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カテゴリ:昔々、横浜で。( 29 )

昔々、横浜で。/生まれくる子供のために伝えたいことがあったが言葉にできなかった夜。妊娠とハードボイルドとMPの『失われた時を求めて』

 
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頼るもの何もないあの頃へ帰りたい。 Kazoo Massa Oodál


高校2年の秋から恋愛関係にあった女の子から妊娠を告げられたのは1979年のクリスマスのことだった。私の誕生日だった。偶然か天の配剤か。部屋のオーディオ装置ではオフコースの『生まれ来る子供たちのために』がかかっていた。おそらくは、女の子がタイミングを合わせたんだろうと思う。

「どんな気分?」と女の子は言った。
「不思議で、こそばゆくて、恥ずかしくて、うれしくて、ちょっとしあわせな気分。うまく言葉にできない」と私は言い、女の子のお腹にそっと触れた。

妊娠13週に入ったばかりだった。まだ見ぬ生まれくる子供はしきりに手だか足だか頭だかを動かしていた。手のひらに伝わってくるものの重さについて考えているときに女の子は言った。

「産んでいいの?」
「オフコース。もちろんだよ。産んでいいもヘチマもない。おれは生まれてこのかた産んだことはないし、死ぬまで産むことはできないだろうから産むのはおまえに頼るしかないけど、育てるのは一緒にやる。今からたのしみだ」
「でも、結婚もしてないんだよ。あなたもわたしも20歳になったばかりで、学生だし」
「それがどうしたって言うんだ? おれもおまえもじいさんばあさんで、悠々自適だったらいいのか?」

女の子は何度も首をふり、ぽろぽろ塩味ダイヤモンドをこぼした。私は手早くTDKの30分テープの両面に『生まれ来る子供たちのために』を片面15分に3回ずつ録音し、リピート再生した。

「さて、生まれくるぼくらの子供のためにどんな物語を書くかな」

私が言うと、女の子は声をあげて泣いた。

「泣くとこ?」
「うん。泣くとこ」
「そうか…。ここはやっぱり、抱きしめたり、胸に顔を埋めさせたりしたほうがいいのかな?」
「そんなことより、ゆで玉子作って。ハードボイルドで」

完璧なハードボイルドを食べながら女の子はプルーストの”À la recherche du temps perdu”を声に出して読んだ。きれいな発音だった。特に、冒頭の”Longtemps, je me suis couché de bonne heure.”のところが。思わず聞き惚れるほどだった。

妊娠とハードボイルドとMPの『失われた時を求めて』。ミッキー・スピレーンほどではないがレイモンド・チャンドラーくらいはハードボイルドだった。

私が罰当たりでどうしようもないのは激しく欲情し、勃起したことだった。生まれくる子供にあわす顔もないと思った。頭を撫でるかわりにタートル・ヘッドの先っぽでつついたが、その先は言葉にできない。

生まれきた子供はいまでは40歳。不惑だが不倫恋愛の真っ最中だ。子供は3人。その余のことは知らない。子守唄がわりに『ダニーボーイ』を歌ってやったことをおぼえていない不埒なやつなんかに興味はない。料金着払いで内容証明付きの不幸の手紙を送ってやる。


生まれ来る子供たちのために オフコース (Three and Two/1979)

言葉にできない オフコース (over/1981)
 
by enzo_morinari | 2019-05-08 16:04 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

300メートルの夏/I Go Crazy 1977

 
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俺はクールなんだ。クールなタフ・ガイなんだ。Diogenez Dogz


夏がくるたびに思い出すことがある。母親が片手で持てるくらいに小さくなって死に、父親が若い女のところへ行ってしまい、兄が結婚と同時に地方へ転居して、私ひとりだけになった18歳の夏の、タフでヘビーな300メートルのことを。

ひとりの夏。それはとても心地よい響きを持っていた。私はひとりの部屋でなんどなんども「ひとりの夏」と口に出してみた。口に出すたび、その夏は本当に自分だけの夏になるような気がした。しかし、実際にはいつもどおりの、なにごともない、さえない、ただ暑いだけの夏だった。家を明け渡したことをのぞいては。

その家には10年住んだ。正確には10年と3ヶ月だ。その家こそは、わが「黄金の少年時代」の最盛期と黄金のズンドコ時代の幕開けをともに生きた戦友のような存在だった。家を明け渡さなければならない原因を作った張本人は父親だが、私は彼を責めなかった。父親の放蕩や道楽はいまにはじまったことではなかったからだ。

家財道具を3人で山分けしてしまうと、家の中は夏の終わりのふやけた熱と、茫漠とした静寂に満たされた。


荷物を満載した運送屋のトラックを見届け、父と兄はそそくさと自分の生活の根拠地へ帰還していった。クールなやつらだと妙に感心したのをおぼえている。私はといえば、いつになく感傷的だった。自分の使っていた部屋の壁に残るスキーター・ディヴィスのポスターの痕跡を見ると胸が熱くなった。だだっ広い家の中に取り残され、少しだけ泣いた。

配電盤のブレーカーを落とし、火の元と戸締まりを確認し、家を出るときがきた。最後にドアを閉め、鍵をかけたときの音は腹にこたえた。こみあげてくるものがあった。こみあげてくるものはあるけれども、大丈夫だ。どうってことはない。こんなことはどうってことのないひとつの過程にすぎない。ありったけの言葉で自分をかきたてようとしたが無駄だった。

「あばよ」と小さく言って私は家をあとにした。家が見えなくなる曲がり角までは300メートルある。時間にして2分弱。何度もふりかえりそうになったがふりかえらなかった。2度立ち止まり、煙草を1本吸っただけだ。

「OK. だいじょうぶ。俺はクールなんだ。クールなタフ・ガイなんだ。」

そう胸の中で呟きつづけなければいられない長くてタフでヘビーな300メートルだった。

以後、今日までに数えきれないほどの夏やら冬やら春やら秋やらをやりすごしてきた。しかし、あれ以上にタフでヘビーで腹にこたえる300メートルにはいまだにお目にかかっていない。


I Go Crazy - Paul Davis (Singer of Songs - Teller of Tales/1977)
Cool Night - Paul Davis (Cool Night/1981)
 
by enzo_morinari | 2019-04-15 02:50 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

サッカー部の副顧問にして新卒新任の国語教師、その実、小説家志望のツチヤ・テツヤことツチノコ・テツヤの個人的メッセージと凄腕の冷酷非情なアサシンとしての貌

 
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いくつかの季節が過ぎていき いく人かの友だちが過ぎていき そのことがまぎれもなく ひとつの時代だったのさ Accue You


サッカー部の副顧問にして新卒新任の国語教師、その実、小説家志望のツチヤは表向きには槌屋哲矢という。裏社会ではツチノコ・ツチヤ/槌屋槌の子/ツチツチ/ツッチーだ。ツチツチ/ツッチーが通りがいい。青白い文学青年のツチヤは、その筋裏社会ではシコロのツッチーあるいは転がしコロシのツチノコ・ツッチーとして恐れられ、知らぬ者のない存在だった。

ツッチーが自分がツチノコ/バチヘビの化身であることをある個人的なメッセージとともにカミングアウトしたのは夏休み直前の1973年7月1日のことだった。


個人的メッセージ GARO (吟遊詩人/1975)
 
by enzo_morinari | 2019-04-14 16:09 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

サッカー部の副顧問にして新卒新任の国語教師、その実、小説家志望のツチヤは荒野をめざし、たどり着いたところは京浜急行富岡駅前の直木三十五の墓を見下ろす木造モルタル造り六畳一間のおんぼろアパート。

 
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BGMはいつもかぐや姫の神田川か赤ちょうちん。昭和の風景

生きてることはただそれだけで悲しいことだと知りました。Cosets Minami

いまでも、雨の夜、濡れた赤ちょうちんの屋台に背中を丸めたあなたがいるような気がします。Cosets Minami

われわれは平成/昭和どころか、大正も明治も江戸も消化できていない。夜郎自大な時代屋の漢


中学のときのアソシエーション・フットボール部の副顧問のツチヤは新卒新任の国語教師だった。運動神経はにぶく、サッカーの技術はからきし。はっきり言えばゼロ。走りかたはロンドンブーツ1号2号の田村淳クリソツ。つまり、モモ神。

ツチヤは早稲田大学文学部国文科出の文学青年でもあって、小説家になることを夢見ていた。教師をつづけながら小説を書き、文学賞に応募する日々。住んでいる京浜急行富岡駅そばの木造モルタル造りのおんぼろアパートの六畳一間の部屋の窓からは直木三十五の墓がみえた。朝晩、直木三十五の墓にお参りするためにそのおんぼろアパートに決めたという。1年365日ときに4242日、ツチヤは朝晩、直木三十五の墓に直木三十五の愛した白いカトレアの花を1りん供えた。

ある日、ツチヤは思いつめた表情で練習後の部室にやってきた。ツチヤはコクヨの400字詰め原稿用紙の束を私にみせて感想を求めた。私はタイトルと書き出しの1行と最後の1行を読んで言った。

「小説家になることはあきらめろ。あんたにはプロの物書きになるための資質が決定的に欠けている。」

ツチヤは愕然憔然とし、「やっぱり」と言った。つづけて、「プロの物書きになるための資質が決定的に欠けているというのは具体的にはなんでしょうか?」とたずねた。

「あんたの言葉には言霊が宿っていない。つまり、あんたの言語表現は死んでいる。」

私が言うと、ツチヤはその場に突っ伏して声をあげて泣いた。

ツチヤは生まれも育ちも明石町の聖路加病院の敷地内だった。父親は聖路加病院の内科医、母親は聖路加病院の看護婦。

ツチヤの評価できる点は『旧約聖書』と『古事記』と『日本書紀』と『三国志』と『源氏物語』と『失われた時を求めて』とドストエフスキーとトルストイとジェームス・ジョイスとヘミングウェイと夏目漱石の全作品を完読していることと酒とモク(Hi-Liteもしくはショッポ)を供給してくれることとJazz Music/古典楽曲のレコード音源を上質なオーディオ装置でいつでもいくらでも好きなだけ聴かせてくれることだった。漱石の『草枕』にいたっては全文を隅から隅まで一言一句たがえずに丸暗記していた。だが、ツチヤ。「とかく人の世は住みにくい」ではない。「とかくに人の世は住みにくい」だ。「に」が抜けていてはおれは苦虫を噛みつぶし、冥王星の税務署の収税課のarflexの黒いデスクの引出しの奥にまで届くような舌打ちをするぜ。ニッニッニッニッニッと。

ツチヤは私の3度のゼニカネ集めのためのオバケの結婚披露宴に3度とも出席し、香典袋に板垣退助の帯封未開の100円札を5束入れて、「呪言」と題した一文を添えて寄こした。ツチヤはベロベロに酔いどれて下手くそなギターをかき鳴らしてかぐや姫の『妹』の歌詞の「妹」のところを「弟」に替えて歌った。ボロボロボロと大粒の塩味ダイヤモンドをこぼしながら。ツチヤは8歳年上だったが、私は内心、おまえこそがおれの弟分だろうがよと思った。しかし、すごくうれしかった。

ツチヤは40歳目前に直木三十五の墓前でガソリンをかぶり、火をつけて自死したが、直木三十五の墓にはいまでも1りんの白いカトレアが欠かすことなく供えられている。成仏できないツチヤの仕業だろうが、悪さをするという話は聞かない。

ツチヤが成仏できない理由には心当たりがある。ツチヤが成仏できないのは、ツチヤは自殺ではなく、直木三十五の亡霊に呪殺されたからだ。


かぐや姫 四畳半三部作
神田川 かぐや姫 (昭和四十八年/1973)
赤ちょうちん かぐや姫 (昭和四十九年/1974)
妹 かぐや姫 (昭和四十九年/1974)
 
by enzo_morinari | 2019-04-14 05:36 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

答えなどなにひとつ孕んでいない風の歌が、なんとなくクリスタルな、中身空っぽのカタログ・シティを吹きぬけていった時代がかつてあった。

 
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古い友人が死んだ翌朝、SONYの古いトランジスタ・ラジオから聴こえてきたのはカーペンターズの『Yesterday Once More』だった。Yesterday Once More? 冗談じゃない。すべては1度で十分だ。骸骨同然になったカレン・カーペンターの姿なんか2度とみたくない。

West Coastの上げ底の波とジョシダイセーなる珍妙奇天烈な生きものとナイーブな街のナイーブな肉屋が切りわけたナイーブなロースハムがトッピングされた掟破りのスパゲティ・バジリコが、答えなどなにひとつ孕んでいない風の歌とともに、なんとなくクリスタルな、中身空っぽのカタログ・シティを吹きぬけていった時代がかつてあった。


15歳。夏木マリが脚線美の誘惑を包む絹の靴下を引き裂きながら誘っていた。

15歳。夏休み最終日の土砂降りの雨の中、真夜中の中学校の体育館に忍びこみ、放送室で『ジョニィへの伝言』を大音量でかけた。

15歳。リーバイスのレンガ色のチノパンを横須賀のドブ板通りの古着屋で手に入れた。600円だった。ひと夏中履きつづけた。根岸の日石のすぐそばのマンモス・プールや本牧のジャンボ・プールに行くときも空調の効いた街の図書館で昼寝がてらに本を読むときもガールフレンドと熊野神社の社殿の陰でヘビーペッティングやらヘビーネッキングやらをするときも上大岡にできたダイエーの紳士服売り場でラ・マーン・ビーキーにいそしむときもそのレンガ色のチノパンを履いていた。夏の終りには焦茶色に変わっていた。

15歳。『イージー・ライダー』はまだついきのうのことだった。ピーター・フォンダはまだ宇宙人になっておらず、デニス・ホッパーは謝肉祭を目前にしてまだ生きていた。ジャック・ニコルソンはまだ若造の無名の役者で郵便配達人として2度ベルを鳴らしておらず、カッコーの巣の上に登っておらず、山奥の迷路で凍りついてもいなかった。

15歳。街はどこにいてもザ・モップスの『たどりついたらいつも雨ふり』が聴こえるほどモッブでスノッブでサイケデリックだった。国道16号線や産業道路のいたるところで、ガス欠したRenault Quatreを押す鈴木ヒロミツが「クルマはガソリンで走るのです」とほざいていた。その脇で、のちに類人猿の父親となるマイク眞木が「のんびり行こうよ、俺たちは~。焦ってみた~って、おなじこと」と歌っていた。

キノコ頭4人組のカブトムシ楽隊の野郎どもは何年も前に「なるようになるさ」と言い放ち、おかっぱ頭と天然パーマの二人組が架けたうさん臭い橋は健在だった。大工の息子とその妹が「巨食症の明けない夜明け」のためのジャンバラヤを撒き散らしていた。

West Coastの上げ底の波とジョシダイセーなる珍妙奇天烈な生きものとナイーブな街のナイーブな肉屋が切りわけたナイーブなロースハムがトッピングされた掟破りのスパゲティ・バジリコが、答えなどなにひとつ孕んでいない風の歌とともに、なんとなくクリスタルな、中身空っぽのカタログ・シティを吹きぬけていくのはもうすぐだった。

ケイジャンはアメリカ南部のジャンケン、パエリアはパイ、ナシゴレンは梨のデザートだと思っていた。パスタという言葉すら知らなかった。メキシコ料理はタコスだけだと思っていた。極太レッド・ホット・チリペッパー・ウインナーに足を取られて伊勢佐木町のポンパドールの前で42回すったおれて痛い思いをした。おかげで3人のガールフレンドが去った。だから、ジャンバラヤはいまでも嫌いだし、食べない。トマトケチャップは憎んでさえいる。

ジャンバラヤとナシゴレンの食べすぎとサングリアの飲みすぎがもとで、シャングリラへは合計7回行ったが、いずれも滑って転んでどん尻ドンタコスだった。8回目に起きあがれるかどうかはきわめて心もとないので、もうシャングリラは卒業だ。かわりに、チェ・ゲバラ・ゲリラになることにした。フィデルの寝首をかいてやろうと思っていたが、やる前にフィデルの野郎は死んじまった。

長くてばかばかしい人生、そうそううまくはいかないものだ。ヘミングウェイが『恐竜の中のランゲルハンス諸島の島々』の中で言っていたとおりである。ダイヤモンド・ヘッドにたどりつきたければ急がばまわれということだろう。ナイーブでセンシティブなタートル・ヘッドにたどりつくためには長くて細くて白い指先による悪戯とYAIRIのアコギが必要である。

樽犬が歩くときはFluctuat Nec Mergitur, Festina Lenteにかぎる。つまり、人生の日々はなんやかやと口実をつくって日々是好日碧巌録無門関にしちまえばいいのだな。話は簡単、邯鄲の庭だ。そんなこんなで、戦うにはいい日だ! 死ぬには手頃な日だ!

ひとはなにごとからでも学ぶことはできるし、たとえそれが痛みをともなう経験であったとしても、その痛みの痕跡が死ぬまで残るとしても、大切なものを失う結果をもたらしても、無駄ではない。それを成熟と呼ぶ。少なくとも、腐敗ではないし、F-1の無量大数桜が枯死して斃れた朝、エゾヤマネコのFritz Von Münch Mammoth 4 1200 TTSが冥王星の税務署の総合受付のあしたの受付ジョーのエア・パンツがビリビリとふるえるほど大きな舌打ちを3度するのを聴けることだってある。万事、塞翁が馬耳東風荘で麻雀豆腐だ。

15歳。世界のいくつかが終わり、世界のいくつかが終わろうとしていた。これからどんなふうに人生がつづいていくのか、冷たい戦争やベルリンの壁やベトナムの最悪をかかえながら、どんなふうに世界は死に、終わっていくのか考えていた。

1970年代初頭、若者たちは自分のゆく道が果てしなく遠いのか、未舗装の困難と苦悩と苦渋に満ちた道なのか皆目わからないまま、とにかく歩いていた。そして、たいていの若者はカレン・カーペンターの声に恋をした。スポットライトを浴び、称賛の笑顔と拍手の裏で彼女が長いあいだ深刻な拒食症/摂食障害に苦しんでいたことも知らずに。1983年に32歳の若さで死ぬとも知らずに。

Yesterday Once More? 冗談じゃない。すべては1度で十分だ。骸骨同然になったカレン・カーペンターの姿なんか2度とみたくない。

The Carpenters - Yesterday Once More (1973)
 
by enzo_morinari | 2019-04-08 19:38 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/死刑宣告はシャコンヌで。

 
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ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『シャコンヌ』を聴きながら死ねるなら本望だ。生きているあいだに起きたすべてのことどもを受容し、ゆるすことができる。樽の哲犬

少女のリコッシェ・サルタートとポルタメントのかけ方は独特で、ところどころにハイフェッツの憤怒のごとき鋭いイディオムを思わせるものがあった。フラウタートで奏でる音には目を見張るほどの柔らかさと悲しみとがあった。フラジョレットは思わず引きこまれるくらいに澄んだ音だった。グレゴリオ聖歌の『怒りの日』の旋律の一部が引用されたときにはわが耳を疑った。

フロッシュが何本も切れて生き物のように揺れ、舞った。先端のスクリューでなにかしらのど真ん中、土手っ腹を貫かれているような気分だった。あとで、少女のヴァイオリンの師匠筋にエリック・フリードマンがいると知り、なるほどと納得した。


ミツモトのコーヒー・ショップのシャコンヌは不良/ワル/ツッパリの溜まり場だった。シャコンヌに行けば子分のだれかがいた。木製のドアを音がしないようにそっとあけ、店の中に入った。スタージャスミンのにおいがした。シャコンヌの女店主がつけているフレグランスだ。JEAN PATOUのJoyか。今度、寝物語にフレグランスの名をきいてみよう。

「樽の野郎はただの乱暴者、変なやつだ。」

しょぼくれたリーゼントの男が大声で言うのが聴こえた。いやなダミ声だった。ことさらに自分を大きくみせようとするタイプ。中身は空っぽ。睨んだだけで終わり。すぐに這いつくばる。コメツキバッタになる。女店主はほかの客を帰らせた。いつものことだ。

リーゼント野郎は私のほうに背を向けて座っていた。私が現れたことに気づいたリーゼント野郎と一緒にいたやつらの血相が変わった。どいつも血の気が引き、青ざめた。えずくやつもいた。リーゼント野郎に目配せするやつもいた。頭を何度も横に振るやつも。「やめろ。やめろ」とリーゼント野郎をたしなめるやつも。合計6人。チョチョイのチョイだ。繰り出すのは右ストレート1発で十分だ。あるいは蹴り1発。

私はリーゼント野郎の席にゆっくりと近づいて、物も言わずにリーゼント野郎の後頭部に渾身のまわし蹴りをいれた。リーゼント野郎は前につんのめり、テーブルに顔面を強打した。テーブルの上のものが大きな音を立てて弾け飛んだ。リーゼント野郎の正面にまわりこんで席を空けさせてから座った。

「おれが樽だ。みねえ顔だが、おれのことについてずいぶん詳しいようだな。」

リーゼント野郎は鼻血を滴らせていた。顔も腫れあがっていた。リーゼント野郎は顔面蒼白で、全身を激しくふるわせた。ハイカラーの蛇腹の学ランには国士舘の6枚楓の徽章がついていた。リーゼント野郎の右手がテーブルの上にあったので、フォークを逆手に持って突き刺した。リーゼント野郎はフンギャアという悲鳴をあげた。

「おまえは1時間、いや、30分以内に死ぬが、言い残しておくことは? 梵天先生に伝えることは? バックがいるなら、そいつらを呼べ。やくざもんだろうが右翼だろうがシカンボのソンベだろうが、一緒に始末してやるから。そのほうが手っ取り早い。」

シャコンヌの女店主を呼んで肉切り包丁を持ってこさせ、リーゼント野郎の前に置いた。

「おれはうしろを向く。それでおれをぶった切るなり、ぶっ刺すなり、好きにしろ。自分の首を切るのも腹を切るのもおまえの自由だ。指を詰めるのもな。次におれがふりむいたとき、そのどれかをおまえが選んで、実際にやっていなければ死ぬのはおまえだけじゃねえぞ。おまえの家族も皆殺しにして、家は燃やしちまうからな。」

私はリーゼント野郎にそう告げて、背を向けた。やや間があってからゴリッという鈍い音がした。

シャコンヌの店内に流れる曲がJ.S. Bachの『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ』にかわった。シャコンヌ。死刑宣告と死刑執行の序章にはちょうどよかったが、とりあえずはフェルマータ、小休止だ。

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J.S. Bach - Chaconne Partita No 2 for Violin in D minor, BWV 1004 - Jascha Heifetz (Paris, ORTF Studio 102, September 16, 1970)
 
by enzo_morinari | 2019-04-05 12:20 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/12歳の殺戮者は憤怒し、憎悪し、手加減なし容赦なしで仕留め、嗤う

 
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私の心のかたちはハートではない。私の心のかたちはFrozen Metal Jacketだ。


初めての殺人。殺したのは獅子舞いの獅子のようなツラをしたオールド・ミスの担任のクソばばあ。金貸しの取立てのように滞納している給食費を払うよう亡者づらで執拗にせっつきつづけてきた下衆外道。

毎月の月末。終礼時。「今月も給食費を払っていないのは一人だけ」と薄ら笑いを浮かべて獅子舞いの獅子のようなツラをしたオールド・ミスの担任のクソばばあは私の名を言った。同級生どもは私の怒りがいつ炸裂するかと怯えて身をすくめ、ふるえていた。私の怒りが炸裂すればだれにもとめられないことを知っているからだ。

虫酸が走り、はらわたが煮えくりかえった。獅子舞いの獅子のようなツラをしたオールド・ミスの担任のクソばばあを八つ裂きにする光景を思い浮かべた。腹に何度も何度もナイフを突き刺し、はらわたを引きずり出す光景を。喉元を切り裂くことを。鼻を削ぎ落とし、耳を削ぎ落とし、舌を切り落とし、目玉を抉り抜くことを。

LÉON-WP38はタオルで両腕を縛った際に痕跡が腕に残らないようにする縛り方をやってみせた。それは想像以上に難しかった。完璧にできるようになるのに2週間かかった。


Shape of My Heart - Sting (1993)
 
by enzo_morinari | 2019-04-04 05:07 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/Judgment Day 私の心のかたちはハートではない。私の心のかたちはFrozen Metal Jacketだ。

 
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私はほとんど笑わなくなり、怒らなくなった。花を見ても子犬を抱いても好きな音楽を聴いても本を読んでもなにも感じなくなった。心はぴくりとも動かなくなった。私の心はFrozen Metal Jacket/凍りついたメタルになった。


小学校6年。私は身長180cm近い偉丈夫に成長していた。運動能力測定/体力身体能力測定時、50mを5秒88で走り、垂直跳びは82cm。懸垂は20回越え。ソフトボール投げは47m。反復横跳びは72回/分。背筋力は162kg。踏み台昇降後の心拍数は42回/分。運動能力、身体能力、体力、心肺機能のいずれも成人のアスリートのレベルだった。

中学生や高校生の不良、ツッパリとケンカをしても負けなかった。キャベツにしかみえない牡丹の花の入れ墨をチラつかせるチンケな三下奴の若いチンピラのやくざ者にも勝った。ケンカのときは相手を殺すつもりでやるので、相手は半殺し/袋叩きになった。武相高校の番長は柔道部の主将で100kgを超える巨漢だったが、鼻っ柱に右のストレート・パンチを1発叩きこんでKOし、病院送りにした。

味をしめた私は街場で不良やツッパリやトッポいやつをみかけるとケンカをふっかけ、勝利し、金品を奪った。百戦百勝。百戦錬磨。負けなし。たいていは鼻っ柱への右のストレート・パンチ1発でのした。不敗記録は中華街のRed Shoesで内藤のジュンちゃん(カシアス内藤)に敗北するまでつづいた。繰り出したパンチは内藤のジュンちゃんにかすりもしなかった。目にもとまらぬ俊敏な動きだった。ボディーブロー1発で倒された。反吐を吐き、しばらく息ができなかった。さすが、いずれは世界チャンピオンと言われ、現役の東洋ミドル級王者だと思った。

ケンカのときに相手に髪の毛をつかまれる不利を避けるためにカミソリで頭を剃り上げた。ツルツル。スキンヘッドだ。眉毛もすべて剃った。のちには頭頂部を少しだけ残すハワイアン・オールドファッションド・スタイルにした。そして、トランシング・ホース(略してトラホ)/奔馬と名乗った。

その頃の私の本懐、願っていたことは、太陽の、輝く日輪を拝しながら、輝く海を見下ろしながら、気高い松の木の根方で、自刃することだった。白刃を自分の腹に突き立てて切り裂くこと。そして、すべてを灼きつくし、光輝く日輪が瞼の裏に赫奕と昇ることを夢見ていた。

若い用務員の男(LÉON-WP38)が獅子舞いの獅子のようなツラをしたオールド・ミスの担任のクソばばあに叱責され、罵倒され、罵声を浴びせかけられるところを何度もみた。そのときのLÉON-WP38の目に宿っていた憤怒と憎悪の色は背筋も凍るほどおそろしいものだった。そして、私はある”秘密のアイデア”を思いついた。

用務員室に行った。LÉON-WP38は仮眠室で大の字になって寝ていた。

LÉON-WP38は陸上自衛隊第1空挺団(習志野空挺団)で「殺しの訓練」を徹底的に叩きこまれた人物だった。LÉON-WP38は天涯孤独だった。LÉON-WP38は暗く冥い目をしていた。いつもうつむき、ぶつぶつとなにか呟いていた。LÉON-WP38の出自の不幸がそうさせてでもいたか。

教員も生徒も気味悪がってLÉON-WP38に近寄らなかった。私はLÉON-WP38に手の施しようのない傷、痛み、怒り、憎しみ、怨念のたぐいを嗅ぎとっていた。自分とおなじにおいを。私はしばしば用務員室にLÉON-WP38を訪ねた。校舎内で、あるいは街場で会うと声をかけた。LÉON-WP38は私の訪問をよろこび、声をかけたことに対して感謝の言葉を述べた。

「あのばばあを殺すのなんかわけもない。ちょちょいのちょいだ。自殺にみせかけて。」とLÉON-WP38は涼しい顔で言った。

私は陸上自衛隊第1空挺団上がりのLÉON-WP38から徹底的に「人殺しの特訓」を受けた。LÉON-WP38は私を殺人マシーン、殺し屋に仕立てあげることに情熱を傾けた。LÉON-WP38は私にMATHILDA-WP42というコード・ネームをつけた。MATHILDA-WP42。1発で気に入った。音もなく忍び寄り、静かに、手加減なし容赦なしで殺戮のかぎりをつくすMATHILDA-WP42。全身が総毛立った。

LÉON-WP38は私をマッチと呼び、訓練のはじめに「マッチ! 火をつけろ。燃やせ。灼きつくせ。燃えあがれ!」と言って私の両頬と両肩を手のひらで何度も叩き、鼓舞した。

接近法、ナイフの扱い方、殺人のための道具の使い方、日用品を凶器にする方法、拷問法、尋問のやり方と自白のさせ方、人体の仕組みと構造、死体の処理方法、痕跡の消し方、周囲の観察方法、人物の記憶方法、身の隠し方/気配の消し方、歩き方/走り方、呼吸法、傷の手当の仕方、止血法、尾行のやり方/尾行のかわし方、偽造術、変装術、解鍵と開錠、盗聴のやり方/盗聴器の仕かけ方、破壊工作等々。

私はLÉON-WP38の訓練を乾いた砂が水を吸収するようにおぼえた。私はみるみるうちに殺人マシーンになっていった。殺人マシーンになるための訓練を受け、殺人マシーンのスキルをひとつひとつ身につけてゆくのに比例して、私は自分の中から人間らしい心の動きが引き剥がされ、失われてゆくのをひしひしと感じていた。

私はほとんど笑わなくなり、怒らなくなった。花を見ても子犬を抱いても好きな音楽を聴いても本を読んでもなにも感じなくなった。心はぴくりとも動かなくなった。私の心はFrozen Metal Jacket/凍りついたメタルになった。母親は私の変化に気づき、すごく心配していた。生物学上の父親は姿をみせなくなった。夏の初めにスタートした訓練は秋の終わりには仕上げ/最終段階に近づいていた。

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「首にロープをかけて背中合わせにしてから一気に背負う。それで終わり。」とLÉON-WP38はこともなげに言った。LÉON-WP38手製の手足のついたサンドバッグで繰り返し予行演習をした。

1970年12月25日、私の12歳の誕生日。三島由紀夫が東京事変で自裁して1ヶ月。私は生きることの意味を失いかけていた。そして、その日、”Judgment Day”はついにやってきた。


Shape of My Heart - Sting (1993)
 
by enzo_morinari | 2019-04-02 09:30 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/ビンボーのクオリティとクオリア 貧乏長屋の共同炊事場から聴こえたTennessee Waltzはビンボーといっしょに昭和のあっけらかんとして突き抜けた夏空の彼方に消えていった。

 
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ビンボーにもQualityとQualiaがある。

一億総中流だあ? 知るか! 日本が徹底的につまらなくなった原因は中流意識だ。

楽して稼ごうなんざあ、餓鬼畜生の所業だ。棚から牡丹餅も玉の輿も逆玉の輿もな。

Tennessee Waltzも昭和のビンボーも昭和のビンボー人も愛しい。恋しい。静かに寄り添い、やさしく抱きしめて、そっと頬ずりしたい…

国土の7割が急峻な山岳地帯で、海っぱた端っこにへばりつくように暮らしている日本人に豊かさもヘチマもあるか! 日本も日本人もビンボーでいい。そのほうがずっといい。いい職人だっていなくならずにすむ。

木の実をひろい、つかまえられるかどうかもわからない鹿やイノシシやナウマン象やマンモスを追いかけていたネアンデルタール人や北京原人や明石人やクロマニョン人たちをビンボーと嗤えるか? 硬くて味のしない黒パンと貧者のスープ/良妻のスープ=野菜のごった煮をかこむ善きサマリア人の夕餉の食卓をビンボーだと嗤えるのか? 不作と飢饉で大根を齧っていた農民をビンボーと嗤えるか? 嗤えまい。身の丈/間尺に合っているならビンボーもヘチマもない。

みんなビンボーだった。どいつもこいつも胸を張って、あるいはうつむいて、あるいは恥ずかしそうに、あるいは申し訳なさそうに、あるいは楽しそうにビンボーだった。それでも、食うために生き延びるために一所懸命に生きていた。それが昭和という時代だ。

格差社会? それってうめえのか? 世界は太古の昔から金持ち/土地持ち/物持ち/力持ちと金なし土地なし物なし文なし力なしなんにもなしなしなしずくしすっからかん空っけつのオケラに嗤われるくらいのビンボー人でできあがってるんだ。今に始まったことじゃない。


ビンボーだった。だからどうした八百屋の五郎だが、小学校の6年間、ただの一度も給食費を払えないほどビンボーだった。獅子舞いの獅子のようなツラをしたオールド・ミスの担任のクソばばあは金貸しの取立てのように滞納している給食費を払うよう亡者づらで執拗にせっついてきた。急角度で目がつり上がっていた。そのたびに居直って、「ねえものは払えねえよ! ない袖は振れねえってんだ! 獅子舞いばばあ!」と啖呵を切った。いつか殺してやる。八つ裂きにしてやると思った。思ったことも願ったことも現実化する。獅子舞いばばあも例外ではない。なにがなんでも現実化させてやるのだと固く心に決めた。数年後にそうなった。

その後、獅子舞いの獅子のようなツラをしたオールド・ミスの担任のクソばばあは首を吊ってくたばった。公式には。非公式には(ry ウイスキー・ボンボンで祝杯をあげた。ざまあない。

そんなビンボーな日々にも夏は容赦なくやってきた。夏休みになったところでどこに行くわけでもない。行ける道理がない。喰うだけでいっぱいいっぱいなんだから。喰うことすらままならなかったんだから。1時間15円の市営プールで泳ぐか山でカブトムシやクワガタをつかまえるか図書館で本を読むか一人遊びするか考えごとをするかあることないこと/ないことないことでできた自分が読むためだけの物語を書くくらいしかすることはなかった。だから、いい齢をぶっこいたやつが得意顔鼻高々自慢げ自慢たらたらこれみよがしで、どこ行ったなに喰ったなに見たなにしたかにしたというたぐいの寝言たわ言をほざくのを見聞きすると虫酸が走り、はらわたが煮えくりかえる。

この際、自分がルサンチマンの鬼であることははっきりと、胸を張って、だれになにに憚ることもなく、しかし、そこはかとなく表明しておく。

仲良くなった市民プールのバイトの大学生は「内緒だよ」と言って、チケットの時間を延長の追加料金なしで最終自刻の1800時までにしてくれた。くちびるがむらさき色になっても泳いだ。仲良し大学生が菓子パンをくれることもあった。あんパンとジャムパンとクリームパンとメロンパンとカレーパンと甘食。涙が出るほどうまかった。今でも菓子パンは大好きだ。横浜市の自由形50m小学校3年生の記録はいまだに破られていない。

毎日毎日、朝から晩まで腹がへっていた。プールで泳げばさらに腹がへることがわかっていても泳いだ。ぶっ倒れそうなほど腹がへり、プールの近くの駄菓子屋の玉子屋で、店番をしているばあさんの目を盗み、おでんをかっぱらって喰った。ちくわぶと玉子とダイコンとさつま揚げとジャガイモ。腹一杯になるまで喰った。帰ろうとする私の背中に店番のばあさんが声をかける。「もっと食べな。おかあちゃんの分、持って帰りな」と店番のばあさんは言い、アルマイトの大きな鍋にあふれるほどおでんを入れて持たせてくれた。ビンボーは町内中に知れわたっていたのだ。

昭和湯の入口脇に出ていた焼鳥の屋台から流れてくるにおいにはくらくらした。タレの皮焼きやシロモツやネギマを何十本もおごってくれたズーズー弁の出稼ぎ土方のあんちゃんはどうしてるかな。死んじまったろうな。いつも呑んだくれていたからな。昭和湯は平成になる前に廃業した。廃墟となった銭湯の造作とオバケ煙突は残っていて、往時の残像残影を偲ぶことはできる。

日も暮れて、おなじビンボー長屋のやつらが晩めしの支度をしている。いいにおい、いい音。私の母親が作る晩めしは来る日も来る日もおなじにおい、おなじ音だった。救いは母親がビンボーをたのしんでいるのではないかというくらいあかるいことだった。Funny&Funky. 歌い、泣き、怒り、怒鳴り、最後は笑っていた。

母親は八百屋のミドリ屋青果店でもらってきた菜っ葉の切れ端や野菜くずを炒め、タラコを焼きながらTennessee Waltzを歌っていた。いい声、いい歌。いつしか「ただいま」のかわりにいっしょにTennessee Waltzを歌うようになっていた。

まともなめし、うまいめしを喰わせてやる前に母親はBye, Byeしてしまった。中学2年の秋だった。Bye, Byeしたときは怒りを炸裂させただけで、塩味ダイヤモンドはひと粒もこぼしていない。のちに、Tennessee Waltzが恋人を奪われた痛みと苦しみと悲しみの歌なのだと知り、泣いた。どうりで、母親もTennessee Waltzを歌いながら泣くことがあったはずだ。Tennessee Waltzと母親の涙と穀潰しろくでなしスケコマシ女たらしの生物学上の父親。すべては腑に落ちた。

ビンボーと1時間15円の市営プールとおなじにおい、おなじ音の晩めしとTennessee Waltz. それが昭和の思い出だ。

みんなビンボーだった。どいつもこいつも胸を張って、あるいはうつむいて、あるいは恥ずかしそうに、あるいは申し訳なさそうに、あるいは楽しそうにビンボーだった。それでも、食うために生き延びるために一所懸命に生きていた。それが昭和という時代だ。

昭和はとっくの昔に終わり、次の平成も終わろうとしている。だからどうした八百屋の五郎。平成のビンボーはコソコソと隠れるようなひと眼を忍ぶビンボーだった。令和の時代のビンボーはどんなビンボーになるんだろうな。

この国には夢もチボー家の人々がビックリしたなーモーモー偶蹄目で腰を抜かしてチビるくらいにチボーもないから、そして、ビンボー人のこどもは親よりさらにビンボーになるから、ビンボーはなくならないが、あかるいビンボーだったらいいんだけどな。古今亭志ん生も言っている。ビンボーにもクオリティがあるって。

貧乏長屋の共同炊事場から聴こえたTennessee Waltzはビンボーといっしょに昭和のあっけらかんとして突き抜けた夏空の彼方に消えていった。


Tennessee Waltzも昭和のビンボーも昭和のビンボー人も愛しい。恋しい。静かに寄り添い、やさしく抱きしめて、そっと頬ずりしたい…。しかし、決して埋葬はしない。もちろん、追悼も。自分が生きてあるかぎり、昭和は自分の中で生きつづけるのだから。平成だって大正だって明治だって江戸だっておなじだ。すべての時代は生きている人間の血となり肉となって生きている。その理屈道理がわからない唐変木は豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ! 豆腐屋の四季のパアフゥーのラッパで葬送の曲、野辺送りのうたくらいやってやるから。

なにはともあれ、昭和と平成とすべての時代にTennessee Waltzで乾杯だ。Here’s is looking at you, SHOWA!

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Recipe: Tennessee Waltz
Creme de Cacao Brown(BOLS) 40ml
Grenadine Syrup 10ml
Soda 2dash


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*ポンコツ小娘の広瀬すず。期待度ZEROだったが、令和初のNHK朝ドラの『なつぞら』の第1回の冒頭ではそこそこの芝居をしていた。ツラも声も少しだけだがよくなった。いずれにしても、役者としての才能も伸び代もないが悪意敵意を留保して生ぬるく観察計測することにした。

Tennessee Waltz - Connie Francis (1959)
 
by enzo_morinari | 2019-04-01 10:22 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

Deep Black Nights/あれは幻の夜だったのか?

 
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Calendarium Gregorianum 1975年、秋。高校の文化祭の夜だった。時代は気の抜けた7UPのようにのっぺりとした貌をしていた。つまらなかった。退屈だった。いつも苛立っていた。ストリート・ファイト/肉体言語闘争に明け暮れていた。シラケ世代? 冗談じゃない。私は滾っていた。世界を憎み、世界に憤怒していた。世界の殺し方を探っていた。シラケ鳥は手加減なし容赦なしで撃ち落とした。

国鉄がスト権ストをやって、しょっちゅう東海道線が止まった。退屈しのぎに、動労のポンコツヘッポコスカタン木偶の坊の腑抜けと藤沢の駅前で肉体言語闘争した。7戦7勝。逮捕3回。横浜少年鑑別所収容2回。いずれも不処分。つまり、無罪。保護観察処分もされず、保護司すらつかなかった。審判のときに、緊急避難/カルネアーデスの板の法理を展開した。横浜家庭裁判所の定年退官間近の裁判官はすごく嬉しそうだった。裁判官は高校の先輩だった。Deep Black Nightsはそんな日々のさなかにやってきた。

文化祭最終日。体育館で演劇や踊りや音楽の出し物が行われた。冷やかし全部で体育館に入った。

私が脚本を書き、演出した大江健三郎の『敬老週間』は好評だった。次に舞台にあがったのはDeep Purpleのコピーバンド。

Highway StarもSmoke on the WaterもStrange Kind of WomenもBlack Nightもひどいものだった。

Ian Gillanは絞め殺された白色レグホン、フィッシャー症候群亜種のイラン・ギラン=バレーだった。Ritchie Blackmoreのソロ・パートは高速道路どころか肥溜めのにおいのするクソ田舎の農道だった。吐きそうになった。Strange Kind of Womenは棺桶に首までつかった意地悪ばあさん、Black NightはPlaque Night/歯垢の夜、Smoke on the Waterに至っては凡愚のやりすぎで脳みそがケムリになったようだった。我慢の限界だった。

私は学ランを脱ぎ捨て、上半身裸で舞台に駆けあがった。胸のど真ん中に秀英社明朝体で大きく、背中一面には桜吹雪の刺青。おどろくポンコツ・バンド。リード・ギターをもぎ取り、ストラップをかけ、狂っているチューニングをなおしてからマイク・スタンドを蹴り上げ、片手でキャッチして言った。

「こどもの時間、演歌と童謡の時間は終わりだ。おまえら、悪魔に会いたいか? 悪魔の夜を越えたいか? Fuckな校則をぶっちぎって、悪魔の湘南高速の星になりたいか?」

体育館が壊れるのではないかというくらいの大歓声があがった。ドラムスのやつをちらとみてHighway Starと言い、ドラムスがうなずくのを確認してからピックアップ・ヴォリュームとアンプのヴォリュームをMaxにし、BIGのボールペンのキャップをピックがわりにしてHighway Starの出だしのGのコードを5回かき鳴らした。そして、声をかぎりにShoutした。


Nobody gonna take my car. I'm gonna race it to the ground. Nobody gonna beat my car. It's gonna break the speed of sound. Ooh it's a killing machine. Highway Star…


間奏とギター・ソロのあいだにChuck BerryのDuck Walkを3往復半やったら、割れんばかりの拍手と歓声が起こった。「アンコール! アンコール!」の合唱があったが手で制し、コントロールされたマムシ顔で凄みをきかせて「アンコールもけっこうだが、ギャラはたけえぞ」と言ってやった。

アクビをした野郎がみえたので、そいつを指差して「アクビをしたおまえ! ただで済むと思うなよ! あとで体育館の裏までこい!」

しんと静まりかえった。アクビ野郎は機械仕掛けのオレンジみたいにカクカクと高速で頭を上下させていた。アクビ野郎は謝っているつもりだったんだろうが、謝って済むなら警察はいらない。

アクビ野郎の高速頭部謝罪上下運動がつづく中、Highway Starを再演した。最後には即興で歌った。


Nobody calls me chicken. I'm wanna beat you by hard grind. Fuck my life, Fuck your life, Fuck the fuck war! Fuck the fuck world!


あとで、失神し、失禁する者が続出したと聞いた。教員どもの中にも。大嗤いの夜だった。Ψ(`▽´)Ψ


Highway Star - Deep Purple (Machine Head/1972)

Smoke on the Water - Deep Purple (Machine Head/1972)

Strange Kind of Women - Deep Purple (Fireball/1971)

Black Night - Deep Purple (1970)

The Very Best of Deep Purple (Full Album)

by enzo_morinari | 2019-02-20 17:56 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)