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カテゴリ:昔々、横浜で。( 30 )

昔々、横浜で。/Eagle 810. 1975年の夏、鷲は米軍横田基地を飛び立ち、17歳の若者に舞い降りた。

 
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鷲は米軍横田基地を飛び立ち、17歳の若者に舞い降りた。

Oh, that's the way, Aha! Aha! I like it, Aha! Aha!


「フレデリック・ニコラス・ラボンディが死んだ。16号線でトレーラーと正面衝突だ」

横浜時代の古い友人は電話口で声を震わせた。1975年から1977年までの2年間、フレデリック・ニコラス・ラボンディ(FNL)はFENのDJをやっていて、私はFNLの熱烈なファンだった。ファン・レターを書いたことすらある。フレデリック・ニコラス・ラボンディの名前を聞くと1975年の夏を思いだす。そして、FNLの声がよみがえってくる。

1975年に横浜とその周辺に暮らす17歳の若者がラジオを聴くとしたら、それはまちがいなくFEN、極東放送だった。少なくとも私の場合はそうだ。ニッポン放送でも文化放送でもラジオ関東でもFM東京でもなく、FENを聴くのはとてもクールなことのように思えた。

This is the Far East Network, an affiliate of the Armed Forces Radio Service.のアナウンスを耳にすると胸が高鳴った。鷲は米軍横田基地を飛び立ち、17歳の若者に舞い降りた。周波数AM 810kHz。 出力50kW。 "Eagle 810"。

当時、FENから聴こえてきたDJの声はすべておぼえている。声の主がだれなのか正確に名前をあげることだってできる。夜明け頃はモリアーティとパラダイスを名乗る二人組、朝食の頃にはショーティー・ウィリアムス、昼近くになるとブルース・オサリバンに交代して午後の半ばまで。そのあとはジミー・オブライエンが夕食の頃までで、ハワードJが夜の11時ころまで。ニュースやら天気予報やらのあと、明け方近くまでがフレデリック・ニコラス・ラボンディだった。

彼らの仕事は重要なものではなかった。名誉ある仕事でも歴史に名を残す仕事でもなかった。しかし、彼らの「声」は17歳の若者の人生を代弁していた。彼らは17歳の若者にとってかけがえのない存在だった。馬鹿な冗談を言い、意味もないおしゃべりをしてはジグソーやKC&サンシャイン・バンドやイーグルスやドゥービー・ブラザースの曲をかけた。

あの夏に17歳の少年たちはたくさんの人々に出会い、いろいろな場所に行ったけれども、それらに負けず劣らずFEN局のDJたちのおしゃべりや冗談や彼らが聴かせてくれた音楽はたいせつな思い出となった。FEN局のDJたちにしてみれば狭くて息苦しいスタジオでもうもうとしたタバコの煙にまみれながら何時間もすごすのはけっしていい気分のものではなかったろう。しかし、そんなことは考えてもみなかった。「17歳の夏」という特別なときを勝手気ままにすごしていただけだ。彼らの声は当時の横浜の若者たちが抱える「気分」の一端を代弁していた。本牧や根岸台の「フェンスの向こう側のアメリカ」と同様、世界へと連なる明るいリアリティを持っていた。

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フレデリック・ニコラス・ラボンディは死んだ。17歳の少年もみんな年を取った。時代はもはや1975年ではない。20世紀ですらなくなってしまった。21世紀は20年も過ぎた。

1975年から2020年のあいだに高度資本主義の網は世界中をがんじがらめにした。言葉と声と音楽は失われ、いまや虫の息だ。いつ果てるとも知れぬ0と1の空虚なダンスが世界中でステップを踏んでいる。それでも、17歳の夏にFENから聴こえてきた『That’s The Way』や『Sky High』や『Sunny』や『呪われた夜』や『Long Train Runnin’』や『Loving You』はいまでもいくぶんか私を勇気づけないこともない。


O-key! That's the way, Aha Aha I Like It! Aha Aha!

Stay Tune! This is Eagle 810. This is the Far East Network, an affiliate of the Armed Forces Radio Service.


That's the Way (I Like It) - KC and the Sunshine Band (1975)
One Of These Nights/呪われた夜 The Eagles (1975)
Long Train Runnin' - The Doobie Brothers (1973)
Sky High - Jigsaw (1975)
Sunny - Boney M. (1976)
Lovin' You - Minnie Riperton (1974)
 
by enzo_morinari | 2020-01-16 22:14 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/Deep Black Nights. あれは幻の夜だったのか?

 
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Calendarium Gregorianum 1975年、秋。高校の文化祭の夜だった。時代は気の抜けた7UPのようにのっぺりとした貌をしていた。つまらなかった。退屈だった。いつも苛立っていた。ストリート・ファイト/肉体言語闘争に明け暮れていた。シラケ世代? 冗談じゃない。私は滾っていた。世界を憎み、世界に憤怒していた。世界の殺し方を探っていた。シラケ鳥は手加減なし容赦なしで撃ち落とした。

国鉄がスト権ストをやって、しょっちゅう東海道線が止まった。退屈しのぎに、動労のポンコツヘッポコスカタン木偶の坊の腑抜けと藤沢の駅前で肉体言語闘争した。7戦7勝。逮捕3回。横浜少年鑑別所収容2回。いずれも不処分。つまり、無罪。保護観察処分もされず、保護司すらつかなかった。審判のときに、緊急避難/カルネアーデスの板の法理を展開した。横浜家庭裁判所の定年退官間近の裁判官はすごく嬉しそうだった。裁判官は高校の先輩だった。Deep Black Nightsはそんな日々のさなかにやってきた。

文化祭最終日。体育館で演劇や踊りや音楽の出し物が行われた。冷やかし全部で体育館に入った。

私が脚本を書き、演出した大江健三郎の『敬老週間』は好評だった。次に舞台にあがったのはDeep Purpleのコピーバンド。

Highway StarもSmoke on the WaterもStrange Kind of WomenもBlack Nightもひどいものだった。

Ian Gillanは絞め殺された白色レグホン、フィッシャー症候群亜種のイラン・ギラン=バレーだった。Ritchie Blackmoreのソロ・パートは高速道路どころか肥溜めのにおいのするクソ田舎の農道だった。吐きそうになった。Strange Kind of Womenは棺桶に首までつかった意地悪ばあさん、Black NightはPlaque Night/歯垢の夜、Smoke on the Waterに至っては凡愚のやりすぎで脳みそがケムリになったようだった。我慢の限界だった。

私は学ランを脱ぎ捨て、上半身裸で舞台に駆けあがった。胸のど真ん中に秀英社明朝体で大きく、背中一面には桜吹雪の刺青。おどろくポンコツ・バンド。リード・ギターをもぎ取り、ストラップをかけ、狂っているチューニングをなおしてからマイク・スタンドを蹴り上げ、片手でキャッチして言った。

「こどもの時間、演歌と童謡の時間は終わりだ。おまえら、悪魔に会いたいか? 悪魔の夜を越えたいか? Fuckな校則をぶっちぎって、悪魔の湘南高速の星になりたいか?」

体育館が壊れるのではないかというくらいの大歓声があがった。ドラムスのやつをちらとみてHighway Starと言い、ドラムスがうなずくのを確認してからピックアップ・ヴォリュームとアンプのヴォリュームをMaxにし、BICのボールペンのキャップをピックがわりにしてHighway Starの出だしのGのコードを5回かき鳴らした。そして、声をかぎりにShoutした。


Nobody gonna take my car. I'm gonna race it to the ground. Nobody gonna beat my car. It's gonna break the speed of sound. Ooh it's a killing machine. Highway Star…


間奏とギター・ソロのあいだにChuck BerryのDuck Walkを3往復半やったら、割れんばかりの拍手と歓声が起こった。「アンコール! アンコール!」の合唱があったが手で制し、コントロールされたマムシ顔で凄みをきかせて「アンコールもけっこうだが、ギャラはたけえぞ」と言ってやった。

アクビをした野郎がみえたので、そいつを指差して「アクビをしたおまえ! ただで済むと思うなよ! あとで体育館の裏までこい!」

しんと静まりかえった。アクビ野郎は機械仕掛けのオレンジみたいにカクカクと高速で頭を上下させていた。アクビ野郎は謝っているつもりだったんだろうが、謝って済むなら警察はいらない。

アクビ野郎の高速頭部謝罪上下運動がつづく中、Highway Starを再演した。最後には即興で歌った。


Nobody calls me chicken. I'm wanna beat you by hard grind. Fuck my life, Fuck your life, Fuck the fuck war! Fuck the fuck world!


あとで、失神し、失禁する者が続出したと聞いた。教員どもの中にも。大嗤いの夜だった。Ψ(`▽´)Ψ


Black Night - Deep Purple (1970)
Strange Kind of Women - Deep Purple (Fireball/1971)
Smoke on the Water - Deep Purple (Machine Head/1972)
Highway Star - Deep Purple (Machine Head/1972)

The Very Best of Deep Purple (Full Album)

by enzo_morinari | 2019-12-29 20:29 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/平潟湾の夕暮れに流した涙のゆくえ。CODで生きるということ。

 
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1970年代の横浜でCOD(Cash On Delivery)で生きることの気持ちよさを学んだ。

横浜市大のシェイクスピア・ガーデンで槍を振りまわし、腐ったニシンを食べることについて考えたのは半世紀近くも前のことだった。


人生は You're the First, the Last, My Everything あるいは Love Unlimited に越したことはないが、なんと言っても一番大事なのはSafety FirstとCash On Deliveryである。私はこれを遵守しなかったためにかれこれ男女鍋釜取りまぜて13人の子持ちシシャモである。その先にいくたりつづいているのか考えると気が遠くなる。50歳を過ぎた頃に数えるのはやめた。ハナマサの冷凍室担当もビックリイングリモングリである。

Prohibition of Life
ヒスノイズの中に時折混じるホワイトノイズを辿って行きついた先は全開バリバリのバリー・ホワイト邸の主賓室、アーリー・マイラブな無限の愛の間だった。全開バリバリのバリー・ホワイトはパロパロだかパラパラだかパオパオだかペロペロだかポロポロだかペモペモだかニマニマだかほざきながらファンキファンキしていた。オノマトペもここまでくると斧とマペットもいいところである。さて、そこだ。


昔々、横浜で。

高校生の頃、安くてくそまずいコロッケ定食を食うだけのために金沢八景にある横浜市立大学の学食に忍びこんだことがある。コロッケは1個、キャベツ山盛り。申し訳ていどの漬け物と色がついているだけの味噌汁。140円也。

「これじゃ、コロッケ定食じゃなくてキャベツ定食じゃんよ」

配膳口で学食のおばちゃんにそう言うと、おばちゃんは「じゃ、これ、オマケ」と言ってとんかつとコロッケを皿にのせてくれたうえに、ライスを巨大などんぶりにテンコ盛りした。そして、ウィンクした。おばちゃんのウィンクにはちょっと寒気がしたが、おかげで腹いっぱいになれた。その学食のおばちゃんとは高校3年の秋から冬にかけて恋愛関係になるのだが、それはまた別の話だ。

食後、シェイクスピア・ガーデンに寝転んでショッポで一服していたら、やさしいサヨクのためのディベルティメントをくちずさむ薄っぺらな左翼学生にオルグされかけた。私は日本国憲法と軍人勅諭と小林秀雄と三島由紀夫と吉本隆明と大江健三郎と坂口安吾と『古事記』と『万葉集』と『古今和歌集』と『新古今和歌集』と『今昔物語』と『方丈記』と『エゼキエル書』と『碧眼碌』と『甲陽軍鑑』と『葉隠』と『草枕』と『いきの構造』と『侏儒の言葉』と『ライ麦畑のキャッチャー』と『長距離走者の孤独』と『赤ずきんちゃん気をつけて』と『白鳥の歌なんか聴こえない』と『狼なんかこわくない』と『ゴドーを待ちながら』と『絶対の探求』と『人間喜劇』と『複製技術時代の芸術』と『泥棒日記』と『善の研究』と『純粋理性批判』と『精神現象学』と『夢判断』と『孤独な散歩者の夢想』と『シルトの岸辺』と『悪魔の辞典』と『中世の秋』と『存在と無』と『エロスの涙』と『存在と時間』と『世界の共同主観的存在構造』と『異邦人』と『二重らせん』と『セロ弾きのゴーシュ』と『銀河鉄道の夜』と岡林信康と『イムジン河』と『ダニーボーイ』とボブ・ディランとエルヴィス・プレスリーとマイルス・ディヴィスと『至上の愛』と『ケルン・コンサート』と『あしたのジョー』と『ハレンチ学園』と『忍風カムイ外伝』と『サスケ』と『ガキデカ』と谷岡ヤスジとブレヒトとガストン・バシュラールとフッサールとアインシュタインとシュレディンガーと『無伴奏チェロ組曲』とワグナーと『魔笛』を無理矢理組み合わせる「荒技」で論破し、へっぽこ左翼学生を号泣させ、吸いかけのハイライトとまだ封をあけていないハイライトを「供出」させた。凱旋気分でサニーマートのゲームセンターに乗り込み、居合わせたYTCと横須賀学園の「とっぽい奴ら」と路上肉体言語合戦(ストリート・ファイト)をやり、二人は踏みつぶし、残りの三人に組み敷かれたところで、目の前の金沢警察署のぼんくら警官どもにさらに取り押さえられ、補導された。

担任の新米教師が身柄を引き取りに来るまで、3時間にもわたって少年課の萩原という好々爺然とした刑事に諭され、励まされ、握手を求められ、嗚咽された。のちに判明したことだが、萩原さんは中学の同級生の父親であった。縁とはかくも深く、不可思議なものである。成人後も萩原さんとは年に一度くらいのペースで会い、酒を飲み、思い出話、四方山話に花を咲かせたが、先頃、亡くなってしまった。そんなことと、そんなことにまつわることと、そんなことにはいっさいまつわらないことをなつかしく思いだす。たのしい思い出がほとんどだが、ほろ苦いのや甘酸っぱいのもわずかながらある。

横浜市立大学はユニヴァシティというよりも、英国のカレッジといった風情を醸すいい大学だ。質と仕立てのいい英国製シャツのような印象であった。「余計な手を加えていないモスグリーンのモーリス・ミニクーパーのような大学」というわけのわからない形容をあえてしたくなってしまう学び舎である。一時期、進学先の候補にリストアップしたが、「東大進学者数のアップ」を至上命題、金科玉条と崇め奉る愚かな担任と定年間近の木偶の坊学年主任の懇願を受け入れ、受験することはやめた。横浜市大に入っていれば私の人生もまた別の風貌、色づきを呈していたかもしれぬ。

今はもう跡形もないらしいが、シェイクスピア・ガーデンは横浜市大のキャンパスの一隅にある実に魅力的な英国式庭園だった。横浜でもっともスローで晴れ晴れとした春が訪れる場所。シェイクスピア・ガーデンを舞台にした1970年代後半の「いい話」をいつかものにできたらいいと思っていたが、手持ちの残り時間から勘案して間に合うかどうか。

金沢八景。数えきれぬほどの思い出やら「貸し」やら「借り」やらを置き去りにしてある街だ。いつか取りもどしにいこうと思いながら、もう半世紀近くの歳月が流れてしまった。貸し借りなしの人生が決してゆずれぬ信条でもあるので、アデュー、アディオースのときまでには「貸し方/借り方」双方をゼロにし、貸借対照表をきれいさっぱり破り捨てるためにもきっちりとけじめをつけねばなるまい。そして、そののち、『人間最期の言葉』の末尾にでも「辞世」が載るくらいの仕事はしたいものだ。

野島橋の欄干にもたれ、平潟湾を染める夕陽に心ふるわせて流した涙がガラス玉だったのか。それとも、塩味のダイヤモンドだったのか。いつか確かめにいかなくてはならない。もちろん、八景島シーパラダイスなど知ったことではない。


You're the First, the Last, My Everything - Barry White (1974)
 
by enzo_morinari | 2019-12-13 21:28 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/58℃ 二十五歳のときの地図は尾崎豊の『十七歳の地図』だった。

 
昔々、横浜で。/58℃ 二十五歳のときの地図は尾崎豊の『十七歳の地図』だった。_c0109850_05585499.jpg

I LOVE YOU. 今だけは悲しい歌 聞きたくないよ
I LOVE YOU. 逃れ逃れたどり着いた この部屋
なにもかも許された恋じゃないから 二人はまるで捨て猫みたい
この部屋は落ち葉に埋もれた空き箱みたい だからおまえは子猫のような泣き声で…

きしむベッドの上でやさしさを持ち寄り きつく体抱きしめあえば
それからまた二人は目を閉じるよ 悲しい歌に愛がしらけてしまわぬように…



1984年。二十五歳のときの地図は尾崎豊の『十七歳の地図』だった。前年の1983年にCBSソニーでディレクターをやっている男から、「名前はまだ言えないが、もうすぐすごい言葉を紡ぎだすやつが現れる」と聞かされていたのが尾崎豊だった。

『十七歳の地図』には腰が抜け、全身に鳥肌が立ち、震えが止まらぬほどの衝撃を受けた。『十七歳の地図』を聴くことはまぎれもなく体験だった。中でも、『I LOVE YOU』から受けた衝撃はすさまじかった。生まれて初めて「負けた」と思った。

繰り返し繰り返し聴いた。聴くたびに、塩味ダイヤモンドがいくらでもこぼれた。そして、『十七歳の地図』『I LOVE YOU』は二十五歳の地図になった。お世辞にも正確さと精度がいいとは言えなかったが、やみくもさの中を生きるためにはいい地図、いい羅針盤だった。それは、いまもかわらない。これからもかわることはあるまい。


I LOVE YOU - 尾崎豊 (十七歳の地図/1983)
 
by enzo_morinari | 2019-09-21 23:59 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/ひとはどのようにして「青春の門」を開き、通りぬけていくのか?

 
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ばってん おかねにゃ勝てんもん

遠賀川 土手の向こうにボタ山の三つ並んで見えとらす
うちはあんたに逢いとうて カラス峠ば越えてきた
香春岳 バスの窓から中学の屋根も涙でぼやけとる
月見草 いいえそげんな花じゃなか あれはセイタカアワダチソウ


ひとはどのようにして「青春の門」を開き、通りぬけていくのか?

どの時代に、どこで生まれ、どこで育ったかということからは生涯逃れられない。


記憶の暗部をたぐりよせる。五木寛之の『青春の門』は生物学上の父親が置いていった『週刊現代』で初めて読んだ。読み進みながら、ときめいたり、うなずいたり、がっかりしたり。尾崎士郎の『人生劇場』をすでに読んでいたので、「自立編」が始まったあたりから、興味は五木寛之が『青春の門』でどのように『人生劇場』をパクるかに移った。『青春の門』は直木賞受賞作の『蒼ざめた馬を見よ』より強度も深度も弱く浅いように思われた。

『青春の門』の頃、通学の東海道線の車内の高校生たちはたいてい『青春の門』を読んでいた。私は「青春」を「アオハル」と言うことがクールであるように思っていた。だから、『青春の門』は「アオハルの門」。

その頃、私は水平線の向こうで死にたいといつも思っていた。だから、鎌倉七里ガ浜で存在の耐えられない透明な波乗り板にまたがり、一千億の波を待ち、水平線の果てに向けてパドリングしていた。

存在の耐えられない透明な波乗り板。Black LIGHTNING BOLTあるいはWhite LIGHTNING BOLT. 真っ黒けっけで真っ白けっけ。数々の矛盾を孕みつつ世界に確かに存在し、生きている私にはぴったりのサーフボードだった。

1970年代初期。『青春の門』を読むことは「青春の門」を開き、通りぬけるための通過儀礼だった。それは読書というよりも体験であったと言ってよい。うがった言い方をするならば、「『青春の門』経験」は「共通体験獲得のためのツール」だったということにでもなるんだろう。

『青春の門』は第3部の「放浪篇」までしか読んでいない。同時代性を獲得するのにはそれでじゅうぶんだった。以後は惰性、堕落であるように思われた。そして、私は青春の門のあとにいくつもの地獄門やら羅生門やら邪宗門やら煉獄の門やら玉門やら菊の御門やらをくぐりぬけた。くぐっていないのは天国の門くらいのものである。


織江の唄 山崎ハコ (人間まがい/1979)
 
by enzo_morinari | 2019-09-20 23:58 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/1964年の秋の初めの日曜日の横浜の貧民窟の貧乏長屋の洗濯物干し場で「犬は屁をするか?」と演説をした。Life and Fart goes on. それでも、人生はつづく。orz〜

 
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だいじょうぶ、My Friend. 屁が出るうちは生きている。

Pass Gas, Break Wind, Cut the Cheese. But Life Goes On.


小学校1年。Olympic Year. 1964年の秋の初めの日曜日の無防備に欲情する横浜の貧民窟の貧乏長屋の洗濯物干し場で「犬は屁をするか?」と演説をした。

結論。犬は屁をする。ブーもフーもウーもスーもブリッもボンッもある。夜の街にガオーッ!やマッハGo Go Go!やオバケのQだってある。そして、クサい。鼻が130Rに曲がって0x0(0+0)÷(0÷0)=も解けないほどクサい。

私が演説をはじめたときは洗濯物干し中の長屋のお母ちゃんが数人いただけだったが、すぐに洗濯物干し場は長屋の住人どもでいっぱいになった。パン屋のカネキ屋の婆さんや角の加藤のタバコ屋のおやじやラーメン屋の珍萬の中国人や飲み屋の糸勝のエロエロ女までがいた。

私は演説をつづけた。

屁をする犬に罪はない。悪気もない。あるのはだれも口出し手出しできない物理法則だけである。だれも口出し手出しできないが、屁は出る。屁はところかまわずに出る。出物腫物ところかまわずだ。なぜなら、屁が出るのは物理法則だからだ。物理法則は神の意志であるとも言いうる。中国のえらい坊さんは言った。「屁なりとて仇と思うな諸人よ。ブッというのは仏なりせば」と。

私の演説は1時間ほどもつづいた。オーディエンスは満面の笑顔。拍手さえ起こった。みんなボロを着て、貧乏がしみついた顔をしていて、貧乏くさかったが、どいつもこいつもしあわせそうだった。

私は演説の最後に尻を右側にあげて超ドレッドノート級の屁をこいた。それを合図にあっちでもこっちでも、屁。屁。屁。屁。屁の大合唱、満艦飾、オンパレード。いつもはお上品ぶってる高橋んちのマリ子さえ。一番デカい屁をこいたのはとなりにいた私の母親だ。親子は臭い仲でもあるということだろう。

Life goes on. それでも、人生はつづくと思っていたら、母親は中学2年の秋に片手で持てるくらいに小さくなり、最後の最後にすごくクサい屁をこいて死んでしまった…。orz〜


Life Goes On - 2PAC (All Eyez On Me/1995)
 
by enzo_morinari | 2019-09-04 00:11 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/山下埠頭の夜はふけて──ミナトの親父

 
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カジノだあ? ヨコハマはとっくの昔にでっけえ博奕場だってのよ!真・ハマの番長


小学校にあがる前の年。生物学上の父親に連れられて横浜港に行った。途中、北仲通りにある藤木企業のミナトの親父こと藤木幸太郎を訪ねた。「昼めしを食おう」とミナトの親父は言い、チャン街(南京町/中華街)の聘珍樓まで歩いた。すれちがう人相風体の悪い者たちがコメツキバッタのようにミナトの親父に頭を下げた。

聘珍樓では店長とおぼしき男と料理長が席まで挨拶に来た。ミナトの親父は「うまいもん全部」とひと言。出てきた料理はどれもこれも豪勢でうまかった。ミナトの親父は「いい子だ。いい子だ」と言いながら、何度も何度も私の頭を撫でた。本人は撫でているつもりだったのだろうが大きなタワシか岩塊でこすられているみたいだった。痛かった。大きくてゴツゴツしていてあたたかな手だった。

当時、羽振りのよかった生物学上の父親は港湾荷役の会社をやっていた。ミナトの親父の藤木企業は取引先だったんだろう。生物学上の父親は藤木幸太郎のことをしきりに「親父、親父」と呼んでいた。親らしいことはなにひとつしたことのない生物学上の父親はミナトの親父からなにを学んだのかはわからないが、いずれ、地獄の釜の縁にでもならんで座って聞いてみることにしよう。
 
by enzo_morinari | 2019-08-25 17:18 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

昔々、横浜で。/生まれくる子供のために伝えたいことがあったが言葉にできなかった夜。妊娠とハードボイルドとMPの『失われた時を求めて』

 
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頼るもの何もないあの頃へ帰りたい。 Kazoo Massa Oodál


高校2年の秋から恋愛関係にあった女の子から妊娠を告げられたのは1979年のクリスマスのことだった。私の誕生日だった。偶然か天の配剤か。部屋のオーディオ装置ではオフコースの『生まれ来る子供たちのために』がかかっていた。おそらくは、女の子がタイミングを合わせたんだろうと思う。

「どんな気分?」と女の子は言った。
「不思議で、こそばゆくて、恥ずかしくて、うれしくて、ちょっとしあわせな気分。うまく言葉にできない」と私は言い、女の子のお腹にそっと触れた。

妊娠13週に入ったばかりだった。まだ見ぬ生まれくる子供はしきりに手だか足だか頭だかを動かしていた。手のひらに伝わってくるものの重さについて考えているときに女の子は言った。

「産んでいいの?」
「オフコース。もちろんだよ。産んでいいもヘチマもない。おれは生まれてこのかた産んだことはないし、死ぬまで産むことはできないだろうから産むのはおまえに頼るしかないけど、育てるのは一緒にやる。今からたのしみだ」
「でも、結婚もしてないんだよ。あなたもわたしも20歳になったばかりで、学生だし」
「それがどうしたって言うんだ? おれもおまえもじいさんばあさんで、悠々自適だったらいいのか?」

女の子は何度も首をふり、ぽろぽろ塩味ダイヤモンドをこぼした。私は手早くTDKの30分テープの両面に『生まれ来る子供たちのために』を片面15分に3回ずつ録音し、リピート再生した。

「さて、生まれくるぼくらの子供のためにどんな物語を書くかな」

私が言うと、女の子は声をあげて泣いた。

「泣くとこ?」
「うん。泣くとこ」
「そうか…。ここはやっぱり、抱きしめたり、胸に顔を埋めさせたりしたほうがいいのかな?」
「そんなことより、ゆで玉子作って。ハードボイルドで」

完璧なハードボイルドを食べながら女の子はプルーストの”À la recherche du temps perdu”を声に出して読んだ。きれいな発音だった。特に、冒頭の”Longtemps, je me suis couché de bonne heure.”のところが。思わず聞き惚れるほどだった。

妊娠とハードボイルドとMPの『失われた時を求めて』。ミッキー・スピレーンほどではないがレイモンド・チャンドラーくらいはハードボイルドだった。

私が罰当たりでどうしようもないのは激しく欲情し、勃起したことだった。生まれくる子供にあわす顔もないと思った。頭を撫でるかわりにタートル・ヘッドの先っぽでつついたが、その先は言葉にできない。

生まれきた子供はいまでは40歳。不惑だが不倫恋愛の真っ最中だ。子供は3人。その余のことは知らない。子守唄がわりに『ダニーボーイ』を歌ってやったことをおぼえていない不埒なやつなんかに興味はない。料金着払いで内容証明付きの不幸の手紙を送ってやる。


生まれ来る子供たちのために オフコース (Three and Two/1979)

言葉にできない オフコース (over/1981)
 
by enzo_morinari | 2019-05-08 16:04 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

300メートルの夏/I Go Crazy 1977

 
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俺はクールなんだ。クールなタフ・ガイなんだ。Diogenez Dogz


夏がくるたびに思い出すことがある。母親が片手で持てるくらいに小さくなって死に、父親が若い女のところへ行ってしまい、兄が結婚と同時に地方へ転居して、私ひとりだけになった18歳の夏の、タフでヘビーな300メートルのことを。

ひとりの夏。それはとても心地よい響きを持っていた。私はひとりの部屋でなんどなんども「ひとりの夏」と口に出してみた。口に出すたび、その夏は本当に自分だけの夏になるような気がした。しかし、実際にはいつもどおりの、なにごともない、さえない、ただ暑いだけの夏だった。家を明け渡したことをのぞいては。

その家には10年住んだ。正確には10年と3ヶ月だ。その家こそは、わが「黄金の少年時代」の最盛期と黄金のズンドコ時代の幕開けをともに生きた戦友のような存在だった。家を明け渡さなければならない原因を作った張本人は父親だが、私は彼を責めなかった。父親の放蕩や道楽はいまにはじまったことではなかったからだ。

家財道具を3人で山分けしてしまうと、家の中は夏の終わりのふやけた熱と、茫漠とした静寂に満たされた。


荷物を満載した運送屋のトラックを見届け、父と兄はそそくさと自分の生活の根拠地へ帰還していった。クールなやつらだと妙に感心したのをおぼえている。私はといえば、いつになく感傷的だった。自分の使っていた部屋の壁に残るスキーター・ディヴィスのポスターの痕跡を見ると胸が熱くなった。だだっ広い家の中に取り残され、少しだけ泣いた。

配電盤のブレーカーを落とし、火の元と戸締まりを確認し、家を出るときがきた。最後にドアを閉め、鍵をかけたときの音は腹にこたえた。こみあげてくるものがあった。こみあげてくるものはあるけれども、大丈夫だ。どうってことはない。こんなことはどうってことのないひとつの過程にすぎない。ありったけの言葉で自分をかきたてようとしたが無駄だった。

「あばよ」と小さく言って私は家をあとにした。家が見えなくなる曲がり角までは300メートルある。時間にして2分弱。何度もふりかえりそうになったがふりかえらなかった。2度立ち止まり、煙草を1本吸っただけだ。

「OK. だいじょうぶ。俺はクールなんだ。クールなタフ・ガイなんだ。」

そう胸の中で呟きつづけなければいられない長くてタフでヘビーな300メートルだった。

以後、今日までに数えきれないほどの夏やら冬やら春やら秋やらをやりすごしてきた。しかし、あれ以上にタフでヘビーで腹にこたえる300メートルにはいまだにお目にかかっていない。


I Go Crazy - Paul Davis (Singer of Songs - Teller of Tales/1977)
Cool Night - Paul Davis (Cool Night/1981)
 
by enzo_morinari | 2019-04-15 02:50 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

サッカー部の副顧問にして新卒新任の国語教師、その実、小説家志望のツチヤ・テツヤことツチノコ・テツヤの個人的メッセージと凄腕の冷酷非情なアサシンとしての貌

 
サッカー部の副顧問にして新卒新任の国語教師、その実、小説家志望のツチヤ・テツヤことツチノコ・テツヤの個人的メッセージと凄腕の冷酷非情なアサシンとしての貌_c0109850_16061760.jpg

いくつかの季節が過ぎていき いく人かの友だちが過ぎていき そのことがまぎれもなく ひとつの時代だったのさ Accue You


サッカー部の副顧問にして新卒新任の国語教師、その実、小説家志望のツチヤは表向きには槌屋哲矢という。裏社会ではツチノコ・ツチヤ/槌屋槌の子/ツチツチ/ツッチーだ。ツチツチ/ツッチーが通りがいい。青白い文学青年のツチヤは、その筋裏社会ではシコロのツッチーあるいは転がしコロシのツチノコ・ツッチーとして恐れられ、知らぬ者のない存在だった。

ツッチーが自分がツチノコ/バチヘビの化身であることをある個人的なメッセージとともにカミングアウトしたのは夏休み直前の1973年7月1日のことだった。


個人的メッセージ GARO (吟遊詩人/1975)
 
by enzo_morinari | 2019-04-14 16:09 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)