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天国からカミナリ、天国にアローハ!

 
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IZはひとつ年下だった。IZは1997年6月26日午前0時18分に死んだ。38歳になったばかりだった。春の終りに天上界からやってきたIZは夏の初めに天上界へと帰っていった。

IZが死んだとき、まちがいなく世界は軽くなった。370kgぶん。そして、宇宙の涙の総量が2パーセント減った。吾輩はIZを悼んでチャンティングした。ポリネシアンたちが集まってきて最後は大合唱のようなチャンティングになった。

「そんなふざけた話があってたまるか」と思った。生きていなければならないやつが死に、死んでしまったほうが世界が2パーセントくらいよくなる吾輩のような者が生き残る。まったく世界はふざけた話ばかりで出来あがっているものだと思ったぜ。

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IZよ。おまえがいなくなって世界は確実に2パーセントくらいつまらなくなった。HAPAの『Pau 'Ole Ka 'I'ini』とテレサ・ブライトの『Hula Heaven』がなぐさめてくれた時期もあったけど、所詮、焼け石に水だ。長続きはしない。やっぱり、おまえがいないとな。そんなことは初めからわかりきってはいたんだ。F1にアイルトン・セナが欠かせなかったように、音楽、少なくともハワイアン・ミュージックにはIZが欠かせないんだ。少なくともこのおれの世界においてはな。

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IZよ。世界はますますつまらなくなっていくぜ。地上の楽園なんてとんでもない。そんなものはこの広い宇宙のどこにもありゃしない。地上の楽園があると言う奴やあると信じている奴は救いようのないバカか大うそつきかオニヒトデか野村沙知代か田嶋陽子だ。

地上の楽園なんかとっくに消滅しちまったんだ。地上の楽園があって、そこでは人間も動物も森の樹々たちも仲がよくて、毎日毎日、朝から晩まで笑い転げて暮らしていられたのは、おまえがまだ地上にいたころの話、昔々の大昔、神さまがまだヘソを曲げる前の話だ。

いまここは陰険で冷酷で姑息で臆病で狭量で鈍感で狡いやつばかりがおおきな顔をしてのさばる世界だ。息をするのさえ苦しいぜ。おれだけじゃない。大勢のやつが「息もできない」「居場所がない」って、落下傘も蝙蝠傘もなしでエンパイア・ステート・ビルヂングから飛降りてみずから死を選ぶ始末だ。中にはマリアナ海溝の一番深いところにスクーバ・タンクもレギュレーターもBCDもウェイトもフィンもマスクすらもなしで潜って、最期はスルメイカみたいにぺしゃんこになって死ぬやつもいる。

これもエンパイア・ステート・ビルヂングから落下傘なし蝙蝠傘なしで飛降りたやつらとおなじだよな? なんでこんなことになっちまったんだろうな。おまえはいい時期に逝ったのかもしれないぜ、IZ。

ん? カミナリが鳴ったな。聴いてたんだな、IZ。天国からカミナリとはな。いかにもおまえらしい。え? 「情けねえぞ、兄弟」って? そりゃね、歳も歳だしね。うんうん。そうか。いやなことばかりじゃないって? そうだ。そのとおりだ。

ついこのあいだの明け方、おれもそう思ったよ。いやなことばかりじゃない。いやなやつばかりじゃないってね。うんうん。オーケイ。アローハだよな。おまえの言うとおりだ。Akahai/やさしさと思いやり、Lokahi/調和と融合、Oluolu/よろこびをもって柔和に、Haahaa/ひたすら謙虚に、そして、最後にAhonui/忍耐と我慢だな。

オーケイ。わかった。もうすこしだけがんばってみることにするよ。お? またカミナリだ。うんうん。「そうだ。それがいい。もうすこしだけがんばるんだ、兄弟。アローハ!」ってか? わかったよ、IZ。天国に「アローハ!」のお返しだ。アローハ! 何度でもアローハ! どこにあるのかも、あるのかどうかさえわからない虹の彼方にも、このろくでもない素晴らしき世界にもアローハ! また夜が明けてきた。

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Israel "IZ" Kamakawiwoʻole


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by enzo_morinari | 2012-10-31 05:00 | 天国にアローハ! | Trackback | Comments(0)

沈黙ノート#666

 

生まれ変わることはできない。
少しずつ変わることはできる。



 
by enzo_morinari | 2012-10-30 17:30 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

背中#1 後姿のしぐれてゆくか

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もうじき一年が終わる。百代の過客の後姿もしぐれゆく。青二才だった頃のある年の瀬が思い出される。中学二年の秋に母親が死んで一人の生活が始まり、六度目の正月を迎えようとしていた。私は二十歳で、それが人の一生で一番美しい年齢だなどとは誰にも言わせぬ日々を生きていた。貧しかった。いつも腹を空かしていた。そんな私にも容赦なく年の瀬はやってきた。

大晦日の夜。生物学上の父親が訪ねてきた。ジョニ黒をひと瓶ぶら下げて。母親が死んだときに会って以来、六年ぶりだった。めっきり老けこんでいた。額のしわが驚くほど多く、深かった。頑強だった体の線はすっかり細くなっていた。生物学上の父親は私の前にジョニ黒の細長い瓶を置くなり、くぐもった声で言った。

「銭湯へいこう」

私は黙ってうなずいた。洗面器と石鹸と大小のタオルの二組を支度した。銭湯への道すがら、私も生物学上の父親も無言だった。お互いに言いたいこと、聞きたいことは山ほどもあるのに。吐く息は白く、冬の夜空の星々が音もなくさんざめいていた。窓辺に映る市井の人々の暮らしの灯火が眩しかった。新しい年は数時間ほどにまで迫っていた。

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銭湯はやけに騒々しかった。父と私。湯船に並んでつかってはいても、互いに口をきこうとしないばかりか、顔さえ合わせなかった。沈黙に耐えられなくなって、とうとう私は「背中流そうか?」と切り出した。生物学上の父親はやや間を置いたあと、ゆっくりとうなずいた。

眼の前に父の背中がある。それまでに数えきれないほど見送り、憎しみやら怒りやらをぶつけ、眼をそむけ、焦がれた背中だ。細い。曲がっている。背骨がくっきりと浮き出ている。力一杯こすれば壊れてしまいそうな父の背中。涙と湯気とで視界はみるみる曇ってゆく。言葉にならない思いのたけを込め、無我夢中でこすった。気づくと、父の背中が小刻みに震えていた。父が泣いている。私はこのとき、初めて父と対話したのだと思う。新しい年がすぐそこまでやってきていた。

父は父である前に一人の男だった。母も母である前に一人の女だった。そして、二人とも人間だった。そんなあたりまえのことに、そのとき初めて気づいた。私に背中を向けていたと思っていた父は、実は私と同じ方向を見ていたのだということにも。

部屋にもどり、湯飲み茶碗でジョニ黒を一杯ずつ飲んだ。言葉もなく飲みおえ、父は大晦日の夜ふけの街を一人帰っていった。父の背中は冬の街明かりの中にしぐれゆき、やがて消えた。父もいまやなく、その背中を流すことも、撫でることも、見送ることすらもかなわないが、それでも、そうであってさえ、しぐれゆく父の背中はいまもある。

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by enzo_morinari | 2012-10-30 07:00 | 背中 | Trackback | Comments(0)

R U Still Down Gun 4?/SUBMERSION OF JAPAN

 
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日本国を襲う四つの災害・災厄
民主党・鳩山政権発足時に廃止された「事務次官会議」は「全省庁連絡会議」と名を変えて復活した。官僚=木っ端役人のお得意常套手段である「看板の付け替え」が臆面もなく行われたのだった。閣議前日に行われる「全省庁連絡会議」で決定されたことが翌日の閣議で承認、最終決定する。

この国を動かしているのは内閣ではない。官僚である。木っ端ひとつさえも生み出すことのない木っ端役人どもが国家の中心に寝穢く居座り、甘い汁を貪り吸うという構図。国の最高法規である憲法第72条には内閣総理大臣は行政各部を指揮監督することが明記されているが、これはいまや死文も同然だ。

実質的に木っ端役人に「指揮監督」されているのはほかならぬ内閣総理大臣である。先の内閣改造における閣僚人事はすべて官僚の思惑どおりのものとなった。国権の最高機関たる国会において選ばれた者をも操る傲岸不遜。

「政治主導」などとはまったくのお笑いぐさである。日本国は「官僚主導」どころか「官僚支配」の国である。官僚どもの主たる眼目は自らの保身と利権の確保をいかに国の仕組みの中に持ち込むかだけにある。国家公務員法と地方公務員法を盾に木っ端役人どもはやり放題である。虫酸が走り、はらわたが煮えくりかえる。

さて、いま日本国は四つの災害によって存亡の危機にある。ひとつは先の東日本大震災。だが、これはいずれ時間の経過とともに乗り越えることができる。ふたつは現在進行形で発災中である福島原発事故。みっつは官僚災害である。

官僚は害虫である。シロアリどころではない。害獣、害悪そのものである。世界はこの害虫、害獣、害悪を駆除する方法も技術も思想も哲学も持たない。

官僚、木っ端役人は日本国の隅々にまで網を張りめぐらし、日々、時々刻々と血税と人的資源と国と国民の資産を貪り食っている。木っ端役人が真面目で地味で地道だなどとゆめゆめ思ってはならない。木っ端役人どもは虎視眈々と「利権」の確保を狙い、すでに確保済みのものについてはその蜜を音を立てて吸いつくしている。

税収の95パーセントが木っ端役人どもの「給与」に消え、それでも飽き足らずに、発行した国債の中から毎年20兆円超のカネが木っ端役人どもの天下り先の維持に使われているという現実。国民は生まれたばかりの赤ん坊からお迎え間近の爺さん婆さんまで一人残らず「国債」という名の借金を背負わされ、木っ端役人どもに貢がされている奴隷状態の現実に一体どれほどの者が気づいているか? 官僚/木っ端役人どもの「家畜」とされていることに。

国と国民はみるみるうちに痩せ細っていくが、当人はそのことにまったく気づかない。それほど木っ端役人どもの手口、やり口は巧妙狡猾なのだ。程度の差こそあれ、霞ケ関を頂点として日本全国津々浦々の県庁で市役所で町役場で村役場で木っ端役人どもによる甘い汁吸い、貪り喰いは日常茶飯事で行われている。例外はただのひとつもない。被災地でさえもだ。

「予算執行のための予算」とは一体全体どういう理屈なんだ? まさに木っ端役人どもの「焼け太り」の目論見そのものだ。おまけに予算はついたが現場にはその半分も下りてこないという呆れ果てた怠慢。性根の腐った輩らしいと言えばまさにその通りなのではあるが。

日々悪巧みに余念のない木っ端役人どもにそろそろ回復不能なほどのお仕置きをし、あとには枝も木っ端も残らず、ぺんぺん草ひとつさえも生えないような究極の鉄槌を下す時期が来ているのではないのか?

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そして最後は、これがもっとも厄介なのだが、団塊世代災害である。40年以上も前の「政治の季節」に「革命だ、反乱だ」「連帯を求めて孤立をおそれず」「止めてくれるなおっかさん。我々は世直しの渡世人である」「神田を日本のカルチェ・ラタンに!」等々の威勢のいいかけ声の元に参集した団塊世代の爺さん婆さんのあさましさと来た日には思わず目を背けたくなるほどだ。

団塊老人どもの口から出るのは二言目には「年金、年金」だ。心を入れ替えて「粘菌研究でもしたら?」と言いたくなるが、所詮、無駄だ。団塊老人どもこそが「官僚支配」「官僚ファシズム」を生み、容認し、維持した張本人であることを思えば、彼らがその自ら作り上げたシステム、仕組みを否定するのは自己否定、自己矛盾に陥ってしまう。

もっと現実的、つまりは目先の問題として、団塊老人の明日は、日々の生活、暮らしは官僚支配、官僚ファシズムが生み出し、もたらす「破綻した年金システム」に支えられているから彼らは根本的には「官僚NO!」とは決して言わないのだ。

彼らに責任を取らせなくていいのか? 40年以上前の「政治の季節」に国家に「NO!」を突きつけたのは若気の至りで、いまは子も孫もいる好々爺・好々婆であるからゆるしていいのか?

はっきり言ってしまおう。日本国をダメにしたのは団塊世代及びポスト団塊世代である。

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日本国はもう潰れる。霞ケ関の官僚どもはもう何年も前にそのことに気づいている。霞ケ関の木っ端役人が英知と人的資源を結集して作成した「日本国破滅のシナリオ(仮題)」はタイム・テーブル付きで日本国がどのように衰退し、ついに破滅・破局を迎えるかを政治・経済・財政等々の重要項目について個別具体的な事例と数値とともに述べている。

吾輩はその超極秘一級資料を読み終えたとき、「やはり」と思うと同時に、キッズどもを海外移住させることを決意した。当該資料についてはいずれボンクラヘッポコスカタン・メディアにPDFファイルにでもして送ってやろう。海外のメディアには翻訳しなければならないから多少時間がかかる。弟子どもは今、まさに寝食を忘れて翻訳作業に取りかかっている。なにしろ、A4サイズで2000ページにも及ぶ膨大な資料である。

この「日本国破滅のシナリオ(仮題)」を吾輩にもたらしたキャリア官僚は朋友でもあるのだが、この9月で退官した。国家公務員法違反を覚悟の上の「快挙」にはなんらかのかたちで報いなければならない。親しき仲にも礼儀ありだ。

裁判になればそれこそこちらの思う壷である。黙っていてもメディア、マスコミが飛びつく。海外メディアもだ。さらに日本国債の金利は上昇、日経株価は大暴落、破滅のシナリオはさらに加速するはずだ。ざまあない。これが国家と国民を食い物にし、我が物顔でお手盛り行政をやってきたことに対するツケ、決算書、スカして言うならばデウス・エクス・マーキナーということである。

年金頼みの団塊世代のおじいちゃんおばあちゃん、悪いけど往生際を考えてくださいね。あなたたちは官僚ファシズムのお先棒担ぎ、共謀共同正犯なんだから文句は言えないよ。「おれはなにもしていない」「あたしゃ共産党にいつも投票してたよ」と言っても通用しないよ。「責任は世代で負うもの」と相場は決まっているんだからね。

団塊世代のあとの「ポスト団塊世代」の老人の新米さんたちにもなんらかの天誅・天罰は下るだろうな。それも致し方あるまい。すべては「世代の連帯責任」だ。責任を取らない、無責任を決め込むというなら海外移住しか手はないよ、おじいちゃんおばあちゃんの新米さんたち。

「私有財産の没収」「金融資産の一時凍結」等々、木っ端役人どもは恥も外聞も義理も人情もへったくれもなくやってくるからな。全財産を風呂敷に包んでニュー・カレドニアにでも行くがよろしいよ。あそこは「天国に一番近い島」らしいからお迎えの手間と交通費を多少なりとも節約できる。おすすめです。ガーデニングも日向ぼっこも思う存分できるしするしね。ただし、「おひさま依存」「トロピカル・ジュース依存」にはくれぐれも注意してくださいね。「依存」はどこにでもついてまわるんだから。

「依存」という厄介者はマリアナ海溝の一番深いところだろうとでっかい帝国林檎の樹の根元だろうとイオン石岡店の文房具売り場だろうと40年ぶりのクラス会会場だろうと北欧家具と雑貨に埋めつくされたワールド・ヘルシンキ・アパートの甘い生活部屋だろうとアレクサンダー・ザ・グレイト・ドッグとダレイオスの犬のイッソスの荒野の決闘の場だろうと地獄の8丁目だろうと天国の階段だろうと天国の扉の前だろうと天使の厨房だろうとついてまわるものなんだよ。たのしいね。(はあと)

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石原慎太郎なり橋下の坊やが政権をとったとしても、事はそう簡単ではない。待っているのは「官僚ファシズム」との全面戦争か、巧妙狡猾、用意周到に準備された「懐柔策」で骨抜きにされるのがオチだ。はっきり言えば、顔面土左衛門操り人形となれ果てた野田佳彦のごときボンクラになるということである。それほど木っ端役人どもはしたたかに計算・計画を立てている。

どこのどいつが政権をとろうと対応するためのシナリオはすでにできている。木っ端役人どもにとってはすべて「想定内」なのだ。それでも、「対官僚ファシズム戦争」に打って出る蛮勇の持ち主が現れたとして、その兆候は「秘書官人事」にあらわれる。内閣総理大臣をはじめとする各閣僚にそれぞれつく秘書官どもこそは「官僚帝国」が送り込む精鋭部隊だからだ。その人事にいささかなりとも「官僚排除」の兆候をみることができるなら、その内閣は程度の差は別として「対官僚ファシズム戦争」について本気であると言ってよい。木っ端役人どもは常に政権に「宣戦布告」しつづけてきたのだから、そろそろ、その売られた喧嘩を買う「大バカもの(某財務官僚談)」が現れてもいいし、おもしろくはあるんだがね。

*「団塊世代及びポスト団塊世代の災害・災厄」については機会を改めてたっぷりじっくりとことん手加減なし容赦なしでやることにする。

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by enzo_morinari | 2012-10-29 03:30 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(2)

秋霜烈日#1 仇討ち/やられたらやりかえせ

 
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埼玉少女連続誘拐殺人犯・宮崎勤の死刑が執行されたのは判決確定から2年4ヶ月後のことであった。刑事訴訟法に照らすならば遅きに失すると言わなければならない。

やられたらやりかえせ ── やくざの世界にはそのような不文律がある。昨今の性根の腐った輩どもによる悪行非道を見聞きするにつけ、「やられたらやりかえせ」という単純明快さがやけに説得力をもってくる。

「仇討ち」は国家が殺人を容認したシステムである。武士が「仇討ち」を果たせなかった場合、厳罰をもってのぞむ藩さえあった。原則としては武士階級にのみ「仇討ち」は認められていたが、例外的に一般市民にもゆるされることがあった。古典落語にも『宿屋の仇討ち』『芝居風呂』『花見の仇討ち』『役者息子』など市井の民による仇討ちを題材にした噺がいくつかあるほどだ。

「仇討ち」というと「忠臣蔵」が典型のように思われているが、これは事実誤認である。いわゆる「忠臣蔵」として扱われている美談は被害妄想の愚か者による「いわれなき衝動殺人未遂事件」に端を発しているのであって、巷間伝わるような吉良によるいじめ、仕打ちは客観的事実としてなかったことがあきらかになっている。真に仇討ちを果たすべきは吉良一門なのだ。

吉良上野介は名君の誉れ高く、その行政手腕は抜きんでていた。吉良上野介は浅野内匠頭長矩という「バカ殿」の被害妄想の犠牲者であると言ってよい。天下太平楽気分の時代への警鐘として「忠臣蔵」を読みとるときにはじめて大石内蔵助と幕府の裏の丁々発止がみえてくる。だが、それはまた別の話である。

さて、言うまでもなく、「仇討ち」は現在ではゆるされていない。法治国家という制度に飼いならされているわれわれは自明のこととして「仇討ち」の禁忌を受け入れているが、ことはそれほど単純ではない。「仇討ち」がタブーとされたのはたかだか近代以降100年あまりのことにすぎないのだ。

制度としては禁じられても、文化、あるいは、われわれの感情、心性はこれをすみやかに受け入れてはいない。実際、仇討ち的な殺人はおなじ殺人でも刑事裁判ではおおむね情状酌量による減刑がなされる傾向がある。法定減刑と併せれば執行猶予付き判決がくだされるケースもある。

親子兄弟、夫婦の情愛からほとばしりでた無念の思いを晴らさんがためのやむにやまれぬ行為をだれも裁くことはできない。鬼畜のごときたわけ者に被害者の遺族が一矢を報いたとしてだれもそれを糾弾することはできない。これがわたしの第一の立場である。「復讐の連鎖の不毛」などという青臭いことを持ち出してもわたくしには通用しない。実現の道筋なき絵空事はおとといだかあさってだかの方角にある極楽とんぼ長屋で花見の相談でもしながら議論でも討論でもディベートでも好きなだけやるがよかろう。

すべてのことどもに大切なのは、暮らし、生活実感、生きざまに根ざしたリアリティである。聖人君子づらして「実現の道筋なき空虚な言辞」を弄したければピースボートにでも乗り込んで暢気な船旅をたのしみながら、「アフリカの飢えた子どものために文学はなにをなしうるか?」といった類いの極楽とんぼ議論を夜っぴてやるがいい。そのうち、福島瑞穂やら辻元清美やら田嶋陽子やらあたりが歯をむき出しにし、けたたましく首を突っ込んでくるにちがいあるまい。壮観である。

さて、わたくしの第二の立場は、第一の立場であってもなお「国家」「秩序」といった否応のない理念を食い破れない以上、その余は実現の道筋なき空虚な言辞にすぎなくなってしまうというものだ。

本来的には国家などないほうがいいに決まっている。しかし、否応なく国家はある。否応なくある国家があからさまになってくるのは秩序を乱したときだ。国家は犯罪を「秩序を乱すもの」としてこれを取り締まる。「暴力装置としての国家」が顔をあらわすときだ。

乱された秩序を回復するために法の名のもとに裁き、刑罰が執行される。弁証法的に言えば刑罰は「止揚」としてこれをとらえることができる。国家となし崩しに契約を結ばされたわれわれは国家による「止揚」に「怨」やら「憤」やらをすべて委ねなくてはならない。しかし、妻、夫、子供、親といった対幻想の領域を国家という共同幻想がなりかわることはできない。

被害者遺族の対幻想を国家が簒奪し、おまけに「被害者の人権侵害」をする構図。それに荷担する夜郎自大なメディア。「加害者の人権」という言葉をこのごろよく耳にするが、お笑いぐさである。

わたくしは罪刑法定主義者ではあるが、それは国家が網をかけている範囲でのことにすぎない。網を逃れる方法はいくらでもあり、いくらでも編み出される。それもまたひとつのリアリティだ。

「被害者の(もしくは被害者の遺族の)人権」についても言われることが多くなってきた。いずれも、お先棒担ぎの脳天気な夜郎自大メディアがあるいはジャッキをまき、あるいは蹂躙しているのだが、かれらの錦の御旗は唯一、「人権」というメルクマールである。「人権」といえばなんでもまかりとおるという短絡的かつ低次の志がかれらをして大手を振って「人権」を蹂躙させている。もちろん、脳天気メディアに巣くう輩どもはその「皮肉」に気づくはずもないし、気づこうともしない。「品格」とは無縁なかれらに露ほども期待してはならない。

さて、「仇討ち」はどのようにして果たすのか? 仇討ちの場はいくらでもあり、方法もいくらでもある。だが、それを具体的に記すことは法に抵触するのでここではしない。万感の思いをこめて知恵をしぼれば、かならずみつかるとだけ言っておくことにしよう。
 
by enzo_morinari | 2012-10-27 23:30 | 秋霜烈日 | Trackback | Comments(0)

紐育と昏睡#1

 
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 真冬の本牧PXの映画館、グリニッジ・ヴィレッジの青春、ワシントン広場の夜はふけて。
 ニューヨークのマンハッタン島にグリニッジ・ヴィレッジと呼ばれる一画がある。ソーホーやトライベッカとともに人気のスポットだ。いまはなきWTCとおなじマンハッタン島のダウンタウンに位置する。グリニッジ・ヴィレッジは作家や芸術家などの漂泊者、寄辺なき人々が好んで住んだ街だった。エドガー・アラン・ポーやマーク・トウェイン、フランシス・スコット・フィッツジェラルド、ユージーン・オニールなどだ。あまたのビートニクたちが闊歩した街でもある。彼らがグリニッジ・ヴィレッジを住処に選んだのは家賃が安いからだった。
 夜ふけのワシントン・スクウェアで『ワシントン広場の夜はふけて』を聴くこと。それがグリニッジ・ヴィレッジ行きの目的のひとつだった。14th ストリートの外れにある閉店セール中のポーン・ショップで15ドルで買ったSONYのオンボロのラジカセでヴィレッジ・ストンパーズの『ワシントン広場の夜はふけて』を聴いた。夜の10時を過ぎていて危険きわまりなかったが目的は達せられた。

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「ヴィレッジ」と親しみを込めて呼ばれるこの街を舞台にした映画がある。ポール・マザースキー監督の自伝的作品、『グリニッジ・ヴィレッジの青春』だ。1953年のグリニッジ・ヴィレッジを舞台にした「彷徨える青春」を哀感ゆたかに描いた宝石のような映画だった。『グリニッジ・ヴィレッジの青春』は真冬の本牧、PXのだだっ広い映画館でみた。ポップコーンおばさんにたっぷりとかけてもらったポップコーンの溶かしバターがダッフル・コートの袖口を汚すことさえ忘れて映画に夢中になった。2階席ではヨーハイ(Yokohama International School)のハイティーンたちがネッキングやらペッティングやらに夢中だった。いずれも、二度と取り戻すことのできない遠い日の思い出である。

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 役者志望の主人公レニーが真冬の駅のプラットホームにたたずみ、真っ白な息を吐き出しながら台詞の稽古をするシーンは30年以上の歳月を経ても忘れえぬ。ポール・デスモンドのシルクのようなアルト・サックスも秀逸だった。主人公がマーロン・ブランドの物真似やオスカー授賞を再現するシーンも素晴らしかった。鼻持ちならない詩人役でクリストファー・ウォーケンも出てたっけ。もちろん、わたくしがグリニッジ・ヴィレッジを訪れたときには、『グリニッジ・ヴィレッジの青春』で描かれていた街の面影は再開発によってほとんど失われていたが、それでも、かつて数多くの寄辺なき人々、漂泊者たちを惹きつけた「街の匂い」は残っていた。たとえば、裏通りの煉瓦の壁やカフェのテーブルの痕に。アーネスト・ヘミングウェイは『移動祝祭日』の中で、「青春時代の一時期パリに暮らした者には一生涯パリがついてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」と書いていたが、グリニッジ・ヴィレッジもまたそのような忘れがたい街だ。

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 わたくしがグリニッジ・ヴィレッジで過ごしたのは秋の初めから冬の終りにかけてのわずかな時間にすぎないが、それでもなお、雨上がりのワシントン・スクウェアの匂いや日曜日のヴィレッジ・マーケットのざわめきはいまもなつかしくあざやかに刻まれている。そして、本牧はすさまじい開発の波に飲み込まれ、わたくしの思い出にかかわるほとんどが失われた。思い出にすがって生きつづけることはできないが、それでも、リキシャ・ルームやゴールデンカップやイタリアン・ガーデンに行けばなにがしかの慰めはある。腹が減ったらシーメンズ・クラブかオリヂナル・ジョーズか山田ホームレストランで飯を喰えばいい。時間は残酷だが、ときとしてひとを慰め、癒さないこともない。

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by enzo_morinari | 2012-10-24 04:30 | 紐育と昏睡 | Trackback | Comments(0)

巴里で午睡#6 昼下がりのワラビー・モーリな件。

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 ワラビー・モーリが吾輩の前にそのあまりにもなトラッド、ラルフ・ローレンぶりで往年の名MF、アソシエーション・フットボールの上手な愚か者ポール・ガッザ・ガスコインがオーナー・シェフとして厨房に立つ安食堂『ガスコーニュ&コリン・スゲット・サンダーランド・マッケム・ニューカッスル・ユナイテッド』に姿を現したのは日曜の昼下がりのことだった。ワラビー・モーリはクラークスの焦茶のワラビー・ブーツを履いていた。そこまではよかった。初対面のときから『石と氷晶としてのマグリット世界』講義をロハで吾輩がやってやったまではよかったが時間の経過とともにまったくいただけない点が次々と露呈した。
 まず、ブレザー・コート。ラルフ・ローレンのエンブレムがこれみよがしに胸のパッチ・ポケットについている。それは厳密な紋章学的解釈からすればまったくのスットコドッコイ、物静かに退場コース、「そりゃなかろうよ」100連発、大審問官の人定質問以前の問題であった。しかも、着ているブレザー・コートは綿製で(この季節に?!)、力石透が矢吹丈の「明日のためにその42:バレなきゃ肘打ち」をもろにくらったときのごとくにヨレている。それだけではない。袖口の金ボタンの数が4個。そこは3個だろうが! 1個むしりとってやったのはいうまでもない。燕脂色と海軍青色のレジメンタル・タイもコーディネートとしてはまったくいただけないし、第一、そのようなレジメンタル柄は大英帝国服飾コード規則集B地区9696のどこをさがしてもない。つまりはインチキ。つまりはまがいもの。つまりはパチモン。

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 最悪なのはワラビー・モーリがクラークスのワラビー・ブーツについて鼻高々なことであった。「あのね。吾輩はもう靴はテストーニかジョン・ロブの誂えしか履かない地点まできちゃってるんだよね。その意味わかる?」と言ってやりたかったが、モーリの右手首(左手首じゃなくて?)にどんよりと巻かれた中国製のクオーツ腕時計を見たとたんになにを言っても無駄、徒労に終わると思った吾輩はセーヌ左岸めがけてかっとんでいくV42エルスケン・バイクに飛び乗ってワラビー・モーリの前から消えた。その後、ワラビー・モーリがどうなったかについては吾輩の知ったことではない。ラ・プリュ・ベラベニュ・デュ・モンド・ラヴェニュ・デ・シャンゼリゼ川にこのごろよく出没する北極イトウの化け物クラスに喰われたとしたらちょっとかわいそうな気もするが、やはりそれも吾輩の知ったことではない。
 ワラビー・モーリよ。企画書の件、きっちりやれよ。企画書の具合によってはエトランジェーなトキオ物件にかかわる運用をすべてきみに任せてもいいと考えているんだからな。わかるな? 吾輩のハードルはきわめてスコブル高いが越えられないこともない。企画書の立案に苦闘苦悩七転八倒するワラビー・モーリの姿を思い浮かべながらウヒヒムヒョヒョするのは当然のこととして、貴君にヨハン・アウグスト・ストリンドベリィ先生の次の言葉を贈ることとする。心して読み、肝に銘ぜよ。貴君の立ち位置はいついかなるとき/いかなる境遇であろうと、高座で眠りこけることでもなく芝浜で皮財布を拾って拾得物横領罪を犯すことでもなく炎の中心に立つことだ。それはさておき、解放的なエッセー童話を書くのはとてもむずかしい。へたをするといのちを落とすことにもなりかねない。まあ、いつ死んでもよしとする覚悟はすでにしてできてはいるが。

 苦しみつつなおも働け。安住を求めるな。この世は巡礼である。

付記:このストリントベリィ先生の言葉は若き日の海音寺潮五郎先生を絶望の淵からすくい上げ、困難と困憊の日々を乗り越えるための支えとなった。のちにそのことを知った山口瞳はやはりこの言葉を心に深く強く鋭く刻みつけて広告文案家から作家へと転身するための文学修行に打ち込んだ。大原麗子もイチコロのはずだ。


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by enzo_morinari | 2012-10-22 03:00 | 巴里で午睡 | Trackback | Comments(1)

The Day of the Funky Avocado Sandwitch

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 目覚めたときからずっと奇妙な空腹感がまとわりついていた。その空腹感はまるで理不尽に1週間も深い井戸の底に閉じ込められたむく毛の老犬の空腹感に似ていた。絶望と孤独と怒りに支配された空腹感だった。起き抜けに冷蔵庫をのぞく。きゅうりとレタスと熟れすぎて黒く変色したアボカドが2個ある。ほかには賞味期限のきれた食パンが2枚。私は歯も磨かず、顔も洗わず、ヘミングウェイ・ツリーに水やりもせず、南側の壁でおどけて舌を出すアインシュタイン先生に挨拶もせず、水槽の虚数魚i=Poisson d'Avril に声をかけることすらしなかった。普段ならありえないことだ。
 賞味期限がきれてかさかさした食パンをトースターで焼き、レタスの葉を2枚怒りと渾身の力をこめて剥ぎ取り、きゅうりを極限までうすくスライスした。そして、アボカドの中心に切れ目を入れ、G.マーラーの『交響曲第5番 嬰ハ短調』の第四楽章アダージェットを口ずさみながらアボカドをまっぷたつに割った。目が覚めたときより気分はずっとよくなっていた。アボカドの果肉をスプーンですくっているあいだも私はアダージェットを口ずさむことをやめなかった。というよりも、アダージェットを口ずさむためにこそアボカドときゅうりとレタスのサンドウィッチを作っているような気さえした。3回目にアダージェットを口ずさんでいるとき、アボカドときゅうりとレタスのサンドウィッチはみごとに完成した。想像以上の出来映えだった。そして、ドアベルが鳴った。真っ黒に変色した巨大なアボカドがドアの前に恥ずかしそうに立っていた。彼の正体は鰐肌男。「やあ」と巨大なアボカドは言った。「やあ」と私も言った。私は巨大なアボカドにリビングのソファに座るように勧めたが、彼はそれを事もなげに断り、無言のままキッチン・テーブルの窓側の椅子に座った。

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「きみの法律顧問として言う。さあ、アボカドときゅうりとレタスのサンドウィッチを食べさせてもらおうか。この100年、ずっと待っていたんだ」
 巨大なアボカドはさらに黒さを増しながらそう言った。まったく傍若無人なやつだと私は思った。だいたい、法律家、弁護士にろくなやつはいないものと相場は決まっている。私たちはキッチン・テーブルを挟んで向い合い、ひと言も口をきかぬままアボカドときゅうりとレタスのサンドウィッチを食べた。時間が100年くらい経過したような気がした。
 食べ終えてから私と巨大なアボカドはストコフスキーとチャーリー・パ-カーとマイルス・デイビスとグレン・グールドとロストロポーヴィチのCDを聴き、アボカドときゅうりとレタスのサンドウィッチの出来具合についていくつか言葉を交わした。私が抱えている法律上の案件のいくつかはきわめて事務的に簡潔に解決することができた。知的所有権に関するいくぶんか厄介な問題の解答を彼はきわめて明瞭にだし、その途端に巨大なアボカドはまっぷたつになると巨大な種をリビングの窓際に吐き出した。
「100年後にまたくる。この種で極上の吾輩の子孫を育てておいてくれたまえ。契約書はのちほど起案のうえ、送付する。いいね?」
「すべては承知した」
 種が抜けて半分くらいに痩せこけた巨大なアボカドはマイケル・ヘッジスの『ザ・ファンキー・アボカド』を口笛で吹きながら帰っていった。私はリビングに横たわる巨大なアボカドの種に見とれながら窓から差し込む夕陽にこれまでにないほどの憎しみをおぼえていた。このようにして、私のアボカドの長い一日は終わり、ついにジャーマン・シェパードがやってきた。


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by enzo_morinari | 2012-10-20 15:00 | 赤と緑と青と | Trackback | Comments(0)

右岸散策、馴染みの古本屋、ブランクーシ、人間観察。

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昼餐後、セーヌ右岸を散策中に馴染みの古本屋でコンスタンティン・ブランクーシのカタログレゾネを買う。古本屋の店主は三代目。吾輩が懇意にしていたのは今の店主の父親だ。

三代目も父親に負けず劣らずの頑固一徹、偏屈無愛想を絵に描いたような人物である。お愛想ひとつ言えぬ不器用者。だが、その頑固一徹、不器用ぶりがその古本屋をして巴里一の古書店にしているというのが吾輩の考えだ。

軟弱や要領狡猾や風見鶏や提灯持ちや器用貧乏や迎合やおもねりや無節操が本物の一流になった試しはない。古今東西を問わずにである。店、会社、組織にかぎらず、人間も同様である。二流は二流にしかならないような道を歩いてきたのであり、三流は三流にしかならないような日々を生きてきたのである。

常連客にはエコール・ノルマル・シューペリウールやコレージュ・ド・フランスの教授たち、かつてはアンドレ・マルロー、J.P. サルトル、ロラン・バルト、ジョルジュ バタイユ、ミシェル・フコやジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ルイ・アルチュセール、ジャック・ラカン、クロード・レヴィ=ストロース、フランソワーズ・サガン、アルベール・カミュ、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーといった人々がいた。「客が小粒になった」とは三代目店主の弁である。

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ブランクーシのカタログレゾネの中にいい感じのもの(友人のキクラデスの空飛ぶパン屋に見せたらまちがいなくヨダレを垂らして欲しがるはずだ)があったので「いつか手に入れてやるぜ」と誓う。

誰に誓ったのか? 宇宙を支配する巨大な意志の力にである。宇宙を支配する巨大な意志の力に誓いを立てればたいていのことは誓ったとおりになる。これまでもそうだったし、これからもだ。ただし、手に入れてもあの風変わりなギリシャ人、キクラデスの空飛ぶパン屋にだけは教えられないし、見せられない。そんなことをしようものならキクラデスはキクラデスの空飛ぶパンに乗って強奪しにくるからだ。妻を寝取られた韃靼人と物欲に目が眩んだ希臘人くらい手に負えないものはないのだ。

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ストゥーディオに帰還する道すがら安食堂とカフェに立ち寄り、ワインを飲み、クレーム・ブリュレを喰い、巴里の空の下をゆく善男善女を計測する。人間観察は吾輩の趣味のひとつだ。

身なり、持ち物、歩き方、表情、ちょっとした仕草。まさに千差万別である。それらを総合的に観察し、勘案することでその人物がいかなる人生を歩んできたかはほぼ特定しうる。のちに恋愛関係となったある女は吾輩の「人間観察」の対象者であったが、彼女が吾輩の手中に落ちたのは吾輩が彼女の人生の絵図縮図の悉くを正確に言い当てたからであった。

「あなたにはうそをつけないわね。おそろしくて」
「まあね。それでずいぶんとともだちを失ったよ」
「まあ」
「ひとつ、いやなことを言っていいかね?」
「ええ。いいわよ」
「きみはね、40歳前後にみずから命を絶つ」
「えええっ! どうして? 自殺する理由はなに?」
「男。そして、カネ。そして、うそ」
「気をつけるわ。いかにもありそうだから」

女はそう言って笑っていたが、吾輩は心の中で「気をつけたところで無駄だよ」とつぶやいた。そして、その女は8年後、本当に40歳になる年に西新宿の住友三角ビルから飛び降りた。自殺の動機は男の裏切りと男に背負わされた借金だった。いやなことを思い出してしまった。マダム・プレヌリュンヌに膝枕してもらいながらロストロポーヴィチの弾くJ.S. バッハ『無伴奏チェロ組曲』を聴くことにしよう。北風がやけに身にしみる。


by enzo_morinari | 2012-10-20 09:00 | 巴里で午睡 | Trackback | Comments(0)

ある賢者の死

 
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 恩師が逝った。K先生。64歳。肝臓がん。高校時代、K先生には倫理社会と日本史Bを教わった。当時、K先生は正教員ではなく非常勤講師だった。私が通っていた高校は教員も生徒も「偏差値」と「東大合格者数」しか頭にないつまらぬ輩ばかりだったが、K先生はちがった。志があった。「読むべき本」「観るべき映画」「聴くべき音楽」、そして「考えるべき事」のリストが新学期の最初の授業の冒頭に渡されるのみで、教科書の類いはいっさい使わず、黒板に板書もしなかった。毎回、あるテーマをめぐって、その意味、成り立ち、背景、問題点などについて自説を展開し、生徒とディベートすることがK先生の授業スタイルだった。教科書を持参しない私には都合がよかったばかりでなく、すこぶる楽しい時間であった。中間、期末の試験は白紙の藁半紙が配られ、自由課題で書きたいことを書くというものだった。返された答案用紙には赤ペンで寸鉄釘を刺す講評が書き込まれていた。K先生のそのようなやり方は姑息臆病小心な職業教員どもの格好の標的にされたが、K先生はまったく意に介さぬ様子だった。それもまた私にはたまらなく痛快だった。私のこましゃくれて悪意に満ちた質問の数々にK先生は丁寧に答えてくださった。
 高校2年の秋、文化祭のテーマをめぐる問題で学校側と対立したとき、私は悪童仲間とともに校舎の屋上に立て籠ることを企て、最初にK先生に相談した。K先生は苦笑しながらも嬉しそうだった。

 高校解体    ○○高を日本のカルチェ・ラタンに!

 それが私たちが掲げた文化祭のテーマだった。学園紛争が尻すぼみの格好で終熄し、浅間山荘事件も忘れ去られようとしていた時代。このようなテーマが学校側に認められようはずもないことはわかっていた。わかってはいたが、ふやけた空気、ぬるま湯のような雰囲気をぶち壊したいという思いが強かった。わずか数日でもいい、受験にかかわることのすべてを忘れて学校全体をなんでもありの解放区にしたかった。当然、目論見はことごとく粉砕され、裏切り者、脱落者、傍観者を生んだ。そして、幾人かの友人が去っていった。

やったことだけが残るんだ。恥じることはありません

 土曜の放課後の職員室。消沈する私と数人残った私の仲間にK先生は言った。そして、私たちを自宅へ招いてくださった。自由が丘の駅にほど近い住宅街の一角にK先生の御自宅はあった。広い敷地に建つ母家の外観は黒死館もかくやとでもいうべき古色蒼然としたものであって、外壁を越えて生い茂る庭の木々は鬱蒼としていた。K先生の部屋は「知の洞窟」といった様相を呈していて、「風に揺れる欅の梢を眺めるため」に残された50センチ四方ばかりの窓を除けば、壁はすべて天井に届くほどの書棚に占領されていた。カビ臭かったが、生き生きとしていた。熾き火の熱のようなものがK先生の部屋にはあった。酒を飲ませていただき、晩飯にもあやかった。そして、「人生いかに生きるべきか」に端を発したことどもについて明け方まで語り合い、大笑いし、胸震わせ、放歌高吟し、ついには全員で雑魚寝した。あやうくも懐かしい忘れがたき思い出である。以後、K先生の御自宅を訪ねるたび、私は断りもなく目についた書籍、ビニル・レコードの類いを持ち去り、K先生がそれを咎めることはなかった。私の手元にはいまも、返しそびれたまま光陰を経たK先生の本とLPレコードがある。

地に足をつけて、自分の言葉で語りなさい

 30数年におよぶかかわりの中で、それがK先生の私に対するただ一度きりの「お説教」だった。K先生からは数多くのことを学んだ。K先生はいつも私の少し前を歩いていてくださった。そして、ときどきこちらをふりかえり、控えめに手を差しのべ、歩むべき道筋に導こうとしてくださった。しかし、私はK先生の手を振り払う愚を犯しつづけた。あのとき差しのべられたK先生の手を握っていたらと思うこともなくはないが、それは一時の気の迷いと諦めるしかない。K先生はすでにして鬼籍に名を連ねてしまったのだ。もう言葉を交わすことも、酒を酌み交わすことも、「思い出話」に花を咲かせることもできない。世界のすべては刻々と二度と取り戻すことのできない遠い場所へ去ってゆくのだ。私にできることと言えばK先生とK先生にまつわる記憶の断片を語り継ぐくらいである。
 今夜はK先生の好きだったJ.コルトレーン、中でもとりわけて愛聴されていたアルバム『CRESCENT』を繰り返し聴こう。そして、2曲目の『WISE ONE』のときには声をあげて哭くこととしよう。WISE ONE    。賢明なる者の死にこそふさわしい。


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by enzo_morinari | 2012-10-18 02:25 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)