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カテゴリ:昭和のうた( 3 )

昭和のうた/菅原洋一 知りたくないの (昭和40年/1965年) あなたの過去など知りたくないの 愛しているから知りたくないの

 
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あなたの過去など知りたくないの 愛しているから知りたくないの


母親は貧乏長屋の共同の炊事場でめしの仕度をしているとき、かならず歌っていた。シャンソンやポップスや童謡や歌謡曲、世界の名曲といわれる数々の歌。張りと伸びのあるいい声だった。ビブラートのかけ方も絶妙だった。

忘れがたい貧乏長屋共同炊事場歌唱劇場の中でも、思い出すと胸に迫るのが菅原洋一の『知りたくないの』を泣きながら歌っていた母親の横顔とうしろ姿だ。

ろくでなしの生物学上の父親はあちこちに愛人がいた。母親は生物学上の父親の放蕩淫蕩を承知の上で生物学上の父親への誠をつくしていたように思われる。あなたの過去など知りたくないの 愛しているから知りたくないのと。昭和の愛のかたちだ。


知りたくないの 菅原洋一 (1965)
 
by enzo_morinari | 2019-05-09 19:39 | 昭和のうた | Trackback | Comments(0)

昭和のうた/ブー・フー・ウー? フー・フー・フール? いいえ。ズー・ニー・ヴーです。Zoo Nee Voo 白いサンゴ礁

 
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青い海原 群れ飛ぶカモメ 心惹かれた白いサンゴ礁 Aque You


Zoo Nee Voo. 白いサンゴ礁。GS/グループ・サウンズには見向きもしなかった私が凝視した。耳をそばだてた。ドーナツ盤も買った。当時住んでいた貧乏長屋の家賃が月3000円、小学校の給食費が月1200円、月の小遣いが300円の時代にドーナツ盤は600円だった。家賃の5分の1、給食費の半分、小遣い2ヶ月分。大出費だった。レコード屋でドキドキしながら買った。かっぱらってしまおうとも思ったが思いとどまった。

作詞は阿久悠。ヴォーカルの町田義人のハスキーな声がなぜだか胸にしみた。すごくしみた。町田義人がいまどこでなにをしているのかはわからない。生きているのか死んだのかさえ。所属芸能事務所とレコード会社とメディア/マスコミにむさぼり食われ、搾取され、こき使われ、いいように弄ばれて心身ともにボロボロになって傷つき、人間不信に陥り、疲れ果てたことは容易に想像できる。そのことは町田義人にかぎったことではない。現在も、そのような構図はなにひとつかわっていない。

町田義人はいま、どんな息づかいでなにをみてどんな音に耳をすましてなにを感じているのか。消息は杳として知れないが、その心の片隅に小さくてもいいから白いサンゴ礁があり、カモメが群れ飛び、気持ちのよい波の音が聴こえていればいい。兵士には休息が必要だ。野生の証明をするためにも。

10歳の夏。白いサンゴ礁をひたすら聴いた。ひたむきに聴いた。いろんな場所で聴いた。夏の夕暮れの貧乏長屋の部屋で。床屋の小倅の家の屋根裏部屋で。小学校の放送室で。街の図書館の視聴覚室で。叔父さんの蒲田の工場の旋盤機械の横で。横浜市電の中で。京浜急行逗子行きの車内で。ソニーの安物のポータブル・プレイヤーをマジソン・バッグに詰めこんで持っていき、湘南の海辺の牛乳屋の店先のコンセントにつないで。だから、1969年の夏は白いサンゴ礁の夏になった。以後も折りにふれて聴きつづけた。数千回の白いサンゴ礁。1969年の夏と白いサンゴ礁を聴いたときは青い海原と群れ飛ぶカモメと白いサンゴ礁がいつも一緒だった。何度も塩味ダイヤモンドを流した。2000tくらい流した。

本当に白いサンゴ礁があると知るのはおとなになってからだった。白いサンゴ礁の11年後に出た高中正義のBLUE LAGOONは薄っぺらであさはかだと思った。時代も人間も薄っぺらであさはかだった。牛乳屋のアロハ・ロングボード・オールバック・ファット・ヒゲマスターが湘南七里ガ浜の山店を『珊瑚礁』にしたのはZoo Nee Vooの白いサンゴ礁が好きだったからだというのを本人から聞いたときはうれしかった。『珊瑚礁』のアロハ・ロングボード・オールバック・ファット・ヒゲマスターが仕事中に店で心臓麻痺を起こして急死してからもう20年以上になる。泡劇場の閉幕直前、『珊瑚礁』の海店でビーフ・サラダとピッチャー・サイズの生ビールと1日限定3食のえび味噌カレーを一緒に食べた弘前出身の元女優と誠の愛をみつけるのはもっとずっとあとだった。

初めてサンゴ礁をGreat Barrier Reefでみたときは、その存在感とダイナミックな美しさに圧倒されたが、すでにサンゴ白化現象やオニヒトデによる食害やナポレオンフィッシュ漁で使われるシアン化カリウムの問題やダイナマイト漁問題が取り沙汰され、サンゴ礁の危機が叫ばれていた。


白いサンゴ礁 ズー・ニー・ブー (1969)

戦士の休息 (『野生の証明』主題歌) 町田義人 (1978)
 
by enzo_morinari | 2019-04-24 19:22 | 昭和のうた | Trackback | Comments(0)

昭和のうた/君と歩いた青春 木綿のハンカチーフが破れても、心が風邪をひいても忘れない。青春の栞にしてとっておく。

 
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君と歩いた青春が幕を閉じた。君はなぜ男に生まれてこなかったのか... Issay Shozo

若い季節のかわり目だから誰も心の風邪をひくのね 童話の本を閉じてしまえばすべてまぼろし 味気ない日々 Hirommy Otard

すべてはどうということのない過程にすぎないが、忘れがたく、心の奥深くにいつまでもそっとしまっておきたいこともある。Diogenez Dogz

CSN&Yを聴きだしてから人が変わったように髪を伸ばすやつもいれば、自由に生きてみたいと授業をサボるやつもいれば、ゲバ棒をふりまわすやつもいれば、『赤毛のアン』を読んでそばかすの悩みを打ちあけるやつもいた。みんな自分のウッドストックと緑の園を探していた。夢がひとつずつ消えてゆくたびにおとなになった味気ない日々 ──。Hirommy Otard


高校3年の冬。クリスマス。卒業まで3ヶ月足らず。18歳の誕生日の朝だった。のちに元妻2号となる女の子が下駄箱で私を待っていた。ハマ楽器のネイビーブルーのビニル袋をかかえていた。

「誕生日おめでとう。」
「めでたくもあり、めでたくもなしだけどな。」
「これ。聴いて。」
「レコードだな。おまえは音楽センスいいからな。だれ?」
「いいから黙って受け取って。」
「うん。わかった。」

私はLPレコードの入っているハマ楽器のネイビーブルーのビニル袋を受け取り、教室には行かずに放送室に向かった。放送室には部長の三宅がいた。私は三宅にハマ楽器のネイビーブルーのビニル袋を掲げてみせた。三宅は気持ちのいい笑顔をみせてうなずいた。いつものことだ。聴きたいレコードがあるときはこんなふうにする。

かぐや姫にいた伊勢正三と猫の大久保一久が1975年に結成したフォークデュオ、風の『WINDLESS BLUE』と『木綿のハンカチーフ』で一世を風靡した太田裕美の『12ページの詩集』の2枚のLPレコードが入っていた。なぜ2枚なのか。意味はすぐにわかった。『君と歩いた青春』を聴かせたいんだなと。『君と歩いた青春』はいい歌だ。歌詞もメロディも。CSN&Yのパクリだろうがなんだろうが、いいものはいい。わるいものはわるい。話は簡単だ。

三宅にレコードを渡して言った。

「『君と歩いた青春』をテープに続けて録音れて、エンドレス・リピートで校内一斉放送してくれ。放送室はロックアウトだ。だれも入らせない。いいな?」
「もちろん。なんだか最高の思い出づくりができそうだ。」
「あいかわらず、いいやつだな。おまえは。」
「樽くんだからさ。樽くんは絶対にはずさないから。」
「三宅、おまえ、小遣いやろうか?」
「お願いします。」
「殺すぞ。」
「冗談ですって。」
「おれにウソと冗談は通用しないってのはわかってるよな?」
「はい! もちろんです! 大魔王さま!」

三宅は手際よく2曲の『君と歩いた青春』をTDKの片面15分のカセット・テープの両面に録音した。そして、機材を調整してから校内一斉放送した。風の『君と歩いた青春』が学校中のスピーカーから一斉に流れた。1限目の授業が始まる時刻はとっくに過ぎていた。

君と歩いた青春が幕を閉じたというところでどどっと音がして塩味ダイヤモンドがあふれた。見れば、三宅も泣いていた。ぽろぽろといくらでも塩味ダイヤモンドがこぼれた。

ポンコツ教員どもの何人かがなにか叫びながらやってくるのが窓越しに見えた。そのうしろには顔をくしゃくしゃにした大勢の生徒どもの姿があった。先頭にはレコードをプレゼントしてくれた女の子がいた。いくつかの季節と青春をともに歩いた女の子が。顔を紅潮させ、遠目でもわかるほど目を泣きはらして。

私と三宅は握手し、抱き合った。「たまになら青春ドラマもわるくねえな」と三宅に言うと、三宅は3度うなずき、「フィネガンズ・ウェイク。アポストロフィのSはどこに行ったんだ? 行方はわからなくても、クォーク鳥は3度鳴く」と言った。三宅が言ったことの真意を確かめる前に三宅は死んでしまった。『心が風邪をひいた日』のアルバム・ジャケットと奥浩平の『青春の墓標』とカカヤンバラを1輪抱いて。青酸カリを飲んで。1年後のことだ。

「『心が風邪をひいた日』はあるか?」
「ありますよ!」
「B面ラス前の『青春のしおり』を1回だけかけよう。」
「了解です!」

おまえらと歩いた青春は幕を閉じるが、おまえらのことは忘れない。木綿のハンカチーフが破れても、心が風邪をひいても忘れない。青春の栞にしてとっておく。ロックアウトした放送室の外にいるやつらにも中庭に集まっているやつらにも聴こえるはずはないがそう言った。「ぼくもです。ぼくも忘れません」と三宅は言って声をあげて泣いた。「泣くとこか? 三宅」と思ったが言わなかった。人はだれでもなにかしらの事情をかかえている。三宅だっておなじだ。三宅にも泣く事情があったんだろう。

『青春のしおり』が終わり、8回目の風の『君と歩いた青春』がはじまった。

「樽くん、いやでしょうけど、さっきのあれ、みんなに聴かせてやってください。お願いします。」
「わかった。」

いつもなら言下に断るところだが、三宅の心映えがみえたのでマイクをとった。三宅が8回目の太田裕美の『君と歩いた青春』をフェードアウトし、Cueが出たところでマイクに向かって語りかけようとしたら、言葉に詰まった。

高校生活の3年間が早回しで浮かんでは消え、浮かんでは消えた。3年のあいだに出会い、訣別し、再会し、再び別れ、反目し、和解和睦し、野辺送りのうたを歌って永遠の別れをした多くの人々の目を見て、まばたきもせずにみつめて、彼らの一人一人が目の前にいると思って語りかけようと思った。

一期一会? 袖触れ合うも他生の縁? そんなのは知ったこっちゃない。知っているのは実際に会い、ときに見つめ合い、ときに手をつなぎ、ときにつないだ手をふりはらい、ときに争い、ときにそっぽを向き、ときに知らんぷりし、ときに肩を組み、ときにいっしょに歌ったやつらのことだけだ。一般化だの相対化だの総体化だのの訳知ったような、乙にすましたことは係ではない。格言やら古諺やら生臭坊主が言いそうなかび臭いことやら数語数文字の言葉で回収できるような生き様とは無縁に生きてきた。

1回会っただけでわかることなどない。さらに言うならば、自己と他者は永遠にわかりあえない関係性のうちにある。同様に、袖触れ合うだけでは関係性は築けない。1度限り、出会えたことの稀有を慈しむ心映えを持つことは重要だとしてもだ。手づかみ赤むけ、リアルだけが私には重要事だった。

永遠にわかりあえない関係性のうちにあるとしても、決して交わることのない平行線だけれどもいつかきっとわかりあえるという地平に立つところにこそ意味がある。たぶん、ひとはそれを希望と呼ぶんだろう。あふれる思いを懸命にこらえて私は語りはじめた。

おまえらと歩いた青春は幕を閉じるが、おまえらのことは忘れない。木綿のハンカチーフが破れても、心が風邪をひいても忘れない。青春の栞にしてとっておく。これがおまえらへのクリスマス・プレゼント。そして、贈る言葉だ。Here’s looking at you, Kids! おまえらの瞳に乾杯! 樽。

歓声と拍手が聴こえたような気がしたが、風のいたずらか空耳だったんだろう。そんな風向きの日もある。生きていればいろんなことがあるものだ。

すべてはどうということのない過程にすぎないが、忘れがたく、心の奥深くにいつまでもそっとしまっておきたいこともある。


君と歩いた青春 風 (WINDLESS BLUE/1976)
君と歩いた青春 太田裕美 (Self Cover/1981)
青春のしおり 太田裕美 (心が風邪をひいた日/1975)
 
by enzo_morinari | 2019-04-03 02:45 | 昭和のうた | Trackback | Comments(0)