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カテゴリ:ウィリアム・モリスの森( 1 )

ウィリアム・モリスの森/書物の終焉

 
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iPadのiBooksで『草枕』を読んだ。これまで暗誦できるくらいに何百回となく読み親しんだテクストがまったくの別物という印象を受けた。枕が羽毛から河原の石くれにかわったほどのちがいである。

読みすすみながら、なんとは言えない「異和」を感じている自分がいることに気づき、不思議な動揺に見舞われる。書かれている内容は「テクスト」「文字情報」という点から見ればどちらも同じであるのに感じるものの質がまったくちがう。初めは「横書き」「縦書き」のちがいかと考えて、組みや書体やフォント・サイズも極力実物に近づけた。背景色も実物とディスプレイを並べてほぼ同じ状態にした。しかし、やはり私が感じた「異和」は消えることがなかった。

私が感じた「異和」の正体はいったいなんなのだろうと考えているうちにひとつのことに思い当たった。それは「手触り」である。ディスプレイ上には「手触り」がないのだ。

本を読むという行為に当然のように付随していた手触り、指先に触れる紙の質感。これらがないことによる宙ぶらりんのような状態。私が感じた「異和」はこれが原因なのではないかと思った。この「手触り」を拡張してゆくと、やがて職人技の組版に出合い、文選に行きあい、木版にたどりついて、ついには人類が初めて大地に指先で文字を記した瞬間にまで遡れるような気がしてきた。そのことに気づいて、あらためてディスプレイと実物とを見比べてみると、ちがいが次から次へと目についてくる。

表紙、天、平、束、見返し、花ぎれ、栞、小口のかすかな凸凹 ──。すると急にそれらの「書物」を構成する部品のひとつひとつがひっそりと息づいているように感じられてきたのだ。

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書物の身体性などということを言うつもりはいささかもない。もちろん、書物至上主義者でもない。それどころか、早晩、書物が表舞台から退場してゆくであろうことはひしひしと感じている。

紙からディスプレイへ。ディスプレイさえ消えて、ただの「信号」へ。

このシフト、流れはもはやだれにも止められないだろう。「デジタル文化禁止法」が制定されても。冷徹な経済原理の下では「文化」など木っ端微塵に打ち砕かれてしまうことさえ受け入れなければならないのだということも。しかし、たとえそうであったとしても、私が感じた「異和」の根っこにあるものの正体にはナイーブであるべきなのではないかと思う。

いずれ、情報技術/IoTの進化の過程で、書物のみならず、あらゆるかたちのあるメディアはディジタルの海に溶けいってしまうだろう。しかし、それでもなお、私はウィリアム・モリスが書物のマスプロダクツ化に対するアンチテーゼとしてグーテンベルクへと回帰し、ケルムスコット・プレスを手がけたのとおなじ強度でディスプレイに浮かぶテクストに向かいあいたいと思う。それが時に私を打ちのめし、時に勇気づけてくれた「書物たち」への私なりの仁義の切り方であるような気がする。

ウィリアム・モリスが森の小さな印刷所でケルムスコット版の装幀にいそしみながら過ごした贅沢な時間。宝石のごとくに輝くテクスト。私が夢想するのはディジタルの海を漂ううちに幸運にも出会えるかもしれないそんな風景である。


一冊の書物の誕生までに関わるすべての人がいつもウィリアム・モリスの森とともにありますように。森がなければ人間も書物も誕生しない。

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Forest and Nature Sounds 10 Hours
 
by enzo_morinari | 2019-03-21 02:15 | ウィリアム・モリスの森 | Trackback | Comments(0)