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カテゴリ:昔々、横浜で。( 32 )

昔々、横浜で。/58℃ 二十五歳のときの地図は尾崎豊の『十七歳の地図』だった。

 
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I LOVE YOU. 今だけは悲しい歌 聞きたくないよ
I LOVE YOU. 逃れ逃れたどり着いた この部屋
なにもかも許された恋じゃないから 二人はまるで捨て猫みたい
この部屋は落ち葉に埋もれた空き箱みたい だからおまえは子猫のような泣き声で…

きしむベッドの上でやさしさを持ち寄り きつく体抱きしめあえば
それからまた二人は目を閉じるよ 悲しい歌に愛がしらけてしまわぬように…



1984年。二十五歳のときの地図は尾崎豊の『十七歳の地図』だった。前年の1983年にCBSソニーでディレクターをやっている男から、「名前はまだ言えないが、もうすぐすごい言葉を紡ぎだすやつが現れる」と聞かされていたのが尾崎豊だった。

『十七歳の地図』には腰が抜け、全身に鳥肌が立ち、震えが止まらぬほどの衝撃を受けた。『十七歳の地図』を聴くことはまぎれもなく体験だった。中でも、『I LOVE YOU』から受けた衝撃はすさまじかった。生まれて初めて「負けた」と思った。

繰り返し繰り返し聴いた。聴くたびに、塩味ダイヤモンドがいくらでもこぼれた。そして、『十七歳の地図』『I LOVE YOU』は二十五歳の地図になった。お世辞にも正確さと精度がいいとは言えなかったが、やみくもさの中を生きるためにはいい地図、いい羅針盤だった。それは、いまもかわらない。これからもかわることはあるまい。


I LOVE YOU - 尾崎豊 (十七歳の地図/1983)
 
by enzo_morinari | 2019-09-21 23:59 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/ひとはどのようにして「青春の門」を開き、通りぬけていくのか?

 
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ばってん おかねにゃ勝てんもん

遠賀川 土手の向こうにボタ山の三つ並んで見えとらす
うちはあんたに逢いとうて カラス峠ば越えてきた
香春岳 バスの窓から中学の屋根も涙でぼやけとる
月見草 いいえそげんな花じゃなか あれはセイタカアワダチソウ


ひとはどのようにして「青春の門」を開き、通りぬけていくのか?

どの時代に、どこで生まれ、どこで育ったかということからは生涯逃れられない。


記憶の暗部をたぐりよせる。五木寛之の『青春の門』は生物学上の父親が置いていった『週刊現代』で初めて読んだ。読み進みながら、ときめいたり、うなずいたり、がっかりしたり。尾崎士郎の『人生劇場』をすでに読んでいたので、「自立編」が始まったあたりから、興味は五木寛之が『青春の門』でどのように『人生劇場』をパクるかに移った。『青春の門』は直木賞受賞作の『蒼ざめた馬を見よ』より強度も深度も弱く浅いように思われた。

『青春の門』の頃、通学の東海道線の車内の高校生たちはたいてい『青春の門』を読んでいた。私は「青春」を「アオハル」と言うことがクールであるように思っていた。だから、『青春の門』は「アオハルの門」。

その頃、私は水平線の向こうで死にたいといつも思っていた。だから、鎌倉七里ガ浜で存在の耐えられない透明な波乗り板にまたがり、一千億の波を待ち、水平線の果てに向けてパドリングしていた。

存在の耐えられない透明な波乗り板。Black LIGHTNING BOLTあるいはWhite LIGHTNING BOLT. 真っ黒けっけで真っ白けっけ。数々の矛盾を孕みつつ世界に確かに存在し、生きている私にはぴったりのサーフボードだった。

1970年代初期。『青春の門』を読むことは「青春の門」を開き、通りぬけるための通過儀礼だった。それは読書というよりも体験であったと言ってよい。うがった言い方をするならば、「『青春の門』経験」は「共通体験獲得のためのツール」だったということにでもなるんだろう。

『青春の門』は第3部の「放浪篇」までしか読んでいない。同時代性を獲得するのにはそれでじゅうぶんだった。以後は惰性、堕落であるように思われた。そして、私は青春の門のあとにいくつもの地獄門やら羅生門やら邪宗門やら煉獄の門やら玉門やら菊の御門やらをくぐりぬけた。くぐっていないのは天国の門くらいのものである。


織江の唄 山崎ハコ (人間まがい/1979)
 
by enzo_morinari | 2019-09-20 23:58 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/1964年の秋の初めの日曜日の横浜の貧民窟の貧乏長屋の洗濯物干し場で「犬は屁をするか?」と演説をした。Life and Fart goes on. それでも、人生はつづく。orz〜

 
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だいじょうぶ、My Friend. 屁が出るうちは生きている。

Pass Gas, Break Wind, Cut the Cheese. But Life Goes On.


小学校1年。Olympic Year. 1964年の秋の初めの日曜日の無防備に欲情する横浜の貧民窟の貧乏長屋の洗濯物干し場で「犬は屁をするか?」と演説をした。

結論。犬は屁をする。ブーもフーもウーもスーもブリッもボンッもある。夜の街にガオーッ!やマッハGo Go Go!やオバケのQだってある。そして、クサい。鼻が130Rに曲がって0x0(0+0)÷(0÷0)=も解けないほどクサい。

私が演説をはじめたときは洗濯物干し中の長屋のお母ちゃんが数人いただけだったが、すぐに洗濯物干し場は長屋の住人どもでいっぱいになった。パン屋のカネキ屋の婆さんや角の加藤のタバコ屋のおやじやラーメン屋の珍萬の中国人や飲み屋の糸勝のエロエロ女までがいた。

私は演説をつづけた。

屁をする犬に罪はない。悪気もない。あるのはだれも口出し手出しできない物理法則だけである。だれも口出し手出しできないが、屁は出る。屁はところかまわずに出る。出物腫物ところかまわずだ。なぜなら、屁が出るのは物理法則だからだ。物理法則は神の意志であるとも言いうる。中国のえらい坊さんは言った。「屁なりとて仇と思うな諸人よ。ブッというのは仏なりせば」と。

私の演説は1時間ほどもつづいた。オーディエンスは満面の笑顔。拍手さえ起こった。みんなボロを着て、貧乏がしみついた顔をしていて、貧乏くさかったが、どいつもこいつもしあわせそうだった。

私は演説の最後に尻を右側にあげて超ドレッドノート級の屁をこいた。それを合図にあっちでもこっちでも、屁。屁。屁。屁。屁の大合唱、満艦飾、オンパレード。いつもはお上品ぶってる高橋んちのマリ子さえ。一番デカい屁をこいたのはとなりにいた私の母親だ。親子は臭い仲でもあるということだろう。

Life goes on. それでも、人生はつづくと思っていたら、母親は中学2年の秋に片手で持てるくらいに小さくなり、最後の最後にすごくクサい屁をこいて死んでしまった…。orz〜


Life Goes On - 2PAC (All Eyez On Me/1995)
 
by enzo_morinari | 2019-09-04 00:11 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/山下埠頭の夜はふけて──ミナトの親父

 
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カジノだあ? ヨコハマはとっくの昔にでっけえ博奕場だってのよ!真・ハマの番長


小学校にあがる前の年。生物学上の父親に連れられて横浜港に行った。途中、北仲通りにある藤木企業のミナトの親父こと藤木幸太郎を訪ねた。「昼めしを食おう」とミナトの親父は言い、チャン街(南京町/中華街)の聘珍樓まで歩いた。すれちがう人相風体の悪い者たちがコメツキバッタのようにミナトの親父に頭を下げた。

聘珍樓では店長とおぼしき男と料理長が席まで挨拶に来た。ミナトの親父は「うまいもん全部」とひと言。出てきた料理はどれもこれも豪勢でうまかった。ミナトの親父は「いい子だ。いい子だ」と言いながら、何度も何度も私の頭を撫でた。本人は撫でているつもりだったのだろうが大きなタワシか岩塊でこすられているみたいだった。痛かった。大きくてゴツゴツしていてあたたかな手だった。

当時、羽振りのよかった生物学上の父親は港湾荷役の会社をやっていた。ミナトの親父の藤木企業は取引先だったんだろう。生物学上の父親は藤木幸太郎のことをしきりに「親父、親父」と呼んでいた。親らしいことはなにひとつしたことのない生物学上の父親はミナトの親父からなにを学んだのかはわからないが、いずれ、地獄の釜の縁にでもならんで座って聞いてみることにしよう。
 
by enzo_morinari | 2019-08-25 17:18 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/生まれくる子供のために伝えたいことがあったが言葉にできなかった夜。妊娠とハードボイルドとMPの『失われた時を求めて』

 
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頼るもの何もないあの頃へ帰りたい。 Kazoo Massa Oodál


高校2年の秋から恋愛関係にあった女の子から妊娠を告げられたのは1979年のクリスマスのことだった。私の誕生日だった。偶然か天の配剤か。部屋のオーディオ装置ではオフコースの『生まれ来る子供たちのために』がかかっていた。おそらくは、女の子がタイミングを合わせたんだろうと思う。

「どんな気分?」と女の子は言った。
「不思議で、こそばゆくて、恥ずかしくて、うれしくて、ちょっとしあわせな気分。うまく言葉にできない」と私は言い、女の子のお腹にそっと触れた。

妊娠13週に入ったばかりだった。まだ見ぬ生まれくる子供はしきりに手だか足だか頭だかを動かしていた。手のひらに伝わってくるものの重さについて考えているときに女の子は言った。

「産んでいいの?」
「オフコース。もちろんだよ。産んでいいもヘチマもない。おれは生まれてこのかた産んだことはないし、死ぬまで産むことはできないだろうから産むのはおまえに頼るしかないけど、育てるのは一緒にやる。今からたのしみだ」
「でも、結婚もしてないんだよ。あなたもわたしも20歳になったばかりで、学生だし」
「それがどうしたって言うんだ? おれもおまえもじいさんばあさんで、悠々自適だったらいいのか?」

女の子は何度も首をふり、ぽろぽろ塩味ダイヤモンドをこぼした。私は手早くTDKの30分テープの両面に『生まれ来る子供たちのために』を片面15分に3回ずつ録音し、リピート再生した。

「さて、生まれくるぼくらの子供のためにどんな物語を書くかな」

私が言うと、女の子は声をあげて泣いた。

「泣くとこ?」
「うん。泣くとこ」
「そうか…。ここはやっぱり、抱きしめたり、胸に顔を埋めさせたりしたほうがいいのかな?」
「そんなことより、ゆで玉子作って。ハードボイルドで」

完璧なハードボイルドを食べながら女の子はプルーストの”À la recherche du temps perdu”を声に出して読んだ。きれいな発音だった。特に、冒頭の”Longtemps, je me suis couché de bonne heure.”のところが。思わず聞き惚れるほどだった。

妊娠とハードボイルドとMPの『失われた時を求めて』。ミッキー・スピレーンほどではないがレイモンド・チャンドラーくらいはハードボイルドだった。

私が罰当たりでどうしようもないのは激しく欲情し、勃起したことだった。生まれくる子供にあわす顔もないと思った。頭を撫でるかわりにタートル・ヘッドの先っぽでつついたが、その先は言葉にできない。

生まれきた子供はいまでは40歳。不惑だが不倫恋愛の真っ最中だ。子供は3人。その余のことは知らない。子守唄がわりに『ダニーボーイ』を歌ってやったことをおぼえていない不埒なやつなんかに興味はない。料金着払いで内容証明付きの不幸の手紙を送ってやる。


生まれ来る子供たちのために オフコース (Three and Two/1979)

言葉にできない オフコース (over/1981)
 
by enzo_morinari | 2019-05-08 16:04 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

300メートルの夏/I Go Crazy 1977

 
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俺はクールなんだ。クールなタフ・ガイなんだ。Diogenez Dogz


夏がくるたびに思い出すことがある。母親が片手で持てるくらいに小さくなって死に、父親が若い女のところへ行ってしまい、兄が結婚と同時に地方へ転居して、私ひとりだけになった18歳の夏の、タフでヘビーな300メートルのことを。

ひとりの夏。それはとても心地よい響きを持っていた。私はひとりの部屋でなんどなんども「ひとりの夏」と口に出してみた。口に出すたび、その夏は本当に自分だけの夏になるような気がした。しかし、実際にはいつもどおりの、なにごともない、さえない、ただ暑いだけの夏だった。家を明け渡したことをのぞいては。

その家には10年住んだ。正確には10年と3ヶ月だ。その家こそは、わが「黄金の少年時代」の最盛期と黄金のズンドコ時代の幕開けをともに生きた戦友のような存在だった。家を明け渡さなければならない原因を作った張本人は父親だが、私は彼を責めなかった。父親の放蕩や道楽はいまにはじまったことではなかったからだ。

家財道具を3人で山分けしてしまうと、家の中は夏の終わりのふやけた熱と、茫漠とした静寂に満たされた。


荷物を満載した運送屋のトラックを見届け、父と兄はそそくさと自分の生活の根拠地へ帰還していった。クールなやつらだと妙に感心したのをおぼえている。私はといえば、いつになく感傷的だった。自分の使っていた部屋の壁に残るスキーター・ディヴィスのポスターの痕跡を見ると胸が熱くなった。だだっ広い家の中に取り残され、少しだけ泣いた。

配電盤のブレーカーを落とし、火の元と戸締まりを確認し、家を出るときがきた。最後にドアを閉め、鍵をかけたときの音は腹にこたえた。こみあげてくるものがあった。こみあげてくるものはあるけれども、大丈夫だ。どうってことはない。こんなことはどうってことのないひとつの過程にすぎない。ありったけの言葉で自分をかきたてようとしたが無駄だった。

「あばよ」と小さく言って私は家をあとにした。家が見えなくなる曲がり角までは300メートルある。時間にして2分弱。何度もふりかえりそうになったがふりかえらなかった。2度立ち止まり、煙草を1本吸っただけだ。

「OK. だいじょうぶ。俺はクールなんだ。クールなタフ・ガイなんだ。」

そう胸の中で呟きつづけなければいられない長くてタフでヘビーな300メートルだった。

以後、今日までに数えきれないほどの夏やら冬やら春やら秋やらをやりすごしてきた。しかし、あれ以上にタフでヘビーで腹にこたえる300メートルにはいまだにお目にかかっていない。


I Go Crazy - Paul Davis (Singer of Songs - Teller of Tales/1977)
Cool Night - Paul Davis (Cool Night/1981)
 
by enzo_morinari | 2019-04-15 02:50 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

サッカー部の副顧問にして新卒新任の国語教師、その実、小説家志望のツチヤ・テツヤことツチノコ・テツヤの個人的メッセージと凄腕の冷酷非情なアサシンとしての貌

 
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いくつかの季節が過ぎていき いく人かの友だちが過ぎていき そのことがまぎれもなく ひとつの時代だったのさ Accue You


サッカー部の副顧問にして新卒新任の国語教師、その実、小説家志望のツチヤは表向きには槌屋哲矢という。裏社会ではツチノコ・ツチヤ/槌屋槌の子/ツチツチ/ツッチーだ。ツチツチ/ツッチーが通りがいい。青白い文学青年のツチヤは、その筋裏社会ではシコロのツッチーあるいは転がしコロシのツチノコ・ツッチーとして恐れられ、知らぬ者のない存在だった。

ツッチーが自分がツチノコ/バチヘビの化身であることをある個人的なメッセージとともにカミングアウトしたのは夏休み直前の1973年7月1日のことだった。


個人的メッセージ GARO (吟遊詩人/1975)
 
by enzo_morinari | 2019-04-14 16:09 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

サッカー部の副顧問にして新卒新任の国語教師、その実、小説家志望のツチヤは荒野をめざし、たどり着いたところは京浜急行富岡駅前の直木三十五の墓を見下ろす木造モルタル造り六畳一間のおんぼろアパート。

 
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BGMはいつもかぐや姫の神田川か赤ちょうちん。昭和の風景

生きてることはただそれだけで悲しいことだと知りました。Cosets Minami

いまでも、雨の夜、濡れた赤ちょうちんの屋台に背中を丸めたあなたがいるような気がします。Cosets Minami

われわれは平成/昭和どころか、大正も明治も江戸も消化できていない。夜郎自大な時代屋の漢


中学のときのアソシエーション・フットボール部の副顧問のツチヤは新卒新任の国語教師だった。運動神経はにぶく、サッカーの技術はからきし。はっきり言えばゼロ。走りかたはロンドンブーツ1号2号の田村淳クリソツ。つまり、モモ神。

ツチヤは早稲田大学文学部国文科出の文学青年でもあって、小説家になることを夢見ていた。教師をつづけながら小説を書き、文学賞に応募する日々。住んでいる京浜急行富岡駅そばの木造モルタル造りのおんぼろアパートの六畳一間の部屋の窓からは直木三十五の墓がみえた。朝晩、直木三十五の墓にお参りするためにそのおんぼろアパートに決めたという。1年365日ときに4242日、ツチヤは朝晩、直木三十五の墓に直木三十五の愛した白いカトレアの花を1りん供えた。

ある日、ツチヤは思いつめた表情で練習後の部室にやってきた。ツチヤはコクヨの400字詰め原稿用紙の束を私にみせて感想を求めた。私はタイトルと書き出しの1行と最後の1行を読んで言った。

「小説家になることはあきらめろ。あんたにはプロの物書きになるための資質が決定的に欠けている。」

ツチヤは愕然憔然とし、「やっぱり」と言った。つづけて、「プロの物書きになるための資質が決定的に欠けているというのは具体的にはなんでしょうか?」とたずねた。

「あんたの言葉には言霊が宿っていない。つまり、あんたの言語表現は死んでいる。」

私が言うと、ツチヤはその場に突っ伏して声をあげて泣いた。

ツチヤは生まれも育ちも明石町の聖路加病院の敷地内だった。父親は聖路加病院の内科医、母親は聖路加病院の看護婦。

ツチヤの評価できる点は『旧約聖書』と『古事記』と『日本書紀』と『三国志』と『源氏物語』と『失われた時を求めて』とドストエフスキーとトルストイとジェームス・ジョイスとヘミングウェイと夏目漱石の全作品を完読していることと酒とモク(Hi-Liteもしくはショッポ)を供給してくれることとJazz Music/古典楽曲のレコード音源を上質なオーディオ装置でいつでもいくらでも好きなだけ聴かせてくれることだった。漱石の『草枕』にいたっては全文を隅から隅まで一言一句たがえずに丸暗記していた。だが、ツチヤ。「とかく人の世は住みにくい」ではない。「とかくに人の世は住みにくい」だ。「に」が抜けていてはおれは苦虫を噛みつぶし、冥王星の税務署の収税課のarflexの黒いデスクの引出しの奥にまで届くような舌打ちをするぜ。ニッニッニッニッニッと。

ツチヤは私の3度のゼニカネ集めのためのオバケの結婚披露宴に3度とも出席し、香典袋に板垣退助の帯封未開の100円札を5束入れて、「呪言」と題した一文を添えて寄こした。ツチヤはベロベロに酔いどれて下手くそなギターをかき鳴らしてかぐや姫の『妹』の歌詞の「妹」のところを「弟」に替えて歌った。ボロボロボロと大粒の塩味ダイヤモンドをこぼしながら。ツチヤは8歳年上だったが、私は内心、おまえこそがおれの弟分だろうがよと思った。しかし、すごくうれしかった。

ツチヤは40歳目前に直木三十五の墓前でガソリンをかぶり、火をつけて自死したが、直木三十五の墓にはいまでも1りんの白いカトレアが欠かすことなく供えられている。成仏できないツチヤの仕業だろうが、悪さをするという話は聞かない。

ツチヤが成仏できない理由には心当たりがある。ツチヤが成仏できないのは、ツチヤは自殺ではなく、直木三十五の亡霊に呪殺されたからだ。


かぐや姫 四畳半三部作
神田川 かぐや姫 (昭和四十八年/1973)
赤ちょうちん かぐや姫 (昭和四十九年/1974)
妹 かぐや姫 (昭和四十九年/1974)
 
by enzo_morinari | 2019-04-14 05:36 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

答えなどなにひとつ孕んでいない風の歌が、なんとなくクリスタルな、中身空っぽのカタログ・シティを吹きぬけていった時代がかつてあった。

 
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古い友人が死んだ翌朝、SONYの古いトランジスタ・ラジオから聴こえてきたのはカーペンターズの『Yesterday Once More』だった。Yesterday Once More? 冗談じゃない。すべては1度で十分だ。骸骨同然になったカレン・カーペンターの姿なんか2度とみたくない。

West Coastの上げ底の波とジョシダイセーなる珍妙奇天烈な生きものとナイーブな街のナイーブな肉屋が切りわけたナイーブなロースハムがトッピングされた掟破りのスパゲティ・バジリコが、答えなどなにひとつ孕んでいない風の歌とともに、なんとなくクリスタルな、中身空っぽのカタログ・シティを吹きぬけていった時代がかつてあった。


15歳。夏木マリが脚線美の誘惑を包む絹の靴下を引き裂きながら誘っていた。

15歳。夏休み最終日の土砂降りの雨の中、真夜中の中学校の体育館に忍びこみ、放送室で『ジョニィへの伝言』を大音量でかけた。

15歳。リーバイスのレンガ色のチノパンを横須賀のドブ板通りの古着屋で手に入れた。600円だった。ひと夏中履きつづけた。根岸の日石のすぐそばのマンモス・プールや本牧のジャンボ・プールに行くときも空調の効いた街の図書館で昼寝がてらに本を読むときもガールフレンドと熊野神社の社殿の陰でヘビーペッティングやらヘビーネッキングやらをするときも上大岡にできたダイエーの紳士服売り場でラ・マーン・ビーキーにいそしむときもそのレンガ色のチノパンを履いていた。夏の終りには焦茶色に変わっていた。

15歳。『イージー・ライダー』はまだついきのうのことだった。ピーター・フォンダはまだ宇宙人になっておらず、デニス・ホッパーは謝肉祭を目前にしてまだ生きていた。ジャック・ニコルソンはまだ若造の無名の役者で郵便配達人として2度ベルを鳴らしておらず、カッコーの巣の上に登っておらず、山奥の迷路で凍りついてもいなかった。

15歳。街はどこにいてもザ・モップスの『たどりついたらいつも雨ふり』が聴こえるほどモッブでスノッブでサイケデリックだった。国道16号線や産業道路のいたるところで、ガス欠したRenault Quatreを押す鈴木ヒロミツが「クルマはガソリンで走るのです」とほざいていた。その脇で、のちに類人猿の父親となるマイク眞木が「のんびり行こうよ、俺たちは~。焦ってみた~って、おなじこと」と歌っていた。

キノコ頭4人組のカブトムシ楽隊の野郎どもは何年も前に「なるようになるさ」と言い放ち、おかっぱ頭と天然パーマの二人組が架けたうさん臭い橋は健在だった。大工の息子とその妹が「巨食症の明けない夜明け」のためのジャンバラヤを撒き散らしていた。

West Coastの上げ底の波とジョシダイセーなる珍妙奇天烈な生きものとナイーブな街のナイーブな肉屋が切りわけたナイーブなロースハムがトッピングされた掟破りのスパゲティ・バジリコが、答えなどなにひとつ孕んでいない風の歌とともに、なんとなくクリスタルな、中身空っぽのカタログ・シティを吹きぬけていくのはもうすぐだった。

ケイジャンはアメリカ南部のジャンケン、パエリアはパイ、ナシゴレンは梨のデザートだと思っていた。パスタという言葉すら知らなかった。メキシコ料理はタコスだけだと思っていた。極太レッド・ホット・チリペッパー・ウインナーに足を取られて伊勢佐木町のポンパドールの前で42回すったおれて痛い思いをした。おかげで3人のガールフレンドが去った。だから、ジャンバラヤはいまでも嫌いだし、食べない。トマトケチャップは憎んでさえいる。

ジャンバラヤとナシゴレンの食べすぎとサングリアの飲みすぎがもとで、シャングリラへは合計7回行ったが、いずれも滑って転んでどん尻ドンタコスだった。8回目に起きあがれるかどうかはきわめて心もとないので、もうシャングリラは卒業だ。かわりに、チェ・ゲバラ・ゲリラになることにした。フィデルの寝首をかいてやろうと思っていたが、やる前にフィデルの野郎は死んじまった。

長くてばかばかしい人生、そうそううまくはいかないものだ。ヘミングウェイが『恐竜の中のランゲルハンス諸島の島々』の中で言っていたとおりである。ダイヤモンド・ヘッドにたどりつきたければ急がばまわれということだろう。ナイーブでセンシティブなタートル・ヘッドにたどりつくためには長くて細くて白い指先による悪戯とYAIRIのアコギが必要である。

樽犬が歩くときはFluctuat Nec Mergitur, Festina Lenteにかぎる。つまり、人生の日々はなんやかやと口実をつくって日々是好日碧巌録無門関にしちまえばいいのだな。話は簡単、邯鄲の庭だ。そんなこんなで、戦うにはいい日だ! 死ぬには手頃な日だ!

ひとはなにごとからでも学ぶことはできるし、たとえそれが痛みをともなう経験であったとしても、その痛みの痕跡が死ぬまで残るとしても、大切なものを失う結果をもたらしても、無駄ではない。それを成熟と呼ぶ。少なくとも、腐敗ではないし、F-1の無量大数桜が枯死して斃れた朝、エゾヤマネコのFritz Von Münch Mammoth 4 1200 TTSが冥王星の税務署の総合受付のあしたの受付ジョーのエア・パンツがビリビリとふるえるほど大きな舌打ちを3度するのを聴けることだってある。万事、塞翁が馬耳東風荘で麻雀豆腐だ。

15歳。世界のいくつかが終わり、世界のいくつかが終わろうとしていた。これからどんなふうに人生がつづいていくのか、冷たい戦争やベルリンの壁やベトナムの最悪をかかえながら、どんなふうに世界は死に、終わっていくのか考えていた。

1970年代初頭、若者たちは自分のゆく道が果てしなく遠いのか、未舗装の困難と苦悩と苦渋に満ちた道なのか皆目わからないまま、とにかく歩いていた。そして、たいていの若者はカレン・カーペンターの声に恋をした。スポットライトを浴び、称賛の笑顔と拍手の裏で彼女が長いあいだ深刻な拒食症/摂食障害に苦しんでいたことも知らずに。1983年に32歳の若さで死ぬとも知らずに。

Yesterday Once More? 冗談じゃない。すべては1度で十分だ。骸骨同然になったカレン・カーペンターの姿なんか2度とみたくない。

The Carpenters - Yesterday Once More (1973)
 
by enzo_morinari | 2019-04-08 19:38 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/死刑宣告はシャコンヌで。

 
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ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『シャコンヌ』を聴きながら死ねるなら本望だ。生きているあいだに起きたすべてのことどもを受容し、ゆるすことができる。樽の哲犬

少女のリコッシェ・サルタートとポルタメントのかけ方は独特で、ところどころにハイフェッツの憤怒のごとき鋭いイディオムを思わせるものがあった。フラウタートで奏でる音には目を見張るほどの柔らかさと悲しみとがあった。フラジョレットは思わず引きこまれるくらいに澄んだ音だった。グレゴリオ聖歌の『怒りの日』の旋律の一部が引用されたときにはわが耳を疑った。

フロッシュが何本も切れて生き物のように揺れ、舞った。先端のスクリューでなにかしらのど真ん中、土手っ腹を貫かれているような気分だった。あとで、少女のヴァイオリンの師匠筋にエリック・フリードマンがいると知り、なるほどと納得した。


ミツモトのコーヒー・ショップのシャコンヌは不良/ワル/ツッパリの溜まり場だった。シャコンヌに行けば子分のだれかがいた。木製のドアを音がしないようにそっとあけ、店の中に入った。スタージャスミンのにおいがした。シャコンヌの女店主がつけているフレグランスだ。JEAN PATOUのJoyか。今度、寝物語にフレグランスの名をきいてみよう。

「樽の野郎はただの乱暴者、変なやつだ。」

しょぼくれたリーゼントの男が大声で言うのが聴こえた。いやなダミ声だった。ことさらに自分を大きくみせようとするタイプ。中身は空っぽ。睨んだだけで終わり。すぐに這いつくばる。コメツキバッタになる。女店主はほかの客を帰らせた。いつものことだ。

リーゼント野郎は私のほうに背を向けて座っていた。私が現れたことに気づいたリーゼント野郎と一緒にいたやつらの血相が変わった。どいつも血の気が引き、青ざめた。えずくやつもいた。リーゼント野郎に目配せするやつもいた。頭を何度も横に振るやつも。「やめろ。やめろ」とリーゼント野郎をたしなめるやつも。合計6人。チョチョイのチョイだ。繰り出すのは右ストレート1発で十分だ。あるいは蹴り1発。

私はリーゼント野郎の席にゆっくりと近づいて、物も言わずにリーゼント野郎の後頭部に渾身のまわし蹴りをいれた。リーゼント野郎は前につんのめり、テーブルに顔面を強打した。テーブルの上のものが大きな音を立てて弾け飛んだ。リーゼント野郎の正面にまわりこんで席を空けさせてから座った。

「おれが樽だ。みねえ顔だが、おれのことについてずいぶん詳しいようだな。」

リーゼント野郎は鼻血を滴らせていた。顔も腫れあがっていた。リーゼント野郎は顔面蒼白で、全身を激しくふるわせた。ハイカラーの蛇腹の学ランには国士舘の6枚楓の徽章がついていた。リーゼント野郎の右手がテーブルの上にあったので、フォークを逆手に持って突き刺した。リーゼント野郎はフンギャアという悲鳴をあげた。

「おまえは1時間、いや、30分以内に死ぬが、言い残しておくことは? 梵天先生に伝えることは? バックがいるなら、そいつらを呼べ。やくざもんだろうが右翼だろうがシカンボのソンベだろうが、一緒に始末してやるから。そのほうが手っ取り早い。」

シャコンヌの女店主を呼んで肉切り包丁を持ってこさせ、リーゼント野郎の前に置いた。

「おれはうしろを向く。それでおれをぶった切るなり、ぶっ刺すなり、好きにしろ。自分の首を切るのも腹を切るのもおまえの自由だ。指を詰めるのもな。次におれがふりむいたとき、そのどれかをおまえが選んで、実際にやっていなければ死ぬのはおまえだけじゃねえぞ。おまえの家族も皆殺しにして、家は燃やしちまうからな。」

私はリーゼント野郎にそう告げて、背を向けた。やや間があってからゴリッという鈍い音がした。

シャコンヌの店内に流れる曲がJ.S. Bachの『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ』にかわった。シャコンヌ。死刑宣告と死刑執行の序章にはちょうどよかったが、とりあえずはフェルマータ、小休止だ。

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J.S. Bach - Chaconne Partita No 2 for Violin in D minor, BWV 1004 - Jascha Heifetz (Paris, ORTF Studio 102, September 16, 1970)
 
by enzo_morinari | 2019-04-05 12:20 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)