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東京の午睡#8「ユリイカ!」と雄叫びをあげたいところだが

 
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「ユリイカ!」と雄叫びをあげたいところだが ── 。「ABC予想」の証明の件だ。わからぬ。どうにもならぬ。眠れぬ。「ABC予想」の証明のことが気になって気になって眠れぬ。本当に午睡どころではなくなってきた。

案件、取材、面談、打ち合わせはすべてドタキャン。日を繰り延べられるものは繰り延べ、できないものについてはピンチヒッターの弟子どもを投入してお茶を濁す。慶応の仏文を出たばかりの脚線美の誘惑秘書おねいちゃんが iPad を小脇にはさんでブーブーモーモー子豚ちゃん仔牛ちゃん状態だ。なんだ。えらそうに。ここで一番えらいのは吾輩だ!

「ブーブーモーモーとうるせえな。豚か? 偶蹄目か? おめえの脚線美は確かに蠱惑的だが吾輩には通用しない。世の若造小僧っ子どもとは踏んできた場数がちがうぜ」
「先生、それってセクハラです」
「セクハラだか名馬セクレタリアトだかアイルトン・セナだか巨人の原だか知らねえが、とにかくいまの吾輩に一番大事なのはABC予想が証明されたかどうかなんだ。資本家どものお先棒担ぎどころではない」
「なんですか? エービーシーヨソーって。ABCマートと関係ありですか?」
「おまえねえ、下足の安売り屋といっしょにするんじゃないよ。おまえがわかるように説明するだけで100年かかっちまう。いや、100年どころじゃねえな。最低でも350年かかる。ネットで調べてみな」
「なーんだ。先生もわからないんだ。そうなんだ」
「吾輩にわからぬことなどない!」
「じゃ、おバカなわたしにもわかるように説明して」
「いや、それがだなあ…」

埒があかぬので、早々に東京を引き上げ横須賀の隠れ家へ。

海の近い横須賀は東京とちがって風が涼しく心地いい。陽もいくぶんかやわらいでいる。テラスに長椅子を持ち出し、早速、プリント・アウトした望月新一氏の「ABC予想」の証明に関する論文、『Inter-Universal Teichmüller Theory Ⅳ: Log-Volume Computations and Set-Theoretic Foundations(宇宙際タイヒミュラー理論)』を読みはじめる。昨日から数えれば途中で投げ出したのも含めて4度目の挑戦だ。ときどき、気分転換に走水の海岸と観音崎の灯台を眺める。まだ泳いでるやつがいる。9月には帰らなくちゃいけないんだぞ。潮風にちぎられちゃうぞ。山手のドルフィンから三浦岬が見えるというのは大うそだぞ。

望月論文を読みこなし、読み解くには現代高等数学、わけても「整数論」のいくつもの理論が頭の中に入っていなければならない。基礎の基礎の基礎がまず必要なのだ。望月新一氏が架けた巨大な橋を渡るためにはその橋にさらに橋を架け、架けた橋にさらにまた橋を架け…という七面倒くさいことこのうえもない作業が求められるのだ。土台、それは無理な話である。おまけに望月氏は新しい数学メソッドをコンピュータを駆使して開発したうえで証明を展開しているため、望月氏以外の者が無謬性並びに無矛盾の検証作業に取りかかろうとしても、そもそも共通のエピステーメーがないから暗号を解読するような困難な事態となる。

しかし、さすがの吾輩は望月論文を四苦八苦しつつ読み進みながらあることに気づく。うん? これは日本人の英語じゃねえぞ! 気色の悪い「東大話法」英語とはまったくちがうじゃねえか!

早速にネットで望月新一氏の経歴を調べてみた。案の定だ。こいつは日本人じゃねえや。国籍も見た目も日本人にはちがいないが、頭の仕組みと中身、ハート、ソウル、スピリットはアメリカ人だ。なるほど。そういうことか。だから超難問を解くことができたんだ。せいぜいが因数分解を解くのがお似合いの腐ったようなDOS-Vが乗っかったPC98でもってMac OS Xの最新版が搭載されたMac Proのフラッグシップ・モデルをブンブンぶん回して構築された超難解理論を解析しようったって無理な相談というものだ。そのように納得し、さらなる大脳辺縁系並びに大脳新皮質の錬磨にいそしむことを決意した初秋の吾輩であった。


かくして、(横須賀の隠れ家でも)本日も東京はラマヌジャン・タクシーの乗車拒否のごとくに天下太平楽である。


注記:東大話法(安冨歩・東大東洋文化研究所教授による)
その01:自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
その02:自分の立場に都合のよいように相手の話を解釈する。
その03:都合の悪いことは無視し、都合のよいことにだけ返事する。
その04:都合のよいことがない場合には関係のない話をしてお茶を濁す。
その05:どんなにいい加減で辻褄の合わないことでも自信満々に話す。
その06:自分の問題を隠すために同種の問題を持つ人をこれでもかというくらいに批判する。
その07:その場で自分が立派な人だと思われる言動をする。
その08:傍観者の立場で発言者を分類してレッテルを張り、属性を勝手に設定し、解説する。
その09:「誤解を恐れずに言えば」と言って嘘をつく。
その10: スケープゴートを侮蔑することで読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
その11:相手の知識が自分より低いとみたら、なりふりかまわず難しそうな概念を持ち出す。
その12:自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
その13:自分の立場に沿って都合よく話を集める。
その14:羊頭狗肉。
その15:わけのわからない「見せかけの自己批判」によって誠実さを演出する。
その16:わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
その17:「ああでもない。こうでもない」と理屈を並べて賢いところを見せる。
その18:「ああでもない。こうでもない」と引っ張り、自分に都合のいい地点に話を落とす。
その19:全体のバランスを常に念頭に置いて発言する。(話の中身が「総論」だけなので退屈)
その20:「もし○○であるとしたらお詫びします」と言って謝罪したフリをして切り抜ける。

補遺:ぜんぶ当てはまる……(ションボリルドルフ)

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by enzo_morinari | 2012-09-21 19:20 | 東京の午睡 | Trackback | Comments(0)

ディネの男

 
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ディネの男は「水を汲んでくる」とだけ言い残してトパンガ・ムーンに行ったきり、帰ってこない。もう11年になる。彼の1958年型フォード・エドセルはガレージで埃をかぶったままだ。 バッテリーは溶けて跡形もないし、4本のタイヤはすべて空気が抜けてぺしゃんこなうえに乾いてひび割れ、エンジン・ルームは鼠どもの寝倉に変わり果てている。

11年のあいだ、月の美しい夜は月を見上げ、雨の日は雨粒を数え、風の強い日はディネの男の人なつこい笑顔を思いだした。そして、杯を傾けた。何杯も。そうだ。何杯も何杯もだ。そうとでもしなければやりすごせないほど風向きの悪い11年間だった。この11年間に関するかぎり、「風向きもいつかは変わる」というのは大うそだ。これっぽっちも変わってやしない。事態は悪くなるいっぽうのようにさえ思える。強い南風が吹きつける七里ヶ浜駐車場のレフト・サイドに丸一日立ちつくしたこともあるが、答えらしいものはなにひとつみつからなかった。答えは風の中なんかにはないんだ。きっと。

11年。多くの人々が通りすぎ、色々なものが壊れた。妻と飼犬の死。ビートニク・ガールの消滅とマッキントッシュMC275の経年劣化による引退。ベニー・グッドマン『Memories of You』のEP盤はスクラッチ・ノイズしか聴こえなくなった。40年以上も付き合いのある左の前歯は一昨日するりと抜け落ちた。

見上げた月とカウントした雨粒とかさねた杯はいったいどれくらいになるか。3年目の冬で数えるのはやめた。それでも、いつかディネの男と再会できる日がくると信じる。再会を待つ。再会の場所が炎のただ中であったとしても、私はけっして尻込みしない。ディネの男とともに炎の中心に立つ。 ディネの男との再会の日までに、目を背け、置き去りにしていたことどもと向かい合う勇気を取りもどそう。まだ遅くはない。まだ間に合う。まだ旅は終わっていない。まだ旅はつづく。まだ息をすることができる。

わが名は月で酔いどれるカタジュタの男。ホピとチェロキーとナバホの友人が一人ずついる。ディジュリドゥは楊枝がわりだ。トパンガ・ケイヨン・ロードは200mile/hでぶっ飛ばす! セヴンナップを1日に1ダース飲む! ホカヘー! ヤタヘェ! アヒェヒェ!
 
by enzo_morinari | 2012-09-21 05:28 | 虹のコヨーテ | Trackback | Comments(0)

東京の午睡#7 「ABC予想」の証明なるか?!

とんでもないニュースが飛び込んできた。整数論の超難問である「ABC予想」を日本人数学者が証明したというのだ。京都大学の望月新一博士(43歳)。
欧米のメディアはいっせいに「Incredible」と興奮気味に伝えているが、今のところは査読の結果を待つしかない。ネイチャー誌は「査読には長い時間がかかる」とのコメントを出している。吾輩もいまネット上に公開されている当該論文を読み終えたところだが、はっきり言ってチンプンカンプン。なにしろ、解決に350年かかった「フェルマーの最終定理」が「ABC予想」を用いれば一気に証明できてしまうのであるからして、ただごとではない。今週末、へたをすれば来週いっぱいすべての予定をキャンセルすることになるかもしれない。(吾輩は「元禄御畳奉行」か?(自嘲)) それにしても、とんでもない「化け物」が出てきたものだ。午睡どころではなくなった。

かくして、本日も東京はインター=ユニバーサル・タイヒミュラー・セオリーのごとくに天下太平楽である。


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by enzo_morinari | 2012-09-21 03:16 | 東京の午睡 | Trackback | Comments(0)

コトリのうた #1

とてもたいせつで正しいこと
きょうは木曜日。コトリの水泳教室の日だ。コトリはバスの窓から夏の陽射しにさらされた街に見入っている。コトリは5歳。彼女の背もまっすぐな髪もどんどん伸びている。どんどんまぶしくなっていく。秋がやってきて、冬を越して、春の盛りの頃には、真新しいランドセルを背負ったコトリはもっと大きくなっていて、髪も伸びていて、さらにまぶしく輝いているのだろう。

「こんどのプールは木曜日がいい」とコトリが言ったのはおとといのことだ。

「どうして?」とわたし。コトリの頬がほんの少し染まる。コトリがみせる初めての表情だった。
「おにいちゃんに会えるから」とコトリは答えた。
「おにいちゃん?」
「うん」
「どこのおにいちゃん?」
「わかんない」
「わかんない」
「うん。おにいちゃんはいろんなことをわたしに教えてくれるの」
「どんな?」
「長さはセンチで、重さはグラムで、男の子はボーイで、女の子はガールで、たまごはエッグで、色はエッチで、愛はカゲロウで、恋はミズイロで、かわいそうというのはホレたってことで、おかねはテンカノマワリモノで、世界はラヴ・アンド・ピースだって。ねえ、ママ、あってる?」
「あってるわよ。そのおにいちゃんはコトリにとてもたいせつで正しいことを教えてくれたのよ」
「たいせつで正しいこと」
「コトリはおにいちゃんが好きなのね?」
「うん。大好き」
「そう。ステキね」
「ステキ。ステキと好きは似てるね」
「似てるね」
「ママには好きでステキなひとはいないの?」
「うーん」
「ママにはむずかしい問題なのね?」
「うん。むずかしい。むずかしくてスリリング」
「エリコさん。こんどコトリが質問するまでにちゃんと勉強しておきなさい」
「はい」

バスが川沿いの街のプールに着いたとき、コトリは「いろんなことを教えてくれる大好きなおにいちゃん」の姿を求めて身を乗り出した。コトリの視線がぴたりと止まったその先に小学校2年生くらいの男の子が立っていた。コトリに気づいた男の子は弾けるような笑顔をみせた。この夏に見た笑顔のなかで2番目にまぶしい笑顔だった。もちろん、一番まぶしかったのは男の子を見るときのコトリの笑顔だ。「二重らせん。歴史は繰り返す」とわたしはつぶやく。駆け出すコトリの向こう側、夏の終わりの木曜日の午後のプールからまぶしい歓声が聴こえてきた。

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好物と美学と森の緑のスパゲティ
コトリは食が細い。それはわたしからの贈り物。わたしからコトリへの贈り物はほかにもたくさんあるけれど、食の細さがコトリに伝わったことには少しだけ胸が痛む。コトリはふだん、ごはんはおちゃわん一杯の半分くらいしか食べない。でも、イクラのときはごはんをおかわりする。コトリはイクラが大好きなのだ。(「ママより好きかも♪」とコトリがモアイ像の置物にこっそり耳打ちしたことをわたしは忘れない。忘れませんとも!)FOO:D magazine の特売で買ったマスコを食卓に並べたらコトリは見向きもしないことがあった。「コトリちゃん。どうして食べないの? イクラだよ」とわたしが言っても,ふくれっ面をしてそっぽを向いている。

「ママ! うそはドロボーのはじまりよ! これはイクラではありません。粒の大きさがちがいます! こどもにだってわかります! とーぜん、コトリにはバレバレです!」
「ママがまちがってましたorz」

コトリはまぐろの赤身も大好物だ。「トロはべたべたして気持ちわるい。それに切れ味と透明感に欠けます」とコトリが言ったとき、わたしはあやうく椅子からころげ落ちそうになった。コトリは食べものと飲みものと身につけるものと髪型と言葉づかいにすごくこだわりを持っているのだ。彼女のこだわりはいまや美学とさえ言っていいほどゆるぎない。そんなコトリの一番の好物が「森の緑のスパゲティ」だ。「森の緑のスパゲティ」はつまりスパゲティ・バジリコなのだけど、コトリは「スパゲティ・バジリコ」とはけっして言わない。

「ママ、きょうは森の緑のスパゲティにうってつけの日よ」
「そうね。あとでいっしょにバジルを摘もうね」
「そうね。森の緑のスパゲティはディ・チェコでね。前回のマ・マー・スパゲティはいただけません。まったくいただけませんでした!」
「ごめんなさい。本当にごめんなさいです! あの日からスパゲティはディ・チェコ以外は食べませんと神宮外苑の銀杏並木に約束しました」
「ママもやっとものごとの仕組みがわかってきたようね。コトリはすごくうれしい」

そう言って胸を張るコトリのまっすぐな髪からバジルの青々とした香りが立ちのぼってきた。

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朝のコトリとあらかじめ失われた森の緑のカーテン
朝めざめてベッドから出るとコトリはまっすぐわたしの部屋にやってきて、わたしの褥にもぐりこむ。そして、「ママ、おはよう」とハグをする。やわらかくゆったりとして満ち足りたコトリのささやき。わたしはそっとコトリのすべてを確かめるように抱きしめる。そして、コトリの髪に鼻を押しつける。いい匂い。世界で一番わたしを勇気づけ,やすらかにする匂い。わたしの朝の宝石のようなひとときだ。「マッティ、お腹痛いのはなおった?」とコトリはわたしの顔を覗きこみながら言った。

わたしがコトリに感心するところは、彼女の思考の基本軸に時間の流れがあることだ。コトリはけっして物事を点の集合として扱ったりしない。忘れていたことを「ふと思い出したから」と口に出すことはなくて、表面に立ち現れる言葉は、見えない場所で常に流れている伏流水のような思考に裏打ちされているのだ。つまり、コトリは言葉に出さなくても、わたしのことを常に心配し、心を痛めているということ。

「ええ、ママはもう大丈夫よ」
「よかった。それならコトリも大丈夫」

7時15分。「じゃあ、行くね」と彼女は世界で一番親愛と慈しみに満ちた場所から抜けだす。最近のお気に入りであるシアサッカー地の生成りのワンピースに着替え、パステル・ブルーのリボンがついた麦わら帽子をかぶると、コトリはスキップを踏んで出かけていく。目的地は通りを隔てたわたしの両親の家だ。この夏の定番行事。コトリの目的は朝食前に新聞を読むジージーと遊ぶこと。
「ママ、”おとなの鍵” をはずして」

コトリにうながされてドア・チェーンを外す。同級生の中では背の高いコトリだが、それでもドア・チェーンにはまだ手が届かないのだ。ドア・チェーンだけではなくて、コトリは自分の手の届かないものはすべて「おとなの」と形容する。「おとなのスウィッチ」「おとなの時間」「おとなの食べ物」「おとなの扉」という具合に。

窓の外は秋の匂いが混じった空気で満たされている。駆け出すコトリの背中に向かって車に気をつけるよう声をかけ、通りを無事に渡ったことを確かめてから、ドアをそっと閉める。

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おはなしの種、おはなしの芽、おはなしの花、世界で一番好きなひと
物音ひとつしない夜ふけ。「マッティ、おはなしの種を食べてください」と言って、コトリはわたしのベッドにもぐりこんでくる。夜毎の、わたしとコトリの幸福な時間。つかの間の至福のときだ。

「はい。あーんして。マッティ」

コトリは細く透き通った指先で「おはなしの種」を注意深くつまみ、わたしの口元に寄せる。

「ゆっくり静かに、穏やかな気持ちで飲み込むのよ、マッティ」
「ええ。わかってるわよ。コッティ。ゆっくり静かに、穏やかな気持ちで、ね」

おはなしの種を飲み込むと頭のてっぺんのあたりがムズムズしはじめる。そして、「ポロン」と微かに音がする。世界の中心からゆらゆらと昇ってきた小さな泡粒がもうひとつの世界の中心にたどりつき、弾ける。

「マッティ。おはなしの芽が出たね」
「そうね。今夜も出たね」
「今夜はどれくらいお水をあげたらいい?」
「たっぷりと、気が済むまで」
「それでは今夜は2000トンあげることにします」
わたしは急にコトリが愛おしくてたまらなくなる。抱き寄せ、抱きしめる。強く。とても強く。
「痛いわよ、マッティ。それにコトリはいまたいせつな作業中です」
コトリは2000トンの水やりをすませ、おはなしの芽に見入っている。わたしは iTunes に「水」をキーワードにして作ったスマートプレイ・リストを呼び出す。いつものこと。リストの1曲目は B. エヴァンス & J. ホールの『ダーン・ザット・ドリーム』

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足だけはいる川 「水と光の中にあなたをみつけました」
夏休みの終わりの朝。清潔で健やかな午前8時の光を受けてきらめく水の中にコトリはいる。一心に水をみつめ、戯れ、動きまわり、そして喜びを全身であらわすコトリ。清冽な湧き水が緩やかな流れをつくり、絶え間なくコトリの足元を洗う。水と光に包まれたコトリは北の森の妖精のようだ。コトリが水の中を動くたびに水しぶきがあがり、飛沫のひとつひとつに光が反射する。

「気持ちいいね、ママ」
「すごく気持ちいいね」
「コトリはいっぱい幸せです」
「ママもよ」
「ママはコトリが幸せだと幸せなんだね」
「そうよ。コトリちゃんが幸せだとママはすごく幸せ」
「コトリはママが幸せだと、すごくすごくすごく幸せ」

あたたかなものがこみあげてくる。

「それではママにコトリから質問です」と言ってコトリはわたしの真正面に立ち、居ずまいをただした。背筋はぴんと伸び、わたしをみすえる表情はおとなそのもの。いくつもの水の滴が頬を伝い、きらきらと光っている。公園の中心に広がる森の一番奥まった場所、神の小さな依代がある方向から吹いてきた清明の風がコトリの真っすぐな髪を揺らす。神々の清らの息吹がコトリをまるごと包み込んでいるようにも感じる。

「エリコさんはコトリが悲しかったり、さびしかったらどんな気持ちになりますか?」

言葉に詰まってしまうわたし。しかし、コトリは気にする様子も見せず、また清流のただ中を走りまわりはじめる。心が泡立ちかけたけれど、幸せなコトリを見ているうち、またすぐに心は浮き立ってきた。

ゆうべ帰宅が遅くなったわたしに、全身をこわばらせながらコトリは言った。

「コトリはママがどこにいるのかわからなくなっちゃったよ」
「ごめんね。コトリちゃん」
「いいよ。ママはコトリを忘れたけど、コトリはママを忘れなかったし、コトリはママをみつけたんだし、いまはママはたしかにコトリの目の前にいるんだから」

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「泣いたのね?」
「うん」
「いっぱい?」
「いっぱい」
「すごくいっぱい?」
「すごくすごくいっぱい」
「悲しくてさびしかったのね?」
「うん。ポケモンのゲームをママに隠されたときの999倍くらい。もうコトリは二度とママには会えないのかと思いましたよ」

わたしは小さなコトリがさらに小さく、かよわく儚く思えて、このままどこか遠く、二度と手の届かないところへ行ってしまうような気がして、腕を伸ばし、抱き寄せ、そして力のかぎりに抱きしめた。

「コトリちゃん。あしたの朝、お水とお日さまと神さまのいる秘密の場所へ行きましょうね」
「ほんと?!」
「ほんと!!」
「ねえ、ママ。999の次はなあに? まだ公文で習ってないの」
「999の次はね、それはね。たくさんすごくいっぱい」
「コトリはいま、ママがコトリを好きなたくさんすごくいっぱい倍ママが好き」

コトリちゃん。コトリッチ。コッティ。ママは夏休みの終わりのきょう、水と光の中に、真っすぐな髪がさらに伸びて、背もまた少し大きくなって、まぶしく輝くあなたをたしかにみつけましたよ。ありがとう。来年の夏も再来年の夏もそのまた次の年の夏もずっと。

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自転車の乗り方指導実習と天使の階段
きょうは夏休みが終わって初めての日曜日(と思ったら土曜日)。朝からコトリに「自転車の乗り方指導」をした。しかし。しかししかししかし! わたしは「自転車の乗り方指導実習」が大の苦手科目。「教え方が悪い!」「すっごく手抜き!」「ちゃんと見てて!」「なんか変!」「とにかく変!」といつもコトリに叱られる。わたしが自転車の乗り方指導実習が苦手なのはわたしが自転車に乗れないからだ。運動神経はいいほうなのに自転車にはなぜか乗れない。

自転車に乗れない原因を自分なりに分析したことがある。結果、わたしは「複数のことを同時に処理しようとすると頭の中のミンミン蝉が一斉に鳴きだす」ということが判明した。つまり、わたしの脳内CPUは同時並列処理に向いていないということ。サドルに座って、ハンドルを握って、前を見て、耳をすまし、漕いで、ブレーキをかけてという一連の行為を状況の変化に応じて組み合わせながら行うのはわたしにとっては至難の業、神業、神の見えざる手、「おかみさん、時間ですよ」、そして、奇跡に等しいのだ。100万匹のミンミン蝉が一斉に鳴くときのうるささときたら樽犬さんのマドレーヌ・トークを耳元で2時間ぶっつづけで聴かされるのと同じくらい、

五月蝿い!
喧ましい!
鬱陶しい!
K F C の 脂 の い っ ぱ い つ い て る ほ う が 好 き♪

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コトリの「自転車の乗り方指導」を終えて帰ろうとしたとき、コトリが西の空を見上げ、空を指差して言った。

「ママ! コトリはあの階段にのぼるよ。ママもいっしょにきてよ」

コトリが指差す空には天使の階段が目映くやわらかく輝いていた。レンブラント光線はゆっくりと方向をかえ、ついにわたしとコトリに降り注いだ。そして、4人のバンビちゃん天使が舞い降りてきた。コトリはとてもうれしそうにバンビちゃん天使たちに挨拶をした。

「こんにちは。こんにちは。こんにちは。こんにちは」
「こんにちひ」
「こんにちふ」
「こんにちへ」
「こんにちほ」
「あれー。へんなのー」
「あれー。へんみえみりー」
「あれー。へんみまりー」
「あれー。へんみよう」
「あれー。へんみ、へんみ、えーと、えーと、へんしん!」

バンビちゃん天使のうちの1人がゾンビちゃん天使に変身したので、わたしとコトリは鉄板プレート焼肉パーティの準備があるからとうそをついて、ジージーとバーバーの待つおうちへ帰った。後ろから前から、バンビちゃん天使3人とゾンビちゃん天使の抗議の声が聴こえた。抗議の声にはときどき、「ブーフーウー、ブーフーウー」というコブタちゃんの鳴き声が混じっていた。みると、バンビちゃん天使のうちの1人がコブタちゃん天使に変わっていた。無性にヘルシンキが懐かしかった。夏の疲れが出ているのだと思うけれど、わたしは永遠にヘルシンキには行けない気がする。人生や日々の暮らしはそうそうヘルヘッヘンドできないから。人生や日々の暮らしは晴れときどきブーフーウーだから。


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by enzo_morinari | 2012-09-20 19:28 | コトリのうた | Trackback | Comments(0)

三つ編みバンビちゃんが抱えていた真っ白なキャンバスと Life is a work in progress

 
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横浜YMCAでひと泳ぎした帰路。中華街玄武門際のシーメンズ・クラブでギネス・ビールを飲み、ホット・サンドを食べた。ダブリン市民であるアイルランドの貨物船のセカンド・オフィサーを相手に「物理学における基本粒子」を言いっこしたり、頭突きっこしたり、ギネスを賭けて腕相撲したり、沈黙合戦したり、人文科学と社会科学限定の尻取りをしたり、人類史とアーサー王伝説と『ダニーボーイ』とクラウゼヴィッツの『戦争論』とジェームス・ジョイスとサミュエル・ベケットと「ティム・フィネガンはなぜ屋根から転落し、『フィネガンズ・ウェイク』の "フィネガンズ ”にはなぜアポストロフィーがついていないのか?」について、さらには「クォーク鳥が "クォーク"と3回鳴いた意味」についてちょっとした議論をし、Life is a work in progress という地点に落下傘なしでいっしょに着地し、最後には握手していい友人になった。彼がその後、アイルランド首相になったときは心の底から驚くと同時にうれしかった。たぶん、あのときの言い争いと頭突きと腕相撲と尻取りと議論が彼の政治意識を目覚めさせ、高め、ついには彼を政治家にさせたのだ。そのことはわれわれの友情に終止符を打つ結果となり、「二人の聖パトリック・デー」の終焉をもたらしたが、なにひとつ悔いはない。

巨人大洋戦の消化ゲームを観戦する人々でにぎわう横浜スタジアムを抜け、根岸線関内駅南口へ。根岸までの乗車券を買い、いかにもやる気のなさそうな男(きっと動労系のやつにちがいない)に持たせ切りされてむかっ腹を立てながら改札を抜け、ホームへ。反対側のホームに高校時代のガールフレンドの姿をみつけ、ほんの少し動揺しているとスカイブルーの車輛がホームに滑り込んできた。車内はほぼ満席。乾いたコンプレッサー音を発してドアが閉まり、スカイブルーの車体は退屈そうに走りだす。石川町駅と山手駅の中間よりやや山手駅寄りで、となりに座っていた男がポケットに突っ込んでいた手をもぞもぞと動かしはじめる。前の座席にはバンビのように可憐な脚と眼、三つ編み、陶器のようにつるりとしたきれいな肌の女子高生が座っていた。彼女は大事そうに真っ白なキャンバスを抱えこんでいる。制服から横浜雙葉の生徒とわかる。「次は根岸」の車内アナウンス。そのときやっと、初めて、世界の基本は無関心なのだと気づく。

「何年生だろうな」と思ったとき、となりの席の男が急に立ち上がった。酒が入っているのか、足元があやうい。吊革につかまる手は油の汚れで真っ黒だ。焼酎とニンニクともつ焼きのにおいがする。「いやだな」と思った。男は女子高生をみすえ、足を踏み出す。男の体が揺れる。「まずいな」と思う。また一歩。さらに揺れる。男は女子高生の前に立ちはだかる。うつむく三つ編みのバンビちゃん。そして、男は言い放った。

「きみのその真っ白なキャンバスに向かって、おもいきりシャセイさせてくれないか」

夏の名残りを残す根岸線磯子行きが凍りつく。三つ編みバンビちゃんの顔はみるみる歪み、ついには嗚咽を漏らしはじめる。そして、号泣。そして、僕は席を立ち、ドアに向かう。あとの顛末はまったくわからない。僕は凍りつく根岸線磯子行き車輛番号クハ103-420から下りたのだ。かわいそうな三つ編みバンビちゃんを残して。心残りは三つ編みバンビちゃんの涙のゆくえを見届けられなかったことと、男に「写生と射精をひっかけたんですよね?」と尋ねられなかったことだ。夏の名残りを残す根岸線磯子行きが私の下車駅、根岸に着いてしまったからだ。根岸の駅前に降り立つと同時にほんの少し秋の気配を感じた。

三つ編みバンビちゃん。あのときのいやな出来事のあと、きみはきみが持っていたキャンバスにどんな絵を描いたのかな。やっぱり、美術室の薄汚れたトルソーやら山下公園の真ん前でふんぞり返るマリンタワーやら港の見える丘公園から見下ろす横浜港やら草むした外人墓地やら根岸台の緑やら元町を行き交う物狂おしい大衆やらのつまらないものを写生したのかな。あの日から、毎年9月20日が来るときみときみが抱えていた真っ白なキャンバスのことを思いだすよ。来年もきっとね。そして、考える。きみときみが抱えていた真っ白なキャンバスのことを。僕の行動の問題点を。僕の行動の問題点はきみを忌まわしい困難から救いだせなかったことじゃない。問題はきみを救いだそうとしなかったことだ。勇気を持てなかったことだ。その考えはいまも変わらない。これから先、変わることもない。きみに言いたいことはつまり、きみときみが抱えていた真 っ白なキャンバスのことを思いだし、考えるときに聴く音楽は『The Gallery in My Heart』だし、結局、人生は Work in Progressってこと、そして、僕もあの日よりは少しは勇気を持てるようになったってことだ。だから、これからもあの日みたいにしっかりと真っ白なキャンバスを抱えつづけてほしい。なにがあっても。そうさ。なにがあってもだ。どんなにつらくて悲しい出来事があってもだ。そして、そこに人生やら世界やら宇宙やら森のコトリたちのことやら雨に濡れて輝く森の木々のことやら海の不思議な生き物たちのことを写しとってほしい。僕が言いたいのは、たぶんそういうことだ。

あのときのきみはすごく悲しい顔をしていたけど、いまはいくらか悲しみや苦しみがやわらいでいるように見える。もちろん、僕の中ではきみはいつまでも三つ編みバンビちゃんのままだけどね。そして、僕は約束する。いついかなるときも、困憊と困難と不運が山のように僕に降りかかっていても、根岸線磯子行きに乗ったときはかならず三つ編みバンビちゃんのことを思いだすって。

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三つ編みのバンビちゃん。僕はこの夏、亜麻色の髪のコトリのような少女が「足だけ入る川」で水遊びする光景を描くために生まれて初めてキャンバスに向かったよ。亜麻色の髪のコトリのような少女と三つ編みのバンビちゃんがなぜだかダブって見えた。でも、たぶんそれは僕の気のせいだ。

正確に37年前のきょうの出来事である。(「あ、さてー」の小林完吾ではない)
 

 

by enzo_morinari | 2012-09-20 14:15 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

東京の午睡#6 息の根を止めた外付けHDを前にして

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 3年間酷使しつづけた外付けHDが息の根を止めた。ぶっ叩こうが怒鳴り飛ばそうがうんともすんとも言わない。完全なる沈黙。茫然と、しかしいくぶんか陶然と、沈黙を守りつづける外付けHDをみている。3年のあいだに集積された原稿、資料、企画書、報告書、訴状、準備書麺、答弁書、控訴趣意書、講義録等の文書ファイル、iTunes Storeほかで購入した音楽ファイル、折に触れて撮影した画像ファイル、とうてい他者には見せることのできない縄文人系動画ファイルのすべては消えたが(蒙った損害はおそらく数百万円にのぼるだろう)、なぜか心は穏やかだった。バックアップ? それってうめえのか? かたちあるものはいつか壊れるのだ。何者もその摂理に抗うことはできない。外付けHDが息の根を止めたのは精緻精妙なる摂理、「縁」のなせる業である。逆らってはならない。それにすべてはわが大脳辺縁系、大脳新皮質、脳髄に記録されているのだ(と、やや負け惜しみ)。そして、わたくしは息の根を止めた外付けHDを前に夢想する。人類が初めて大地に指先で文字を記した瞬間に思いを馳せる。そのとき、彼の心はふるえていただろうか。それとも千々に乱れていたのだろうか。彼の指先は大地の鼓動を感じとったろうか。
 原始の土塊がこびりついた指は幾星霜を経て木版に辿り着き、グーテンベルクに宿る。さらには文選に行き会い、職人技の組版に出合う。やがて、電算写植、製版、DTPを経て、ついに文字は0と1で出来上がったデジタルの海へと溶け入った。早晩、文字は印刷され、大量消費され、与えられるものではなく、ただそこに置かれ、引っ張りだされ、奪い取られるようになるだろう。文字言語が無制限無制約に集積されたもの。それは人類の知の大伽藍でもあって、かのアレクサンドリア図書館をさえ軽々と飲み込むスケールを持つ。このことは文字言語にとどまらない。音声も音楽も映像も、すべてが人類史上最大にして最速の知の大伽藍に集積集約される。ひとはいつかその知の大伽藍を「神」あるいは「極楽浄土」と呼ぶようになるかもしれない。身体は本来の意味を失い、精神は0と1に変換されて、デジタルの海を自由自在に泳ぎまわる世界。このとき、ついに「永遠の生命」は実現する。
 さて、次の外付けHDはなににするかな。Western Digital か Seagate Technology か? それともTOSHIBA か? いずれにしても、ここは奮発して最新最速最大容量のもにしようと思う。彼につける名前は「アレクサンダーくん」だ。

 かくして、本日も東京はボスフォラス以東にただひとつの黒死館のごとくに天下太平楽である。


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by enzo_morinari | 2012-09-19 19:36 | 東京の午睡 | Trackback | Comments(0)

想像力と、数百円。

 
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こまっしゃくれたブンガク青年かぶれだった頃、懐にいつも文庫本を忍ばせていた。それは坂口安吾の『堕落論』であったり、アルベール・カミュの『異邦人』であったり、大江健三郎の『セブンティーン』であったり、村上春樹の『風の歌を聴け』であったりした。それらのたった数百円で手に入れることのできた文庫本は、当時の私をあたかも必殺無類の名刀を持っているような気分にしてくれた。

「こいつさえあれば世界のすべてをチャラにできる」

そんな青臭くも危うい気持ちにさせてくれたのがGパンの尻のポケットに突っ込まれたり、丸められたり、鍋の下に敷かれたりしてボロボロになった文庫本である。文庫本は当時の私の戦友であったと言っても過言ではない。

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「文庫」という言葉に出会うといまでも当時の自分を思い出す。カネがなかった。いつも腹をすかしていた。誰彼かまわず喧嘩をふっかけていた。「青春の彷徨」などと言えば聞こえはいいが、ただ貧しくやみくもな苛立ちの中で生き急いでいたにすぎない。だが、それでもホンモノのなにごとか、手応えのある生きざまのようなものを手探りで求めていたことに変わりはない。そのような自分が愛しく思える。そして、そんな私のかたわらにいつも文庫本があった。

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当時愛読した(「愛持した」と言ったほうが正しい)文庫本を書架の奥から引っぱり出してはパラパラとページをめくることがある。どれにも傍線や書き込みが脈絡もなく乱暴にされている。故意に引きちぎられたページさえある。薄よごれ、カビ臭く黄ばんだちっぽけな文庫本が言葉にならない当時の思いを甦らせる。心がザラついているときなどそれを懐に忍ばせてみる。途端に世界をチャラにできるような気分になってくる。文庫本はいまも私のドスなのだ。
 
by enzo_morinari | 2012-09-19 14:25 | Nuovo Libro Paradiso | Trackback | Comments(0)

有栖川の森でアレキサンドリアの幻影をみる。

 
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アザブ・デイズの拠点から歩いて5分足らずのところに有栖川宮記念公園はある。公園内、東側高台の一角を占めるのが東京都立中央図書館だ。目黒区立目黒区民センター図書館とともにわたくしのお気に入りの図書館である。ビートニク・ガールと同道することもあれば、わたくし単独で調べ物、書き物、居眠り、油打ち、沈思、黙考することもある。シークレット・ガールとの逢引きの場所としても重宝している。また、ビートニク・ガールと仲たがいしたときに逃げ込むのはもっぱら中央図書館である。敵もさるもので、ビートニク・ガールがわたくしを探索するとき、まず足を運ぶのも中央図書館だ。その際には丁々発止の隠れんぼ、追いかけっこ、逃走劇、追跡劇が行われる。はた迷惑もいいところではある。

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5階建て。蔵書152万冊。開架式。清潔で、しかも明るい。階ごとに「社会科学」「人文科学」「自然科学」の各分野が分類されており、目当ての資料が見つけやすくなっている。1階中央にはコンピュータ・スペースがある。持ち込んだノートブック・パソコンを無線LANを使ってインターネット接続することも可能だ。「グループ閲覧室」では図書館の資料を使ったグループでの学習・調査研究活動ができる。コンピュータを使った資料の検索システムもある。また、複写サービスの充実ぶりは都内の図書館随一である。5階の「東京室」と名づけられた部屋には行政資料のほか、東京に関する図書、新聞雑誌が網羅されていて、ここは「東京学」の格好の修練場となる。おなじフロアに食堂と喫煙ルームがある。食堂は安価でそこそこうまい。おすすめは日替わり定食である。600円で腹いっぱいになる。おなじく5階の「特別文庫室」には江戸時代から明治にかけての和書、漢籍が網羅されている。ほかに、諸橋文庫、井上文庫、河田文庫、加賀文庫など、個人文庫の充実は特筆に価する。また、4階にある「闘病記文庫」は見ものだ。さまざまな病いと闘った市井の人々の命の記録にふれることができる。たいへんにいい企画である。視聴覚資料も充実している。ただし、利用時間は13時から17時と短いのが難点である。なお、中央図書館は個人への館外貸出しを行っていない。

不満がないわけではない。文学作品(小説・詩集)、児童資料の所蔵が少ないことである。「図書館案内」にはこれらを蔵書していない旨が明示してあるが、どこのぼんくら木っ端役人が決めたことなのか理解に苦しむこと甚だしい。

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言葉の森の渉猟に飽きたら、いったん館外に出て公園内を散歩するもよし、木陰でくつろぐもよし、南部坂を下って広尾の街散策とシャレこむもよし、リニューアル・オープンしたナショナル麻布スーパーマーケットをひやかすもよしである。少し足を伸ばして仙台坂側に下ってゆけば麻布十番があるし、隣接する東京ローン・テニス・クラブの脇を抜けてあえて路地に迷い込み、元麻布界隈の時間の止まった町並みをたのしむという手もある。西町インターナショナル・スクール周辺の異国風味もなかなかのものだし、暗闇坂を下ればそこはもう麻布十番だ。

中央図書館と有栖川宮記念公園。アレキサンドリアにあったといわれる世界最大の図書館の幻影を帝国の名残りうちにみるという風狂も悪くはない。
 
by enzo_morinari | 2012-09-19 03:38 | Nuovo Libro Paradiso | Trackback | Comments(0)

されど、われらが幻のラ・ツール・エッフェル

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 1987年秋。リラの花影揺れる凱旋門の近くの小さな食堂で我々はカルバドスが満たされた杯をあげ、最後の乾杯をした。そして、固く再会を誓い、それぞれの戦場へと帰還した。ある者は中東へ。ある者はアフリカへ。またある者は西アジアへ。あれから四半世紀が経つ。そのあいだに数えきれぬほどの秋やら冬やら春やら夏やらが音も立てずに過ぎていった。再会も果たされぬまま多くの友が逝き、斃れ、少しの友が残った。幻のエッフェル塔はいまもかわらず、我々の前に墓標のように屹立する。友よ   

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by enzo_morinari | 2012-09-15 14:12 | されど、われらが日々 | Trackback | Comments(0)

東京美味礼讃#2 居酒屋・丸十(港区麻布十番2丁目)

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 六本木ヒルズを目指す人々で色めきたつ麻布十番商店街の一本裏手の地味な通りに「居酒屋・丸十」はある。創業は1980年代半ば。老舗というには及ばないが、すでにして麻布十番の地にどっしりと根を張っている。地元の長老が定刻どおりやってきては、「いつもの席」で盃を傾ける姿を目撃できる店だ。流行や向こう受けを狙うような軽佻浮薄さとは無縁である。
 夕暮れ前、麻布十番温泉がまだ存在していた頃は湯につかり、じゅうぶんに英気を養ったところで向かうのは、「居酒屋・丸十」か、もつ焼きの「あべちゃん」と決めていた。向かう際、たとえ遠回りになることがわかっていても、裏通りを歩く。さすれば、「あなたも大事なものを失う。」なる花泥棒への警告文やら犬糞始末のお願い文やら「オトコ、浴衣あります。」という謎の宣伝告知文やらといった「稀少物件」を目撃できるからだ。(存外、知られていないが、麻布界隈は「稀少物件」の宝庫である。)
 わが五臓六腑は一刻もはやい般若湯の摂取を要求するが、五臓六腑どもの要求をおいそれと受けつけるわけにはいかないし、お愉しみは後回しにしたほうがよほどありがたいというものだ。「武士は喰わねど高楊枝」たる態度は品格品性を涵養するための必要欠くべからざる要件でもある。
 さて、本邦において店で酒を飲む愉しみがいつ始まったのかついては詳らかではないが、江戸初期にすでにあった「煮売り屋」を居酒屋の嚆矢とする向きもある。「煮売り屋」は野菜や魚介の煮つけたものを行商や屋台で商う商売で、現在なら、さしずめ惣菜屋か仕出し屋にあたろう。「煮売り屋」のほとんどは立ち食いであった。最初の飲食店を蕎麦屋とする説があり、また、浅草・金龍山浅草寺の門前にできた「奈良茶」が飲食店の元祖であるともいわれる。明暦三年の大火頃、俗にいう「振袖火事」のあとだ。客に出すのは茶飯(豆の類いを混ぜた茶飯を茶漬けにしたもの)、煮しめ、煮豆、豆腐汁。このような茶漬飯屋は現代のファースト・フード店といった印象をぬぐえず、「飲み屋」の雰囲気とはほど遠いものであったろう。
「居酒屋」なる呼称は十返舎一九『東海道中膝栗毛』中に散見される。作品中にみえるのは「居酒屋」と「居飯屋」である。十返舎一九の時代は酒を飲む店と飯を食う店が分けられていたようだ。
 さてさて、「居酒屋・丸十」である。店主はこれまで銀座を皮切りに東京の中心部で数々の飲食店を手広く手堅く営んできた「飲食のプロ」だ。その店主がみずからの「美食人生」の経験をもとに独学で身につけた数々の料理、酒の肴が饗される。事実と経験の集積による本物の、そしてまちがいのない酒肴の数々が「居酒屋・丸十」にはある。十返舎一九も曲亭馬琴も鶴屋南北も山東京伝も、そして、かの朴念仁、本居宣長でさえ「居酒屋・丸十」に足繁く通ったにちがいあるまいと思える。洗練や洒脱や軽妙はないが、いずれの料理もしっかりどっしりうまい。おふくろの味もあればおやじどもが思わず舌なめずりしそうな肴もある。
 煮物、和え物、焼き物、炒め物、もつ焼き、そして、魚の干物、焼き魚。これらの味は一流店に引けを取らない。しかも、お代はその半額以下と思えばよろしい。おまけに、「これこれ、こういうものが喰いたい。」と店主に所望すれば(もちろん、見目麗しく、にこやか鄭重に)、即時とまでは言わないが、早ければ翌日には食せる。これは有り難いことだ。
 若者が「おとなの味、酒の飲み方」を身につけるための修練の場として通うのもたいへんにけっこうなことである。おすすめしたい。やれフレンチだ、やれイタリアンだ、やれエスニックだのと浮かれ騒いでいる場合ではないことにそろそろ気づかなければならない。
 店主の饗応の態度は、そこはそれ、プロ中のプロである。心配暗鬼はいっさい無用である。大安心大満足できる。テンポよく歯切れよくセンスのいい店主の話芸もまた格別の酒の肴となろう。何度か、食と接客態度にうるさい知人友人を案内したが、いずれも大満足大感激、いつのまにか勝手に常連になっていた。オリジナル(わたくしである。)を大事にしないという性向を彼らは恥じ、改めなければならない。仁義に悖ることだ。
 火灯し頃、いまや幻となった麻布十番温泉で浮き世の垢を流し、日々のしがらみを忘れ去って、そののち、夢見心地のうちに、事実と経験に裏打ちされ、心のこもった、しっかりどっしりとうまい肴で酒を飲む。水鳥(*)の気分だ。これ以上の贅沢にはここのところお目にかかっていない。案内料がわりに奢ってやろうという剛の水鳥者の現れるのを麻布十番温泉跡地で豆源の塩豆などつまみながら待つ。損はさせない。ほろ酔い気分の値が高くついてはならない。事実と経験は小説よりも美味で水鳥の羽根よりも軽やかなりである。
 
*酒は「シ」と「酉」でできている。すなわち、水鳥。

 
by enzo_morinari | 2012-09-15 11:42 | 東京美味礼讃 | Trackback | Comments(0)