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カテゴリ:放課後の音楽室( 1 )

夕暮れのラフマニノフ

 
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遠い昔に聴いた音楽は楽園の記憶をよみがえらせる。E-M-M


中学2年の秋の終わりの夕暮れ。強い北風の日。サッカーの練習を終え、グラウンドの西のはずれのだらだら坂を登って部室のある高台に向かって歩いていた。グラウンドも校舎も裏山の樹々も赤く染まっていた。

坂を登りきる左手には戦前の陸軍の兵舎を移築した古い木造校舎。血みどろの兵士の幽霊が出るというばかげた噂話がまことしやかに囁かれていた。2階には音楽室。音楽室には担任でもある音楽教師のタツゾー先生がいる。

寒いのに窓が開け放たれ、暖かさそうなあかりが漏れていた。立ち止まり、サッカー・ボールを抱えて音楽室のほうを見た。直後、その後の長く曲がりくねった人生の折々に繰り返し聴くことになる天上の音楽の妙なる調べは聴こえてきた。

セルゲイ・ラフマニノフの交響曲第2番第3楽章 アダージョ

全身がふるえ、涙があふれた。涙はいくらでも溢れでてきた。あいた窓からタツゾー先生が身を乗りだしてこちらを見ていた。早足で音楽室を目指した。

音楽室のクリーム色の引戸をあけるとコーヒーのいいにおいがした。満面の笑みを浮かべるタツゾー先生。

「来ると思ったよ。樽に聴かせたくてこのレコードをかけたんだ。練習が終わるの確認して、樽が坂道を登りはじめてからね」
「なんて曲?」
「ラフマニノフの交響曲第2番第3楽章 アダージョ。ソ連の作曲家だよ」
「すごくいい。坂道で聴こえたときからずっとふるえがとまらない」
「うん。…お母さんのことだけど」
「うん」
「だいじょうぶか?」

私は前の週に母親を失っていた。

「めしの支度や洗濯や掃除が面倒くさいけど、しょうがない」
「困ったことがあったらいつでも言ってくれよ」

私は少し考えてから答えた。

「借りはつくらない。貸し借りなしの人生を生きると決めたから」
「そうか…」
「でも、ありがとう。タツゾー先生」

それは生まれて初めて「ありがとう」という言葉を口にした瞬間だった。

タツゾー先生がサイフォンでいれてくれたコーヒーを2杯飲み、ラフマニノフの交響曲第2番第3楽章 アダージョを5回聴いた。音楽室の窓から外を見ると、なにもかもが赤く染まっていた世界には夜の帳が下り、世界は深々とした闇に包まれていた。

「家でレコードは聴けるよな?」
「聴ける。ソニーのぼろっちいポータブル・プレイヤーがある」
「LPもかけられるよな?」
「うん」

帰りがけ、タツゾー先生はハマ楽器のレコード袋をよこした。André Previnが指揮するLondon Symphony Orchestra(LSO)のLPレコードが入っていた。

夕暮れのラフマニノフから45年。木造校舎は取り壊されてモダンなアーキテクチャとなったが、タツゾー先生がくれたラフマニノフの交響曲第2番のビニルのLPレコードは今も手元にある。

45年の歳月を経て、ジャケットはやつれて変色し、レコードの盤面は傷だらけでスクラッチ・ノイズと針飛びを起こすけれども、週に1度は聴く。タツゾー先生とはたまに会う。声楽家の奥様と息子さんと娘さんを立てつづけに亡くしたが達者だ。元気だとは言わない。かけがえのないものを失って元気なはずがない。

タツゾー先生臨終のとき。ラフマニノフの交響曲第2番第3楽章 アダージョとマーラーの交響曲第5番第4楽章 アダージェットが繰り返し流れる部屋。タツゾー先生が身罷る瞬間までずっとタツゾー先生の枕辺にいる。そして、タツゾー先生の手を握り、頭と顔を撫でつづける。

放課後の音楽室と夕暮れのラフマニノフは生きている。放課後の音楽室と夕暮れのラフマニノフの物語は墨汁スミッティー・スミスに語り継いだ。スミスがどのような物語をだれに語り継ぐのかはわからない。わからないけれども、薄紅匂う物語になることを願う。


玄妙の言葉求めて櫻花 薄紅匂う道をこそゆけ

Sergei Rachmaninov; Symphony No. 2 in E minor Op. 27, 3rd mov. "Adagio" André Previn & London Symphony Orchestra (LSO)
 
by enzo_morinari | 2019-02-26 20:14 | 放課後の音楽室 | Trackback | Comments(2)