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カテゴリ:Tokyo Street Stories( 1 )

ピンボールの男の消滅とカワウソのような大学生/すべてはばかばかしいのだということ

 
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街を出る夜の最後のピンボール 165000が俺のベストスコア
5年の年月もふりかえってみればみんなガラクタばかりの馬鹿げた記憶

あした俺は西へ向かう列車に揺られ おまえがたどったとおなじ道をゆくよ
風の歌が旅する心にしみるよ おまえはこの歌をどこで聴いているんだろう?

去りゆく者だけが美しいとだれかが言った 去りゆく者たちの哀しい笑い声響く
Bay Side On My Mind, Bay Side On My Mind, わが心のBay Side On My Mind
E-M-M


たかだか100年しか生きることができない人間にできることなどなにもない。E-M-M

街一番のピンボール・ゲームのプレイヤーになっても生きていく上でまったく役には立たない。しかし、いくらかの満足感とある種の誇りは手に入る。ある世界一のゲーマー

死んだ牛の胃の中にひとつかみの干し草しか残っていなかったとしても、牛肉の価格は変わらないし、放射性物質による汚染は変動しないし、ヨハネスブルグのポンテ・アパートの凶悪事件発生率は下がらないし、ヨハネスブルグ・ランチは口が曲がるほどまずいし、コッチェビ・キッズ/チェルノブイリ・チルドレン/ロンゲラップ・ピープル/フクシマ・ピープルの運命は変わらないし、金持ちの生活習慣病患者は松坂牛のA5ランクの霜降り肉を喰いつづける。E-M-M


本牧の街を出る最後の夜だった。本牧には5年住んだ。14歳の秋の終わりから19歳の冬まで。5年と3ヶ月。ルーム・メイトはピンボールの男。ピンボール・ゲームの天才。

「あした俺は西へ向かう列車に揺られ、おまえがたどったとおなじ道をゆく。そして、自分の人生、自分の歩く道をみつける」というおそろしくヘタくそな字でスクロール&ビートされた手紙(「手紙」とは到底呼べないシロモノだった)を残してピンボールの男は姿を消した。私が本牧の街を出る前の日だった。

ピンボールの男は小学校と中学校の同級生でルーム・メイトでもあった。私もピンボールの男も天涯孤独。世界をいっさい信用せず、憎んでいるところもおなじだった。Street Fightが好きなところも。私とピンボールの男の対戦成績は42戦全勝で私の圧倒的な勝利。当然だ。180cmの私に対してピンボールの男は158cm。体重差は23kg。おとなとこどもだ。

運動能力はピンボールの男のほうがすぐれていた。ピンボールの男は100m走を11秒台の前半で走った。あらゆる球技でたぐいまれな才能を示した。サッカー部のチーメ・メイトでもあって、私とともに中盤でゲーム・メイクした。私が提唱したトータル・フットボールを体現できる唯一のやつだった。私たちのトータル・フットボールは向かう所敵なしだった。全国大会の決勝で静岡のチームに負けるまでは。静岡のチームは何枚も上手で成熟したトータル・フットボールをやっていた。

ピンボールの男が姿を消した理由には思いあたることがあった。私はトルーマン・カポーティの短編集『A Tree of Night and Other Stories』の中の『Shut a Final Door』を読んでいて、生まれてこのかたまともに本を読んだことのないピンボールの男が私の読んでいる本にいつになく興味を示した。

私は『Shut a Final Door』の最後にある言葉を口にした。

Think of nothing things, think of wind.
なにも思うまい。ただ風を思おう。


私が言うとピンボールの男はぽろぽろと涙をこぼした。シチュエーションは異なるが、おなじことが過去に1度だけあった。あれは三島由紀夫が死んだ日だった。自衛隊の市ヶ谷駐屯地からあてもなくさまよい歩き、神宮外苑の銀杏並木にたどり着いて、青山通りから12本目の銀杏の樹の下のベンチに座った。それは、そうすることがあらかじめ決められていた運命のような感じがした。不思議な時間だった。そして、カワウソのような大学生と出会った。

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小学校6年、1970年の秋の終わり。三島由紀夫が死んだ日。私は神宮外苑の銀杏並木で偶然知り合った大学生から1970年の夏に彼が経験した彼自身の物語を聴いた。大学生と私は神宮外苑の青山通りから12本目の銀杏の樹の下のベンチにならんで座り、ときどき銀杏の樹を眺め、通りすぎる車の数を数え、冬の気配を帯びはじめた東京の鈍色の空を見上げた。そのあいだ、大学生は彼自身の物語を私に聴かせ、私は大学生の物語に耳を傾けた。映画1本分の静かで不思議な時間が大学生と私に流れた。

大学生の話は1970年8月8日に始まり、18日後の8月26日に終わる物語だった。大学生は21歳で、彼は卒業単位を取ることがほぼ絶望的な状況に置かれていた。彼の郷里は海と山に挟まれた人口7万ほどのちいさな街で、東京の大学に通う彼が夏休みに帰省してもなにひとつすることがない退屈な日々が待ち受けていた。毎晩8時ちょうどに帰宅する父親の靴を磨き、靴磨きが終わるとJayという名前の中国人のバーテンダーがいるバーに行ってビールを飲む。それが夏休みの大学生の日課だった。

「Jay’s Barはとにかく居心地がいいんだ」と大学生はうれしそうに言った。「Jay’s Barに行くとかならず友達の鼠と顔を合わせた。僕と鼠はひと夏をかけて、なにかに取り憑かれたように25メートル・プール1杯分のビールを飲んだ。Jay’s Barの床一面に南京豆の殻をまき散らしながらね。Jay’s Barにあった伝説のピンボール・マシン、スリー・フリッパーのスペースシップには世界中のコインをかき集めても足りないほどカネをつぎこんだよ。まったく…。まったくばかばかしいにもほどがある」

そこで大学生は私にウィンクした。とても魅力的なウィンクだった。

「もちろん、25メートル・プール1杯分のビールと床一面にまき散らされた南京豆の殻とスリー・フリッパーのスペースシップでなにかしらの答えがみつかるわけはなかった。当然のことだ。でもね、そうとでもしなければやりすごせないほど退屈で長い夏だったんだ。そして、ある晩、僕は彼女をみつけた」

彼女はJay’s Barの洗面所で気を失って倒れていた。したたか酔っぱらっているようだった。大学生は彼女を自分の車に乗せ、彼女の部屋まで送りとどけた。部屋に着いても彼女は気を失ったままだった。

「その女の子は左手の小指がなかった。どうして彼女が小指を失ったのかはわからずじまいだった。たぶん、女の子は自分で噛み切ったのだと思う。根拠はないけど、それが彼女にふさわしいように思える。なにかしら混みいった事情があったんだろう。でも、それは僕が首を突っ込むような問題じゃなかった。僕にクリアできるハードルではなかったろうしね」

Jay’s Barの洗面所で気を失っていた女の子を発見した翌日、大学生はレコード・ショップで彼女と再会した。彼女はそのレコード・ショップで働いていたのだ。マイルス・デイヴィスの『A Gal in Calico』が入った『The Musings of Miles』のビニルのLPレコードとグレン・グールドの弾く『ピアノ・コンチェルト第3番/ベートーベン』を大学生は買った。

「グールドの『ゴルトベルク変奏曲/J.S.バッハ』もいっしょに買ったかもしれない。1955年録音のをね」と大学生はつけ加えた。

レコード・ショップでの再会以後、大学生と小指のない女の子は少しずつ親しくなっていった。Jay’s Barでいっしょにビールを飲んだり、小指のない女の子の部屋で食事をした。それでも二人が一線をこえることはなかった。小指のない女の子の奥深くに他者をある地点より内側にはけっして立ち入らせない強固な防衛線が存在することに大学生は気づいていたからだ。

旅に出ると言って行方をくらましていた小指のない女の子は1週間ほどで姿を現した。大学生と小指のない女の子は夕暮れの港をゆっくり時間をかけて散歩した。

小指のない女の子は大学生に打ちあける。旅をしていたというのはうそで、本当は妊娠中絶の手術を受けたのだと。相手の男のことは名前はおろか顔さえおぼえていないということも。その夜、大学生は小指のない女の子の部屋で彼女をそっと抱き、寝かしつける。

「それだけが僕が彼女にしてあげられることだったんだ」

そう言ったきり大学生は黙りこみ、うつむいた。彼が泣いているのがわかった。私もいっしょに泣いた。それだけが私が彼にしてあげられることだったからだ。

大学生と小指のない女の子と鼠。かれらは行き場のない孤立感を抱いているように思われた。そして、かれらはかれら自身がかかえる孤立感が手のほどこしようのない種類のものであることをよくわかっていたのだと思う。かれらはとらえどころのない喪失と諦めを胸の奥に秘めて、ひと夏をかけ、なにかに取り憑かれたように25メートル・プール1杯分のビールを飲み、Jay’s Barの床一面に南京豆の殻をまき散らし、スリー・フリッパーのスペースシップに世界中のコインをかき集めても足りないほどの小銭をつぎ込んでいたんだろう。

「本当の意味で人が人を理解することなんかできやしない。おなじように、自己を安上がりに救済することもできない」と大学生は吐き出すように言って深々とため息をついた。そのため息は計算しつくされた残響音みたいだった。私は大学生が回復不能なほど打ちひしがれているのだなと思った。かなしみなどひとかけらも入りこむ余地がないほどに。そして、かれらの夏は静かに終わりを告げた。大学生はチャイナのCの座席に座って東京に戻った。

カワウソのような大学生はその夏の日々を元に小説を書きはじめたのだと言った。タイトルは『Happy Birthday and White Christmas』だというので、私はそんな甘ったるいのはダメだと言い、私がそのとき読んでいたトルーマン・カポーティの『Shut a Final Door』の最後にある言葉を教えた。

Think of nothing things, think of wind.
なにも思うまい。ただ風を思おう。


カワウソ大学生はぶるぶるとふるえだし、声をあげて泣いた。それまで霜取り装置のこわれた冷蔵庫ていどのクールさを漂わせていたカワウソ大学生とは別人にみえた。

ひとしきり泣いてから、カワウソ大学生は「もうすべては終わったことなんだ」と言った。彼の眼は驚くほどの静けさにみたされていた。「もうなにも考えないことにしようと思う。ただ静かに風に身をまかせていようと思う」と大学生は付け加えた。

「それがいいよ。そのほうがいくらか救いがある。25メートル・プール1杯分のね」と私は言った。
「25メートル・プール1杯分の救い」と大学生は言い、すこし笑った。

夕闇が大学生と私に迫りつつあった。「またいつかどこかで」と二人同時に言った。そのとき、青山通りから不思議なにおいのする風が吹いてきた。白いカローラの軍団が轟音を鳴らして銀杏並木を走りぬけ、銀杏の樹々がいっせいに笑いだしたほかは特別なことはなにも起こらなかった。

大学生と私は握手をし、とても気持ちのよい笑顔をかわした。絵画館の方向に歩いてゆく大学生の後姿を見送りながら、私は小さなため息をひとつだけついた。大学生の背中が神宮の森の親しげな闇の中に消えるのを見届けてから、私は青山通りに向けて歩きはじめた。また風が吹いてきたが、こんどは不思議なにおいはせず、銀杏たちも笑わなかった。48年前の出来事だ。

チャイナのC。なにも考えないための座席はたぶんまだ空いているはずだ。

大学生はその9年後、ある文学賞の新人賞をとり、さらにその8年後、ビートルズの歌をタイトルにした小説でベストセラー作家の仲間入りをした。ビールと南京豆とジュークボックスとピンボール・ゲームが好きだった大学生はいまやノーベル文学賞の有力候補だ。大学生の名はハルキンボ・ムラカーミ。日系ウガンダ人だ。EDが目下のところの一番の悩みらしい。

ピンボールの男の行方は杳として知れないが、BäskaのSwedish Schnappsの瓶の底からピンボールの男の「助けてくれ。救いだしてくれ。引っ張りあげてくれ」といううめき声がずっと聴こえつづけている。なんとかしなければと思うが、どんなタイプのパスを送ればいいのかがわからない。空飛ぶオランダ人のヨハン・クライフが生きていればいいアイデアを教えてくれるのだが。Cruijff Turnのようにエキセントリックでノヴェルでビューティフルなアイデアを。

世界は際限なく欲望を拡張し搾取し簒奪する強欲な者たちと他者に依存し寄生する者たちでできあがっている。どこを探しても救いなどない。答えも出ない。そもそも元々答えはないのだから答えが出ないのは当然だ。

インチキとまやかしと思わせぶりときれいごとが蔓延している。二枚舌どころか三枚舌四枚舌だらけだ。裏にまわって陰湿陰険なふるまいをし、舌を出す。そんなようなやつらばかりだ。そうでない者はBäskaのSwedish Schnappsの瓶の底にうずくまって年老いたムク犬のような腹の底にまでしみる鳴き声/うめき声をあげつづける。

ずっと昔に気づいていたが、すべては救いようがないほどにばかばかしい。

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Cruijff Turn - Johan Cruijff (1974, FIFA World Cup)
 
by enzo_morinari | 2018-12-16 09:09 | Tokyo Street Stories | Trackback | Comments(0)