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トパンガの夢 ── Green Mileより、8 Mileより、500 milesより、少し遠い238,856 miles彼方の約束の地を目指して

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7UPを1ダース飲みおえ、海と空と大地が出会う場所を越えて、トパンガ・ケイヨンロードをトパンガ・ムーンに向けて200 mil/hで飛ばす。トップを格納した1958年式フォード・エドセル・サイテーションは息を止める寸前だ。オールズモビルがレモンを丸ごと1個噛みつぶしたような顔がさらに醜く歪んでいる。ロバート・マクナマラが化けて出そうだ。

不意に「世界の終り」と思う。サイズの小さな「世界の終り」なら、もうすでに世界中のあちこちで見てきた。高くついた「世界の終り」もあれば、お買い徳な「世界の終り」もあれば、まがいものまやかしインチキの「世界の終り」もあれば、羊頭狗肉の「世界の終り」もあった。今回だって高いか安いかのちがいがあるだけだろう。そう自分に言いきかせる。どんなふうに思われようとこれが自分の人生なのだし、これまでどおりゲームをつづけていくしかない。

1992年の秋、トパンガは「水を汲んでくる」とだけ言ってトパンガ・ムーンに行ったきり、帰ってこない。もう26年になる。トパンガがいなくなったとき、1958年型フォード・エドセル・サイテーションはガレージで埃をかぶっていた。 バッテリーは溶けて跡形もなく、4本のタイヤはすべて空気が抜けてぺしゃんこなうえに乾いてひび割れ、エンジン・ルームは鼠どもの寝倉に変わり果てていた。当時の1958年型フォード・エドセル・サイテーションがいるべき場所はスクラップ置場だった。世界中のありとあらゆるポンコツが集まる場所。天国にも地獄にも一番近いところ。車だけではなくて、人間も動物も輪転機もコピー機も蒸気機関車も車両番号モハ102-42も洗濯機も冷蔵庫も扇風機も空調機の室外機も本来の役目を果たせなくなるとここに追いやられる。墓場だ。晴海には東京ディープと呼ばれる万物の墓場がある。

晴海埠頭はそのやけに晴れやかな名の裏側にメタル墓場とでも呼ぶべき影の部分を抱え込んでいる。巨鯨の骸の群れのように折り重なった業務用冷蔵庫とディスプレイとコピー機、暗い熱情を発する大型変圧器、スパイラルな鎮魂歌を奏でる自動車の衝撃吸収材、終りなき巡礼に悲鳴を上げながら腐敗しゆく樹脂とタイヤの山脈。その他もろもろの金属の瓦礫。かつての最先端技術が無秩序と混沌の墓場に埋葬されるときを待っている。その向こうに聳えているのは無際限に増殖しつづける巨大な構造物群だが、まぎれもなくその群れは巨大な墓標である。その巨大さは巨大さゆえに意味を失いつつある。そしてやがて、放射性物質という名の廃棄物の王が風に乗り、水に運ばれ、日々の糧、食物に溶け込んでわれわれの生活の中に一陣一閃のナイフとなって音もなく侵入する。トパンガは92200.00 Bq/kgを示すベクレルの森で日々駆けまわり、左うしろ足の肉球に癌ができた。この旅は憎悪の巡礼/ルサンチマンの旅でもある。

10年かけて生き返らせた。2002年12月25日の昼過ぎに1958年型フォード・エドセル・サイテーションは息を吹きかえした。44歳の誕生日だった。

10年のあいだ、来る日も来る日も薄暗く埃っぽいガレージで1958年型フォード・エドセル・サイテーションのレストレーション作業をやった。ニューヨークWTCの悲劇が起こり、世紀が変わって、世界中のルーーキーが中堅になっていた。

1958年型フォード・エドセル・サイテーションに触れているときだけはトパンガのことを束の間忘れることができた。それは自己療養の意味合いのある行為だった。やるべきことがあるうちはかたちはどうあれ生きつづけることができる。そういうことだ。

トパンガはバトンガの双子の弟。純白のフレンチ・ブルドッグだ。バトンガは漆黒、トパンガは純白。Black&White. Two Dog Knight. ふたりでひとつ。バトンガが右を向けばトパンガも右を向く。トパンガがあくびをすればバトンガもあくびをする。バトンガがおならをすればトパンガもおならをする。トパンガが吠えればバトンガも吠える。バトンガがおねだりをすればトパンガもおねだりをする。ちがったのは虹の橋を渡ったとき。バトンガは1991年1月1日、その1年10ヶ月あとの1992年11月11日にトパンガは虹の橋を渡った。

26年のあいだ、トパンガの夢を見つづけた。つらい夢やかなしい夢や痛い夢やたのしい夢。最後は泣いて夢からさめる。これが夢であればと思い、夢でなければと思う日々。

月の美しい夜は月を見上げ、雨の日は雨粒を数え、風の強い日はトパンガの人なつこい笑顔を思いだした。そして、杯を傾けた。何杯も。そうだ。何杯も何杯もだ。そうとでもしなければやりすごせないほど風向きの悪い26年間だった。

この26年間に関するかぎり、「風向きもいつかは変わる」というのは大うそだ。これっぽっちも変わってやしない。事態は悪くなるいっぽうのようにさえ思える。強い南風が吹きつける七里ヶ浜駐車場のレフト・サイドに丸一日立ちつくしたこともあるが、答えらしいものはなにひとつみつからなかった。答えは風の中なんかにはないんだ。きっと。

26年。多くの人々が通りすぎ、色々なものが壊れた。虹子の死。ビートニク・ガールの消滅とマッキントッシュMC275の経年劣化による引退。ベニー・グッドマン『Memories of You』のEP盤はスクラッチ・ノイズしか聴こえなくなった。60年近くもつきあいのある左の前歯は一昨日するりと抜け落ちた。

見上げた月とカウントした雨粒とかさねた杯はいったいどれくらいになるか。3年目の冬で数えるのはやめた。それでも、いつかトパンガと再会できる日がくると信じて生きてきた。

再会を待ちつづける日々。再会の場所が炎のただ中であったとしても、私はけっして尻込みしない。トパンガとともに炎の中心に立つ。 トパンガとの再会の日までに、目を背け、置き去りにしていたことどもと向かい合う勇気を取りもどそう。まだ遅くはない。まだ間に合う。まだ旅は終わっていない。まだ旅はつづく。まだ息をすることができる。

わが名は月で酔いどれるカタジュタの男。ホピとチェロキーとナバホの友人が1人ずついる。ディジュリドゥは楊枝がわりだ。トパンガ・ケイヨンロードは200 mil/hでぶっ飛ばす! 7UPを1日に1ダース飲む! ホカヘー! ヤタヘェ! アヒェヒェ!


トパンガに会えるまで、あと238,856 miles. Green Mileより、8 Mileより、500 milesより、少し遠い。少しかなしくて少しうれしい。海と空と大地が出会う場所をすぎたとき、カーラジオから故郷をはるか500 miles離れた見知らぬ土地で途方に暮れる貧しい旅芸人一座の女バンジョー弾きの悲しげでか細くて弱々しくてささやくような歌声が聴こえてきた。


あふれでそうになる涙をこらえ、故郷から500 miles彼方の見知らぬ土地で途方に暮れる。シャツ1枚さえない。1ペニー1枚の小銭すらもない。これからの人生がどうなるのかわからない。故郷を遠く離れて。500 milesも離れて。聴こえるのは汽笛だけ。この線路を500 milesたどっていけばなつかしい我が家に着くけど帰れない。帰りたいけど帰れない。遠くから、はるか遠くから思いを寄せることしかできない。聴こえるのは汽笛だけ。500 milesも離れて。500 milesも離れて。500 milesも離れて......

500 miles - Peter, Paul and Mary

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by enzo_morinari | 2018-07-18 09:05 | トパンガの夢 | Trackback | Comments(0)

バトンガの男

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BATONGAとDuffyは虹の橋のたもと/海と空と大地が出会う場所でシュレディンガー・ドッグ・フレンドシップを結ぶ。シュレディンガー・ドッグ・フレンドシップ憲章はThe Ten Commandments of Dog Ownership/犬の十戒である。

BATONGAとDuffyは友情の印にそろいのグローバーオールのダッフル・コートを着ているが、両者ともあきらかにワンサイズ大きい。ふたりの合言葉はBATONGA TOPANGA Duffel Toggle!/私は私のやりたいことをやる!である。


朝、窓をあけるとアンジェリーク・キジョーの『BATONGA』が聴こえた。音のするほうに目をやると、髪を短く刈りこんだいかつい男がこちらを見ていた。男は短躯でいかつかったが、どこか愛嬌のある顔をしていた。

アンジェリーク・キジョーが「BATONGA!」と歌うところで、同時に男は漢字の「大」の字のかたちに両腕両足をひろげてジャンプした。目を凝らしてよくみると、男の左肩上には黒いしみのような点がジャンプのたびに浮かんだ。

大の字。左肩上の・。大...。・...。大・...。犬だ! 男は犬と言いたいんだと私は理解した。私が理解すると同時に男はとても気持ちのよい笑顔みせた。

「あれ? ぼくの考えていることがわかるのかい?」と私が考えると、男は笑顔をテンコ盛りにして何度もうなずいた。

「そうか。わかるのか。キミはもしかして、1991年の1月1日に虹の橋/海と空と大地が出会う場所に出かけたっきり帰ってこない、ぼくの親友だったフレンチ・ブルドッグのバトンガ?」

男はからだがばらばらになってしまうのではないかと心配になるくらい全身を激しく動かした。男は私の唯一の相棒であり、用心棒であり、友だちだったフレンチ・ブルドッグのバトンガだった。

私はほぼ28年ぶりの再会がとてもうれしかった。それだけじゃない。うれしかっただけではなくて、すごく感動していた。涙がじゃぶじゃぶ音を立ててあふれでた。

私がいつもしていたようにあごをしゃくる仕草でバトンガを呼ぶと、バトンガはものすごい勢いで私のところにすっ飛んできた。私とバトンガは再会のよろこびをわかちあい、抱き合い、それから隅田川沿いを散歩し、山岳犬ダフィーの様子をたずね、バトンガの1年後に虹の橋に行ったバトンガの双子の弟のトパンガのことを話し、上野の不忍池あたりに沈む夕陽をいっしょに眺め、さくら橋のたもとでさよならをした。バトンガはしょんぼりした足取りで、ふりかえりふりかえり、虹の橋/海と空と大地が出会う場所へと帰っていった。 

次にバトンガに会えるのはいつだろうな。いまからたのしみだ。朝起きるたびに『BATONGA』を聴いて、バトンガが犬の字ジャンプをみせてくれるときを待つことにしよう。BATONGA!

Angélique Kidjo - BATONGA
 
by enzo_morinari | 2018-07-17 03:00 | バトンガの男 | Trackback | Comments(0)

山岳犬ダフィーの冒険 #1

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17年間、マスターもフィールドもハンツマンも置きざりにし、カヴァーさえ跳びこえて矢のように駆け抜け、カブ・ハンティングには目もくれず、レッド・フォックスがわりにどこからかみつけてきた焼きそばを頬張り、残った焼きそばを「おまえも食え」とばかりに目の前にドサッと置き、登りつめ、山のはるか高みへ向けて飛翔しつづけたた山岳犬ダフィーに捧ぐ。

きっと忘れないよ。いつも思っているよ。いつか虹の橋のたもと/海と空と大地が出会う場所で会うんだよ。Scally Wag Dog Duffy, やんちゃ坊主でおてんば娘のダフィー。



7月8日、山岳犬ダフィーと魔の山に登った。ふたりともそろいのグローバーオールのネイビーのダッフル・コートを着ていた。山岳犬ダフィーの着ているダッフル・コートはワンサイズ大きく、私の着ているダッフル・コートは一番下のトグルがちぎれてなくなっていた。

魔の山の急峻でゴツゴツしていて頻繁にマモノどもが妨害してくる胡乱な魔物道を登っているあいだ、われわれは合言葉の BATONGA! TOPANGA! 私は私のやりたいことをやる!を大きな声で42回叫んだ。魔の山のマモノたちはそのたびに疳高く耳ざわりな悲鳴をあげて逃げだした。マモノたちが元いた場所には栗の花とイカの燻製を混ぜたような嫌な臭いが立ちこめていた。


冬眠を忘れた熊との遠い春の日のいくつかの思い出と山岳犬ダフィーの登場

遠くに巨大な岩山が見える。一枚岩。ひとつの岩の塊。標高1420m。外周21.42km。16億5千万年前、先カンブリア時代の中期に誕生した。

剥き出しの岩肌に薄いオレンジ色の夕陽が照りかえっている。魔の山は花崗岩でできあがっている。カタジュタ、ウルルとおなじだ。樹木はただの1本もない。わずかに群生するヘリトリゴケのほかには草木1本生えていない。禿げ山だ。住人たちはこの岩山を「魔の山」あるいは「魔物の棲む岩」と呼んでおそれている。

夜中、耳を澄ますと魔の山から絹布をゆっくり引き裂くような音が聞こえてくる。岩山の頂上で魔物が笛を吹いているのだ。満月の夜、その笛の音に魅入られた住人の何人かが岩山を登り、行方をくらます。市長の号令で捜索隊が組織され、徹底的な捜索が行われたこともあるが蜘蛛の子一匹見つかっていない。

岩山に生き物はいない。いるのは魔物だけ。あるのは風の音だけ。風のないときは容赦のない静寂が支配する。行方をくらました者はすべて魔物に喰われたのだという者もいれば、大陸のギャング団にさらわれたのだという者もいる。真実は誰にもわからない。

都市の中心に聳える峻烈巨大な岩山はいったいなにを象徴しているのか。災いがあるからという理由で誰もこの岩山に手を出さない。岩山を切り崩し、土地をならせば広大な「投資対象として極めて魅力的なエリア」ができあがる。過去に何度か大手のデベロッパーが開発を試みたがことごとく失敗に終わった。

担当者の不審死。開発業者の倒産。悲運は家族にまで及んだ。現在までのところ、魔の山は手つかずのままである。国内のみならず、外国資本の開発業者が入れ替わり立ち替わり買収交渉したが岩山の所有者は決して買収に応じなかった。カネのにおいを嗅ぎつけた多くの政治家が硬軟取り混ぜたやり口で交渉の進展を図ったが無駄骨に終わった。闇の組織、裏社会の大物たちが束でかかっても魔の山の所有者は首を縦にふらないどころか会うことすらしなかった。岩山の所有者が崩壊する時間男、ルーイン・マンこと冬眠を忘れた熊だった。

冬眠を忘れた熊は正体不明の人物である。この街に冬眠を忘れた熊の本当の名前を知る者はいない。私も知らない。冬眠を忘れた熊とはある土地取引をめぐる騒動を収める交渉の過程で知り合った。互いに「双方代理」をやって、法外の報酬を得た。交渉の最中の「ディーラーとプレイヤーを同時にやれば勝利は100%だ」という私のひと言を冬眠を忘れた熊は聞き逃さなかった。その夜に冬眠を忘れた熊が訪ねてきた。「組もう。俺がディーラーでプレイヤー。あんたもディーラーでプレイヤー。ほかのやつらは全員プレイヤーだ。賭け金はすべていただく」

庭に眼を移す。季節外れにすっかり葉を落とした欅の樹の近くに裸足の男が立ちつくしている。冬眠を忘れた熊だ。「勇者」の名声を持つ男。彼を「崩壊する時間男」「沈黙の殺戮者」「乱暴者」「無作法者」と呼ぶ者もいる。私は冬眠を忘れた熊を「友」と呼ぶ。心なしか背中の翼が萎れて見える。額の2本のツノは小さい。冬眠を忘れた熊は戸締まりをしていない扉を開け、がらんとした部屋に入ってくる。翼は折り畳まれて皮膚に溶け込み、ツノは跡形もなく消えている。いつものことだ。星野コカブの小賢しい陰謀によって大熊座のα星とβ星の間から目当てのポラリスが消えて半年。羽田空港1丁目天空橋の陰気な橋守がコビト王の「獅子の心臓」を止めた影響で株式市場が売り相場一色の中、冬眠を忘れた熊は裸足でやってきた。

セイヨウトネリコの樹がやっと実を結んだ朝に冬眠を忘れた熊の最愛の妻がひっそりと死んだ。出産後間もない死だった。彼女は長い間、冬眠を忘れた熊のこどもを産むことを望んでいた。やっと授かったこどもだった。冬眠を忘れた熊は深く傷ついている。何者も冬眠を忘れた熊を癒すことはできない。冬眠を忘れた熊にかける言葉はない。最愛の妻が死んで1年が経つのに冬眠を忘れた熊は妻の遺骨をいまだ手放せずにいる。生まれた子といっしょに抱いて眠るそうだ。遺骨の中のひとかけらをペンダントにして肌身離さず身につけている。

「この骨は死んだ女房の痕跡だ。この骨に触れているかぎり、おれと女房は繋がっている。これはおれの武器でもある。最終兵器なんだ。この骨のかけらを握りしめれば、おれはまだ息ができる。まだ生きつづけることができる。この骨を身につけているかぎり、怖いものはなにもない」

***

「ありのままを話してくれ。おれはやっとこさっとこここにたどりついたんだ」

そう言って、冬眠を忘れた熊は「呪われたアルマジロ」の署名がある小切手を差し出した。0が10個近く並んでいる。贅沢をしても100年は遊んで暮らせる額だ。

「なにかのまちがいじゃないのか? 0の数が多すぎる」
「いいんだ。当然の報酬さ。命を賭けたんだからな。賭け金が高ければ分け前も跳ね上がるものと相場は決まっている」
「わかった。遠慮なく受け取っておく」
「また頼むこともある」
「人殺し以外ならなんでもやるよ」
「いい心構えだ。ところで、こんなものを手に入れたんだがどう思う?」

冬眠を忘れた熊は不思議な色の鉱物をファイストス円盤を模したホンジュラス・マホガニー製のテーブルの上に乱暴に置いた。

「ランボー・ストーン。どうだ? いい色だろう? ランボー・ストーンには砂漠の商人どもの夢と栄光と挫折が含有されている」

***

「こんど、魔の山で星を眺めながらひと晩過ごそうぜ。あそこは本当に星がよく見える。あそこだけ空気が澄んでるんだ」
「いまからすごくたのしみだ」
「魔物がやってくるが、ただ挨拶にくるだけだ。なにも悪さはしない」
「紹介してくれよ。魔物の友だちはまだ一人しかいない」
「一人しかいない魔物の友だちというのはおれのことか?」
「そのとおり。あんただ」

冬眠を忘れた熊はとてもうれしそうだった。

「さて、晩めしはなにが喰いたい?」
「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の敬虔なる信者であるパスタファリアンの我々としては、ここはなんと言ってもパスタ・アリメンターレだろう」
「パスタ・アリメンターレはなにがいい? スパゲッティ、ペンネ、ラザニア、ラビオリ、タリアテッレ、マカロニ、ブカティーニ、カネロニ、ヴェルミチェッリ、ニョッキ。ピザだって焼けるぜ。奮発して石窯を作ったんだ。マルゲリータ、マリナーラ、クアットロ・フォルマッジ、クアットロ・スタジョーニ、ボスカイオラ、ロマーナ。なんだってこいだ」
「いまさらリストランテを始めるなんて言いだすんじゃないだろうな?」
「さっきもらったギャラでやるという手もある」
「そうだな。スパゲッティ・アル・ペスト・ジェノヴェーゼでもいいし、絶望のパスタ=スパゲッティ・アーリオ・オリオ・ペペロンチーノでもいいし、リングィネでもいい。天空の地平線をゆく星どもを眺め、観察するにはうまいものをしこたま喰わなけりゃな」
「そのとおりだ」

***

「肉が入っていないじゃないか」
「菜食主義者に転向したものでね」

私が言うと冬眠を忘れた熊は歯を剥き出して笑った。冬眠を忘れた熊には脱帽だ。私は冬眠を忘れた熊に胸の内を明かすことにした。本当のことを包み隠さず打ち明けよう。丸裸の自分を見せるのだ。危険な賭けではある。冬眠を忘れた熊はもともと飾りけのない人物だが剣呑すぎる。抜き身のナイフだ。冬眠を忘れた熊は剥き出しの刃を向ける。私が世間に秘密を公表して以来、予想どおり風当たりはさらに強くなった。

「話はわかった。胸をはだけろよ。ちょっと気になることがある。おまえの呼吸音」

冬眠を忘れた熊はスピーカー・ケーブルの被覆を剥きながら出された料理を次から次に平らげた。

「最近、胃腸の調子が悪いので『熊の胆』を飲んでるんだ」
「そうじゃない。おまえの病いの根はもっと深く深刻だ。    長くねえぞ、このままじゃ」

そう言うと冬眠を忘れた熊はニンニクをアルミホイルに包んでオリーブオイルとともに蒸焼きにしたものを音を立てて食べた。

冬眠を忘れた熊は胸を張った姿勢を保ったまま、素手で出された料理を食べつづけた。冬眠を忘れた熊のがさつな振る舞いはいまにはじまったわけではない。それは冬眠を忘れた熊の誇り、矜持の表れでもあっただろう。

冬眠を忘れた熊が「冷酷」「傲慢」「乱暴者」「無作法者」だという噂を広める者たちはよく胸に手を当てるがいい。おまえたちは冬眠を忘れた熊を貶められるほどのことをしてきたのか? ただ狡猾、要領よく立ちまわってきただけではないのか? 敵前逃亡、戦線離脱した者たちを咎めることもなく、莫大な負債をたった一人で背負ったのは誰だったか? 冬眠を忘れた熊だ。飢えたカラスのような群衆にただ一人耐え、抵抗したのは誰だったか? 冬眠を忘れた熊だ。真冬の山で倒れた者を担いで麓の町まで運んだのは誰だ? 冬眠を忘れた熊だ。貧しき者たちを圧迫する為政者たちに抵抗の刃をただ一人向けたのは誰だ? 冬眠を忘れた熊だ。つぶしが利くというだけの理由で冬眠を忘れた熊に困難な仕事を押しつけたのおまえたちではないのか? 風向きが悪くなると冬眠を忘れた熊にすがりつき、風向きが変わると冬眠を忘れた熊に背を向けたのは誰だ?

おまえたちの現在の不遇はもはや冬眠を忘れた熊にはいささかも関係がない。私は冬眠を忘れた熊に対する世間の絶え間ない誹謗中傷にはこれ以上耐えることができない。我慢も忍耐ももはや限界だ。冬眠を忘れた熊はただきれいごとを避けてきただけだ。おまえたちは丸裸、赤剥けの魂を殺そうとしていることに気づかない。いや、冬眠を忘れた熊はすでに何度も死んだ。何度も死に、何度も生き返った。自分だけの力でだ。おまえたちはそのときなにをしていんだ? 冬眠を忘れた熊に助けられ、命拾いをしたおまえはなにをした?

傷。傷痕。傷跡。忘れてしまうほど古い。そして、途中で数えるのを断念してしまうほど多い。そんな「傷」をえぐりだされる出来事があった。これまでの人生において傷つけられたことを思い出し、傷つけたことを思いだす。それを避ける術を知らず、傷の意味もわからなかった。信用している人物がまったく別の顔を見せるのは恐ろしいことだ。私が悪いのだろうか。悪くないとしたら誰が悪いのだろうか。私は悪くない、相手も悪くない。すると、「ああ、まちがいだったのだな」と思うしかなくなる。まちがいだったとしても傷ついた原因を探しだすか作りだすかしないと納得できない。そこで、「生まれてきたこと自体がまちがいだったのだ」と問題の取りちがえを起こす。まちがいを「自分の存在」にまで還元してしまう。「なぜだ?」と問いかけることもできなかったし、誰かに打ち明けることもできなかった。明らかにすれば私の「世界」は崩壊すると思っていた。今でもそう思っているので私は沈黙する。語りつくせぬことについては完全な沈黙を守る。

久しぶりに愉快な食事だった。時計を見ると10時を少し過ぎている。二人とも3本のワインとスペイサイド・モルトの名品をブレンドしたダグラス・レインのScally Wagでやんちゃ坊主のように酔った。

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「さて、それではお星様でも眺めるとするか。天空の地平線をゆく星どもを。BGMはわかってるよな?」

オーディオ装置をセットし、部屋の灯りを落す。窓を開け放す。ウッドデッキに長椅子をふたつ並べる。iTunesで「星と月と人生」をキーワードにしたプレイ・リストをかける。冬眠を忘れた熊と並んで正面の東の夜空に眼をやる。リンダ・ロンシュタットの『When you wish upon a star』が流れはじめる。キース・ジャレット、ケニーG、ルイ・アームストロングとつづく。

北東から南東にかけた空に北斗七星、春の大曲線、春の大三角形がある。北斗七星の柄杓の先端から牛飼い座のアークトゥルス、乙女座のスピカをたどり、獅子座のデネボラへ。大三角形の頂点のデネボラから天頂に向かって視線を延ばす。途中、土星にちらっと眼をやる。デネボラの西に並んでいる星たちがつくる「獅子の大鎌」。1等星レグルスがひときわ輝いている。「獅子の大鎌」から左下にある四角形がライオンの胴体だ。デネボラはライオンの尻尾。胴体からは足も伸びているはずだが、けたたましい光があふれかえる街中で見るのは難しい。獅子の雄々しい姿を想像する。今夜はライオンの夢が見れたらいい。勇ましく夜空を駆け上がるライオン。一番好きな星座だ。昨年に続いて今年も土星が獅子座の中にいる。昨年は前足のあたりだったが、いまは後ろ足のあたりで輝いている。

しし座β星のデネボラがおとめ座のスピカにしきりにウィンクしている。そんなことをしたって無駄だ。とんがり屋さんの真珠姫はライオンの尻尾なんかに見向きはしない。真珠姫がへそを曲げないうちにやめておいたほうがいい。とんがり靴で蹴り飛ばされるのが落ちだ。真珠姫にあさっての方角にでもいかれたら、美しい大曲線も大三角形も台無しだ。麦の収穫に忙しい熊森が怒りださないうちにやめておくほうが身のためだ。

「デネボラの野郎め。相変わらず馬鹿なやつだ。身のほどもわきまえずに。大事なのは身のほどをわきまえるってことなのにな」

冬眠を忘れた熊の言うことはいつも簡潔で的確で正しい。

「おおぐま座とこぐま座の話を知ってるか?」
「うん」
「あれは悲しい話だ」
「そうだ。とても悲しくてつらい話だ」

ある日、ゼウスが森の妖精カリストに恋をする。やがて二人の間には男の子が生まれる。男の子の名はアルカス。これを知ったゼウスの妻ヘラは嫉妬に怒り狂い、カリストを熊にしてしまう。時が経ち、青年となったアルカスは森で大きな熊に遭遇する。アルカスは渾身の力をこめて限界まで弓を引き、狙いすまして矢を放つ。その熊はヘラに姿を変えられたアルカスの母親のカリストだった。一部始終を見ていたゼウスは驚く。カリストに矢が命中する直前にゼウスは二人を天へと昇らせる。母親のカリストがおおぐま座、息子のアルカスがこぐま座。以来、おおぐま座は子を思う母親のようにこぐま座の周囲を回りつづけている。この話にはいくつかの象徴的な問題が潜んでいる。ひとつはゼウスの「不倫」の問題。ふたつはヘラの「嫉妬」の問題。みっつは放たれた矢が命中するまでの刹那に救い出されるという「時間」の問題。ゼウスの不倫、浮気はいまに始まったことではない。手当たり次第である。大体、世界中の神話には神々の奔放な性が描かれている。親子婚。兄弟婚。いとこ婚。目眩がするほどゼウスを中心とする神々の相関図は混みいっている。混みいっているだけではなく欲望と嫉妬と思惑が坩堝の中で煮えたぎっている。人間どもの不倫だの浮気だのなど他愛ない。いざとなればゼウスの必殺技、最終兵器がある。そうだ。デウス・エクス・マキナ、機械仕掛けのゼウスだ。いざとなったらゼウスが現れてすべての問題を解決してしまうのだ。


「おまえは最高の友だ。まだ死んでほしくない。女房のことだってまだおれの中では決着がついていないってのにおまえにまで逝かれちまったらまたおれは元の木阿弥、修羅に戻らなきゃならない。もう人を生きたまま死人にするのも回復不能の傷を負わせるのもたくさんなんだ。だから、だから...もう少し生きてくれ。そして、おまえさんのうまいめしを月に一度は喰わせてくれ。な? いいだろう?]
「わかった。ありがとう、友よ」
「うむ。物わかりのいいやつだ。いい子だ」

それだけ言うと、冬眠を忘れた熊は代赭色の翼をおもむろにひろげ、北の方角へものすごいスピードで去っていった。風が冬眠を忘れた熊を押す。

「とにかく生き延びろ、冬眠を忘れた熊。おれも生き延びる。がんばれ冬眠を忘れた熊!」

叫んだが、風が容赦なくかき消す。風の中のライオンはふりかえらない。その後、冬眠を忘れた熊がどのような人生を生きたのか風の便りはない。そして、2000年10月11日の夕暮れどき、冬眠を忘れた熊からの伝言を携えて山岳犬ダフィーはやってきた。


***


間降魔賀市北部の無限台形地の中心を占める斜峰高原にあって、周囲を睥睨するがごとく傲岸不遜きわまりもない風情を醸しながらひと際高く聳える山。ひとはその山を「間の山」と呼び、間者や間の悪い者や間抜け者や間男どもを容赦なく放り込んだ。

人々は彼らを「マモノ」と呼んで激しく忌み嫌った。逢魔が辻を過ぎ、魔の刻を迎える頃になると間の山の麓から糸を引くような声や絹布を引き裂くような鋭く悲しげで、しかも狂気を孕んだ声が聴こえてくる。マモノたちの悲嘆と憎悪と愁訴の声だ。マモノたちからはいっさいの「間」が剥奪され、彼らはひとかけらの「間」もない亜空間に磔にされている。

古来、この種の刑罰は主に「天津神」に関わる悪事を犯した者に対して行われる咎、刑罰であった。『いろは歌』に歌いこめられた「咎なくて死す」という怨念はまさに「マモノ」として追放された者の怨み節である。

「魔」とは元々「間」のことであり、魔物は人と人の間、人の心の隙間に入りこむ物の怪のたぐいであった。人間とは「間のひと」、魔物なのだ。では人間を「間のひと」とみた者はだれか? そして、どこへ行ってしまったのか?

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さて、間の山の麓にはオーベルジュ・ル・リキューという名の埴谷自同律の不快式癲狂院が存在する。収容されているのは主に触法精神障害者である。閉鎖病棟ばかり42棟を擁する巨大な敷地には間の山から伐り出されたユグドラシルの巨木がイシス・ウルドの泉を模した最盛期チェネレントラ・ルネサンス様式の噴水を取り囲むかたちで聳え立っている。この噴水には「オー・ド・ヴィ」という名がついているが、収容されている患者たちは密かに「モリの泉」、すなわち「死の泉」と呼んでおそれている。なんとなれば、「モリの泉」こそはオーベルジュ・ル・リキュー内で秘密裡に行われている秘儀、「ヤーウェ・キノシソス」で生け贄にされ、王水によってどろどろに溶かされた患者の遺体(遺体? 液体のたぐいである)が流される場所だからである。

利休の待庵を模した茶室とみせかけた院長室ではきょうも「ヤーウェ・キノシソス」で生け贄にする者の選定が行われている。理事長、院長、事務長、婦長、警備主任。彼らは間の山からやってきたマモノたちである。そのことを知るのはごく限られた者だけだ。

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(参考)
いろは歌

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

いろはにほへ
ちりぬるをわ
よたれそつね
らむうゐのお
やまけふこえ
あさきゆめみ
ゑひもせ
 


***

山岳犬ダフィーは外形的にはワイヤーヘアード・フォックステリアだが、実態は影なき男の影あるいはエレクトロン・ホログラフィーであり、『タンタンの冒険』のスノーウィーの源初の記憶のゆらぎであり、イーアルサンスーシへのアンチテーゼ乃至はジンテーゼもしくはキドニー&アイボリーであり、世界のありとあらゆるファンダメンタルズのスペクトラル・デンシティがフリーケンシーfにインヴァース・プロポーションするフラクチュエーション(1/f)である。

性別不明。動物学者や生物学者や獣医師が手をつくしてもDNA解析を駆使してもわからないばかりか、X染色体もY染色体もないことが判明している。キメラであるとの見方もできるが、真実はウィリアム・ホレーショ・パウエル藤村が華厳の滝に身を投じるにあたって記した『巌頭之感』にアナグラムのかたちで述べられている。ウィリアム・ホレーショ・パウエル藤村が遺書を刻んだミズナラの樹こそが山岳犬ダフィーである。すなわち、ホラティウスの快楽主義を批判するためにこそ山岳犬ダフィーは存在する。山岳犬ダフィーはウィリアム・ホレーショ・パウエル藤村を自死に追いやった愚陀仏則天去私屋夏目金之助漱石のDNAに刻まれた「権威主義」「傲岸不遜」「威丈高」を憎む。「寝取り屋がなにをぬかしやがる」というのが山岳犬ダフィーの言い分である。

山岳犬ダフィーの生殖器はあるともないとも言える。オアンユ・スピリッツ/スピリチュアル・オアンユ二ティである。生殖器だけではない。山岳犬ダフィーは存在自体が不確定性のうちにある。生きているとも生きていないとも言える状態。言うなれば山岳犬ダフィーはシュレディンガー・ドッグ/量子のゆらぎ犬である。あるいはパラドクス・ドッグ。そのようなことから考えれば山岳犬ダフィーは永遠の命を持つ稀有な存在である。永遠に死なない犬。それが山岳犬ダフィーだ。虹の橋/海と空と大地が出会う場所に行くこともない。あるいはいつも虹の橋/海と空と大地が出会う場所にいる。
 
by enzo_morinari | 2018-07-16 17:30 | 山岳犬ダフィーの冒険 | Trackback | Comments(0)

コアントローポリタンの女

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どこにも行きたくない者にとっては世界のどこであろうと地の果てだ。E-M-M


電話の呼び出し音。世界の果てにあるヒッコリーの森の木樵小屋からだ。木樵の家族の笑い声。薪割りの音。小鳥たちのさえずり。しかめっ面をした騎兵隊長のナッツクラッカー大佐がクルミを割っている。ヒッコリーの老木が倒れる音もする。

夢か? いや、すべてが夢というわけではない。電話は確かに鳴っている。神経を逆撫でする呼び出し音が少しずつ大きくなる。眠りが醒めてゆく。しかし、眠りは充分ではない。もっと眠れ。眠りつづけろ。起きるな。世界の果ての森から、そう命じる者がいる。ヒッコリーの森の番人だ。このままでは1日が台無しになってしまう。たいていのことは1本の電話から悪い方向に向かうのだ。

重い泥濘の底から錆ついた意識が徐々に浮かびあがってくる。頭が痛む。ずきずきする。目蓋が重い。熱い。沸騰寸前。眼球が飛び出しそうだ。首筋が少し焦げている。やけどでもしたのか? ピンク・ドラゴンに火焔を吹きかけられたか? それとも、地獄の業火に焼かれたのか? 焼きたてのピッツァ・クワットロ・フォルマッジをぶつけられたのでなければいいが。あれはあとで臭くていけない。洗濯屋のおやじの仏頂面など見たくない。嫌味ったらしいうえに退屈な軽口を聞かされるのも御免だ。ぶつけられるならピッツァ・マルゲリータがいい。O Sancta Simplicitas! なにごともSimple is Bestだ。さらに電話の音は大きくなる。

ひどく喉が渇いている。唾も出ない。口の中にゴビ砂漠でも入っているようだ。月の出ていないざらざらした舌の上を2頭のフタコブラクダが通りすぎる。砂漠の商人たちのキャラバン隊は喉仏を越え、オアシスを目指して先を急ぐ。

死ぬ前の幻覚か? こうやって人間は死んでゆくのか? なんて死に様だ。大脳と小脳が脈打つ。O.K. 死神さんよ、いつでもいいぜ。心残りはいくつかあるが、一番残念なのは世界の終わりを見届けられないことだ。あとのことはひと山いくらで叩き売るがいい。死ねば「世界の終わり見届け同盟」も即刻解散だ。

猛烈な吐気が襲ってくる。地獄の亡者どもが胃を鷲づかみにしている。吐気と痛みに思わず唸り声が出る。すべては昨夜飲んだスピリタスのせいだ。

スピリトゥス・レクティフィコヴァニ。ポーランドの火の酒。世界最高純度のニュートラル・スピリッツ。無水アルコールまであと3歩。いや、2歩。

「燃料」と「危険物」の表示がある。火の酒どころか、悪魔の酒だ。ポーランド西部ヴロツワフのポルモス・アクワヴィト蒸留所製。アクワヴィト? 生命の水? 冗談じゃない。死の水だ。alc/vol 96%の酒など飲むものではない。人生をまっとうに平穏無事にやりすごしたければ飲んではいけない酒だ。それを1本半。マイク・ハマーはギャングの手下にスピリタスで酔いつぶされた挙句にイースト・リバーに投げ込まれ、魚のエサになりかけた。マイク・ハマーよ。あんたに悪運がなければ二度とヴェルダの「100万ドルの脚線美」は拝めなくなっていたところだぜ。ずいぶんと肝を冷やさせてくれたものだ。

ニューヨーク市マンハッタン三番街西24丁目レキシントン大通りのマイク・ハマー。よく聴け。大審問官はスピリトゥス・レクティフィコヴァニだ。裁くのはあんたじゃない。毒蛇もそうそう隙を見せはしない。

He will kill you, Deadly. 血にまみれた手を広げてよく見るがいい。もはやあんたの手の中に「復讐」の二文字はない。小石の礫で巨人ゴリアテの骨は軋み、若い羊飼いに首を刎ねられる。戦いは剣と槍の力だけで決するとはかぎらない。剣とサンダル。槍と知恵。闇に支配された裏通りは血まみれの夜明けとともに赤く染まる。デルタ係数が冷厳冷徹に死者をカウントする。手加減はない。容赦もない。些細なことで銃弾の日々は永遠に終わりを告げる。もう愛しき者の接吻は燃えない。大いなる殺人のあとには大いなる眠りが待っているものだ。

電話の呼び出し音はさらに大きくなる。そうか。明方近くに帰ってきて、着替えもせずにベッドにもぐりこんだのだ。少しずつ記憶がよみがえってくる。ほかの記憶は失っても、飲んだ酒の種類と飲んだ酒の量は忘れない。特技と言っていい。いったい今は何時なんだ? 眼がかすんで時計の針が読み取れない。いい年齢をしてまったく馬鹿な飲み方をしたものだ。

思いきってベッドから抜け出し、キッチンに向かう。電話は鳴りつづけている。悪意さえ感じる。ほっておけ。今日は臨時休業にする。美人秘書もモーレツ社員も命知らずの手下もいないがボスはこの私だ。ルールは私が決める。私が掟だ。

冷蔵庫を開け、『ジャールートの泉の水』を取り出して飲む。1ℓをいっきに飲みほす。もう1本出して半分飲む。生きかえる。死にかけていた細胞どもが息を吹きかえす。

ジャールートの泉の水 ── 素晴らしい水だ。「生命の水」と呼ぶにふさわしい。木っ端役人どもにいいように操られて棺桶に片足を突っ込んだ国の放射能まみれの水とは大ちがいだ。

正しいプリンシプルとまともな神経の持ち主は姑息で卑劣な木っ端役人どもが好き放題やっているGDP世界第3位(PPP世界第19位)の国の水など飲むべきではない。原理原則が揺らぐ。魂が腐る。そんな水がふさわしい輩はほかにいくらでもいる。

『ジャールートの泉の水』はカサブランカの旧市街で酒場を経営するモロッコ人の戦友が送ってくれた。

時代が変わり、世界が変わり、時がいくら過ぎゆきても、
我々の友情に潤いと信頼とアッラーの思し召しが常にありますように。
As Time Goes By & Here's looking at you, Kid!


へたくそな手書きのメッセージが記された『カサブランカ』の絵葉書付き。砂漠の民の友情は歳月を経ても変わらない。

エマヌエル・カントが不寝番をしていそうな殺風景な仕事部屋に入る。ブラインド越しにふやけた陽の光が射し込んでいる。デスクの椅子に座る。電話はまだ鳴っている。鳴り響いている。しつこい奴だ。喧嘩でも売っている気か? 喧嘩ならいつだって買ってやる。

「黙れ! とっとと失せやがれ!」

怒鳴りつけても凄んでも電話は鳴りやまない。鳴りやむ気配もない。しかし、電話には出ない。今日は臨時休業と決めてある。すでにロング・バケーションの真っ最中だ。ミスター・ペーパーバックに変身して、パンナム・エアのアトランティック・バード号でニュープロビデンス島に乗り込み、海岸でモヒートをちびちびやりながら『ナッソーの夜』を読むのだ。そのあと、アンドロス島のウェルター級アマチュア・チャンプだった男がやっているレフトフック・バーで島一番のギムレットを2杯飲んでから、夜はブルネット・グラマーとお愉しみという筋書きだ。

スー族の勇者、稀有なる男、クレイジー・ホースになるという手だってある。質素な身なりをして、何者にも腕をつかませず、自分のための物は持たない。弱き者を助け、貧しき者に分け与える。不思議な力を持つ石は耳の後ろに挟んである。リトル・ビッグホーンで262人の男たちを死に追いやった見栄っ張り大馬鹿長髪野郎のカスター中佐は何度でも地獄に送ってやる。老いぼれのクルック将軍はパウダー川に放り込む。そして、最後はロビンソン砦に突撃だ!

「ホカ・ヘー! おれにつづけ! 今日は戦うにはいい日だ! 死ぬには手頃な日だ!」

しかし、電話は鳴りやまない。人生、そうそう思いどおりにはいかないものだ。しかたなく受話器を取る。聞いたことのない外国語 ── たぶん、外国語だ ── で嗄れ声の女がまくしたてる。女の声がびりびりと鼓膜に響く。

何語だ? ラテン系か? エスペラントではない。エウスカラでもない。ヴォラピュク語か? ソルレソル語? 面倒なので思いつくかぎりの肯定の言葉を並べてやる。イエス、ウィ、シー、スィン、ヤー、ダー、アノ、マリスタ、ヌダロギ、ンディヨ、エヴェット、ホウッケノ、ジハ-ン、キュッラ、ダウモ、スウィマ、スウェン、ティ-ム、ズ-ガッ、ハイ、モケソケ ──。

「モケソケ」と言ったところで、「オキュオキュ」と明るい声が返ってくる。トレーン語だったのか。突然、電話が切り替わり、馴染みのある言葉が耳に飛び込んでくる。

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聞き覚えのある声。1週間前になにも告げずに姿を消した女だ。私の声を聞いたとたんに女は電話口で泣きはじめる。ひとしきり泣くと、次は怒鳴る。叫ぶ。酔っている。ひどい酔い方だ。いったい、どれくらい飲めばそれほど酔うのか。もちろん、私が言えた義理ではないが。

女はありったけの罵詈雑言を交えて私の不実をなじる。責め立てる。たぶん、私がなにか悪いことをしたんだろう。私はよく悪いことをする。悪い人間だと言われる。いまに始まったことではない。急に女が黙りこむ。PCを起動する。HDを読み込む小気味いい音。目蓋に熱っぽさは残っているが意識は冴え冴えとしている。酒の酔いと電話口で泣く女のこと以外はきれいさっぱり頭の中から追い出したせいだ。電話の向こう側から街の音が聞こえはじめる。

エンジン音。クラクション。ブレーキ音。衝突音。駅のアナウンス。駄々をこねる子供。雑踏。雨音。爆発音。怒鳴り声。また別の怒鳴り声。犬が吠える。罵り合う声。また別の罵り合う声。ゲンスブールの古い歌。サイレン。生きている街の音。時報。2時だ。ゲンスブールの別の古い歌。

女は一体全体どこから電話してきてるんだ? いまどき、ゲンスブールの歌が続けて流れる街などこの世界にあるのか? そんな街は決定的になにかが狂っている。大事なネジが何十本も抜け落ちている。生きていくうえで絶対に必要な大切ななにものかが欠落している。住んでいるのは裏切りと背信と不道徳をなんとも思わぬ恥知らずばかりのはずだ。

恥知らずほど手に負えない者はいない。恥を恥と思わない者に比べれば愚か者のほうが経験から学ぶ分だけまだ救いがある。恥知らずどもがいくら乙にすましていてもおまえたちのやってきたことはすべてお見通しだ。

女の泣き声がまた聞こえはじめる。泣きじゃくる。女の繰り言。溜息。悲鳴。懇願。猫なで声。怒鳴り声。沈黙する私。さらに沈黙する私。雨音が大きくなる。泣き声も大きくなる。泣き声がやむ。女が息をのむ音。女が口を開く音。

「帰りたい。どこでもいいから、いますぐ帰りたい。ここはひどい街」
「いま君はどこにいるんだ?」
「遠いところ。すごくすごく遠いところ。あなたに言ってもわからない」
「ニューヨークも遠いし、パリも遠いし、ニュープロビデンス島も遠いし、ロビンソン砦も遠いし、チェルノブイリも遠いし、トーキョーも遠いし、たぶん冥王星はもっと遠い。いまの僕には眼の前のセブン-イレブンだって遠いよ。どこにも行きたくない者にとっては世界のどこであろうと地の果てだ」
「混乱させないで」
「君は初めから混乱してたじゃないか」
女がなにかを飲む音。耳を澄ます。女はなにかを飲んでいる。
「いま、酒を飲んだな?」
「そうよ。フレッシュ・レモンとクランベリー・ジュースとコアントローのノワールとクラッシュ・アイスを混ぜたものを飲んだの。『S & TC』のキャリー・ブラッドショーがいつも飲んでいるカクテルよ」
「『S & TC』ってなんだ? キャリー・ブラッドショーって誰だ?」
「『Sex and The City』よ。アメリカの人気ドラマ。キャリー・ブラッドショーは『S & TC』の主人公。サラ・ジェシカ・パーカーが演ってるの」
「知らないね。知りたくもない。どうせ、恥知らずな女が恥知らずなことをする罰当たりで破廉恥な話だろう? そして、酒屋には恥知らずな酒ばかりが並んでるんだ。醸造用アルコールたっぷりのな」
「見たこともないのにどうしてそんなことが言えるのよ」
「見なくたってわかる。鼻だけはよく利くもんでね」
「いいから黙ってあたしの話を聴いて」
「朝陽のように爽やかで、明るい表通りに面したオープン・テラスの店で二人でお茶を飲みたくなるくらい気分がよくて、夢見のいいのを頼む」
「この街ではね、コアントローポリタンでは『Sex and The City』を毎週見て、いつもこのカクテルを飲んでなきゃいけないのよ。そういう決まりなの」
「そんな馬鹿げた話があるもんか。コアントローポリタンなんて街は聞いたこともない。これまでに世界中をほっつき歩いてきたこの僕がだ」
「馬鹿げてても本当のことなんだから仕方ない。あなたが知らなくてもコアントローポリタンは実在するし、『Sex and The City』を毎週必ず見る人たちがいるの」

コアントローポリタン」をネットで検索する。767件のヒット。「COINTREAUPOLITAN」でも検索。22200件のヒット。

カクテルの名前じゃないか。馬鹿馬鹿しい。老舗のコアントローもどうかしてる。鼻持ちならない広告屋だかプランナーだかのボンクラどもにまんまと乗せられて、がっぽりふんだくられた挙句の馬鹿馬鹿しいパブリシティものにすぎない。ひとかけらの価値もない。

フレッシュ・レモン? クランベリー・ジュース? ヘミングウェイもフィリップ・マーロウも飲まないカクテルであることだけは確かだ。見向きすらしまい。リップ・ヴァン・ウィンクルさえ鼻白む。マイク・ハマーなら袋だたきのうえに鉛の弾を弾倉が空になるまで撃ち込む。

「話はわかったから帰ってきなさい。そして、酒を飲むのはもうやめるんだ」
「あなたにあたしの何がわかるっていうのよ。うだつの上がらない中年のアル中には何も言われたくない」
「そうか。それなら、好きにするがいいさ」
「リップ・ヴァン・ウィンクルなんかに負けない。負けるもんですか ── 」

電話はそれで切れた。

コアントローポリタン」について調べる。ディータ・フォン・ティース? 恥知らずの馬鹿女じゃないか。別れた元旦那はマリリン・マンソンとかいう虫酸が走るような下衆野郎だったはずだ。お似合いといえばお似合いだ。変態ポルノを見せつける親戚? 服を脱がせて囚人ゲームに興じる隣人? ベトナム戦争で一般市民を殺した父親? 地下にマスターベーション部屋をつくっていた祖父? そんなものはいまどきセブン-イレブンのレジ横に山積みで置いてある。

トラウマを売り物にする奴にろくな者はいない。スピリタスを2、3杯も飲めばすぐにも忘れてしまう程度のつまらぬことを後生大事に抱え込んだ上に他人に見せびらかす類いだ。どれほど大きくて深い傷であろうと、傷も傷痕も誰にも見えないようにひっそりと隠しておかなければならない。それが人生の流儀、作法というものだ。世界に対して同情を要求する資格があるのは、夕闇迫る雨のバス停で傘もレインコートもないまま震えて立ちつくす女の子だけだ。

また電話が鳴る。受話器を取る。さっきの嗄れ声女だ。

「モケソケ」
「オキュオキュ」

すぐに電話が切り替わる。街の音。女の荒い息づかい。息のにおいと熱までが伝わってきそうだ。

「助けて」
「どうすればいい?」
「とにかく助けて」
「だから、何をすればいい?」
「こうして話してくれるだけでいい」
「電話代が高くつきそうだな。これ、コレクトコールだろう?」
「電話代がなによ! あたしがいままであなたにどれだけつくしてきたか考えたこともないくせに!」
「わかったよ。コアントローポリタンの話を聞かせてくれ」
「あたしの話をちゃんと聞いてくれる?」
「聴くさ。ちょうど退屈しはじめたところだし」
「あたしを退屈しのぎに利用するってこと?」
「まあまあ。そう尖るなって」
「コアントローポリタンに着いた日に、観光案内所でピンク色の小さなトランクをもらったのよ。コアントローポリタンに来たら誰でももらえるの」

ピンク色のトランク・ケース? ひどい趣味だ。目の前に300kgの金塊を積まれてもお断りだ。

「中になにか入ってたのか?」
「もちろん。コアントローのノワールとブランが1本ずつ。シェイカーとカクテル・グラスとロング・グラス。それとディータ・フォン・ティースのDVDも。トランクは彼女の直筆サイン入りよ」
「そんなもの、いますぐ捨てちまえ」
「捨てられるわけないじゃない。そんなことしたら、すぐに捕まっちゃうわ」
「君の話はどこまでが冗談で、どこまでが本気なんだか、さっぱりわからない」
「全部本気で本当よ」
「コアントローポリタンではコアントローポリタンを常に飲んでなけりゃいけなくて、薄気味の悪いピンク色のトランク・ケースを捨てると逮捕されてしまうというのもか?」
「そうよ。それだけじゃない。コアントローポリタンでは世界中のあらゆる言語が通じない時間帯が1日のうちに3回あるのよ。すごく不便。コアントローポリタンの通りには ── 」

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女は喋りつづけているが机の上にそっと受話器を置く。とても素面では聞いていられない。酒の用意だ。ここは誰がなんと言おうとスピリタスとコアントローにする。食器棚からグラスとペイルを出す。冷凍室から氷を出す。氷をペイルにぶち込む。

音楽をかけよう。なにがいい? リー・ワイリーの『Night in Manhattan』だ。小さな音で。ごく小さな音で。リー・ワイリーの『Night in Manhattan』を繰り返し聴けば、気分はいまよりずっとよくなるはずだ。

いままでだってそうだった。リー・ワイリーの『Night in Manhattan』のおかげで最終の銀座線に飛び込むのを思いとどまったことさえある。恋のいくつかが成就するのにも貢献してくれた。贅沢を言わなければ、そしてほんの少し工夫すれば ── 聴く音楽をなににするかという点についてちゃんと考えるというような些細なことで ── 人生のあらゆる局面は幾分かでも気分のいいものにできる。酔っぱらって訳のわからないたわごとを延々と喋りつづける女の長電話に付き合わされる類いの困難な局面さえもだ。そのちょっとした工夫をしないのは、生まれついての怠け者か救いようのない愚か者だ。

ブラインドを閉じる。照明はつけない。アンプリファイアーの真空管の光で充分だ。

McIntosh MC275 のスウィッチを入れる。電気という血液を流しこまれた4本の Western Electric KT-88 Vintage がゆっくりと焦らすように色づいていく。艶かしい。ロシア製の KT-88 のときは音がザラついて聴けたものではなかった。1週間前、WE社製の KT-88 にチューブ・ローリングした。耳を疑うほど音の艶と透明感に差がある。エージングが充分ではないのでやや御機嫌ななめだが、時間の経過とともに本来のパフォーマンスを聴かせてくれるはずだ。

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Play it. 1曲目は『Manhattan』。1950年、マンハッタン島ミッドタウン東52丁目フィフス・アヴェニューのリー・ワイリーが歌いはじめる。まだジャンキーもショッピングバッグ・レディもホームレスもいない頃のフィフス・アヴェニュー。数多くの矛盾と困難と困憊を孕みつつもアメリカにはまだ「ドリーム」が存在し、「希望」とやらが世界に対してなにがしかの力を有していた時代だ。

モノーラル録音。音質は悪い。ノイズも多い。ややハスキーで愁いを含んで仄かに甘い歌声。小粋で洒落たフレージング。独特のヴィブラートが心地いい。そして、なにより気品がある。いまどきの DIVA やら歌姫やらの有象無象には望むべくもない気品だ。ヘレン・メリルが「ニューヨークの溜息」なら、さしずめリー・ワイリーは「マンハッタンの吐息」だろう。

ジャケットを手に取る。ドレス・アップした男女のモノクロ写真。一緒に夜のマンハッタンを歩いているような気分になる。ジョージ・ガーシュインやアービング・バーリンのスタンダード・ナンバーもいい。サイ・ウォルターの上品で洗練されたピアノ。ボビー・ハケットの哀愁を帯びたコルネット。文句のつけようがない。

ビリー・ホリディは年に1度か2度でいい。エラ・フィッツジェラルドはときどきうまさが鼻につく。しかし、リー・ワイリーはエブリデイ・エブリタイム・オーケイだ。

ノックの音。3回。少し間を置いて2回。誰だ? スケジュール表を見る。依頼人だ。キャンセルはできない。急いで玄関に向かう。ドアを開ける。眼の下に濃い隈を貼りつけた男が立っている。女房に逃げられた男だ。男を招き入れる。仕事部屋に入る。ソファをすすめる。

「奥さんからその後連絡はありましたか?」
「はい」
「ほお。それは驚きだ」
「私も驚いています」
「このあとのご予定は?」
「特にありません。家に帰って、一杯飲んで、食事をして、寝るだけです」
「よかったら、いっしょに飲みませんか? お話しは飲みながらでも」
「いいですね」

男のグラスを用意し、私が飲んでいるのと同じものを作る。

「スピリタス & コアントローです」
「大好きです」
「本当に? 冗談でしょう?」
「いえ。家ではいつもこれです」

男はグラスを手に取り、揺らし、香りを嗅ぎ、口をつける。かなりの酒飲みだ。一連の動きでわかる。曲が『How Deep is The Ocean』にかわる。

「リー・ワイリーですね。大好きです。女房も大好きでした ── 」
「気が合いますね。すみません。いまちょっと電話中だったもので。済ませてしまいますから飲んでてください」

受話器を取る。

「あたしをほったらかしにしてどこに行ってたのよ。事件でも起こったのかって心配しちゃったじゃない」
「ちょいとした野暮用でね」
「ねえ。すごく恐い。街中がクリスタライズ・スワロフスキー・エレメントだらけなの。全身をローズ・アラバスターのスワロフスキーで飾り立てた女の人ばかりよ。みんな黒髪で、左目尻の下あたりに付けボクロしてるし。あちこちで輪になってバーレスクを踊ってる。どうなっちゃってるんだろう」
「これから君を血祭りに上げたあと、丸焼きにして喰っちまおうって魂胆さ」
「やめてよ!」
「やめないよ」

コアントローポリタンもピンク色のトランク・ケースもスワロフスキーも黒髪も付けボクロももうどうでもいい。それらは私の世界とはちがう世界のことであり、女の事情だ。

グラスに氷を放り込み、スピリタスとコアントローを同時に注ぐ。肩と顎の間に挟んだ受話器が落ちそうになる。大ぶりのグラスになみなみと注いだスピリタスとコアントローを半分ほどひと息で飲む。悪魔の雫が胃から血管を伝い、全身に広がっていく。

「あなたも飲んでるの?」
「いま飲みはじめた」
「ギムレット? マティーニ?」
「いいや。カクテルなんて手間のかかる面倒なものじゃない」
「わかった。マイヤーズ・ラムね」
「ちがう。スピリタス & コアントローだ。昼間から往来で酔いどれているコアントローポリタンの女を相手に長電話をするにはお似合いだろう」
「スピリタスはやめときなさい」
「世界中のスピリタスとコアントローを全部飲みつくしてやるさ」
「懲りないひと」
「そのうち、聖なる酔っぱらい帝国の皇帝になってみせるからたのしみに待ってるんだな。メイドか召使いか洗濯女でよければ雇ってやるよ」
「せめて秘書ぐらいにしてよ」
「お生憎様。秘書はすでに100万ドルの脚線美をもった仏文科出たての可愛らしいお嬢さんが面接待ちだ。眼の前のソファに座ってあくびをしてる。いま、ブラウスのボタンをひとつ外したところだ」

男にウィンクする。男は必死に笑いをこらえている。

「バカッ! あなたって最低の男ね!」

また電話が切れる。

「済みました」
「お忙しいようでしたら出直しますが」
「お気になさらずに。用件をさっさと片づけてしまいましょう。で、奥さんですが ── 」
「なんでも、現在コアントローポリタンという街にいるそうです。帰りたいけれども帰れないと。すごく恐ろしい目に遭っているようです」

自分のグラスと男のグラスにスピリタスを溢れるほど注ぐ。コアントローは必要ない。コアントローなどもうたくさんだ。スピリタスを2本も飲めばすべての災難と厄介事はきれいさっぱり消え失せるはずだ。1950年、マンハッタン東52丁目フィフス・アヴェニューのリー・ワイリーが囁くように歌っている 。ときに、静かに沈んでゆくことも必要だ。

Whether you are here or yonder
Whether you are false or true
Whether you remain or wander

Oh, how I'd cry,
If you got tired,
And said Good-bye

More than I'd show,
More than you'll ever know ──


(To Be COINTREAUED)


More Than You Know - Lee Wiley

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by enzo_morinari | 2018-07-16 16:10 | コアントローポリタンの女 | Trackback | Comments(0)

オアンコもスピリッツもニオイだ! ビバ! オアンコ・スピリッツ!

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ウィスキー、ブランデー、ウォトカ、スピリタス、ジン、焼酎を水で薄める薄らバカがいる。溺れて死ねばいいのに! ディキシーランド・ジャズの対極で溺死すればいいのに!

オアンコもギュードンもおつゆたっぷりがいい! ビバ! オアンコ・ギュードン! ギューギュー、サイコー!
 
by enzo_morinari | 2018-07-16 16:05 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

忘れえぬ喰いもの ── 隠し味は一粒のダイヤモンド/La Mère et La Mer 母なる海の日に寄せて

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中学2年の秋。

「塩の、お、むす、び、と、プ、レー、ン、オ、ムレ、ツ、と、冷た、い、だ、い、こ、ん、と、おと、うふ、と、あ、ぶらげ、の、お、み、お、つけ、が、食べ、た、い」

死の床で母親は息も絶え絶えに言った。片手で持てるくらいに小さくなった母親の小さな言葉は秋の初めの薄闇の中にゆっくりとゆっくりと消えていった。

私は仲たがいしている隣家に出向き、事情を話し、下げたくもない頭をなんべんも下げ、米と味噌と玉子と煮干しと大根を借り、町外れの豆腐屋まで自転車を飛ばし、豆腐を半丁と一枚10円の油揚げを頼みこんで半分だけ買った。

めしを炊き、大根を刻み、油揚げを刻み、豆腐を賽の目に切り、煮干しで出汁を取り、玉子を割り、味噌を裏漉しし、にぎりめしを握った。溢れでそうになる涙をこらえながらの作業は困難を極めた。

口を満足に開けぬほど衰えた母親が食べられる大きさのにぎりめしを握るには私の手は大きすぎた。私は寿司を握る要領で俵型のにぎりめしをひとつだけ握った。炊きたてのめしはひどく熱かったが、その熱さは母親のぬくもりとも思えた。思いたかった。

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すっかり支度ができあがり、寿命寸前、最後の唸り声をあげる日立の旧式ポンコツ冷蔵庫から大根と油揚げの味噌汁を取り出した。そして、にぎりめしと玉子1個で焼いたオモチャみたいに小さなオムレツと冷やした大根と油揚げの味噌汁をひびの入った鎌倉彫りの盆にならべ、母親を抱き起こし、少しずつ少しずつ食べさせた。母親が食べることのできた総量は私の掌の一握りにも満たないわずかなものであったが彼女は満足げだった。

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「おいしい。すごくおいしい。ありがとう。ありがとう。ありがとう.....」

母親は言い、久しくみせることのなかった輝くような笑顔をみせた。その笑顔は薄闇に浮かぶ椿の花のようだった。翌日、母親は春の陽炎のようにひっそりと息を引き取った。その生は波乱と忍従と孤独と困難と困憊に彩られていたが、安らかな死であることを願った。いまも願う。

以来、にぎりめしを握ることも、オムレツを焼くことも、冷たい大根の味噌汁を作ることもない。もちろん、寸分たがわずに再現することはできる。再現することはできるが、あのときの「最後のひと塩」に値する一滴、一粒は再現できない。「最後の晩餐」「ダイヤモンド」はたった一度、たった一粒だからこそ価値がある。

人は生まれ、生き、喰い、死ぬ。単純きわまりないが、そこには深淵、困難、そして慈味、慈愛がいくつも潜んでいる。つまり、どのような人生であれ、相応の「味わい」が用意されているということだ。

人が一生のあいだに食卓に向かう回数は8万回にも及ばぬ。私に残されたのは2万回足らずの食卓だ。残ったすべての食を「一期一会」「最後の晩餐」と覚悟を決めて喰らおうと思う。もちろん、最高の隠し味は空腹、そして、予告なくこぼれ落ちる一粒のダイヤモンドである。


母のうた
(補遺)

ガッカイ歌だろうが軍歌だろうがチンピラ音楽だろうがオンチだろうがウンチだろうがウツボだろうがウツケだろうがモモイロだろうがピンクだろうがムラサキだろうがボーコーだろうがコーボーだろうがショーガイだろうがブスだろうがトリカブトだろうがソーカだろうがオームだろうが童話だろうがZ日だろうが893だろうがいいものはいい。話は簡単である。
 
by enzo_morinari | 2018-07-15 09:52 | 忘れえぬ喰いもの | Trackback | Comments(0)

成熟と喪失 ── はるか遠い日の夏の思い出

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我は悲の器なり 我において何ぞ御慈悲ましまさずや Gen-Shin
我が心は石に非ず 転ずべからず Shi-Kyo
末世の衆生に親子のかなしみ深きこと Kon-Jaku
天人五衰の悲しみは人間にも候けるものかな Hey-Ke
生あるものは必ず滅す 楽しみ尽て悲しみ来る Hey-Ke
汚れつちまつた悲しみに 今日も風さへ吹きすぎる Chu-Yah

日本ですごす最後の夏になるので、ずっと夏にまつわることを考えている。夏のにおい、夏の色、夏の音、夏の風景、夏のかなしみ。そして、夏の思い出。さよなら、日本の夏ということである。

夏の思い出』(江間章子作詞/中田喜直作曲)はこどもの頃から好きな歌だった。歌詞もメロディもいい。夏の盛りがやってきて、入道雲が湧きあがった空を見ると『夏の思い出』を口ずさんでいる。

しかしながら、こどもの頃、夏は苦手だった。夏の暑さと湿気がつらかった。いまからは信じられないことだが、私は腺病質のこどもで、同級生が夏の訪れを心待ちにしてはしゃいでいるのを横目で見ながらだれにも気づかれないようにため息ばかりついていた。夏休みが来てもちっともうれしくなかった。市民プールのそばを通ると胸が疼くように痛んだ。水しぶきの音や歓声や笑い声が鋭利なナイフとなって侵入し、私の中のなにもかもをズタズタに切り刻んだ。蟬しぐれさえ悪意の棘の塊りに感じられた。夏はなにかしらの実体をともなって突き刺さってきた。夏休みは空を見上げて雨の気配を探り、雨を心待ちにする日々だった。夏のあいだ、にわか雨や夕立ちは私にとってはかけがえのない救いの慈雨/恵みの雨/Gentle Rainに思えた。

春も夏も秋も冬も週に1度は熱発を起こしていた。40度の発熱はざらだった。最高は42度。世界がグニャグニャに歪み、のたうちまわって見えた。よくぞ生き延びたものだ。

エアコンなどまだ普及していない時代。窓を開け放し、カタカタと異音を発する日立のうぐいす色の扇風機をつけっぱなしにして部屋にこもり、本を読んだり考えごとをしたり言葉あそび(宇宙しりとり/回文/アナグラム/空耳/地口)をしているうちにいくつもの夏が過ぎていった。

そんな私がひと夏の冒険旅行に出たことがある。小学校5年の夏休みのことだ。私はその当時、あるよんどころのない事情で母親から離れ、一時的に生物学上の父親のもとで暮らしていた。

生物学上の父親はそのころ羽振りがよく、有栖川宮記念公園にほど近い元麻布に豪邸をかまえ、「闘う家長」として彼の両親、彼の妻の両親、兄弟姉妹、そして子供たちとともに暮らしていた。

居心地は最悪のはずだったが彼らは私を大歓迎し、愛でた。それでも、こども心にも自分が場ちがいなところに転がりこんでいることはわかっていた。しかも、私が世界で一番憎み、いつか殺してやろうとさえ考えている男の家に。

私は極力彼らと顔を合わさぬように食事や入浴や用便のとき以外は図書室のある地下に逃げこんでいた。食事を図書室に運んでもらったりもした。のちに恋愛関係となる生物学上の父親の妻は私のわがままをいやな顔ひとつせずに聞きいれてくれた。図書室は内側から鍵がかけられたので好都合だった。なにより、蔵書の質と量がすごかった。

学校や町の図書館の本はあらかた読んでいたので新しい本に飢えていた。そんな中、図書室で小田実の『何でも見てやろう』をみつけ、夢中で読んだ。『何でも見てやろう』を読み進みながら一刻も早く旅に出なければならないと私は思うようになっていた。

私が冒険旅行を宣言したとき、生物学上の父親とその家族どものほとんどは猛反対したが、いつも私をからかってばかりいた腹ちがいの兄公(ニコ)だけが唯一味方についてくれた。その当時、ニコは東大仏文科の学生で、孤立無援の一匹狼としてきな臭い日々を送っていたように記憶する。

顔は青ざめ、頬はこけ、眼だけがぎらついていた。長めの前髪がいつも顔にかかっていた。おおかた、『異邦人』のムルソーだか『罪と罰』のラスコリニコフだかを気取っていたのでもあろうが、男っぷりはそこそこのもので、家に連れてくるガールフレンドは美人ばかりだった。そんなニコは私の冒険旅行をめぐる家族会議のあいだ私のすぐ横にいてずっと私の背中に手を置き、さすってくれた。そして、「負けるな」「やっつけてやれ」と小声で私を励ました。最高の応援歌だった。

やると決めた以上、だれが反対しようが問題点/瑕疵/不合理を指摘されようが異議を唱えようが邪魔をしようが妨害しようが決行し、実現するという私の気質はこの頃にはすでにできあがっていて、綿密な旅程表と装備品リストと「旅の目的」をもとに手加減なし容赦なし譲歩なしで反論するともはや異を唱えられる者はいなかった。

旅の目的はただひとつ。なんでも見ることだ。じかに見て聞いて嗅いで味わって触って感じること。私が求めていたのは手づかみ/赤むけのリアルだった。それは今もなんら変わっていない。変えない。

大のおとなどもを説き伏せたときのうれしさ。そして、ニコの満足げな表情はいまも忘れえぬ。

出発の朝、大きくて重いリュックサックを背負い、だれにもなにも告げずに家を出た。見送りはない。見送りなどいらなかった。見送られたくなかった。

雲ひとつない朝だった。7時前なのにすでにまぶしかった。門を出ると「待てよ」と声がした。ふりかえるとニコが立っていた。ニコはまぶしそうに私を見ていた。ニコは私の肩に手を置くと、小さな声で「がんばれ」とひと言だけ言い、私の手にそっと数枚の1万円札を握らせた。私がうなずくとニコもうなずいた。私はくるりと踵を返し、早足で歩きだした。ニコの視線を感じながらさらに早足で歩いた。300m先の曲がり角で家のほうを見るとニコはまだ立っていた。思いだすたびに胸が熱くなる「300mの夏」だった。

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私の冒険旅行はひと夏をかけて北海道を1周するというものだった。フェリーで苫小牧に上陸し、あとはユース・ホステルを泊まりつぐ。何度か野宿もした。

生物学上の父親の故郷である室蘭の絵鞆半島をハルカラモイ、測量山を皮切りに電信浜、地球岬、トッカリショ岬を経てイタンキ岬まで「地質地層探索の旅」をした。全行程徒歩。きつい道中道行きだった。北海道本土に多くみられる更新世中期の火山岩類と絵鞆半島の中新世中期から鮮新世の火山岩や火山砕屑岩類をじかに目にし、比較できたのはよかった。この経験はのちにフィールドワーク、リアリズムという私の人生においてきわめて重要なタームの基礎を形づくるもののひとつとなった。

旅はもちろん面白かったし、たのしかった。多くの発見やたくさんの人々との出会いがあった。襟裳のユース・ホステルではオートバイで日本全国を旅している大学生と仲良くなった。オートバイの後部座席に乗せてもらい、次のユース・ホステルまで送ってもらった。あのときの大学生がいまもオートバイで日本中を駆けめぐっていたらうれしい。

土砂降りの雨の中でバスを待っているとき、長距離トラックが急停車し、「乗ってきな」と言ってリーゼントのあんちゃんがドアを開けた。私は少し迷ったが、彼の顔色がすごくよかったので助手席に飛び乗った。私が札幌で降りるまでカーステレオからはずっとエルビス・プレスリーの曲が流れていた。

新冠のユース・ホステルでは仲良くなった高校生のグループやヘルパーのひとたちと競走馬の牧場までハイキングに行った。馬たちは茶目っ気たっぷりで、柵のそばまで行くと鼻息を猛烈に荒くしながら近寄ってきた。

旅の終り、別れの前夜。判官館の浜辺に出て焚火を囲んでいろんな話をし、歌をうたった。『今日の日はさようなら』をみんなで歌ったときには、今日、このたった今、この瞬間、自分の目の前にたしかにいて、歌い、笑い、話している人々と会うことは2度とないのだと思いいたって涙が止まらなかった。親和欲求と共感性が極端に薄く乏しい私が生まれて初めて「かなしい」と思った瞬間だった。このとき、「かなしい」という感情はいくら手をつくそうと押しとどめることも取りもどすこともできない事態に直面したときに起こることを知った。

どのように手をつくそうと押しとどめられず、取りもどせないと思い知ったときに「かなしみ」はやってくる。いまみている夏の青い空は一刹那ののちには手の届かないところに流れ去って、おなじ青い空は二度とみることができない。宇宙森羅万象はすべて「二度とないこと」を孕みつつ有為転変しながら生起している。そのことのかなしみを深く知ったときに「心映え」が生まれもする。

倫理学者の竹内整一によれば、「かなしみ」の「かな」とは、「○○しかねる」の「かね」とおなじところから出たものであり、それはなにごとかをなそうとしてなしえない張りつめたせつなさ、緊張感であり、自分の力の限界、無力性を思い知りつつもなにもできないでいるときの心の状態を表す言葉であるという(『「かなしみ」の哲学/日本精神史の源流を探る』/NHKブックス 2009年)。

あの夜、一緒に『今日の日はさようなら』を歌った人々は今どうしているか。その後、どのような日々、どのような人生を送ったのか。銀の匙1杯分でも4tトラックの荷台1杯分でもいいからとにかくなにがしかの幸福を感じることはできたか。ひもじい思いはしなかったか。悲嘆に暮れなかったか。悲運にまみれはしなかったか。困窮困憊に打ちひしがれはしなかったか。重篤な病に臥せなかったか。中にはすでに死んだ者もいるかもしれない。なにがどうあろうともすべてはかなしみのうちにある。

それらはなにがしかのかたちで私の財産となっている。しかし、あの遠い日の夏のいちばんの思い出は論理によっておとなたちを説き伏せたという経験だった。

夏。それはまぎれもなく経験の季節だ。経験の数だけひとはなにごとかを獲得し、同時に、おなじ数だけなにごとかを喪失する。ひとはそれを成熟と呼ぶ。

2度と見ることのできない遠く青い空、2度と見ることのできない夢見るように咲き乱れる花たち、2度と見ることのできない石楠花色の黄昏。そして、2度と会うこともない人々 ── はるか遠い日の夏の思い出である。


さよなら、日本の夏。2度と会うこともない。

夏の思い出
夏の思い出 - 鮫島有美子
夏の思い出 - 南澤大介& 加茂フミヨシ
 
by enzo_morinari | 2018-07-14 01:42 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

風にそよぐサポナリアの花影で。

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風について考えられるのは、人生の中のほんの一時期のことなのだ。 HALKIMBO-M


シャボン草が芽吹き、花咲き、梅雨の合間に淡く遠慮がちな青空がのぞくとシャボン玉を飛ばす。頬をかすめる風。風にそよぐシャボン草。シャボン草の花の間近で弾けるシャボン玉。すべては風のいたずら、風の気まぐれ、風の意志によるものだ。

風に魅かれる。みえない風に。樹々や草花が揺れる姿やさざめく音、波しぶきが舞い上がるようすを通してしか、頬を撫で、ときに切り裂き、耳元をかすめるときにしかわからない風に。こどもの頃からだ。風が元いた場所を探して海辺の街にたどり着いたこともある。風のゆくえを追って赤城山の麓まで行ったことさえある。なにか問題に直面するとすぐにインドに行ってしまう「インド屋」がいるように、私は煮詰まると風に吹かれる「風屋」であり、星を眺める「星屋」なのだ。七里ヶ浜駐車場レフトサイドに吹きつける強い南風には何度も勇気づけられ、怒鳴られ、励まされ、叱咤され、泣かされ、背中を押され、抱きしめられた。夜空の星に願いごとをしたのは数えきれない。願いごとはすべてかなえられた。近々、「夕焼け屋」になろうと企んでいる。虹が風や星や夕焼けのようにお手軽だったなら「虹屋」にもなりたい。

東京地検特捜部に召しとられたのがきっかけで、東京拘置所前の池田屋で三日坊主修行して「めし屋」になろうと考えた時期がある。めし屋の名前は「プリズン」だ。品書きも考えた。逮捕(鯛のあら炊き)/ガサ入れ(赤座海老の素揚げ)/面会(ニタリ貝の素麺仕立て)/保釈(氷下魚の干物)/未決拘留(ミルベンケーゼ/ダニ入りチーズ)/執行猶予(シコイワシの湯引き)/起訴(木曽産開田きゅうりの酢の物)/論告求刑(ロンゴロンゴウオのカルパッチョ)/判決(棒棒鶏)/控訴(香のもの)/上告(烏骨鶏の丸焼き)/再審(サヨリの石焼き)/冤罪(鮃の縁側)といったところ。「監獄レストラン アルカトラズ」の安田にこのアイデアをパクられたときはタイーホしてやりたかった。自己破産しやがってザマーだ。野毛の飲み屋街にあるめし屋の「小半」の女将にはずいぶんと世話になった。

「小半」は刺身が安くてイキがよかった。スケトウダラの卵と白子を炊きあわせた「たらこ夫婦善哉」がとりわけて好きだった。薄味で昆布と鰹の出汁がたっぷりきいていてコクがあった。牛蒡や人参や大根にも鱈子と白子と出汁の旨味がしみて格別だった。滋味。豊穣。野趣。顔も腹もからだも思わず笑みがこぼれる逸品。大ぶりの器にみっつもよっつも食べた。食べすぎて痛風発作が起きたのは42度。とんだ風っぴきだ。風に吹かれるのは好きだが、ふたつの風には吹かれたくないものだ。池波正太郎も同意見だったが死んでしまった。開高先生も。中上健次も。ふたつの風の会会員で生き残っているのは大江健三郎だけだ。

本棚をざっと見渡すと、タイトルに「風」のついた書物が多い。『風の歌を聴け』『風の谷のナウシカ』『風の博物誌』『風博士』『汐風の街』『風に吹かれて』『南風』『風の又三郎』『風のちから』『風の音楽』『狂風記』、そして『風に訊け』。スキーの板はKAZAMAだし、バイク・グッズは風魔だ。風車の弥七は縁もゆかりもないが遠くも近くもない親戚である。

風に吹かれるのは気持ちいい。流れに流されるのもやっぱり気持ちいい。ときどき立ち止まればいいんだ。ほんの少しだけ。風に立ち向かったり、流れに逆らって前に進むのは百年に一度でいい。本当の孤独は百年に一度味わえば、それでじゅうぶんだ。その孤独に出会うまでは、風に吹かれたり、風の歌に耳を澄ましたり、夜空の星に願いごとをしたり、夕焼けに心をふるわせたり、虹の彼方に夢を託したり、野うさぎの走りに目を奪われたり、人間が歩いてきた道の数を数えたり、ダニー・オキーフとジャクソン・ブラウンの歌う『The Road』を聞きながら自分が歩くべき道を探したり、脇道にそれたり、道草をくったり、遠まわりしたり、近道を探したり、背伸びをしてた自分の影を歩道の上に見つけて泣いたり、名前のない馬イージーライダー号にまたがって自分のためのウッドストックを探したり、廃墟に変わり果てた「僕らの家」を再訪したり、ホテル・カリフォルニアでチェックアウトしようと悪あがきしたり、ならず者を気取って手に入らないものばかり求めてないものねだりしたり、Late for the sky/最終便に間に合わなかったり、明け方の空を見るのに遅れたり、空への旅立ちに遅れたり、初恋カプセルからあふれる想いを伝えるためにいくつもの夜を越えたり、迷宮のシャイニング・クリームリンスを髪の毛につけて凍りついたり、祇園町で舞妓と散歩中に迷子になったり、東方見聞録をガイドブックに旅に出て途方に暮れたり、「大化の改新、虫5匹」とつぶやいたり、因数分解の問題を解いたり、原子周期表を暗記したり、グレープフルーツ・ムーンや酔いどれの月や収穫の月を見上げたり、酔いどれ船と洗濯船とバトー・ムーシュと補陀落渡海船を乗りくらべたり、乗鞍岳にアウター53T×リア15Tでアタックしたり、床一面を南京豆の殻で5cmの厚さに埋めつくしたり、25mプール1杯分のビールを飲みほしたり、「完璧な文章など存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」とほざいたナイーブロースハム系ウガンダ人のスパゲティ・バジリコ野郎、ハルキンボ・ムラカーミに25mプール1杯分のスーパーウルトラエクストラスペシャル・スメル・ドリアン・スムージーを頭からかけたり、キラー通りの立ち飲み屋C.O.D.の壁に「タヒね! ハルキンボ!」と落書きしたり、19歳の地図に×印をつけたり、TSUNAMIと忘れられたBIG WAVEと稲村ジェーンをまちがえたり、シンデレラ・エクスプレスに乗って帰るいとしのエリーを東京駅13番線ホームで「語りつくせぬことについては沈黙せよ」というヴィトゲンシュタイン先生の言いつけを守って見送ったり、悲しいほどお天気なのに神宮外苑の銀杏並木をじょうずに描けなくて心のギャラリーに居座ったり、芝浦沖の東芝EMIポイントではるかな船旅のあいだに綴った航海日誌を煌めく海に捨てたことを思いだしたり、シーズンオフの心にグレイス・スリックの肖像を描いたり、「9月には帰らない」と言ったのに『September』をずっと口ずさんだり、14番目の月なのにフルムーンだと思いこんで月見酒を飲みすぎたり、最後の春休みに届いた青いエアメイルを涙でにじませたり、山手のドルフィンで海を見ていた午後に100均で買っただっさいサングラスでガラス玉の涙を隠して「恋人と来ないで」と紙ナプキンに赤い口紅で書いて伝言ゲームみたいに新しい恋人ができた元カノに懇願したり、雪月花のときにもっとも愛する者を想ったり、雪を抱き、月を見上げ、花を愛で、かなしくも薄れゆく面影に涙したり、春休みのロッカー室に忘れ物を取りに行ったときに偶然会った同級生の女の子に肩に顔をうずめられて「あの日にかえりたい」とつぶやかれて女の子のうなじに息を吹きかけたり、恋人に化けたサンタクロースに人混みに流されて変わってしまったことを叱られたり、2000tの雨に打たれていればいい。そのほうがずっといい。

かっこつけなくていい。いい人ぶらなくていい。常識人ぶらなくていい。我慢も忍耐も辛抱も必要ない。タスクもノルマもマニュアルもルーティンもデューティもオブリゲーションもIt's up to you to finish the taskも糞食らえ。善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をやだ。

「コペルニクス的転回」も「コペルニクス的転回の転回」も「絶対矛盾的自己同一」も「身心脱落本来面目現前」も物静かに退場しろ。それってうめえのか? ダシはきいているか? 歯ごたえはどうなんだ? そんなリアリティのないものは「くそまじめな精神」の持ち主様にでもくれてやれ。さもなきゃ、犬畜生にでも喰わすか糞掻きべら一閃、宇宙の果てまでかっ飛ばしちまえ。

おのれを捨てろだあ? おのれを虚しゅうしろだって? 捨てて道がひらけるだと? 寝言は寝て言え。のたうちまわりながらほかの何者にもなりかわりえない自分自身のリアルをグリップすること。それが意味を持つ。

なにも足さない。なにも引かない。あるがままそのまま。運がよければ天上からRibbon in the Skyが聴こえてこないともかぎらない。かつて、偏屈収穫の月爺さんのニール・ヤングは「変わりつづけていたからこそ変わらずに生きてこれた」と言った。偏屈収穫の月爺さんもたまにはいいことを言う。CSN&Yとニコレット・ラーソンのことについては言いたいことが山ほどあるが、この言葉に免じてゆるす。心が風邪をひいた日のためにも。本当の答えはいまも風に吹かれている。

ダニー・オキーフは『The Road』の中で歌っている。

別の街に行けば別の道がある。道があれば旅はつづく。

強固な意志を持ちつづけるかぎりにおいて、あらゆることは開かれている。道がつづくかぎり旅はつづく。道が行き止まり、行き暮れたら新しい道を探し、また歩きだせばいい。その道が細く険しく曲がりくねった暗い1本道だとしても歩けぬことはない。ほかのだれでもない「自分の道」なんだから。

世界にあるすべての道を歩くことはできないし、知ることはできないし、数えきることはできないが、自分の歩く道くらいなら必ずどこかにある。厄介事は歩きながら考えればいい。冬は必ず春になるし、朝の来ない夜はないし、やまない雨はないし、朝日のあたる家はどこかにあるし、世界はいつだって夜明けを待っている。

ときどき立ち止まり、風の歌に耳を澄まそう。答えは風の中でみつけよう。本当の答えはみつからないとしても、風はなにかしらの答えらしきものは孕んでいるはずだから。そして、風のように生き、いつの日か風になろう。


Blowin' in the Wind/風に吹かれて - Bob Dylan
Blowin' in the Wind/風に吹かれて - Peter, Paul and Mary
Wind Song/風の歌 - Sunsay and John Forte
Ribbon In The Sky - Stevie Wonder
Harvest Moon/収穫の月 - Neil Young
心が風邪をひいた日 - 太田裕美
The Road - Jackson Browne
The Road - Danny O'Keefe
 
by enzo_morinari | 2018-07-11 08:30 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

夏への階梯 ── さよなら、夏の日/たったひとりの勝者とたくさんの敗者

 
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逝く夏の陽を浴びて燃えたつ花たちよ
その束の間に消えゆく恋と知りながら
E-M-M

時が止まればいい
僕の肩でつぶやく君を見てた
明日になればもうここに僕らはいない
めぐるすべてのもの 急ぎ足で変わっていくけれど
さよなら夏の日 いつまでも忘れないよ
雨に濡れながら僕らはおとなになっていくよ
TATTOO-Y


夏の一日を荒川土手に遊ぶ。自転車にまたがるのは2週間ぶりだ。はじめは全身がこわばったようで、思うように操縦できなかった。ハンドリング、ブレーキング、ギアチェンジが心もとない。ペダリングもぎこちない。踏むのではなく、回す。それができない。ややビビりながら車道左側端を走る。目が思うように動かないので周囲の状況が的確に把握できない。車道では邪魔者、歩道では悪者の自転車にとって道は戦場であるから、周囲の状況すなわち戦況を的確に把握することは生きのびるために必須のエレメントだ。それでも、平井大橋を渡るころにはいつもの7割くらいの調子が戻っていた。残るは心肺機能の復活だ。心肺機能が戻り、激坂を42本登ればマルコ・パンターニの魂が宿る。

いっきに荒川土手につづく坂道を駆けあがる。目の前に河川敷の広大な緑にあふれた光景が広がる。夏の青い空と緑と川面を渡ってくる風。全身がはじけてしまいそうなほどに気分が高揚する。

しばらく土手のてっぺんに座って風に吹かれていた。夏草の青い匂いがする。メロン水の匂いがする。甘酸っぱい匂いがする。スイカの匂いやトマトの匂いや麦の匂いや電気ブランの匂いさえする。笑い声や怒鳴り声やカッキーンという音やサワサワサワーという音やブーンという音やひゅるるるぅという音が聴こえてくる。

風は実に様々な匂いや音を運んでくるものだ。風がすべてを運ぶ。この点に関して、ライアル・ワトソンはいくぶんか信用してもいい。ライアル・ワトソンが風とともに去って10年。そろそろ、再評価してもいい頃合いだ。首吊りの足を引っ張り、死者を鞭打つのは臆病姑息な下衆外道のすることである。とりあえずは『風の博物誌』から。この際、ライアル・ワトソンの著書は松岡正剛の工作社をのぞけば、河出を筆頭にポンコツ出版社ばかりから出ているが、ライアル・ワトソンへの遅れ馳せの香典/三途の川の船賃代わりにめぼしいものを買おう。グリセリンの結晶化に関する都市伝説に、100匹目の猿は頭の毛を3本増やしてから暫定的便宜的恣意的双曲線関数的にコミットメントする。

思うぞんぶん風に吹かれ、風の歌を聴き、風の中に答えを見つけてから、土手の草むらを河川敷に向かって一直線に駆けおりる。ロードレーサーにはふさわしくないが、わが愛馬である哲の馬、Cinelli Supercorsaはいたってゴキゲンである。荒川の上流へ向けて哲の馬を走らせていると、サッカーのグランドや野球のグランドがいくつも見えてきた。しかも、そのすべてのグランドはゲームの真っ最中だった。

そのうち、いちばん白熱している少年サッカーの試合を見物することにした。文字通りの意味で「高みの見物」を決めこんだ。自分はいずれのチームにもなにひとつしがらみはないのだし、どちらが勝っても負けてもいっさいかかわりがない。初めはそう思っていた。ところが、試合に出場しているこどもたちの家族とおぼしき人々の会話を聞いているうちに、俄然、ゲームにのめりこんでしまった。なんでも、そのゲームはなんとか地区(よく聞き取れなかった)の決勝戦で、勝てば本選(これもなんの「本選」なのかはわからずじまいだった)への出場権を獲得できるらしい。

「雨の日、風の日、雪の日。一日も休まないで練習してきたんだものねー。勝たせてあげたいわよねー」

スポーツとは生まれてこのかた御縁のなさそうな体型をしたジャンボなママさんが言った。このママさんは応援団長でもあるらしく、試合の最中、ものすごい大音量で檄を飛ばしまくっていた。

ゲームはあきらかにジャンボ・ママさんチームの劣勢だった。相手チームの個人技を中心にすえた洗練された試合運びに対して、ジャンボ・ママさんチームのプレイは野性味はあったが、それは所詮、百姓一揆的なサッカーにすぎないように思われた。

ゴールキーパーのファイン・セーヴの連続でジャンボ・ママさんチームは辛うじて失点をまぬかれ、前半が終わった。ゴールキーパーの少年はよほどつらかったのか、ベンチに戻ってくるなりコーチに抱きつき、大声で泣きじゃくった。私はこの時点でジャンボ・ママさんチームの勝利はないことを確信していた。だが、しかし ── 。

後半に入ってもジャンボ・ママさんチームの劣勢はかわらなかった。百姓一揆的蹴球V.S.ソフィスティケーテッド・フットボール。憎らしいほどに相手チームは巧く、速く、強かった。だが、なぜかゴールを割ることができない。気まぐれな勝利の女神はちょっとだけいたずらをしたかったのかもしれない。そして、奇跡は起こった。

ファイン・セーヴを連発していたゴールキーパーが渾身の力を込めてボールを蹴る。ボールは真っ青な空に向かって永遠に上昇をつづけてゆくかと思われるような勢いでぐんぐん伸びてゆく。

ボールがひとくれの雲にまぎれて消えたかと思ったその直後、ディフェンスとゴールキーパーの中間地点にボールは落下してゆく。そこに味方のフォワードが怒濤のごとく走りこんでいた。彼は一瞬、ゴールキーパーのほうに目をやり、そして落ちてきたボールをダイレクトで蹴った。蹴ったというよりも触れたと言ったほうが事態を正確にあらわしている。

前進守備のゴールキーパーの頭上をゆるやかな弧を描きながら、ボールはゴールに吸いこまれていった。

歓声。怒号。落胆。いろいろなものが一瞬に吹きだした。タイム・アップまで5分を切っていた。このとき、だれもがジャンボ・ママさんチームの勝利を確信したはずである。だが、しかし ── 。

混乱の中で、相手チームの選手たちは冷静だった。個人技と正確なパスまわしで敵の陣営深く入りこみ、セオリーどおりにゴール前で待ち受けるセンターフォワードに正確無比なセンタリングを上げる。豹のような面差しのセンターフォワードはあたりまえのようにジャンプし、頭ふたつ分抜きんでた状態で頭をひと振りした。ボールは一瞬止まったかのように見えて、物凄いスピードでゴールキーパーの真横を抜け、ゴールネットに突き刺さった。

悲鳴。落胆。怒声。残り時間2分。

「PK戦に持ち込めー!」

ジャンボ・ママさんが叫んだ直後だった。ついに、あるいはやっと勝利の女神が微笑んだ。それまで冷静なゲーム・メイキングでチームを動かしてきた相手のミッドフィールダーがセンターラインを越えたあたりで全身をバネのようにしならせてボールを蹴った。

ボールは弧を描くことすらせずに一直線にジャンボ・ママさんチームのゴールに吸いこまれていった。ゴールキーパーは最後の最後にきて、身動きひとつできなかった。ゴールインと同時にホイッスルは鳴り、ゲームは終わりを告げた。

全身でよろこびをあらわす勝者。
泣きじゃくり、うずくまる敗者。
たったひとりの勝者とたくさんの敗者。

そのことを思って、私はしばらくその場を立ち去ることができなかった。どうしても、たったひとりの勝者とたくさんの敗者たちの涙のゆくえを見届けられなかった。視界がくもっていたから。彼らの涙のいく粒が「Bon Voyage!」の祝福の声とともに希望の船出を果たし、いく粒が悲しみの航海をするのかはわからないけれども、旅はつづく。いつの日か旅の円環は閉じられる。何十年か先、もっと遠い日の夏に、彼らがふと立ち止まり、今日のこの日を、流した涙のことを思いだしてほしい。今日のこの日を、流した涙のことを忘れずにいる君たちでいてほしい。たとえ、孤独と困難と困憊と悲運の日々を生きているとしても。

さよならだけが人生だし、今日の日には毎日さよならをしなければならないし、腹の立つことばかりだし、東京電力の請求葉書には毎月舌打ちをするし、東京ガスもイワタニだかサガミだかのプロパンガスも料金高すぎだし、家賃と光熱費と水道代とスマホ代と保険料と年金掛け金と税金を払うために生きて仕事してるようなものだし、世界はどうしようもなくどうかしているけれども、腹がへったらめしを食えばいい。泣きたいときは涙が枯れ果てるまで泣けばいい。そして、眠くなったら寝ればいい。そうこうしているうちに人生とやらいう厄介で七面倒くさいゲームの終わりを告げるホイッスルが鳴る。一発逆転も延長戦もないゲームだがちょっとした工夫と知恵でwktkにできないこともない。

人生は緩慢で気色悪く、頻繁に脱輪し、あちこちに落とし穴が息をひそめていて、おまけに報酬はたかがしれている。それでも、そうであっても、いつか2000tの雨がすべてを洗い流す。そして、人生は思っているよりはるかに甘ちょろくてシンプルでイージーだ。長くても100年のベリーベリー・ショートショート・ストーリー。眉間にシワを寄せて顔をしかめて辛気くさく深刻に考えるほどのことはない。いざとなったらリセットボタンを押してしまえばいい。Take it easy. めし+揚げ玉+出汁つゆでテイク・イット・イージー天丼の一丁あがりだ。


荒川を渡ってきた風が目の前で向きを変え、風の歌となにかしらの答えを音もなく持ち去って、勝者も敗者もいない静かなグランドを吹きぬけていく。またひとつ、夏の終わりが近づいたように思えた。すべては2000tの雨が洗い流してしまうとも知らずに。

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さよなら夏の日 - 山下達郎
さよなら夏の日 - MrSiokaze (Classical Guitar Solo)
 
by enzo_morinari | 2018-07-10 08:51 | 夏への階梯 | Trackback | Comments(0)

今夜、宇宙を横ぎって/銀河鉄道の夜を越えて ── なにものも私の世界を変えることはできない

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ディラックの海のほとりで宇宙を見わたす夜。

宇宙の音に耳をすます。磁気圏と太陽風のせめぎあいが生む暁合唱団の鳥の囀りのようなコーラス、巨大な波がうねるようなプラズマ波のリズミカルな不協和音、ヴァン・アレン帯を重力波が突きぬけるときのバリバリと耳をつんざく音、ブロードウェイの銃弾を全身にまんべんなく等間隔で42発浴びた『Radio Days』のウディ・アレンが、雨の朝、カッサンドラーの悪夢にうなされながらニューヨーク市マンハッタンのBullets Over Broadway Hospitalで末期にカイロの紫のバラを胸に抱いて発したフラゴナール・アゴナール・レスピレーションの音、『ラジオの時間』に周波数をあわせるときのホワイト・ノイズ、『今夜、宇宙の片隅で』の台本読みの声、白鳥座銀河第三象限の停車場で輝く有機交流電燈のアーク放電音、初恋カプセルから聴こえる「あといくつ銀河鉄道の夜を越えれば言葉にできるの?」というギャラクティカな問い、[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]が時を刻む音、ミントジュレップを一杯引っかけたあとにアーキオプテクスの樹の上で震えながら途方に暮れている仔猫ちゃんの鳴き声、アカンソステガ・ディアトリマ・ハイエノドント楽団の1000人のヴァイオリン弾きたちが演奏する1000台のヴァイオリンによるMistyYou Go to My HeadI've Got a Crush on Youに聴き惚れる浅葱色をした隠喩の法衣を無惨にも剥ぎ取られたアンドレ・ブルトンのいまにも指のあいだから滑り落ちそうなレモン色の平行四辺形によって切りとられた夕暮れの薄暗がりから貌をのぞかせる溶けだしたベーコンに捧げる接吻の音、宇宙吟遊詩人がモノリスにもたれて詠い奏でる『スペース・オデッセイ』、オリオン座暗黒星雲のゴドルフィン・アラビアンが猫に挨拶をしたときの頭星雲が宇宙卵でイースター・エッグダンスをしながら踏むピアッフェの音、プラント・プラネタリアンがスペース・フラワーベッドに新種のスーパーノヴァ・コスモス・シード42を播種する音、金属を研磨する音、天体の極域で発生する知性/創造性の極北極光のエレクトロフォニック・サウンド、宇宙を支配する巨大な意志の力が宇宙風の乱数表をめくる音、宇宙風になびく42列横隊に整列した薄桃色のコスモスがケイオスと対峙しながら発する調和と秩序の音、黒体輻射のブラック・ノイズ、青の時代のピカソがチェレンコフ光に照らされる貧しい年老いたギター弾きを描くときの筆づかいのキュビスム・サウンド、リズミック・コズミック、ハッブル・バイブレーション、されどわれらがプラネタリウム・デイズ ──。

宇宙の音に耳をすましながら、宇宙創生150億年の歴史がからだを駆けめぐるのを感じる至福と恍惚と高揚。五体五臓六腑の熱は宇宙が燃えさかっていたころの名残りであり、自分が宇宙そのものであると確かに了解する。今、この瞬間、なにものも私の世界を変えることはできない。

「あしたは七夕、星祭り、Star Festivalね。雨が降らなければいいけど。あした、会えたらいいんだけど…」と虹子からLINEにメッセージが入った。

虹子と最後に会ったのは春の盛りの頃だから、かれこれ1ケ月半になる。電話すらしていなかった。顔も声も匂いもぬくもりもおぼろにかすみかけている。

「今夜、宇宙を横ぎって会いにいくよ。きっといく」

こどもたちのはしゃぐ声や鳥たちの囀りや小鳥の羽ばたく音やポルコロッソがグーグーうなる声が一気に押し寄せてくる。言葉の精であるW-42が耳元でささやく。

「言葉たちが無限の慈雨のようにあふれだす。心を開けば悲しみや喜びがさざ波となって伝わってくる。望んで言葉にすれば世界はだいじょうぶ」

宇宙のあちこちで散乱する光を見ていると、光たちは閃くように私を呼びながら遠ざかってゆく。沈黙ノートのページをめくる音や「オクザキ! 天皇を撃て!」の大号令とともに高らかに吹き鳴らされる神軍ラッパやゆきゆきて神軍が行進のときに地面を踏み鳴らす音や語りつくせぬことについての沈黙の響きや饒舌な沈黙や黄金にはほど遠い沈黙やマドレーヌ現象やマドレーヌ・トークやマドレーヌ・ライティングやTHUGZ4LIFEやクリフォード・ブラウンの言いだしかねたいくつかのことやチャーリー・パーカーの饒舌やマイルス・ディヴィスの孤独と静寂に満ちたつぶやきやカリブのサクソフォーン神ロリンズの孤愁を秘めた豪放やケイデンス142/1minの回転音やアレ・キュイジーヌやベンガベンガベンガやチュパイマコーやコギト麦で焼いたエルゴスム・パンやキーヨ・エスタス・キーヨや白鳥座銀河第三象限の停車場で輝く有機交流電燈の謎や淪落する少女の叫び声や笑う戦争の犬の笑い声や愛のささやきや嵐の朝に別れを告げる声や惜別の辞や愛別や離苦や起承転結や序破急や憎悪と憤怒と怨嗟の罵りや涙の落ちる音や1983年夏のクラクションや1973年のピンボール・マシンの電子音や餅5個を立てつづけに食べて死んだロバーツ秋山の死を悼む悲しみの嗚咽や乳首の席がえのために死にゆく人々の死ぬ瞬間や天国の階段をのぼる足音や天国の扉が開く音や利己的な遺伝子の身勝手なふるまいやベアリングとブッシュの軸受戦争や古書と硝子片と鬱積する自同律の不快と霧雨のような恋人とくすんだ愛欲と詩の果ての孤独と大賢者たち(バタイユ/ラカン/ソシュール/レヴィナス/エーコ/ブラン ショ)の長く大きなため息や宇宙際タイヒミュラー理論に架ける橋建築の槌音や降る星のような慈しみの雨音や喜びの歌や街の雑踏やフクシマ・ピープルとロンゲラップ・ピープルの絶望と悲嘆やチェロキー・ピープルとロヒンギャとセルクナムの血と涙の旅路の慟哭やハインの祭の遠い太鼓の音やTEPCO Atomic Wonderlandの愉快な仲間たちの反省と品性のかけらもない下卑た高笑いやチェルノブイリ・チルドレンの確かな痛みをともなう不安や巨大地震と大津波に根こそぎにされた北の国の人々の落胆やコンテンポラリー・ハウスにも及ぶレッドテープ/繁文縟礼やポンテ・アパートの銃声やヨハネスブルグ・キッズの飢餓の苦しみやピョンヤンのコッチェビ・キッヅの骨の軋みや七つの大罪企業のほくそ笑みや国と国民を貪り喰い痩せ細らせ侵食するカスミガセキシロアリのしたり顔と中身ゼロの言説やエキセントリック口元の辻元清美の恥知らずぶりや米中露のワールド・パイ/トルタ・ムンディアル山分けに関する円卓会議やムスリムと十字軍の2000年戦争開戦の砲声や沈黙の春や草花と樹木のさんざめきやトトロのオカリナや真っ黒クロスケの秘密会議や猫バスのクラクションやラピュタの飛行音や無数の飛行機乗りたちの無音の編隊飛行や王蟲の怒涛の進軍や巨神兵の呻き声やナウシカが乗るメーヴェの風切り音やアシタカがタタリ神をなだめる真言やもののけ姫のサンが山野を駆けぬける音や森を歩くシシガミの生と死を司る者ののみが知るかなしみやダイダラボッチの夜ふけの足音やコダマとコロボックルと妖精たちが戯れるたのしげな声やセクース依存症にしてナイーブな肉屋のナイーブなロースハム好きのハルキンボ・ムラカーミのノーベル・プライズ・サプライズ・スクリームや風の歌や大地の歌や星々の瞬きが渾然一体となって一大叙事詩/シンフォニーのようにこだまする。

オーケイ。今夜、宇宙を横ぎって会いにいくよ。銀河鉄道の夜を越えて。銀河鉄道と流星号を乗りついで。エイトマンより速く。鉄人42号より強く。アストロ・ボーイより馬力をかけて。マジンガーΩよりPatek Philippe&Co/Abraham-Louis Breguet/Vacheron Constantinに。


Α-Ω-Α∞Ω
これより、終りの始まりが始まる。


Across The Universe - The Beatles
When You Wish Upon a Star - Linda Ronstadt
 
by enzo_morinari | 2018-07-06 16:09 | ディラックの海の青いほとりで | Trackback | Comments(0)