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昔々、横浜で ── リキシャ・ルームで人生最大の恐怖と幸福を味わった瞬間

 
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遠い日の冬。私は20歳になったばかりで、ビートニク・ガールとは3度目の絶交期に入っていて、高校1年のときから応募しはじめた群像新人賞に5回連続して最終選考で落とされ、挙げ句の果てにはナイーブ・ロースハム系ウガンダ人のハルキンボ・ムラカーミというスパゲティ野郎にまんまと群像新人賞をかっさらわれ、世界やら人間やらに対して希望と信頼を失いかけていた。「スパゲティ・バジリコ」なんて存在すら知らなかった。つまるところ、名もなき青二才だったというわけだ。

横浜馬車道にある有隣堂ユーリン・ファボリ店でスタッズ・ターケルの『仕事!』とマーティン・バークの『笑う戦争』のどっちを買うか迷っているうちに閉店時間が来て、結局、両方とも買えず、1階にあるゲーム・センターでスリー・フリッパーのスペース・シップに有り金のすべてをつぎ込んだ。TILT連続17回のおまけ付きだった。

なんの罪もないピンボール・マシンを蹴飛ばしたことにはいまでも胸が痛む。しかも、スリー・フリッパーのスペース・シップ。スパゲティ野郎の呪いだ。

ゲーム・センターを出るとき、これみよがしに舌打ちを5回してから、猛然と日本大通りを目指した。元町のトンネルの手前でダッフル・コートのフードをすっぽりとかぶり、本牧までとぼとぼとぼとぼ歩いた。世界や人間が無性に腹立たしかった。スパゲティ野郎には憎悪すら感じていた。

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麦田の交差点の信号機が爆音を発して破裂した顛末を見届け、イタリアン・ガーデンやゴールデンカップやリンディやアロハ・カフェのドアを開けただけで中には入らず(リンディの店の外壁に突入している黄色いフォルクスワーゲン・ビートルのオブジェにはいつもどおりのチャランボ蹴りを入れてやった)、本牧亭の肉うま煮丼とサンマー麺の混じった匂いに気を失いかけ、ついには小港のリキシャ・ルームで無銭飲食するつもりでカウンター席に座り、ジム・ビームのダブルのオン・ザ・ロックスを5杯飲んだ。

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いよいよ無銭飲食決行を決意したとき、頬に深い疵のあるバーテンダーが抑揚のない声で、「きょうはおごってやる。きょうだけだぞ」と言って、私の前に6杯目のジム・ビームのダブルのオン・ザ・ロックスを置いた。

今に至るも、それは人生最大の恐怖と幸福を同時に味わった瞬間だった。あの瞬間の痕跡を探しに、いつか、ビートニク・ガールを伴ってリキシャ・ルームを訪ねたいものだ。ひょうきん者のジミーが5ドル札3枚分の嘘くさい笑顔をふりまく本牧埠頭D突堤の付け根にあるシーメンス・クラブにも。

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by enzo_morinari | 2018-06-15 04:42 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

山手のドルフィンで海を見ていた午後の思い出

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昔々の大昔の小さな泡のようには消えなかった恋の話である。小さな泡のようには消えなかったけれども、終わった恋であることにかわりはないし、深傷を負ったし、痛みの痕跡は胸の奥のほうにわずかに残っている。痛みはいまも残っているが回復不能というわけではない。


山手のドルフィンから三浦岬は見えない。山手のドルフィンは小さなレストランではないし、メニューに貨物船が通れるような巨大なソーダ水はないし、ドルフィンの紙ナプキンはインクがにじまない。ドルフィンの3階のトイレに「ユーミンのうそつき!」と書いたのは17歳の私である。

「ねえ、約束して。忘れないって。もう二度と会えないかもしれないけど、忘れないって」と彼女は言った。目には涙がにじんでいた。彼女の涙をぬぐうことすらできない自分の不甲斐なさが腹立たしかった。彼女と出会った高校生の頃からおなじだ。30歳を目前にしたおとなの男の態度ではない。情けないもいいところだ。

「忘れないよ。きっと忘れない」

そう答えるのが精一杯だった。夏の盛りには彼女はもうこの世界にいないからだ。彼女との7年4ヶ月の日々がよみがえる。正確には7年4ヶ月と24日だ。

世界がゆれる。にじむ。くずれてゆく。見ると、彼女は店の紙ナプキンになにかを書いている。息が荒い。肩で息をしている。この瞬間にも彼女の残り時間は容赦なく削られてゆく。

刻々と削られてゆく残り時間に彼女は耐えられなくなって自ら死を選んだ。自ら死を選んだけれども、それは彼女にとって「よりベターな選択肢」だったんだろう。「よりベターな選択肢」というのは高校生の頃からの彼女の口ぐせだった。

彼女は陶器のように白くて細くてつるりとした指先で紙ナプキンを私のほうに滑らせた。「忘れないで」と紙ナプキンには青いインクで記されていた。

「忘れないよ。きっと忘れない」 私は繰り返した。「忘れないけど、つらいし、痛いだろうな」

「痛いのは苦手だもんね。高校生の頃から。インフルエンザの予防接種のたびにあなただけ大騒ぎしてた」

そう言ってあごを少しあげて笑う彼女の喉元は指先とおなじように白くてつるりとしていた。
 

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by enzo_morinari | 2018-03-05 07:48 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

『レジメンタル・タイの思い出』と『レジメンタル・タイの思い出』の思い出

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初めてレジメンタル・タイを買ったのは18歳、高校の卒業式の前日だった。元町のPOPPYまで出かけていき、ショウ・ケースにずらりとならんだタイの中から僕が選んだのはシャンペン・ゴールドの地にグリーンの細いストライプが入ったやつだ。よく糊のきいた白いBDシャツにそのレジメンタル・タイを締め、兄貴からのお下がりのブルックス・ブラザースのかなりくたびれたブレザー・コートを着てフェアウェル・パーティーに出かけた。アスファルトを踏みしめるたび、磨き上げたローファーが小気味いい音を立てた。

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その日、僕はある決意を胸に秘めていた。高校一年の夏からずっと思いを寄せていた同級生の女の子になんとしても胸の内を伝えるのだと。そうすることが自分の高校生活に対するひとつの決着のように思えたからだ。

思えば誇りうるものとてない3年間であった。僕がフィリップ・マーロウなみのタフガイかジーン・ケリーばりのタップの名手だったならば僕の高校生活も少しは気の利いたものになっていたかもしれない。彼女のやわらかな唇に触れることだってできたはずだ。だが、僕は相手の鼻っ柱を一発でへし折るほどのストレート・パンチを持ち合わせていなかったし、女の子をうっとりさせるだけのタップを踏むセンスにもめぐまれていなかった。遠くから彼女を見つめつづけることしかできないまま凡庸きわまりない3年間が過ぎていった。自分の不甲斐なさにひどく腹を立てながら。

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パーティーは港のすぐ近くにある「STAR DUST」というバーを借り切って行なわれた。店の中はこれから始まる新しい生活への期待や不安に胸をふくらませる18歳の若者たちで華やかに賑わっていた。進学する者、もう一年受験勉強に取り組む者、就職が決まった者。どの顔にも何事かを成し遂げた者のみが持ちうる充足感のようなものが漂っていた。自分だけが場ちがいな所へきてしまったような気がした。女の子たちはみちがえるほどきれいだった。とりわけ輝いていたのは僕が思いを寄せていた女の子だ。彼女の長い髪が揺れるたび、僕の胸は甘く痛んだ。彼女に近づくことすらできないまま時間だけが刻々と過ぎていった。

8時55分。タイムアップまで残り5分になったときだ。誰かが僕の背中を押した。誰が僕の背中を押したのか、それはいまだにわからない。友だちのひとりがうわの空の僕に気合いを入れたのかも知れないし、ただぶつかっただけかもしれない。いずれにしても、そのひと押しがきっかけだった。僕は強引に女の子の腕をとり、ついに店の外へ連れ出したのだ。僕たちは黙ったまま港の明かりを反射して生き物のように光る夜の海をしばらく眺めた。

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「ずっと好きだったんだ  

僕はしぼり出すように言った。

「わかってる」

それだけ言うと彼女は僕の手をそっと握った。耳の裏側が熱く火照り、胸が高鳴った。彼女の手はあたたかく、小さく、やわらかだった。僕はいつまでも彼女の手を握っていたかった。このまま時間が止まってしまえばいいとさえ思った。僕が再び口を開きかけると彼女は僕の唇を右の人差し指で押さえ、精いっぱい背伸びしてからマシュマロみたいにやわらかい唇を押しあてた。彼女の髪の甘い匂いに僕は危うく気を失いかけた。遠くで波の音が小さく聴こえた。

「素敵よ、とっても」と彼女は僕の耳元で囁き、タイの結び目を直してくれた。そして震える声で言った。劇の幕でも降ろすように。

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「ごめんね。わたし、秋に結婚するの」

言い終えると彼女は春の初めのやわらかな闇の中へゆっくりと消えていった。岸壁に打ち寄せる波の音がいつまでも耳の奥に残った。このようにして、僕の初恋は静かに終わりを告げた。そして、歳月の流れ  。 

いくつかの恋があり、いくつかの別れを経験した。たくさんの友だちと出会い、すこしの友だちが残った。酒の味を覚え、酒の飲み方を学んだ。僕は街を遠く離れ、彼女と会うことももはやない。季節の移ろいとともに多くのものごとがかわり、失われてしまったが、あの日のレジメンタル・タイは今もワードローブの片隅でひっそりと息づいている。


                                  


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運転中、猛烈な夕立にあった。ワイパーはまったく用をなさなかった。帰宅後、高橋竹山のCDを聴いたり、サムルノリの太鼓にあわせて踊ったり、ギターを弾いたり、出すほうのメールを書いたり、出さないほうのメールを書いたり、村上春樹の『ノルウェイの森』をベランダから杉木立の中へぶん投げたり、スパゲティを茹でたり、米を研いだり、アルバート・アイラーとジョン・コルトレーンはどっちがスカかの原稿を書いたり、エリック・ドルフィーの『Out to Lunch』のジャケットを眺めたり、ソニー・クラークの『Cool Struttin'』のジャケットを真似てハイヒールを履いたり(うそ)、ダッコちゃんに抱きついたり(これも、うそ)、小唄のおさらいをしたり、パイナップル・ミントを生で食べたり、因数分解の問題を解いたり、「宇宙」について考えをめぐらしたり、別のほうの「宇宙」について腹を立てたり、ディラックの海の家でアルバイトをした夏のことを思い返したり、「團藤重光先生の死に水はだれがとったんだ?」と思いをめぐらしたり、我妻榮先生が相続法の講義の最中に財産分与に関わるちょっとした計算で15分も立ち往生してしまったことはだれが語りつぐのだろうと心配したり、「近代日本におけるダットサンの優越的地位」のコピーをとったり、『草枕』を暗誦したり、溜息をついたり、サキソフォンを吹いたり、ラッピングしたり、HDの断片化を修復したり、『エゼキエル書』を読んだり、『臨済録』を読んだり、『方丈記』を読んだり、『奥の細道』を読んだり、『汚れっちまった悲しみに』を声に出して読んだり、『ゲーデル、エッシャー、バッハ』を読みなおしたり、『共同幻想論』の昔の書き込みを読んで笑ったり、WOWOWったり、J-WAVEったり、iPodを同期させたり、AK-69の『One Way, One Mic, One Life』の般若のパートを真似したり、『死霊』を枕にうたた寝したり、「大化の改新、虫5匹」とかつぶやいたり、古いパテック・フィリップのゼンマイを巻いたり、ロード・レーサーのメンテナンスをしたり、缶ピースを吸ってみたり(ゲホッ)、マイルス・デイヴィスのことを考えて泣いたり、いたずら電話をかけたりした。つまりはヒマをもてあましていたということだ。

そうこうしているうちに雨はどんどん強くなり、雨音は大きくなり、夜はふけていった。悪くない夜だった。そういえば、『レジメンタル・タイの思い出』の「僕」と出会った夜も、強い雨が降っていた。あれは私が大学をエクソダスしようかどうか迷っていた頃だ。神宮の森周辺をうろついているうちに雨になり、ある住宅街に迷い込んだ。そして、「ALONE AGAIN」というバーに入った。「ALONE AGAIN」は住宅街の真ん中にあった。まるで誰かに見つかるのを怖れてでもいるみたいにひっそりと。

私がそのバーに入ったとき客は誰もいなかった。雨に濡れてからだがとても冷えていたのでサントリー・ホワイトでホット・ウィスキーを作ってもらった。コクのある笑顔のバーテンダーはホット・ウィスキーといっしょに真新しいバス・タオルを私の前に置いた。1時間ほどして会社員風の二人連れがやってきた。二人ともとてもファッション・センスがよかった。トラッド・テイストを残しつつ、仕立てのよいシックなスーツを着ていた。ネイビー・ブルーのペンシル・ストライプとグレイ・フランネル。二人のうち、グレイ・フランネルのスーツを着ているほうが『レジメンタル・タイの思い出』の「僕」だった。二人とも店の馴染みらしく、バーテンダーと二言三言冗談を言い合い、それから「僕」はバレンタインの12年をダブルのロックで、「僕」の相棒くんはグレンリベットをダブルのストレートでそれぞれ注文した。

私はホット・ウィスキーを舐めるように飲みながら二人が身につけているものの品定めをしたり、ピスタチオの殻を剥いたり、カウンターの痕の数を数えたりしていた。私は知らん顔しつつも「僕」と「僕」の相棒くんの話に耳を傾けた。二人は会社での出来事や給料のことやクルマのことや音楽のことや女の子のことなどどこにでもあるごく普通の話をしていた。そのうち、話がファッションのことになり、話題がトラッド系におよんでからのことだ。

「初めてレジメンタル・タイを買ったのはいつ頃?」
「僕」の相棒くんが尋ねた。
「昔々の大昔、高校の卒業式の前の日だよ」
「僕」は相棒くんのほうを見ずに、うつむき加減で答えた。
「いまでも胸が疼く」
「僕」はぼつりとつぶやき、メイカーズ・マークをダブルのストレートで注文した。
「疼く?」
「うん」
「フラれたんだね」
「そのとおり。察しがいいな」
「それだけが取り柄だったりして」
「ふん」
「やめようか? この話題」
「いいよ。おまえには話してもいいような気がする」
「光栄ですな」
「高校一年の夏、おれは同級生の女の子に恋をしたんだ」

「僕」はグラスのメイカーズ・マークをひと息で飲み干してから言った。相棒くんは黙ってうなずいた。そして、「僕」のせつない恋の物語が始まった。

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「いまでもそのレジメンタル・タイはあの夜のままとってある。一度も使わないままね」

「僕」は話し終えると遠くを見るような目をしてため息をひとつついた。バーテンダーは「僕」の話が終わるのとほぼ同時にLPレコードに針を落とした。ギルバート・オサリバンの歌う『アローン・アゲイン』が小さな音で店の中に流れた。いいシーンだった。その後、「ALONE AGAIN」へは疲れたときなどひとりで行った。「ALONE AGAIN」では「僕」ともたまに会った。お互いに会釈を交わすだけだったがなんとなくいい感じだった。

いつからか、「僕」はひとりで来ることが多くなった。身なりにはさらに磨きがかかっていた。一度だけ、とても可愛らしい女の子と一緒だった。そのとき、「僕」は私と目が合い、少しだけ顔を赤らめた。「僕」の相棒くんは一度見かけただけだ。「僕」にも「僕」の相棒くんにもきっといろいろなことがあったんだろう。いいこともわるいことも含めて。もちろん、この私自身にも。だが、それはとても素敵なことだ。そうやって、みんな成熟してゆくのだから。さて、来週あたり、「ALONE AGAIN」に行くことにしよう。また別の「僕」の話を盗み聞きしに。

 


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by enzo_morinari | 2018-03-01 03:08 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

たどりついたらいつも雨ふり/夏休み最終日の夜ふけの中学校の体育館で聴いた五番街のマリーからジョニィへの伝言

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曖昧で、名前すらつけることのできない空を見上げ、雨が降らないことを願いながらも雨の気配を探る日々。かつて、われわれはそのような日々を「夏休み」と呼んだ。

その夏は街のいたるところでザ・モップスの『たどりついたらいつも雨ふり』が聞こえているモッブでスノッブでサイケデリックな夏だった。

その夏の初めにリーバイスのレンガ色のチノパンを横須賀のドブ板通りの古着屋で手に入れた。600円だった。ひと夏中履きつづけた。根岸や本牧のマンモス・プールに行くときも空調の効いた街の図書館で昼寝がてらに本を読むときもガールフレンドと熊野神社の社殿の陰でヘビーペッティングやらヘビーネッキングやらをするときも上大岡にできたダイエーの紳士服売り場でラ・マーン・ビーキーに勤しむときもそのレンガ色のチノパンを履いていた。

「そのチノパン、すごくクサイよ」とガールフレンドが不快感満載で言うので、無性に腹が立った。

「臭きゃユニーの日用品売り場でシャットを1ダースばかり買ってクサイにおいを元から断つんだな。ついでに、世界中のクサイものを消臭してまわりゃいい。クサイものにフタをするのはお得意だろう? だいたい、おんなこどもにこのチノパンのほんとの価値はわかりゃしねえよ」と怒りに任せて言った。それきり、そのガールフレンドとの他愛ない恋愛ごっこは終わりを告げた。 夏が終わる頃には味わい深いレンガ色はなんとも珍妙奇天烈な色に変わり果てていた。

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中学3年の夏休みの最終日だった。悪ガキ仲間5人で逝く夏を惜しみ、去りゆく夏を追いかけるために夜どおし街をほっつき歩いた。集合場所は国道16号線沿いにある行きつけの銭湯の松の湯だった。

番台のオヤジは鬼がわらのような御面相だったが、われわれ悪童どもにどこか好意的だった。好意的だった理由は今では確かめようがない。鬼がわら番台オヤジはとうに死んでしまったし、松の湯自体が何年も前に廃業したからだ。

松の湯を出てから16号線をひたすら歩いた。途中、あまりにも腹がへって、人相の悪いのや入れ墨を入れたチンピラヤクザどもが出入りする深夜営業の『穴』という名前の怪しげなスナックで生姜焼き定食をひとつとライスを人数分頼んで食べた。食べているあいだ、スロットマシンの景気のいい電子音やピンボールマシンにダミ声で悪態をつくやくざ者の怒鳴り声が聞こえていた。ほかの悪ガキ仲間たちはビビりまくり、蒼ざめていたが、私はビビりながらも、社会のゴミどもロクデナシどもの生態の一端を間近に目撃できてちょっと面白かった。

「あんちゃんたちよお。中学生かよ?」

店を出ようとしたとき、うしろから悪意のこもった巻き舌の声がした。振りかえるとパンチパーマの二十歳くらいのチンピラが揺れながら立っていた。酒に酔っているらしかった。足元が危うい。立っているのがやっとというありさまっだった。悪童仲間たちが一斉にビクっと首をすくめたのが横目でわかった。

「あんちゃんじゃねえよ。それにてめえにあんちゃん呼ばわりされる覚えはこれっぽっちもねえぞ、三下奴のチンピラ野郎」

瞬きもせずにパンチパーマ野郎の目を見据えて言ったが、声が震えているのが自分でもわかった。

「やめとけやめとけ。シゲ! おまえ、飲みすぎだぞ。相手はこどもじゃねえか」

スナックのマスターとおぼしきハゲ頭の貫禄のあるおっさんが止めに入った。まくった白いシャツの袖口から鮮やかな入れ墨が覗いていた。

「ここはおまえたちが出入りするような店じゃない。もう来るんじゃないぞ。いいな? それはともかく、いやな気分にさしちまって悪かった。ほら、これ。とっときな」
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入れ墨ハゲマスターはそう言って、手の切れそうな1万円札を1枚差しだした。「5人いるんだけどな」と言うと、入れ墨ハゲマスターは「ぶん殴られたいか?」と顔をクシャクシャにして笑った。

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夜どおしのほっつき歩きはエンディングを迎えようとしていた。誰言うともなく足は通っていた中学校に向かった。

校門の手前で雷鳴が轟いた。アスファルトの地面を激しく打ちつける雨。全員ズブ濡れになった。

体育館に忍びこみ、緞帳で濡れた体を拭き終えてひと息ついたとき、赤毛のノリが胸元から元町ポピーの紙袋をおずおずと取り出した。ドーナツ盤が2枚。ペドロ&カプリシャスの『五番街のマリーへ』と『ジョニィへの伝言』だった。

ノリは無類の音楽好きで、「これ、いいよ」とドーナツ盤やLPレコードをおずおずと差し出すやつだった。赤毛のノリが寄こしたマーク・リンゼイ&レイダースの『嘆きのインディアン』やらリン・アンダーソンの『ローズガーデン』やらC.C.R.の『雨を見たかい』やらアルバート・ハモンドの『カリフォルニアの青い空』『落ち葉のコンチェルト』やらギルバート・オサリバンの『アローン・アゲイン』やらのドーナツ盤は50年ちかくを経た今も奇跡的に手元にある。

赤毛のノリは舞台の袖から階段を登って放送室に忍びこんだ。そして、大音量で『五番街のマリーへ』と『ジョニィへの伝言』をかけた。 夏休み最終日の夜ふけの中学校の体育館に響きわたる『五番街のマリーへ』と『ジョニィへの伝言』。音は床板に反響してライブすぎたが、心やら魂やらにやけにしみた。前奏のストリングスのパートで神妙な気分になり、アコースティック・ギターのソロのところで不意と涙がポロポロこぼれた。悪ガキたちもみんな声を立てずに泣いていた。いい時間、かけがえのない時間、宝石のような時間だった。

何度目の『五番街のマリーへ』『ジョニィへの伝言』が終わったときだったか。雨音が一層強く激しくなった。土砂降りの雨音が体育館に轟々と響きわたり、体育館は土砂降りのただ中になった。

永遠につづくかと思われた夏休みの終わりが近づいているらしかった。なにごとにも始まりがあって、終わりは必ずやってくる。そのことを学んだ夏だった。


赤毛のノリタマよ。まさか、おまえがおれより先にくたばりやがるとはな。せいぜい、あの世だか極楽だか天国だかとやらでいい皿回しになれ。思う存分皿回しをやれ。もはや、おまえを縛りつけるなにものもありはしない。Go Ahead! Go, Go, Go!! Go's On!!!



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by enzo_morinari | 2018-02-13 08:00 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(1)

根岸線とジョニ黒と『善悪の彼岸』

 
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昔々、横浜で。


根岸線。そう口に出すだけで甘酸っぱくなつかしい気分になる。桜木町止まりだった京浜東北線が磯子まで延長になったときは開通式典に物見遊山で出かけたものだ。まだ洟垂れ小僧の私には生まれてはじめての一大イベントだった。磯子の駅前が大きな舞台のように見えた。横浜市消防局の音楽隊が景気のいい音楽をジャカスカ鳴らしていた。色とりどりの風船が舞い踊っていた。どいつもこいつも幸せそうだった。

宙を舞う風船を追いかける私。
宙を舞う風船を追いかける私を追いかける母親。
それをクールにみつめる生物学上の父親を名乗る男。

生物学上の父親を名乗る男はろくでなし放蕩三昧の穀潰しで、おまけにまったくもっていけすかない奴だったが、そのクールさに免じてゆるしてやろう。

洟垂れ小僧の私と、まだ若く美しく健康そのものの母親と、いつも眉間にしわを寄せていたろくでなしの生物学上の父親を名乗る男。母親との数少ないが宝石のごとき輝きを放つ思い出と、体中が緊張し、身構えてしまうような、生物学上の父親を名乗る男とのいやな思い出のふたつが交錯する日々がよみがえる。

生物学上の父親を名乗る男のつまらぬ夢のおかげで、私の母親は夢をあきらめ、輝きを失い、本来の寿命より30年もはやく逝った。私もずいぶんといやな思いをしたが、もうそろそろゆるしてやろう。すべては終わったことである。すべては夢のまた夢になろうとしているのだ。

夢はときとしてだれかを傷つける。そのことを教わったと思えばいい。背中しか見えなかったのは、私に背を向けていたからではなく、私とおなじ方向を見ていたからだと思えばいい。

生物学上の父親を名乗る男死して、9年。墓参はもちろんのこと、葬儀にすら背を向けてきた。もういい。もう手仕舞いの頃合いだ。潮目潮時である。死者を鞭打つのは姑息臆病な下衆外道のやることである。

この春、陽気のいい日。虹子と一番弟子のポルコロッソといっしょに生物学上の父親を名乗りつづけた男、わが親父殿の墓参りにいこう。わが親父殿が愛飲したジョニ黒を持って。わが親父殿が愛読した『善悪の彼岸』を携えて。なつかしい根岸線に乗って。

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大連慕情 - 松任谷由実
 
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by enzo_morinari | 2014-03-30 06:09 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(3)

言いだしかねて/バレンタイン・デイの思い出

 
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クリフォード・ブラウンの『I can't get started with you』を聴くたび、ある光景がよみがえる。私は高校2年生で、同級生の女の子と恋をしていた。彼女は歯医者の娘で、スレンダー&クールな美人で、生徒会の役員で、「死んじゃう」が口ぐせで、おまけに歌がうまかった。彼女が身につけているものはどれもとびきり上等なものばかりだった。うまいことおだて、すかし、口車に乗せて、ずいぶんといろいろなものをせしめた。せしめはしたが、私の彼女への恋心のごときものは純粋無垢だった。たぶんそれは、彼女も同じだったと思う。

晩秋の夕暮れの三渓園。女の子はかすかに声を震わせながら言った。

たとえあなたがギャングでも勇気をもって愛します。

彼女のこの言葉はいまでも私を勇気づける。

女の子はなにかというと、「死んじゃう」と言った。

「パパにバレたら、わたし、死んじゃう」
「ちゃんと学校に来てよ。来てくれないと、わたし、死んじゃう」
「もうほかの学校の子と喧嘩するのはやめて! あなたがケガしたら、わたし、死んじゃう」
「学食のごはん、まずくてまずくて、わたし、死んじゃう」

こんな具合だ。奇妙なことに、一度としてその女の子は死ななかったが、われわれの恋は夏休みを目前に終わりを告げた。さよならは短い死である。私はこの失恋によって「死」を思い知った。死んじゃったのは、女の子ではなく、私のほうだった。

バレンタイン・デイの朝、その女の子は大きめの紙袋を大事そうに抱えて下駄箱で私を待っていた。

「なんだよ、これ。荷物になるからいやだよ」
「恥かかせないで。黙って受け取って」

女の子は元町POPPYの紙袋を私に押しつけると、教室へものすごい勢いで走っていった。その日、彼女は日直で、2時限目がすでに始まっていたのだ。私はわが物顔で連日のように遅刻をぶちかましていたからいいが、彼女は模範的な生徒として学校内に知らぬ者はいない存在だったから、さぞや気をもみながら私を待っていたことだろう。いま思いだしても申し訳ない気持ちでいっぱいになる。POPPYの紙袋の中身は手作りのお弁当と不二家ルック・チョコレートとクリフォード・ブラウンのLPレコードだった。

昼休み。いつものように屋上で一服していると女の子がやってきた。

「お弁当どうだった?」
「どうってことねえな。ぎりぎり合格ってとこだ」

私が言うと、女の子は白い喉元を見せ、気持ちよさそうに笑った。

家に帰り、ソニーの安物のポータブル・プレイヤーでクリフォード・ブラウンのレコードをかけた。レコードはマックス・ローチとの共演盤で、オレンジ色の地にトランペットとドラムスのイラストが描かれていた。しばらくレコード・ジャケツをながめ、注意深くレコード針を落とした。

I can't get started with you. 言いだしかねて。

クリフォード・ブラウンのトランペットの音色、自在なインプロヴィゼーションに心を奪われた瞬間だった。10回以上、繰り返し聴いた。そして、この日を境に、私はクリフォード・ブラウンにのめりこんでいった。

晩秋の夕暮れの三渓園で私の胸の中で「たとえあなたがギャングでも勇気をもって愛します」と言い、バレンタイン・デイのチョコレートに添えられたメッセージ・カードに「いつもあなたに夢中よ。あなたのことがわたしの中からあふれてしまいそうです。おかげで英語の成績がすこし下がりました」と書き記し、私をクリフォード・ブラウンに出会わせてくれた女の子との恋は、秋と冬と春の季節みっつ分で儚くも終わりを告げたが、いまでもクリフォード・ブラウンの『I can't get started with you』を聴くと私は考える。「女の子はいったい私になにを言いたかったんだろう?」と。

おそらく、彼女は「喧嘩と遅刻はやめて」と言いたかったのだろうが、彼女は言わず、私は喧嘩も遅刻もやめず、われわれの恋は終わった。この恋の終わり方について言いたいことはいくつかあるが、数えきれぬほどのガラクタどもとともに胸の奥にしまっておこうと思う。誰にだって言いたくないことや言いだせないことや見られたくないことや聴かれたくないことや触れられたくないことのふたつやみっつあるものだ。

『I can't get started with you』のイントロでしゃべっているのはマックス・ローチなのか?


(背景音楽:Clifford Brown 『I can't get started with you』+ Benny Golson ほかによる 『I Remember Clifford』)


 
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by enzo_morinari | 2013-02-06 20:18 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(4)

Eagle 810

 
鷲は米軍横田基地を飛び立ち、17歳の若者に舞い降りた。

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「フレデリック・ニコラス・ラボンディが死んだ。16号線でトレーラーと正面衝突だ」

横浜時代の古い友人は電話口で声を震わせた。

1975年から1977年までの2年間、フレデリック・ニコラス・ラボンディはFENのDJをやっていて、私は彼の熱烈なファンだった。ファン・レターを書いたことすらある。フレデリック・ニコラス・ラボンディの名前を聞くと1975年の夏を思いだす。そして、彼の声がよみがえってくる。

1975年に横浜とその周辺に暮らす17歳の若者がラジオを聴くとしたら、それはまちがいなくFEN、極東放送だった。少なくとも私の場合はそうだ。ニッポン放送でも文化放送でもラジオ関東でもFM東京でもなく、FENを聴くのはとてもクールなことのように思えた。

「This is the Far East Network, an affiliate of the Armed Forces Radio Service.」のアナウンスを耳にすると胸が高鳴った。

鷲は米軍横田基地を飛び立ち、17歳の若者に舞い降りた。周波数AM 810kHz。 出力50kW。 "Eagle 810"。


当時、FENから聴こえてきたDJの声はすべておぼえている。声の主がだれなのか正確に名前をあげることだってできる。夜明け頃はモリアーティとパラダイスを名乗る二人組、朝食の頃にはショーティー・ウィリアムス、昼近くになるとブルース・オサリバンに交代して午後の半ばまで。そのあとはジミー・オブライエンが夕食の頃までで、ハワードJが夜の11時ころまで。ニュースやら天気予報やらのあと、明け方近くまでがフレデリック・ニコラス・ラボンディだった。

彼らの仕事は重要なものではなかった。名誉ある仕事でも歴史に名を残す仕事でもなかった。しかし、彼らの「声」は17歳の若者の人生を代弁していた。彼らは17歳の若者にとってかけがえのない存在だった。馬鹿な冗談を言い、意味もないおしゃべりをしてはジグソーやKC&サンシャイン・バンドやイーグルスやドゥービー・ブラザースの曲をかけた。

あの夏に17歳の少年たちはたくさんの人々に出会い、いろいろな場所に行ったけれども、それらに負けず劣らずFEN局のDJたちのおしゃべりや冗談や彼らが聴かせてくれた音楽はたいせつな思い出となった。

FEN局のDJたちにしてみれば狭くて息苦しいスタジオでもうもうとしたタバコの煙にまみれながら何時間もすごすのはけっしていい気分のものではなかったろう。しかし、そんなことは考えてもみなかった。「17歳の夏」という特別なときを勝手気ままにすごしていただけだ。

彼らの声は当時の横浜の若者たちが抱える「気分」の一端を代弁していた。本牧や根岸台の「フェンスの向こう側のアメリカ」と同様、世界へと連なる明るいリアリティを持っていた。

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フレデリック・ニコラス・ラボンディは死んだ。17歳の少年もみんな年を取った。時代はもはや1975年ではない。20世紀ですらなくなってしまった。

21世紀は12年も過ぎた。1975年から2013年のあいだに高度資本主義の網は世界中を雁字搦めにした。言葉と声と音楽は失われ、いまや虫の息だ。

いつ果てるとも知れぬ0と1の空虚なダンスが世界中でステップを踏んでいる。それでも、17歳の夏にFENから聴こえてきた『SKY HIGH』や『LOVING YOU』や『THAT'S THE WAY』や『呪われた夜』はいまでもいくぶんか私を勇気づけないこともない。


Stay Tune! This is Eagle 810. This is the Far East Network, an affiliate of the Armed Forces Radio Service.
 
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by enzo_morinari | 2013-01-02 03:00 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

平潟湾の夕暮れに流した涙のゆくえ

 
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昔々、横浜で。

高校生の頃、安くてくそまずいコロッケ定食を食うだけのために金沢八景にある横浜市立大学の学食に忍びこんだことがある。コロッケは1個、キャベツ山盛り。申し訳ていどの漬け物と色がついているだけの味噌汁。140円也。

「これじゃ、コロッケ定食じゃなくてキャベツ定食じゃんよ」

配膳口で学食のおばちゃんにそう言うと、おばちゃんは「じゃ、これ、オマケ」と言ってとんかつとコロッケを皿にのせてくれたうえに、ライスを巨大などんぶりにテンコ盛りした。そして、ウィンクした。おばちゃんのウィンクにはちょっと寒気がしたが、おかげで腹いっぱいになれた。その学食のおばちゃんとは高校3年の秋から冬にかけて恋愛関係になるのだが、それはまた別の話だ。

食後、シェークスピア・ガーデンに寝転んでショッポで一服していたら、やさしいサヨクのためのディベルティメントをくちずさむ薄っぺらな左翼学生にオルグされかけた。私は日本国憲法と軍人勅諭と小林秀雄と三島由紀夫と吉本隆明と大江健三郎と坂口安吾と『古事記』と『万葉集』と『古今和歌集』と『新古今和歌集』と『今昔物語』と『方丈記』と『エゼキエル書』と『碧眼碌』と『甲陽軍鑑』と『葉隠』と『草枕』と『いきの構造』と『侏儒の言葉』と『ライ麦畑のキャッチャー』と『長距離走者の孤独』と『赤ずきんちゃん気をつけて』と『白鳥の歌なんか聴こえない』と『狼なんかこわくない』と『ゴドーを待ちながら』と『絶対の探求』と『人間喜劇』と『複製技術時代の芸術』と『泥棒日記』と『善の研究』と『純粋理性批判』と『精神現象学』と『夢判断』と『孤独な散歩者の夢想』と『シルトの岸辺』と『悪魔の辞典』と『中世の秋』と『存在と無』と『エロスの涙』と『存在と時間』と『世界の共同主観的存在構造』と『異邦人』と『二重らせん』と『セロ弾きのゴーシュ』と『銀河鉄道の夜』と岡林信康と『イムジン河』と『ダニーボーイ』とボブ・ディランとエルヴィス・プレスリーとマイルス・ディヴィスと『至上の愛』と『ケルン・コンサート』と『あしたのジョー』と『ハレンチ学園』と『忍風カムイ外伝』と『サスケ』と『ガキデカ』と谷岡ヤスジとブレヒトとガストン・バシュラールとフッサールとアインシュタインとシュレディンガーと『無伴奏チェロ組曲』とワグナーと『魔笛』を無理矢理組み合わせる「荒技」で論破し、へっぽこ左翼学生を号泣させ、吸いかけのハイライトとまだ封をあけていないハイライトを「供出」させた。凱旋気分でサニーマートのゲームセンターに乗り込み、居合わせたYTCと横須賀学園の「とっぽい奴ら」と路上肉体言語合戦(ストリート・ファイト)をやり、二人は踏みつぶし、残りの三人に組み敷かれたところで、目の前の金沢警察署のぼんくら警官どもにさらに取り押さえられ、補導された。

担任の新米教師が身柄を引き取りに来るまで、3時間にもわたって少年課の萩原という好々爺然とした刑事に諭され、励まされ、握手を求められ、嗚咽された。のちに判明したことだが、萩原さんは中学の同級生の父親であった。縁とはかくも深く、不可思議なものである。成人後も萩原さんとは年に一度くらいのペースで会い、酒を飲み、思い出話、四方山話に花を咲かせたが、先頃、亡くなってしまった。そんなことと、そんなことにまつわることと、そんなことにはいっさいまつわらないことをなつかしく思いだす。たのしい思い出がほとんどだが、ほろ苦いのや甘酸っぱいのもわずかながらある。

横浜市立大学はユニヴァシティというよりも、英国のカレッジといった風情を醸すいい大学だ。質と仕立てのいい英国製シャツのような印象であった。「余計な手を加えていないモスグリーンのモーリス・ミニクーパーのような大学」というわけのわからない形容をあえてしたくなってしまう学び舎である。一時期、進学先の候補にリストアップしたが、「東大進学者数のアップ」を至上命題、金科玉条と崇め奉る愚かな担任と定年間近の木偶の坊学年主任の懇願を受け入れ、受験することはやめた。横浜市大に入っていれば私の人生もまた別の風貌、色づきを呈していたかもしれぬ。

シェークスピア・ガーデンは横浜市大のキャンパスの一隅にある実に魅力的な英国式庭園である。横浜でもっともスローで晴れ晴れとした春が訪れる場所だ。シェークスピア・ガーデンを舞台にした1970年代後半の「いい話」をいつかものにできたらいい。

金沢八景。数えきれぬほどの思い出やら「貸し」やら「借り」やらを置き去りにしてある街だ。いつか取りもどしにいこうと思いながら、もう30年以上の歳月が流れてしまった。「貸し借りなしの人生」が私の決してゆずれぬ信条でもあるので、アデュー、アディオースのときまでには「貸し方/借り方」双方をゼロにし、貸借対照表をきれいさっぱり破り捨てるためにもきっちりとけじめをつけねばなるまい。そして、そののち、『人間最期の言葉』の末尾にでも「辞世」が載るくらいの仕事はしたいものだ。野島橋の欄干にもたれ、平潟湾を染める夕陽に心ふるわせて流した涙がガラス玉だったのか、それともダイヤモンドだったのか。いつか確かめにいかなくてはならない。もちろん、八景島シーパラダイスなど知ったことではない。

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by enzo_morinari | 2012-09-23 04:32 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

三つ編みバンビちゃんが抱えていた真っ白なキャンバスと Life is a work in progress

 
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横浜YMCAでひと泳ぎした帰路。中華街玄武門際のシーメンズ・クラブでギネス・ビールを飲み、ホット・サンドを食べた。ダブリン市民であるアイルランドの貨物船のセカンド・オフィサーを相手に「物理学における基本粒子」を言いっこしたり、頭突きっこしたり、ギネスを賭けて腕相撲したり、沈黙合戦したり、人文科学と社会科学限定の尻取りをしたり、人類史とアーサー王伝説と『ダニーボーイ』とクラウゼヴィッツの『戦争論』とジェームス・ジョイスとサミュエル・ベケットと「ティム・フィネガンはなぜ屋根から転落し、『フィネガンズ・ウェイク』の "フィネガンズ ”にはなぜアポストロフィーがついていないのか?」について、さらには「クォーク鳥が "クォーク"と3回鳴いた意味」についてちょっとした議論をし、Life is a work in progress という地点に落下傘なしでいっしょに着地し、最後には握手していい友人になった。彼がその後、アイルランド首相になったときは心の底から驚くと同時にうれしかった。たぶん、あのときの言い争いと頭突きと腕相撲と尻取りと議論が彼の政治意識を目覚めさせ、高め、ついには彼を政治家にさせたのだ。そのことはわれわれの友情に終止符を打つ結果となり、「二人の聖パトリック・デー」の終焉をもたらしたが、なにひとつ悔いはない。

巨人大洋戦の消化ゲームを観戦する人々でにぎわう横浜スタジアムを抜け、根岸線関内駅南口へ。根岸までの乗車券を買い、いかにもやる気のなさそうな男(きっと動労系のやつにちがいない)に持たせ切りされてむかっ腹を立てながら改札を抜け、ホームへ。反対側のホームに高校時代のガールフレンドの姿をみつけ、ほんの少し動揺しているとスカイブルーの車輛がホームに滑り込んできた。車内はほぼ満席。乾いたコンプレッサー音を発してドアが閉まり、スカイブルーの車体は退屈そうに走りだす。石川町駅と山手駅の中間よりやや山手駅寄りで、となりに座っていた男がポケットに突っ込んでいた手をもぞもぞと動かしはじめる。前の座席にはバンビのように可憐な脚と眼、三つ編み、陶器のようにつるりとしたきれいな肌の女子高生が座っていた。彼女は大事そうに真っ白なキャンバスを抱えこんでいる。制服から横浜雙葉の生徒とわかる。「次は根岸」の車内アナウンス。そのときやっと、初めて、世界の基本は無関心なのだと気づく。

「何年生だろうな」と思ったとき、となりの席の男が急に立ち上がった。酒が入っているのか、足元があやうい。吊革につかまる手は油の汚れで真っ黒だ。焼酎とニンニクともつ焼きのにおいがする。「いやだな」と思った。男は女子高生をみすえ、足を踏み出す。男の体が揺れる。「まずいな」と思う。また一歩。さらに揺れる。男は女子高生の前に立ちはだかる。うつむく三つ編みのバンビちゃん。そして、男は言い放った。

「きみのその真っ白なキャンバスに向かって、おもいきりシャセイさせてくれないか」

夏の名残りを残す根岸線磯子行きが凍りつく。三つ編みバンビちゃんの顔はみるみる歪み、ついには嗚咽を漏らしはじめる。そして、号泣。そして、僕は席を立ち、ドアに向かう。あとの顛末はまったくわからない。僕は凍りつく根岸線磯子行き車輛番号クハ103-420から下りたのだ。かわいそうな三つ編みバンビちゃんを残して。心残りは三つ編みバンビちゃんの涙のゆくえを見届けられなかったことと、男に「写生と射精をひっかけたんですよね?」と尋ねられなかったことだ。夏の名残りを残す根岸線磯子行きが私の下車駅、根岸に着いてしまったからだ。根岸の駅前に降り立つと同時にほんの少し秋の気配を感じた。

三つ編みバンビちゃん。あのときのいやな出来事のあと、きみはきみが持っていたキャンバスにどんな絵を描いたのかな。やっぱり、美術室の薄汚れたトルソーやら山下公園の真ん前でふんぞり返るマリンタワーやら港の見える丘公園から見下ろす横浜港やら草むした外人墓地やら根岸台の緑やら元町を行き交う物狂おしい大衆やらのつまらないものを写生したのかな。あの日から、毎年9月20日が来るときみときみが抱えていた真っ白なキャンバスのことを思いだすよ。来年もきっとね。そして、考える。きみときみが抱えていた真っ白なキャンバスのことを。僕の行動の問題点を。僕の行動の問題点はきみを忌まわしい困難から救いだせなかったことじゃない。問題はきみを救いだそうとしなかったことだ。勇気を持てなかったことだ。その考えはいまも変わらない。これから先、変わることもない。きみに言いたいことはつまり、きみときみが抱えていた真 っ白なキャンバスのことを思いだし、考えるときに聴く音楽は『The Gallery in My Heart』だし、結局、人生は Work in Progressってこと、そして、僕もあの日よりは少しは勇気を持てるようになったってことだ。だから、これからもあの日みたいにしっかりと真っ白なキャンバスを抱えつづけてほしい。なにがあっても。そうさ。なにがあってもだ。どんなにつらくて悲しい出来事があってもだ。そして、そこに人生やら世界やら宇宙やら森のコトリたちのことやら雨に濡れて輝く森の木々のことやら海の不思議な生き物たちのことを写しとってほしい。僕が言いたいのは、たぶんそういうことだ。

あのときのきみはすごく悲しい顔をしていたけど、いまはいくらか悲しみや苦しみがやわらいでいるように見える。もちろん、僕の中ではきみはいつまでも三つ編みバンビちゃんのままだけどね。そして、僕は約束する。いついかなるときも、困憊と困難と不運が山のように僕に降りかかっていても、根岸線磯子行きに乗ったときはかならず三つ編みバンビちゃんのことを思いだすって。

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三つ編みのバンビちゃん。僕はこの夏、亜麻色の髪のコトリのような少女が「足だけ入る川」で水遊びする光景を描くために生まれて初めてキャンバスに向かったよ。亜麻色の髪のコトリのような少女と三つ編みのバンビちゃんがなぜだかダブって見えた。でも、たぶんそれは僕の気のせいだ。

正確に37年前のきょうの出来事である。(「あ、さてー」の小林完吾ではない)
 

 

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by enzo_morinari | 2012-09-20 14:15 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(1)

演劇部の美人部長M子とすごした1975年10月14日(火曜日)の放課後の音楽室【第1楽章】

 
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「料理はセックスである」と大江健三郎に言ったのは17歳のわたくしであるが、その考えはいまも変わらない。変わらないどころか、より強固に頑迷になっている。わたくしが「料理はセックスである」と考えるに至った出来事について記す。臆病者と偽善者と卑怯者とユビキタスを信じない者はここから先を読んではいけない。

「大江健三郎の『敬老週間』を文化祭の出し物として演じたいので脚本と演出を頼みたい」と演劇部の美人部長M子がわたくしを訪ねてきたのは1975年10月14日、火曜日の放課後の音楽室だった。わたくしはカラヤン指揮ベルリン・フィルでグスタフ・マーラの『交響曲第五番第四楽章 アダージェット』に聴き惚れていたところだったので、いくぶんか眉をしかめて演劇部部長のM子を見た。

M子はかなり怯えていた。わたくしは学校内では知らぬ者のない札付きのワルで、凶悪なうえに突拍子もない言動をする人物として生徒はおろか教師どもにまで恐れられていた。それゆえに、まさか学校でも才色兼備の誉れ高い演劇部部長のM子が単独で訪ねてくるなどまったく予想外の出来事であった。わたくしは言った。

「おれがここにいるって誰に聞いたんだ? あーん?」
「は、はい。担任の小松原先生に」
「小松原め。まったく余計なことを」
「怒ってらっしゃるんですか?」
「そりゃね。でも、あんたは美しいうえにいい声だからゆるす」
「あ、ありがとうございます!」
「で、用件は?」
「は、は、はひぃ。じ、実は脚本と演出をお願いしようと思いまして ──」

眉がぴくりとした。

「まったくなにかと思えばそんなことか。答えは決ってる。お断りだ」
「やっぱりダメですか ──」

深々とした溜息とともに、M子の大きな瞳から大きな涙がひと粒こぼれ落ちるのをわたくしは見逃さなかった。

「異化済みのリゾート・マンションがニョッキのゴルゴンゾーラ・ソースのパスタひと皿と等価な世界が見つからないからと言って希望を失っちゃいけない。なぜなら、そもそもわれわれの旅には目的地などないからだ。いつか、黙っていても急ぎ足になるような、そのような健やかでちょっと哀しい旅。そんな旅をおれとしたいとは思わないのか?」

わたくしがそう言うとM子は大きな瞳をさらに大きく見開き、大粒の涙をぬぐい、そして、大きくうなずいた。大きくうなずいたが彼女がわたくしの言ったことを本当に理解できたとは思えなかった。わたくし自身がわからなかったのだから当然である。わたくしはつづけた。

「少なくとも僕らはゆっくりと歩みを進めよう。急ぐ旅でもあるまい」
「わかりました。そうします」

M子の顔が輝きを取り戻した。そして、彼女は深々と一礼し、帰りかけた。

「待てよ。話はまだ終わっちゃいない」

M子はびくりとして振り向いた。

「話を聞こう」
「よろしいんですか?」
「うん。ところで、あんた、3年だろう? 年下のおれになんで敬語を使うんだ?」
「こわいから」
「なにがこわい?」
「みんながそう言ってます」
「あんたはおれから直接こわい目にあわされたことがあるのか?」
「ありません」
「それなら、なぜ?」
「Sさんが好きだからかもしれません」
「なんだそりゃ?」
「わたしにもよくわかりません」
「あんたがわからないならおれはもっとわからない。だけど、なんだかちょっとうれしいな」

M子が初めて笑った。胸の奥が疼くような奇妙な気分だった。

「ピアノは弾ける?」
「はい」
「グリークのピアノ協奏曲をキース・ジャレット風に弾くことは?」
「弾けると思います」

M子は南の島の通過儀礼のような手つきで卒業生からの寄贈品であるベーゼンドルファー・インペリアルの鍵盤蓋を開けた。眼を閉じ、両肩をまわし、一度だけ深く息を吸い込んでからまっすぐな眼で鍵盤を見た。

鍵盤に両手を置き、覆い被さるように頭を垂れるM子。M子は微動だにしない。息すらしていない。長い髪が白鍵と黒鍵の狭間で揺れている。あまねき存在からの啓示を待っているようにもみえる。口元が微かに動いている。呪文? 聴きとることはできない。そして、生涯にわたって忘れえぬ異界の刻が始まった。

第一音からキース・ジャレットだった。わたくしは息をのみ、居ずまいをただした。M子の口から呪文のような言葉の連なりが途切れることなく吐き出された。第1楽章が終わり、第2楽章が終わってもM子の演奏の冴え、緊張感はかわらなかった。そこには確かにキース・ジャレットがいて呪文のような呟きが聴こえた。鳥肌が立った。

「すごいな」

わたくしは思わず口にした。そのとき、M子が怒鳴った。雷鳴のような声だった。

「うるさい!」

M子は髪をふり乱し、鍵盤にありったけの怒りをぶつけているように思われた。第3楽章はとうに終わり、M子が弾いているのは、その年の初めにキース・ジャレットが行った奇跡のパフォーマンス、『ケルン・コンサート』だった。しかも、寸分たがわぬ演奏。

「どうして ──」
「黙りなさい!」
「でも、どうして?」
「降りてきてるのよ」

わたくしは唾を飲みこみ、M子の顔を覗きこんだ。M子の顔は会ったこともなければ見たこともない別人の顔にかわっていた。その顔は美しかったが凄絶で禍々しかった。そして、1975年10月14日の放課後の音楽室に魔物がやってきた。
 
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by enzo_morinari | 2012-09-16 18:22 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)