カテゴリ:カワウソ・ニザンの「途中の死」( 1 )

密航/月の酔いどれ船で見たグレープフルーツのような月とトム・ウェイツとベルリンの壁

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月の酔いどれ船で見たグレープフルーツのような月とトム・ウェイツとベルリンの壁


1987年冬。深夜の横浜港山下埠頭。私と月を見る男はナホトカ行きの貨物船、Drunk on the Moon号に忍びこんだ。目的は大陸までの密航である。時代錯誤もはなはだしい蛮行であったが、気分はまだ見ぬ大陸を思い、爽快だった。

真冬の夜ふけの波止場の空気も風も剃刀で切り裂くように私と月を見る男を苛んだけれども、なぜか心の中はあたたかかった。あたたかかったのは、山下埠頭に来る直前に小港のリキシャ・ルームで頬に深い傷痕のある無愛想無表情のバーテンダーが「餞別がわりだ」とくぐもった声で言ったあとにニッカのフロム・ザ・バレルで作ってくれたホット・ウィスキーを飲んだからだろうが、それだけではない。

煌々芳醇馥郁としてたわわなグレープフルーツ・ムーンは高く、遠かった。まだ見ぬわれわれの祖国、自由放埒な酔いどれの王国はさらに遠い ──。

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密航2日目。私と月を見る男は船員たちが消えうせた深夜の甲板でグレープフルーツのような月を眺めながら、食料庫からくすねたスミノフをまわし飲みした。ウォークマンにトム・ウェイツの曲ばかり集めたTDKのカセットテープをいれ、イヤフォンを二人でわけあって聴いた。

真冬の、密航した貨物船の、船員たちの寝静まった深夜の甲板の、満月の夜の『Grapefruit Moon』とスミノフはわれわれにしみた。マラッカ海峡に轟音とともに真っ逆さまに沈んでゆく巨大な太陽に圧倒されながら飲んだ生ぬるいバドワイザーよりはるかに深く強くわれわれをつらぬいた。

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ナホトカ上陸後、徒歩とヒッチハイクでベルリンの壁をめざした。ベルリンの壁のウォール・グラフィティを目撃しにゆく風狂の旅である。その旅は孤独と困難と寒さと大爆笑の旅でもあった。

ベルリンの壁の前に立ち、われわれは言葉もなかった。言葉は必要なかった。なにかひと言でも言葉を発すれば、われわれの旅のすべてが意味を失い、否定されるように思われた。

本当のことを言えば旅の始まりに目的地などなかったが、なにかを越えたかった。なにかを乗り超え踏み越えて、その先になにがあるのかはわからなかったが、越えたという事実は残る。その手づかみ/赤むけ/リアルを経験したかった。

山下埠頭を出てからベルリンの壁までのあいだに出会った人々や吹かれた風のにおいや見上げた月や悪態をついた太陽やウォッカやウゾやラクやアラックやトーゴー・ビールや羊の丸焼きやヌーヤテンム村の村長からもらった代赭色の印度更紗にくるまれたひと切れのナンの味がよみがえり、うずまき、遠く去っていった。不意に青春の終わりと思った。青春の終わりなどという尻がこそばゆくなるような事態があるとするならば、いままさにこの瞬間がそうなのだろうとも。涙が少しだけ出た。月を見る男もおなじらしかった。次の年、私はのちにセロ弾きとなる女の子の父親になった。

あまたある落書きの中から月を見る男がPINK FLOYD/THE WALLのスプレー・ペイントを発見した。「超えた」と思った。ベルリンの壁も視えない自由も国境も人種も民族も宗教も戦争も紛争も内乱も殺戮も残虐も冷酷/冷淡も無関心も出会いも別離も文化もイデオロギーも正面突破で超えてきたのだと思った。極東アジアの東海の小島から壮大なるアジアン・ハイウェイを自力/他力こもごもに横断し、否応なく歩き、否応なく懇願し、否応なく貪り食い、否応なく酔いどれ、否応なく月に吠え、否応なく太陽に憤怒のつぶてをぶつけ、そして、果てにたどりついたのだと。私と月を見る男の旅は、このとき成就した。円環はたしかに閉じられた。

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あれから30年が経つ。友よ。月を見る男よ。いつの日か開高健を乗り越えようと誓った横浜関内・常盤町のバー「クラーク」の夜。そして、マラッカ海峡に轟々と沈みゆく巨大な太陽を眺めながら飲んだ生ぬるくくそまずいバドワイザーの味を忘れはしない。おまえはとうの昔に身罷って、今頃は鴨志田穣と『火垂るの墓』を肴にどうしようもない涙の酒を酌み交わしているのだろうが、いつかまた、煌々芳醇馥郁としてたわわなグレープフルーツ・ムーンの輝く夜に、山下埠頭から、あるいは世界のどこかの波止場から、どこかの国の古い貨物船に忍びこもう。そして、まだ見ぬわれわれの祖国、自由放埒な酔いどれの王国をめざそう。グレープフルーツ・ムーンは高く遠く、酔いどれの王国はさらに遠い。ゴビ砂漠よりも遠い。友よ ──。


Grapefruit Moon/Thomas Alan Waits
Drunk on the Moon/Thomas Alan Waits
Tom Traubert's Blues (Four Sheets to the Wind in Copenhagen)/Thomas Alan Waits
San Diego Serenade/Thomas Alan Waits
 
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by enzo_morinari | 2018-06-14 04:28 | カワウソ・ニザンの「途中の死」 | Trackback | Comments(0)