カテゴリ:アダージョ・ソステヌートの殺人者( 1 )

アダージョ・ソステヌートの殺人者 #001

 
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「人生はラフマニノフの1小節にも値しない」とクリスチャン・ジメルマンによく似た男は言った。男の口ぐせだった。男は名うての殺し屋だ。男は呼吸するように殺す。男にとって殺戮は呼吸と同じだ。男の殺戮で人口密度はいくぶんか減少し、男の呼吸で地球上の炭酸ガス濃度はわずかに上昇する。それだけの話だ。男は息を吐きだすように引き金を引き、息を吸いこむようにナイフを一閃する。男はゆっくりと殺す。手加減なし容赦なしで。眉ひとつ動かさずに。

男は思う。

「命乞いをするのは人間だけだ。人間以外の生き物は命乞いなどしない。不潔で覚悟なし。それが人間だ」

人生はラフマニノフの1小節にも値しない。男の言うとおりだ。特にラフマニノフのピアノ・コンチェルト第2番 第2楽章の1小節には。当然、グスタフ・マーラーの交響曲第5番 第4楽章 アダージェットにも。チャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』にも。

アダージョ・ソステヌートの死。息は乱れない。常に平均律を保っている。Time Keep. Tempo Animato. Keep The Rhytm. I Got Rhythm. ジョージ・ガーシュウィンことジェイコブ・ガーショヴィッツは作り物のような静寂と豊饒に彩られた秋のニューヨークで生まれ、狂った青空がなだれ落ちる夏の初めのLAで死んだ。

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人生に必要なのはリズムとバランスとエアロダイナミクスと確認だ。これにいい旋律が加われば言うことなし。だが、ことはそうそううまくはいかない。変奏がある。どこのだれとも知らぬ馬の骨のせいで。チャーリー・パーカーが死んだのだって、元をただせばディジー・ガレスピーの変奏と変節に巻き込まれたからだ。No Confirmation, No Life.

男の部屋に入る。言葉を失うほど素晴らしいオーディオ装置に圧倒される。スピーカーはイタリアの老練な家具職人が丹精をこめて作りあげたSonus FaberのAida. ジュゼッぺ・ヴェルティのオペラに登場するエチオピアの王女の名を冠した美しいスピーカー。イタリアのクラフトマンシップが生み出した傑作。音楽を奏でる宝石だ。リラの形状をしたRed Violin仕上げのエンクロージャーが艶かしく輝いている。明るくも気怠く儚く物憂げな古代ギリシアの街中にたゆたうように流れたリラの音色が聴こえてきそうだ。クレモナの偉大なリュータイオたち、アマーティやストラディヴァリやグァルネリも聞き惚れることだろう。CDプレイヤーはLinn CD12で、CardasのClear Beyondを使ってKrell KSLとウェスタン・エレクトリック社製のKT88をチュービングしたMacintosh MC275につないでいる。バイアンプ駆動。おまけにスピーカー・ケーブルにはEsotericの7N-S20000 MEXCELを奢っている。

マイクロ精機の超重量級砲金製ターンテーブルがストリング・ドライヴによってゆっくりと回転している。ターンテーブル・ユニットSX8000+モーター・ユニットRY5500の最強無敵の組み合わせ。軸受部に無振動エアベアリング機構を採用したターンテーブルは回転しているにもかかわらず、静止しているようだ。ターンテーブル・ユニットのフレームとモーター・ユニットとパワー・ユニットは味わい深いブルーで統一されている。トーンアームはGraham EngineeringのPhantom II Supreme. ピックアップは光悦のBlue Lace Agate Platinum.

豊饒かつ優雅、そして峻烈。男の "仕事" と寸分たがわない。いささかの迷いも狂いもためらいもない。精緻にして明晰。完全にノックアウトだ。男は世界を支配する極意を手に入れたか、万人から気づかれずに搾取するための美学を身につけたかしたにちがいない。

ターンテーブルにはドイツ・グラモフォン盤のカラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニカー『グスタフ・マーラー 交響曲第5番』がのっている。

何年の録音だろうか。中学の音楽室で聴いたおぼえがある。放課後、クラーク・ケント似の音楽教師が聴かせてくれた。第4楽章の美しい緩徐の旋律に聴き惚れているときに男が口を開いた。

「仕事の前にはいつもマーラーの『交響曲第5番 第4楽章 アダージェット』かラフマニノフの『ピアノ協奏曲 第2番 第2楽章 アダージョ・ソステヌート』を聴く。そして考える。問う。"人生に確証はあるか? 啓示と福音に耳をすましているか?" とね。仕事が無事終わったらナタリー・ドゥセが歌うラフマニノフの『ヴォカリーズ』を聴く。あとにはなにも残らない。残さない。後腐れなし。そんなふうにして、私は人生の日々の景色をよくする」
「で、きょうのマークはどこのどいつですか?」
「あんただと言ったら?」
「究極のオーディオ装置で戦慄の叙情を聴けたんですから心残りはありませんよ。できれば、1970年録音のウラジミール・アシュケナージとアンドレ・プレヴィン指揮 ロンドンSOのラフマニノフ Op. 18が聴けたら申し分ないんですけどね」
「いい選択だ。ジメルマンとオザワ/ボストンSOのラフP-C No.2, Op. 18だと言ったら躊躇なく引き金を引いていた」

男は事もなげに言い、フレーム、銃身、スライド、弾倉のフィールド・ストリッピングとクリーニングを終えた38口径 FN ブラウニング M1910をホルスターに収め、ホルスターヘの収まり具合とホルスターから抜き出すときの滑らかさを確認し、再び、FN ブラウニング M1910をArflexの机の上に音もなく置いた。それから、ゆっくりとした動きでフィルターを外したソブラニー・ブラックロシアンに火をつけた。男が深々と煙を吐き出すとヴァージニア葉の甘く濃密な燻香が部屋中に広がった。あとは未開封の箱の中の380ACP弾に瑕疵がないかひとつひとつ確認する作業を残すだけだ。

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FN ブラウニング M1910。男の長年の愛用銃にして、決して裏切ることのないよき相棒がポリッシュ・ブラックのArflexの机の上で鈍い輝きを放っている。

「嘘とごまかしと裏切りと変節と手のひら返しは断じてゆるさない。親兄弟、女、こども、友人であってもだ。手加減なし容赦なし。逃げても無駄だ。草の根をわけても探しだす。そして、長い時間をかけ、ゆっくりと、考えうるあらゆる種類の苦痛を与える。もがき苦しませ、のたうちまわらせ、むごたらしい死、アダージョ・ソステヌートの死をお見舞いする。それが私のModus Operandiだ」

男の眉間にくっきりとS字の皺がよる。カービング・ナイフで彫りつけたようなS字のしるし。男の眉間のS字は断固たる決意のあらわれだ。そして、男の冷酷と残虐の象徴。過去も現在も未来も変わらない。時制も時相も時法も問わないし、意味を持たない。場所もだ。男はスカラー量もベクトル量もテンソル量も無化する。それが男のやり方、Modus Operandi。

男はディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの歌うクロード・ドビュッシーの歌曲集『Cinq Poèmes de Charles Baudelaire/シャルル・ボードレールの5の詩』をターンテーブルに乗せ、FN ブラウニング M1910の銃身を長く細く白い指先でゆっくりと繰り返し撫でながら言った。シャルル・ボードレールの『悪の華』の中の詩の一節を暗誦でもするように。

「今夜のマークは女だ。それもとびきり美人のな。彼女はこれからファム・ファタールを気取って犯した数々の悪事悪行の贖罪をする。彼女は物事をアレグロ・アッサイに進めすぎた。人生はアダージョくらいでちょうどいい。漂えど沈まず、悠々として急ぐことも必要だがね。"夢魔世界の悪霊がユグドラシルさえ真っぷたつに切り裂く残酷にして冷徹な憤怒と憎悪の鉤爪を立てて汝を絶望と恐怖に彩られたモスケンの大渦巻のただ中に引きずりこむ。余は汝の呪われしアルビノの血がパストラーレの小川のようにファートゥムの瀑布のように軽快に激烈に流れ滴ることを熱望する" ということだ」

言い終えると、男はジャン=フランソワ・パイヤール室内管弦楽団が演奏する『アルビノーニによる2つの主題のアイデア及び通奏低音に基づく弦楽とオルガンのためのアダージョ ト短調』をかけた。

マークが "とびきり美人の女" と聞いて少しだけ胸の奥が疼いた。しかし、ほんの少しだけだ。どうってことはない。すべては過程のひとつにすぎない。

『アルビノーニのアダージョ ト短調』が終わり、再び、フィッシャー=ディースカウの正確無比、精緻明晰、ノイズ・ゼロのクリアな発声法に基づく威厳に満ちた声が部屋中に響きわたった。つづいて、マーラーの『交響曲第5番 第4楽章 アダージェット』とラフマニノフの『ピアノ協奏曲 第2番 第2楽章 アダージョ・ソステヌート』が交互に繰り返し流れた。アダージョ・ソステヌートの時間が永遠につづくように思われた。それが逃げ場のない死のダ・カーポの始まりにすぎないことを知るのはまだ先だ。

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by enzo_morinari | 2018-05-03 00:24 | アダージョ・ソステヌートの殺人者 | Trackback | Comments(3)