指のあいだから滑り落ちそうな平行四辺形。なにかがちがう。なにかが足りない。それを突きとめるのがレモン・テーゼの主題である。レモン・テーバイの番人


レモン・テーゼ
ママ・レモンがあるなら、パパ・レモンがあっていい。
パパ・レモンがあるなら、バカ・レモンがあっていい。
バカ・レモンがあるなら、ババ・レモンがあっていい。
ババ・レモンがあるなら、ジジ・レモンがあっていい。

よって、

ジジ・レモンがあるなら、『魔女の宅急便』の黒猫のジジはネコ・レモンである。


Lemon Tree - Peter, Paul, Mary (1962)

The Lemon Song - Led Zeppelin (Led Zeppelin II/1969)

Lemon - U2 (1993)
 
by enzo_morinari | 2019-02-25 03:00 | レモン・テーゼ | Trackback | Comments(0)

沈黙ノート ジョージ・ウィンストンのThanksgivingがしみた夜

 
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1982年の冬。24歳の誕生日に元妻1号がプレゼントしてくれたのはジョージ・ウィンストンのDecemberだった。

私も元妻1号も痛いくらいに若かった。手づかみで赤むけで無垢だった。時代は軽佻浮薄上っ面上っ調子におぼつかない足取りで突っ走っていた。泡劇場の開幕が間近に迫っていた。

どいつもこいつも、頭の中にオガクズかオカラが詰まっているように思われた。実際、そうだったんだろう。なんとなくクリスタルな風に吹かれ、ジョシダイセーなる珍妙奇天烈なイキモノが街を肩で風を切って歩いていた。どこもかしかもジョシダイセーがわがもの顔でのさばっていた。

私の部屋で私と元妻1号はずっと無言だった。話すことがないからだったか、話すほどのことがなかったからか。あるいは、話すまでもなかったからか。いずれにしても、私も元妻1号も口をきかず、ジョージ・ウィンストンのDecemberを1音も聴きもらすまいと耳をそばだてていた。世界にも。

Decemberの1曲目のThanksgivingが5回目にかかったとき、元妻1号が口を開いた。

「これで、もう思い残すことはありません」
「うん。おれもおなじことを考えてたよ」
「ありがとう」
「こちらこそ。で、いつにする?」
「すべてあなたにおまかせします」
「そうか。計画立案が済むまでここにいるといい」
「そうするわ」
「Suicide Noteでは生々しすぎるから、Sound of Silence. 沈黙の音…。そうだ! 沈黙ノートにしよう。1ページ目はおれ、沈黙ノートの最後のページはおまえ。OK?」
「もちろん、OKよ。でも、真ん中の空白のページはどうするの?」
「そうだな。生き残ったやつらが勝手に埋めりゃいい」
「なんだか、それは癪にさわるわね」
「じゃあ、こうしよう。沈黙ノートで交換日記。ページが全部埋まるまで」
「それ! ステキ! イカす!」

ツバメの大学ノートの表紙に油性ペンで沈黙ノートと書き、連名で名前を記した。かくして、沈黙ノートの1ページ目と最後のページ以外のページを埋める日々が始まった。トリスの安酒とジョージ・ウィンストンのThanksgivingがやけにしみる夜だった。


George Winston: December - Full Album (1982)
 
by enzo_morinari | 2019-02-24 11:47 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

読売文学賞? 原発マフィアの広報宣伝担当の糞にたかる蠅お先棒かつぎ提灯持ち幇間女衒ごときの賞をめぐんでもらってなにがうれしいんだ?

 
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Fuck off!

おととい来やがれコラ!
(Fuck off)
所詮You wanna be baller
(Fuck off)
オメーじゃ無理だてホラ!
(Fuck off)
You envy me We rich&famous
荷物まとめときな
(Fuck off)
磨いとけヤワな牙
(Fuck off)
おい、どのツラ下げてきた?
(Fuck off)
読み返せバカボンド
ツラについとるカスが
エセのHustlaそりゃLも知らねぇ雑談
仲間のピンチ見ぬふり考えとけ 身のふり
打算だけ義理も筋もねぇBitch
オメーは入れねぇ まだ見ぬ国
Yeah 俺は使われねぇ
だから死ぬまでテメーの道に向けPray
荒らすな畑 ジジィの無礼
I wanna singing alone
群れて強気さ
Bitch as hole
I wanna singing alone
群れて舐め合えその傷

まーどうでもええてかオメー誰?
AK-69 a.k.a Kalassy Nikoff


おまえさんの好きな鳥や草花や樹木を殺して平然としている原発マフィアのお先棒を担ぎ、盗人猛々しい寝言たわ言をほざきまくる下衆外道メディアと寝てなんとも思わねえのか?

日本の原発マフィアの総元締め/初代親玉の正力松太郎。強欲卑劣な内務官僚上がり。1億総白痴化のためにあらんかぎりの悪辣な手練手管をふるった下衆外道の悪党。こんな野郎のとこからニンジンぶら下げられて、じきに70づら下げようてえジジイが大はしゃぎとは醜悪無様ここにきわまれりだな。てめえに教わったクソガキどもに同情するってのよ!

せいぜい、野鳥だ、草花だ、樹木だと善人/ナチュラリスト気取って、A( )Cやってやがれ! ついでに、棺桶に首まで浸かった守旧老いぼれのオムツー・タカーシと口が臭え者同士、名井島の口臭便所で乳繰りあうがいいぜ! ふたったりそろって、死ねばいいのに!Ψ(`▽´)Ψ


Fxxk off - AK-69 a.k.a Kalassy Nikoff(The Cartel From Streets/2009)
 
by enzo_morinari | 2019-02-24 06:53 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)