人気ブログランキング |

<   2013年 10月 ( 23 )   > この月の画像一覧

フォルクスワーゲン・カルマンギヤ/type14から聴こえてきたメローなロスの週末

 
c0109850_1795298.jpg


「19歳の地図」を頼りに世界をうろつきまわっている最中だった。『なんとなく、クリスタル』はまだ世に出ていなかったけれども、ウェスト・コーストの薄っぺらで上げ底の波は確実に押し寄せていて、どいつもこいつもFARAHのホップサック・パンツとトップサイダーのデッキシューズを履いて浮かれ騒いでいた。

「ジョシダイセー」なる珍妙な生き物が「ウッソー」「ホントー」と雄叫びを上げながら我が物顔で街を闊歩しはじめたのもこの頃だ。今から思えば、あの頃から「終りの始まり」は始まっていたんだろう。「私のホテル・カリフォルニア問題」は2年目を迎えていた。

うんざりした気分がずっとつづいていた。相変わらず七里ガ浜にはろくな波が立たず、強い南風が吹きつける七里ガ浜駐車場レフト・サイドだけが、唯一心の休まる場所だった。

世界は心も魂も見失い、蝉の抜け殻のようにスカスカであるように思われた。あらゆることが腹立たしく、苛立たしく、だれかれかまわずに喧嘩をふっかけていた。多くの敗北と少しの勝利と戦略的撤退の日々。

そんな日々がつづいていたある春の盛りの日曜日の昼下がり。パウダーブルーの1955年式フォルクスワーゲン・カルマンギヤ/type14からジョージ・ベンソンの『Ode to a Kudu』が絶妙のタイミングと音量で聴こえてきた。

その『Ode to a Kudu』は聴き慣れた『Ode to a Kudu』ではなく、ライブ音源だった。ジョージ・ベンソンの代表作のうちの1枚である『Beyond The Blue Horizon』(1971)に収録されている『Ode to a Kudu』よりもはるかに成熟しているように感じられた。

しばらく聴き惚れているとフォルクスワーゲン・カルマンギヤ/type14の右のドアが開いて、目の玉が飛び出してしまいそうな美人が出てきた。のちに星と導きと夜との狭間にある大学通りを経て象牙海岸をいっしょにさまよい、『シャンペンと地動説』によって終りを告げた涙のワンサイデッド・ラヴの相手となる3歳年上の女の子だった。

いまでも『Weekend in L.A./メローなロスの週末』の『Ode to a Kudu』を聴くと胸のどこかしらが疼く。ライブ盤の『Ode to a Kudu』はまぎれもく名演だが、アルバム邦題の「メローなロスの週末」はあまりにもだ。いただけない。お粗末すぎる。いい週末も数少ないくすぐったいような恋の思い出も台無しである。

山下達郎のことやら吉田美奈子の心情やらソニー・ミュージックの三浦との混みいった顛末やらについても言いたいことは山ほどあるけれども、すべては時間の波間を漂う流れ木のように、あるいは岸辺で踏む足跡のつかない涙のステップのように跡形もなく消えた。それでいい。それでよかったんだ。

いまでは、当時の泥沼での肉弾戦のごときゴタゴタを知る者はいない。当事者ですらおぼえてはいないだろう。あるいは忘れたふりをしているかだ。そのことについてだれも文句は言えないし、だれも文句を言われる筋合いはない。すべてはなかったも同然だ。

時間というのはたいていの場合残酷だが、ある種の人々にとってはやさしくもある。救いでさえあることだってある。そんな風にしていろいろなことが過ぎていき、いろいろなことがなにもなかったように終わっていけばいい。ただし、「え? とっくに終わったことじゃなかったの?」と嘯く無神経な輩には口には出さないが猛烈な憤怒と憎悪と強蔑をおぼえていることをそこはかとなく表明しておくことにする。(この世界には都合よく THE END も FIN も用意されちゃいねえんだよ!)

カルマンギヤ・ガールとの別離の一件以来、正真正銘の金持ちも成り上がりの金持ちもきらいだ。「おまえたちが富を所有する分、おれの分け前が減るじゃねえか!」というのが言い分である。至極まっとうで的を射ていて健全で生産的でスピリチュアル・ユニティな考え方だ。そんなふうにしてきょうまで生きてきた。生きてきたことであった。ときに、だれにも気づかれないように涙のステップを踏んで。悔し涙やら嬉し涙やら悲し涙やら嘘涙やら強がり涙やらを2000トンくらい流して。おかげで、涙はいくら流してもいつか乾き、やがて涸れることを知った。

その後、カルマンギヤ・ガールからは一度だけ青いエアメールが届いた。雨で文字が滲んでいた。滲んでいたのは雨のせいだけではない。なんてマイ・フーリッシュハートな人生。私のかわりにだれか泣いてくれ。

いまではカルマンギヤ・ガールと足しげく通ったトップスのチョコレート・ケーキもカレーも食べない。彼女もそうだといい。そうあってほしい。

本当の気持ちを伝えても過ぎ去った季節や時間を取り戻せやしないことはわかってはいるが、彼女の住む街と私の住む街では冬はどちらが先に来るのかは毎年気になる。

彼女と最後に会ったときに着ていたオーバー・コートと彼女が誕生日にプレゼントしてくれたレジメンタル・タイはワードローブの奥深くで眠ったままだ。もはや目覚めることもあるまい。


Ode to a Kudu (Live) - George Benson


Weekend in L.A.
Released: April 29, 1978
Recorded: September 30-October 2, 1977
Genre: Jazz/Fusion-Guitar/R&B
Length: 67:36
Label: Warner Bros. Records
Producer: Tommy LiPuma

Track Listing
1. "Weekend in L.A." (George Benson)
2. "On Broadway" (Jerry Leiber, Barry Mann, Mike Stoller, Cynthia Weil)
3. "Down Here on the Ground" (Lalo Schifrin, Gale Garnett)
4. "California P. M." (George Benson)
5. "The Greatest Love of All" (Linda Creed, Michael Masser)
6. "It's All in the Game" (George Benson)
7. "Windsong" (George Benson)
8. "Ode to a Kudu" (George Benson)
9. "Lady Blue" (Leon Russell)
10. "We All Remember Wes" (Stevie Wonder)
11. "We As Love" (George Benson)

Personnel
George Benson - guitar, vocals
Jorge Dalto - piano
Ronnie Foster - synthesizer
Phil Upchurch - rhythm guitar
Ralph MacDonald - percussion
Stanley Banks - bass
Harvey Mason, Sr. - drums
Nick DeCaro - string synthesizer


附記
Beyond The Blue Horizon
Released: 1971
Recorded: February 2-3, 1971 (Van Gelder Studio, Englewood Cliffs)
Genre: Jazz/Fusion-Guitar
Label: CTI Records (CTI 6009)
Producer: Creed Taylor

Track listing
1. "So What" (Miles Davis)
2. "The Gentle Rain" (Luiz Bonfá, Matt Dubey)
3. "All Clear" (George Benson)
4. "Ode to a Kudu" (George Benson)
5. "Somewhere in the East" (George Benson)

Personnel
George Benson - guitar
Clarence Palmer - organ
Ron Carter - bass
Jack DeJohnette - drums
Michael Cameron, Albert Nicholson - percussion
Robert Honablue - engineering
 
by enzo_morinari | 2013-10-30 17:10 | 真言の音楽 | Trackback | Comments(0)

深い河#1 深い河を渡って白木蓮の馨る父と母と兄弟たちの待つ故郷へ。約束の地へ。

 
c0109850_622139.jpg


深い河を渡った先には白木蓮の馨る父と母と兄弟たちの待つ故郷、約束の地がある。


Deep River (Spiritual of African American Song)
Deep River, My home is over Jordan.
Deep River, Lord. I want to cross over into Campground.
深い河よ。私の故郷はヨルダンの彼方にある。
深い河よ。私はおまえを越えて仲間たちの元へ帰りたい。

Oh, don't you want to go, To the Gospel Feast;
That Promised Land, Where all is Peace?
おお、おまえもあの福音の宴に行ってみたいと思わないか?
その約束の地ではすべてのものの平和が約束されている。

Oh, Deep River, Lord, I want to cross over into Campground.
おお、深い河よ。私はおまえを越えて仲間たちの元へ帰りたい。



滑るように闇がやってきて、私と崩壊する時間を探しつづける男を深々と飲みこんだ。私と崩壊する時間を探しつづける男は深く大きな河の畔にいた。闇と深い河が発する獣の低いうめき声のような音に怯えている私に向かって、崩壊する時間を探しつづける男は闇を引き裂き、言った。

「おれの仕事はここまでだ。おまえとはここでお別れだ。渡れ。なにも考えなくていい。ひたすら渡りつづけろ。いつか向こう岸にたどり着く」
「向こう岸にはなにがあるんですか?」
「さあな。おれにはわからない。おれだけではない。世界中のだれにもわからない。この深い河を渡った者の消息を知る者は世界のどこにもいない」
「わかりました」

私はBellevilleのONE XERO 320 Ultra Light Assault Bootの靴紐をきつく結びなおしてから、しばし崩壊する時間を探しつづける男の貌をみつめ、呼吸を整え、手を差しだした。崩壊する時間を探しつづける男の貌が少しだけゆるんだ。

「いい旅をな。おまえとのこの3週間の旅はこれまでの人生で一番愉快で刺激的だった」
「ありがとうございます」
「あとは旅の円環を閉じるだけだ。おまえ自身の力でな。おまえ一人で。それがおまえの仕事だ」

崩壊する時間を探しつづける男は言い、くるりと踵を返した。それが崩壊する時間を探しつづける男を見た最後だ。崩壊する時間を探しつづける男の背中が闇の中に消えるまで見送り、私も踵を返し、深い河に向き合った。そして、命を差しだすような気分で深い河の中に一歩を踏み出した。3週間前、世界の果ての樹海のバー、「Deep Forest」で初めて崩壊する時間を探しつづける男に会った夜がまざまざとよみがえってきた。


Deep River - Mahalia Jackson
Deep River - Norman Luboff Choir; Leopold Stokowski
 
by enzo_morinari | 2013-10-29 06:21 | 深い河/Deep River | Trackback | Comments(2)

Misty Night in Paris#1 霧の深い夜は肉がよく切れる。

 
c0109850_65080.jpg

霧の深い夜。パリ8区、パリメトロ13号線のシャンゼリゼ=クレマンソー駅近く。1954年に一家7人が惨殺体で発見された。当初から物盗りの犯行でないことはあきらかだった。

1954年の秋口から1958年の冬にかけて手口の酷似した殺人事件が正確に3ヶ月に1度の間隔で発生。パリ市民を震え上がらせた。容疑者としてリストアップされた人物は20万人におよんだ。パリ警視庁の威信をかけた捜査もむなしく、18件の事件はすべて時効が成立し、迷宮入り。のちに『衝動と持続』でボンクーラ賞を受賞するロブ・ポワレ氏が重要参考人として長期間にわたる取り調べを受け、徹底的な行動確認が行われたが同氏の犯行を裏付ける証拠は出ないまま事件は迷宮入りした。

ロブ・ポワレ氏の『衝動と持続』は一連の事件を題材としており、いわゆる「衝動殺人」を連続して犯す若者の内面を冷徹な筆致で描き、J.P. サルトル、アルベール・カミュ、A. ロブ=グリエ、ロラン・バルト、ジョルジュ・バタイユらの絶賛を浴びた。

アルベール・カミュは大破したファセル・ヴェガの車中で息を引き取る間際、うわ言で「犯人はロブ・ポワレだ。奴を黒幕のグルといっしょにグリエしろ」と繰り返したと言われている。『衝動と持続』の中には犯人でなければ知りえない「秘密の暴露」とも言えるような記述もあったが、なぜかパリ警視庁の精鋭捜査官たちはこの点についてロブ・ポワレ氏を追及することはなかった。背後にコンベルソ問題があったのではないかとの指摘もある。

ロブ・ポワレ氏の犯行を疑う声はいまも根強くある。ロブ・ポワレ氏は現在、イル・ド・フランス、セーヌ=サン=ドニ県のイットビル村で42頭のスコティッシュ・ブラックフェイスと54頭の虹のコヨーテ、そしてグリエされた「魚のしるしを持つ者」の頭蓋骨とともに静かに余生を送っている。

この話はロブ・ポワレ氏に「事の真相」について直撃することを目的とする。画像は記念すべき連続殺人第1回目の「一家7人惨殺事件」の現場の家の現在の姿である。撮影の夜は当時とおなじ霧の深い夜だった。私はこの家に1958年の冬から1964年の春まで母親と二人で暮らした。

'Round About Midnight, Misty Night, Meat Night. 霧の深い夜は肉がよく切れる。

c0109850_662070.jpg


飾り窓の女から生まれ、ルンペンに育てられた男

c0109850_67831.jpg

私は飾り窓の女から生まれ、ルンペンに育てられた。揺りかごはメトロの廃駅だ。母親は私を生んですぐに死んだ。父親の顔も名前も知らない。

c0109850_693748.jpg

ロブ・ポワレ氏の『衝動と持続』はこのような書き出しで始まる。ロブ・ポワレ氏の母親はピガールの娼婦だった。ブリュッセルの飾り窓の女からさらに落魄れてパリに流れ着き、街娼となった。彼女は梅毒という呪われし病に蝕まれていた。ロブ・ポワレ氏を出産直後に死亡。梅毒の末期だった。ロブ・ポワレ氏は母親の顔も声も知らない。ロブ・ポワレ氏を形づくっているのは欠落、あるいは欠如だ。さらにロブ・ポワレ氏はつづける。

c0109850_681784.jpg

「おまえに父親はいない。おまえの母親は処女懐胎したのだ。ジュリエット・グレコに似た知性のある美しい人だった」と元コレージュ・ド・フランスの哲学科の教授は言った。彼はルンペン仲間から「プロフェッサー」と呼ばれていた。私を育ててくれた大恩人だ。クロード・ラヴィ=シュトラウス。

17歳の夏、私は彼を殺した。私の初めての殺人だった。今でもメトロのサインを見るたびに少しだけ胸が痛む。ほんの少しだけ。しかし、後悔も反省もない。死すべき者が死んだだけのことだ。死に至る経緯にはなんらの意味も価値もない。


c0109850_614233.jpg

 
by enzo_morinari | 2013-10-28 06:15 | Misty Night in Paris | Trackback | Comments(0)

あえて「メン殺し」の汚名を着て#3 日本初の女性ラーメン評論家ならびにラーメン小娘お断り!

 
c0109850_1925294.jpg

 
自称、「日本初の女性ラーメン評論家」なる者がいる。年端もいかぬ小娘である。仮に「ラーメン小娘」としておく。一時期、低俗愚劣なポンコツ三文三下奴メディアに頻繁に露出していた。「ある事件/騒動」を起こすまでは。事件/騒動勃発からすでにして半年ほども経過しているが、「炎上」「祭り」は完全終息していない。ラーメン小娘が引き起こした問題の根が深いことを示している。
ラーメン小娘の視線が向かっている先はラーメン、「食」ではなく、グロテスクな自己愛を実現するための手練手管をいかにラクに要領よく手に入れるかということだけである。ラーメンにも「食」にも眼差しは注がれていないのであるから、当然、これらについての記述には新味も感動も驚きも面白みも一切ない。ひとかけらさえもだ。まずい。くそまずい。胸くそが悪い。このような輩にあれこれと故障しきった日本語で論評されても、論評された店側はいい迷惑という次第である。語るに落ちずということだ。

あるラーメン店の「定休日」をめぐってこのラーメン小娘が巻き起こした「騒動」にはいくつかの醜悪さが露呈している。
ひとつは「女性ラーメン評論家」なる立ち位置を遮二無二売りにしながら、なんとしてでもメディアに露出しようとするあさましさ。
ふたつは件のラーメン店の「定休日」を確認しなかったみずからの怠慢怠惰愚鈍を「食べログ」と当該ラーメン店のせいにしようとしてウソをウソで塗り固める卑しさ。
みっつは当該ラーメン店で遭遇した地方から来たという人物に同情を寄せる姿を装うことで自分の立ち位置を「善良な人間」「心の温かい好人物」と見せかけようとするさもしさ。そもそも、「地方から来た人物」なる者が本当にいたのかどうかも疑わしい。あくまでもラーメン小娘のみの言い分であり、客観証拠はなにひとつない。そして、ラーメン小娘は御丁寧にも当該「地方から来た人物」に近辺のラーメン店を20軒もメモして渡した旨申し述べている。当該ラーメン店の周辺には他人に勧められるようなラーメン店は20軒もない。あると言うなら具体的に地方青年にメモとして渡した20軒のラーメン店の店名を「麺の形状」「スープのタイプ」「席数」「価格」とともに挙げよ。いやはや、どこまでウソ臭い輩であることか。「年中無休って食べログに出てましたよね」というやりとりをしただって? 「年中無休」などという元々ない情報について、なぜそのような会話が「地方から来た人物」とすることが可能なのだ? ここでもまたラーメン小娘は馬脚をあらわしている。事実の捏造という馬脚を。このようなやりとりがなかったか、そもそも「地方から来た人物」など存在しなかったということだ。さらに言うならば、そもそもラーメン小娘は当該ラーメン店に金輪際足を運んでいないことが強く疑われる。捏造につぐ捏造をかさねてこのラーメン小娘が言いたいことは、ひたすら自分が「善良な好人物」「純粋」であると偽装することなのだろうが、ところがどっこい、ラーメン小娘の実体はその正反対、狡猾にして虚飾虚偽にまみれている。
よっつは「定休日」については騒動後に「食べログ」の記事が当該ラーメン店の手によって書き換えられたなどと再び噴飯ものの事実の捏造を行って「食べログ」とラーメン店を貶めようとする悪意のおぞましさ(「食べログ」の記事の最終更新日は「2012年9月29日」である)。
五つはラーメン小娘の他者の立場をいささかも斟酌せず、慮らない冷酷さである。よしんば、百歩譲って当該ラーメン店が「臨時休業」をしていたとして、「悲しい気持ちになりました」などと不特定多数の目に触れるネット上に発信されるいわれなどこれっぽっちもない。飲食店における飲食は双務契約であって、客は代金を支払い、飲食店側は料理等を提供することとそれに付随する各種の人的物的サービスを客に提供する。それ以上でもそれ以下でもない。にもかかわらず、「臨時休業」ごときで「悲しい気持ちになりました」とはなんという傲岸不遜な言い草であるか。「悲しい気持ち」うんぬんなどというたわ言は脳みその皺の足りないたわけ者どもとのなれ合いと愚劣まみれの烏合の集まりでしか通用しない。ラーメン小娘の実兄であり、西武学園卒、筑波大学大学院人間総合科学研究科教育学専攻のMは厳にラーメン小娘を戒めなければならない。ウィキペディアに手前味噌記事、自作自演記事、提灯記事を立てるヒマなどないはずである。大瀬甚太郎が墓場で泣いているぞ。

このラーメン小娘のすべてを他者との位置関係を表明することによって「おいしい立場」をえようとする小賢しさ、小狡さ、厚顔無恥さ、卑しさ、さもしさ、あさましさにこそ問題の根はあるのであって、そのような輩が食にまつわることをいかほどに述べようとも真実味もリアリティもないのは言うまでもない。
試みにこの小娘のブログを眺めてみるがいい。中心は「善良そうに微笑む美人でカワイイあたし」の本人画像と、自身の価値を高くみせようとして登場させる「著名人」「クリエイティブ系」「アーティスト系」なる者たちと一緒に映る画像がほとんどである。肝心のラーメン、料理は二の次、三の次である。著名人だろうが有名人だろうが無名人だろうがクリエーターだろうがコンクリート・ミキサーの運転手だろうがラーメン、料理の味にはいささかも影響しない。有名人? それってうめえのか? クリエーター? それってよく出汁が効いているのか? アーティスト? それって食感がいいのか?
通常、ほっておいてもこのような輩は消えていくのであるが、いまだにいけしゃあしゃあと「ウソ」を認めず、ウソでウソを塗り固めようとする態度、言動は改まっていないのであるから(ゴミくずのようなブログは愚にもつかぬ提灯持ちの自身に都合のいいコメントだけを承認、表示しているところからも反省していないのは明らかである)、手加減も容赦もする必要はない。情けも無用である。このようなときこそ、「情けはひとのためならず」の意味を考えるがよろしかろう。

c0109850_19262059.jpg

結論1:チンケ、チンチクリンはその見姿だけでなく、やることなすことすべてがチンケでチンチクリンである。ラーメン小娘の駄文駄書『日本初の[女性ラーメン評論家]になっちゃいました!』もチンケでチンチクリンである。しかも、誤字脱字の嵐、誤った文法、まちがいだらけの句読点の用法、退屈きわまりないチンケな表現にまみれている。

結論2:ラーメン小娘は事実を捏造した個々の事案について潔く非を認め、「うそをつきました」と明瞭かつ具体的に表明しなければならない。その後の出処進退についてはおのずと導かれるはずである。

結論3:ラーメン小娘は実際には行ったことも食したこともないラーメン店について論評したこと、ラーメン店側から金銭財物の提供を受け、提灯記事を書いたことを認め、表明しなければならない。中には名も知らないラーメン店もあるはずである。

結論4:ラーメン小娘は箸の使い方、食べ方を身につけなければならない。ラーメン小娘の箸の使い方、食べ方を見ていると気色が悪くなる。めしがまずくなる。稚拙な箸使い、卑しい食べ方は「評論家センセイ」以前の問題である。

結論5:「鬼そば 藤谷」は「名誉毀損」「営業妨害」その他による不法行為に対する損害賠償請求訴訟を提起せよ。訴状、準備書面その他の作成は一切の対価なしで行う用意がある。ネット上に本谷亜紀が公開した情報だけで勝訴は確実である。なんとなれば無料で法定代理人を引き受ける用意もある。

結論6:全国のラーメン店、飲食店はただちに「日本初の女性ラーメン評論家お断り!」乃至は「日本初の女性ラーメン評論家お断りの店」の看板を掲げよ。


c0109850_19265723.jpg

 
by enzo_morinari | 2013-10-27 19:28 | あえて「メン殺し」の汚名を着て | Trackback | Comments(0)

きょうも元気にFlash Mob#1

 
c0109850_5481494.jpg

 
銀河は流れ、オリオンは舞い立ち、スバルはさんざめき、フラッシュ・モブは輝く。


フラッシュ・モブスターズのヘッドクォーターからメールが届く。次のフラッシュ・モブの指令だ。フラッシュ・モブスターズのメンバー全員に一斉配信されているはずだ。

クリスマス・イブ1800フラッシュ開始。東京お台場ビーナス・フォート広場。サンタクロース・ガールが『慈しみ深き友なるイエスは(讃美歌312番)』の1番を歌いだす。2番からは順次各Teamが加わる。詳細は下記参照のこと。Team分けはこれまでどおり、アトランダムにしてある。

慈しみ深き友なるイエスは(讃美歌312番)
(サンタクロース・ガール)
慈しみ深き友なるイエスは
罪科(つみとが)憂いを取り去り給う
心の嘆きを包まず述べて
などかは下ろさぬ負える重荷を

(ここからTeam A加わる)
慈しみ深き友なるイエスは
我らの弱きを知りて憐れむ
悩み悲しみに沈めるときも
祈りに応えて慰め給わん

(ここからTeam B加わる)
慈しみ深き友なるイエスは
変わらぬ愛もて導き給う
世の友我らを捨て去るときも
祈りに応えて労(いたわ)り給わん


冬の星座
(ここからTeam C加わる)
木枯し途絶えて さゆる空より
地上に降りしく 奇(くす)しき光よ
ものみな憩える 静寂(しじま)の中に
きらめき揺れつつ 星座はめぐる

(ここからTeam D加わる)
ほのぼの明かりて 流るる銀河
オリオン舞い立ち スバルはさざめく
無窮を指差す 北斗の針と
きらめき揺れつつ 星座はめぐる


星の界
(ここから全員)
月なきみ空に きらめく光
嗚呼(ああ)その星影 希望のすがた
人智は果てなし 無窮の遠(おち)に
いざその星影 窮(きわ)めも行かん

雲なきみ空に 横とう光
嗚呼(ああ)洋々たる 銀河の流れ
仰ぎて眺むる 万里のあなた
いざ棹させよや 窮理(きゅうり)の船に

以上、7分18秒(物静かに解散)


なんの前触れもなく、突如として集まり、なにごとかをしでかし、終わると即座に四方八方に散っていく。それがフラッシュ・モブ(Flash Mob/Flashmob)だ。フラッシュ・モブは大抵の場合、1通のメールから始まる。
フラッシュ・モブにリーダーは必要ない。一人の言い出しっぺがいればいい。早い話が一人のおっちょこちょい。そして、互いに互いを知らない関係。しがらみなし。義理人情なし。後腐れなし。なにごともなかったように集まり、なにごともなかったように解散する。解散し、散り散りになっていくときの表情がいい。
フラッシュ・モブは現代のゲリラ戦でもある。一瞬の馬鹿騒ぎ。一瞬の馬鹿騒ぎの美学。5分の美学。長くても10分。5分乃至10分のために一銭のゼニにもならないことに時間をかけ、血道を上げ、そればかりか自腹で交通費をつかい、練習し、眠い眼をこすってさらに練習し、うまくいかず、うまくならず、夜はふけてゆき、だらだらと集まり、馬鹿みたいに踊り、美声もへたくそも音痴もいっしょになって歌い、奏で、そして、物静かに解散する。それがフラッシュ・モブの美学だ。そのことこそが美しい。そのことこそが輝きの源だ。烏合の衆が時代を変えることもある。したり顔で薄っぺら不実なライフスタイルもどきやら文化論もどき道徳論もどき人生論もどきを語り騙る烏滸どもよりよほどクールでヒップだ。

わがフラッシュ・モブスターズどもよ。おまいら全員、一人残らずステキだ。まぶしいくらいに輝いてる。どいつもこいつも1等星だ。おまいらに一人残らず幸いあれ。神サマだってどこかでくすりとしているはずだ。では、次なる戦場で会おう。
 
by enzo_morinari | 2013-10-26 05:49 | きょうも元気にFlash Mob | Trackback | Comments(0)

『モヒカン族の最後』と世界の終り/戦うにはいい日だ! 死ぬには手頃な日だ!

 
c0109850_11175659.jpg


モヒカン族は滅んでいない。最後のモヒカン族はまだいない。最後のモヒカンになるのはだれだ? E-M-M


アステカ族の末裔であるナッシュ・タヴェワからもらったネイティブ・アメリカン・フルート(Native American Flute/インディアン・フルート)で『Promontory』を吹いている。映画の『The Last of the Mohicans』の主題曲だ。

大地とともにあり、大地とともに生きた者のみが生みだしえた魂の音楽のための道具。魂の奥深くまで届き、心ふるわす音色。届く。ふるえる。アニャングの誇り高き赤茶けた大地の戦士たちが奏で、バリングラ/カタ・ジュタ/ウルルをさえ揺るがすディジュリドゥにも匹敵する強度で。

小田実が『HIROSHIMA』の中で書いていた。ネイティブ・アメリカンは大地とともに生き、大地とともに死ぬと。おそらくは小田実の言うとおりだろう。そして、「大地が死ぬとき人も死ぬ」という風の谷のババ様の言葉も。

マイケル・マン監督の『The Last of the Mohicans (モヒカン族の最後)』からもう20年が経つか。そのあいだに世界はずいぶんと変わったものだ。

いい方向に? まさかね。吾輩の知りうるかぎりにおいて、この20年で世界は悪い方向にばかり歩みを進めた。信じがたいほどの愚劣と卑劣と下衆外道と恥知らずが我が物顔で幅をきかせ、肩で風を切っている。恥も知らぬげに。いけしゃあしゃあと。

このまま世界は腐り、悪くなる一方のまま終わるのか? そして、死ぬのか? このまま、「戦うにはいい日」も「死ぬには手頃な日」も来ないのか? まあ、いい。それもまた世界がみずから選んだ道だ。どう歩みを進めようと、どう転ぼうと、いずれ血塗られた道であることに変わりはない。

鷹の眼ダニエル・デイ=ルイスももう56歳か。『ガンジー』から数えると30年。『眺めのいい部屋』からは28年。『存在の耐えられない軽さ (The Unbearable Lightness of Being)』からは26年。『My Left Foot: The Story of Christy Brown (マイ・レフトフット)』からは25年。2012年には『リンカーン』で3度目のアカデミー主演男優賞を獲った。コーラ役のマデリーン・ストウは貫禄のおばちゃん道まっしぐらだし、アリス役のジョディ・メイは匂い立つような成熟したレディになった。監督のマイケル・マンはすっかりおじいちゃんだ。愛娘のアミ・カナーン・マンは『Texas Killing Fields』(2011)という派手さはないが才気を感じさせる作品を監督した。

だれもかれもが齢をとった。一人の例外もなく。物静かに表舞台からの退場を果たすのが美学ということでもあるか。出演作品を吟味しつくすダニエル・デイ=ルイスの次回作をみられるのはいつだろうな。そのときまで The Other Side への道行きの途についていなければいいが。腐っていようと死んでいようと、世界がまだあればいいが。

c0109850_174883.jpg

ホカ・ヘイ! ヤタ・ヘイ! アヒェヒェ! 戦うにはいい日だ! 死ぬには手頃な日だ!
モヒカン族は滅んでいない。最後のモヒカン族はまだいない。最後のモヒカンになるのはだれだ?



Hoka Hey! Ya Ta Hey!
The Last of the Mohicans - The Complete Original Soundtrack
Promontory (The Last of the Mohicans Final Battle)
Five Spirits - Apache
The Indian Road: Dreaming and Sound of Native Americans
The Last of the Mohicans - Native American Flute
 
by enzo_morinari | 2013-10-25 11:18 | QUO VADIS? | Trackback | Comments(2)

真言の音楽#43 世の友我らを捨て去るときも 讃美歌312番

 
c0109850_19412648.jpg

 
讃美歌312番『慈しみ深き友なるイエス/What a Friend We Have in Jesus』は杉谷代水『星の界』/川路柳虹『星の世界』の原曲としても知られる。讃美歌312番も『星の界』/『星の世界』も、それぞれに胸の奥深くに迫りくる世界観/宇宙観の広がりと豊かさを併せ持っている。特に讃美歌312番の「世の友我らを捨て去るときも 祈りに応えて労り給わん」は、重荷を背負い、不条理理不尽の礫を受けている者には心強い励ましともなるはずだ。『犬の聖歌』に心ふるえるのはまさにこのこととおなじである。クリスチャンであるか否か、信仰の対象がなにであるかにはかかわりがない。


慈しみ深き友なるイエス/What a Friend We Have in Jesus (讃美歌312番)

慈しみ深き友なるイエスは
罪科(つみとが)憂いを取り去り給う
心の嘆きを包まず述べて
などかは下ろさぬ負える重荷を

慈しみ深き友なるイエスは
我らの弱きを知りて憐れむ
悩み悲しみに沈めるときも
祈りに応えて慰め給わん

慈しみ深き友なるイエスは
変わらぬ愛もて導き給う
世の友我らを捨て去るときも
祈りに応えて労(いたわ)り給わん


星の界 作詞: 杉谷代水/原詞: Josepf M. Scriven/作曲: Charles Crozat Converse

月なきみ空に きらめく光
嗚呼その星影 希望のすがた
人智は果てなし 無窮の遠に
いざ其の星影 きわめも行かん

雲なきみ空に 横とう光
嗚呼洋々たる 銀河の流れ
仰ぎて眺むる 万里のあなた
いざ棹させよや 窮理の船に


犬の聖歌
この世の中では親友でさえ裏切り、敵となることがある。愛情をかけて育てた我が子も深い親の愛をすっかり忘れてしまうかもしれない。あなたが心から信頼しているもっとも身近な愛する人も、その忠節を翻すかもしれない。
富はいつか失われるかもしれない。それはあなたがもっとも必要とするときに、あなたの手にあるとは限らない。名声は些細な思慮に欠けた行為によって瞬時に地に堕ちてしまうこともある。成功に輝いてるときは跪いて敬意を払った者が、失敗の暗雲があなたの頭上を曇らせた途端に豹変し、悪意の石つぶてを投げつけるかもしれない。
こんな利己的な世界で、唯一、決して裏切らず、恩知らずでも不誠実でもない絶対不変の存在がいる。あなたの犬だ。
あなたの犬は、富めるときも貧しきときも健やかなるときも病めるときも常にあなたを助ける。冷たい風が吹きつけ、雪が激しく降るときも、あなたのそばなら、冷たい土の上でさえ眠るだろう。
与えるべき食べものがなにひとつなくても、手を差し伸べればキスしてくれ、かれは世間の荒波にもまれたあなたの傷や痛手をやさしく舐め、そして癒してくれる。犬は貧しいひとびとの眠りを、まるで王子の眠りを見守るごとく守ってくれる。
友が一人残らずあなたを見捨て立ち去っても、あなたの犬はけっしてあなたを見捨てない。裏切らない。富を失い、名誉が地に堕ちても、犬はあたかも日々天空を旅する太陽のごとく、変わることなくあなたを愛する。たとえ、運命の導きによって、友も、住む家もない地の果てへあなたが追いやられたとしても、忠実な犬はあなたとともにあること以外なにひとつ望まず、あなたを危険から守り、敵と戦う。
すべての終わりがきて、死の影があなたを抱き取り、骸が冷たい土の下に葬られるとき、人々が立ち去ったあとのあなたの墓のかたわらには、前脚に頭を垂れた一匹の気高い犬がいる。その眼は悲しみに曇りながらも油断なくあたりを見まわし、死者に対してさえも忠実さと真実に満ちている。
 
注記:『犬の聖歌』は19世紀、アメリカ合衆国ミズーリ州で起きた、ある犬の射殺事件をめぐる裁判において上院議員ジョージ・ベストが行った弁論の一部である。


讃美歌312番 慈しみ深き友なるイエス
What a Friend We Have in Jesus - Ella Fitzgerald
 
by enzo_morinari | 2013-10-24 19:45 | 真言の音楽 | Trackback | Comments(0)

真言の音楽#41 すべての音楽は「歓喜のうた」である。

 
c0109850_2353431.jpg

 
音楽は世界語であり、世代超越語だ。人種も民族もイデオロギーも国家も­超える。すべての音楽は「歓喜のうた」である。そして、1枚のコ­インは使い方によって世界を変える力となりうる。

Best Coin Ever Spent and Spread the World
 
by enzo_morinari | 2013-10-22 23:06 | 真言の音楽 | Trackback | Comments(0)

埴生の宿の夜はふけて#1 いつかさよならのときが来たとき

 
c0109850_5103295.jpg

 
貧しいことがあたりまえであり、貧しさが美しかった時代がかつてあった。E-M-M


月に1度、豊饒の月が幽けく輝く夜、ジャズ・ミュージックでも古典楽曲でもHIP HOPでもなく、ひたすらに「童謡/唱歌/子守唄/世界の民謡」を聴きつづける時間をつくっている。この夜を吾輩と虹子は「埴生の宿の夜」と名づけている。いつも初めに聴くのはイングランド民謡の『埴生の宿(楽しき我が家/Home! Sweet Home!)』だ。

ゆうべの「埴生の宿の夜」は鮫島有美子が歌う『埴生の宿』で始まった。鮫島有美子については吾輩も虹子も「ひとつの奇跡」であると考えているので、まことに心ふるえる「埴生の宿の夜」の幕開けとなった。われわれは「"鮫島有美子" という奇跡」についてもっと思いをいたさなければならない。

2時間ほどの「埴生の宿の夜」が静かに消え入るように終わり、中井貴一主演の『ビルマの竪琴』をみていた。戦死した戦友の菩提を弔うために仏僧となった水島上等兵が、今は虜囚の身となったかつての戦友たちに向けて竪琴で『埴生の宿』を奏ではじめたときだ。おそい夕餉の仕度の手を止めて虹子が言った。

「いつかさよならのときが来たとき」

しばしの沈黙。深い沈黙。「いつかさよならのときが来たとき、ずっと手を握っていてください。ずっとわたしを見ていてください。いつまでもわたしのことを忘れ ──」
「みなまで言うな」

水島上等兵の奏でる『埴生の宿』が深く静かに秋の夜の闇の中に消えていった。かくして、埴生の宿の夜はさらにふけゆく。
 

埴生の宿 - 鮫島有美子
埴生の宿 - 東京放送児童合唱団


Home! Sweet Home!/Lyric: John Howard Payne
Mid pleasures and palaces though we may roam,
Be it ever so humble, there's no place like home;
A charm from the skies seems to hallow us there,
Which seek thro' the world, is ne'er met elsewhere.
Home! Home!
Sweet, sweet home!
There's no place like home
There's no place like home!



埴生の宿/訳詞 里見義
埴生の宿も 我が宿 玉の装ひ 羨まじ
長閑なりや 春の空 花はあるじ 鳥は友
おゝ 我が宿よ たのしとも たのもしや

書読む窓も 我が窓 瑠璃の床も 羨まじ
清らなりや 秋の夜半 月はあるじ むしは友
おゝ 我が窓よ たのしとも たのもしや


c0109850_5111925.jpg

 
by enzo_morinari | 2013-10-21 05:13 | 埴生の宿の夜はふけて | Trackback | Comments(0)

千のメルドー#8「特定秘密保護法」にみる霞が関文学の現在#1

 
c0109850_12585413.jpg


メルドー物件0010 霞が関の三下奴/木っ端役人の手になる霞が関文学『特定秘密保護法』


子曰く。民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず。泰伯/『論語』

亡霊が復活し、彷徨い、世界を覆いつくそうとしている。「特定秘密保護法」という名の治安維持法の亡霊が。E-M-M


子曰く。民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず。(子曰、民可使由之、不可使知之。)
「由る」は「頼る」の意。国家を治める際の為政者の基本理念/基本姿勢/心構えを説いた文言だ。現代文にすれば以下のごときものとなる。

孔子は言った。「人々を頼らせることは容易だろう。しかしながら、理解してもらうのはむずかしい。」

「民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず。」は長きにわたって権力者の都合のいいように曲解されてきた。すなわち、

孔子は言った。「愚かな民は(為政者に)頼らせるべきで、わざわざ知らせるべきではない。(いたずらに混乱を招くだけである。)」

このような解釈は、長いあいだ、為政者/権力者による秘密保持/秘密保護/情報統制の根拠とされてきた。その連続が政治の歴史であるとも言いうる。これは「べし」を恣意的に「命令」または「当然」の意味に解釈した結果だ。本来、「べし」は「可能」あるいは「推測」の意味である。

為政者/権力者たちは以後も情報統制しつづけ、国民を欺きつづけようとするだろう。「真の為政者/権力者=官僚」であることを巧妙狡猾に隠蔽したまま。

「特定秘密保護法」の原案は「知る権利」を明記することを見送った。このことはなにを意味するか?
言葉が変化していくのはどんな時代でも世の習いだ。しかし、誤った解釈が定着するのは変化ではない。愚劣愚鈍である。しかしながら、繰り返し誤った用法を聞かされつづけるとこちらの理解が変なのかと不安にすらなってくる。

過日のNHKの政治討論会。野党の政治家から、「与党のやりかたは、由らしむべし。知らしむべからず」であり、それが「政治不信のもとになっている」という発言があった。

野党議員の発言した「由らしむべし。知らしむべからず」は孔子の『論語』中にある泰伯の言葉である。野党の発言者はこの言葉を「為政者は国民に無批判に頼らせればいいのであって、本当のことは知らせてはいけない」というように解釈している。

つまりは「強きには文句を言わず、黙って従え」という意味に理解しており、そうした与党の政治姿勢が国民の政治不信の原因を作っていると言いたかったのだろう。こうした解釈は、上位下達がいかに人々を虐げるかという批判をあらわす言葉として使われている。

専制君主、暴君の言葉ならまだしも、孔子の言葉だとわかれば、少しは「ちょっと待てよ」とこの言葉の真意を考え直してみてもよさそうなものだが、どっこいそうはならない。思い込みがそうさせているのか、一人歩きを始めた「由らしむべし。知らしむべからず」の語は本来の意味を無視して突っ走っていく。

「由らしむべし。知らしむべからず」の語は確かに為政者が国家/国民を治めるときの心構えについて語ったものではあるが、国民に目隠しして、「黙って俺について来い」と命令しているのではない。

この語の意味は、「為政者は国民から信頼されて導いていかなければならない。しかし、国民に正しい教えを完全に理解させるのはとても難しい」というところにこそある。だからむしろ、「国民に頼られることは容易だが理解してもらうことはとても難しい」という意味だと解釈すべきだ。「文句を言わずに俺についてくればいいのだ」というような専制君主のごとき解釈をするのはあきらかな誤用である。

このごろは「政府は信用できないから情報を公開せよ」というのが当たり前の状況になっていて、孔子の時代に為政者が国民に真実を知らせるにはどうしたいいかと悩んだのとはまったくちがう時代になっている。

「由らしむべし。知らしむべからず」を多くの人が誤用するのはメディアの浅薄な解釈、安易な考え、そして無批判に権力は悪であり、権力に対抗することこそが正義だと思い込んで報道する思い上がりに起因している。それとも今の現実政治が誤用のベクトルとなり、絶対多数という隠れ蓑の陰で本当に国民から真実を隠そうとしているのか。そして、誤用が現実のものとなったか。

東京五輪開催決定以降、福島原発事故は問題が「汚染水」にのみ矮小化され、土壌汚染の状況、除染により発生した汚染物質の保管方法やメルトダウン/メルトスルー/メルトアウトした福島第1原発の1~4号機の事故収束に向けた作業の進捗状況等について、政府/東電からの情報発信はなく、大手メディアもまともに報じていない。

まことにげにも薄ら寒くなる「原発事故隠蔽大政翼賛体制」である。東電破綻処理、巧妙狡猾な総括原価方式と地域独占によって支えられた諸悪の根源である電気事業の改革など夢のまた夢だ。

「特定秘密保護法」が成立すれば、「テロの危険対策と防御」という「美名」によって原発に関するすべての情報が遮断され、福島原発に関する情報についてはなにも知らされないばかりか、これを探る動きさえも合法的に排除されることとなるのは今から目に見えている。

「霞が関文学」の最新作は木っ端役人/霞が関の三下奴が、戦後、支配の金科玉条のひとつであった「治安維持法」消滅を経て、スパイ防止法以来、何十年もかけて虎視眈々、待ちに待った機会を逃すこともなく「特定秘密保護法」として結実する。そのことの重大さ、深刻を知ってか知らずか、きょうも能天気な極楽とんぼどもはあれやらこれやらそれやらに御執心、御満悦という次第。恐れ入る。

霞が関の三下奴/木っ端役人の下衆外道どもの頭にあるのは「省益」と「官益」だけである。しかし、「特定秘密保護法」を可決成立させる政治屋どもはみずからの首を絞めることにつながっていることに気づかない。なぜ気づかないか? 馬鹿だからである。愚かだからである。脳みそのしわがないからである。勉強していないからである。ものを考えていないからである。

オガクズかオカラかが詰まったような脳みそでなにごとかを考えることなどできはしない。そして、木っ端役人/官僚の三下奴どもに寝首をかかれ、尻を叩かれかかれ、いいようにヤラレまくるのだ。

尻に浅いも深いもない。尻は尻だ。しかし、落とし噺やらお能やら歌舞伎やら狂言やらの「古典芸能」を三昧して御満悦に浸っているような腑抜けは狂言回しの猿以下、自分の撒いたタネの始末もつけられず、自分の小汚い尻も拭けぬ三下奴、瘋癲、ドサンピン(ど三一)である。虫酸が走り、反吐が出る。

通好み? あんたが通ならおれはワンだ。樽犬だ。樽犬タルティーヌ様だ。お天道様が陰るから樽犬様の前に立つな。目障りだ。

*「特定秘密保護法」が可決成立されるまで、知らしむべくひっそりこそこそとつづく。
 
by enzo_morinari | 2013-10-20 08:37 | 千のメルドー | Trackback | Comments(3)