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昔々、横浜で。/ひとはどのようにして「青春の門」を開き、通りぬけていくのか?

 
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ばってん おかねにゃ勝てんもん

遠賀川 土手の向こうにボタ山の三つ並んで見えとらす
うちはあんたに逢いとうて カラス峠ば越えてきた
香春岳 バスの窓から中学の屋根も涙でぼやけとる
月見草 いいえそげんな花じゃなか あれはセイタカアワダチソウ


ひとはどのようにして「青春の門」を開き、通りぬけていくのか?

どの時代に、どこで生まれ、どこで育ったかということからは生涯逃れられない。


記憶の暗部をたぐりよせる。五木寛之の『青春の門』は生物学上の父親が置いていった『週刊現代』で初めて読んだ。読み進みながら、ときめいたり、うなずいたり、がっかりしたり。尾崎士郎の『人生劇場』をすでに読んでいたので、「自立編」が始まったあたりから、興味は五木寛之が『青春の門』でどのように『人生劇場』をパクるかに移った。『青春の門』は直木賞受賞作の『蒼ざめた馬を見よ』より強度も深度も弱く浅いように思われた。

『青春の門』の頃、通学の東海道線の車内の高校生たちはたいてい『青春の門』を読んでいた。私は「青春」を「アオハル」と言うことがクールであるように思っていた。だから、『青春の門』は「アオハルの門」。

その頃、私は水平線の向こうで死にたいといつも思っていた。だから、鎌倉七里ガ浜で存在の耐えられない透明な波乗り板にまたがり、一千億の波を待ち、水平線の果てに向けてパドリングしていた。

存在の耐えられない透明な波乗り板。Black LIGHTNING BOLTあるいはWhite LIGHTNING BOLT. 真っ黒けっけで真っ白けっけ。数々の矛盾を孕みつつ世界に確かに存在し、生きている私にはぴったりのサーフボードだった。

1970年代初期。『青春の門』を読むことは「青春の門」を開き、通りぬけるための通過儀礼だった。それは読書というよりも体験であったと言ってよい。うがった言い方をするならば、「『青春の門』経験」は「共通体験獲得のためのツール」だったということにでもなるんだろう。

『青春の門』は第3部の「放浪篇」までしか読んでいない。同時代性を獲得するのにはそれでじゅうぶんだった。以後は惰性、堕落であるように思われた。そして、私は青春の門のあとにいくつもの地獄門やら羅生門やら邪宗門やら煉獄の門やら玉門やら菊の御門やらをくぐりぬけた。くぐっていないのは天国の門くらいのものである。


織江の唄 山崎ハコ (人間まがい/1979)
 
by enzo_morinari | 2019-09-20 23:58 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)
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