花さえも咲かぬ 二人は枯れすゝきAzymuthの”Vôo Sorbe O Horizonte”とともに昭和の水平線を越える。ならず者/やくざ者/不良/愚連隊/傾奇者について学んでいる過程で加太一松(加太こうじ)と出会った。出会った当時、加太は『思想の科学』の編集長だった。
『思想の科学』には中学生の頃からちょくちょく手紙や原稿を送っていた。私にとって加太はペンフレンドのような存在で、加太との手紙のやりとりはサルトルから民俗、芸能、歌舞伎、紙芝居、花街/赤線、やくざ者、花札、丁半博奕、パチンコ/スマートボール、競馬まで多岐に渡った。たのしかった。
そんなようなことが何年かつづいて、加太と実際に会うことになった。場所は常磐線金町駅前の立ち飲みのモツ屋。
会ったとき、加太は私をみてすごく驚いた。私が加太が想像していたよりはるかに若かったからだ。手紙の中で私は自分のことを1935年/昭和10年生まれの「焼け跡闇市派」「少国民世代」と書いていたので、加太は私のことを40代半ばの中年であると想像していたのだろう。しかし、私は大学生の若造小僧っ子にすぎなかった。
加太は私の鼻っ柱の強さをたいそう気に入ってくれた。肉のアブラが燃えるもうもうとした煙りの中、私と加太は手紙でやりとりしていたのとおなじようなことを口角泡を飛ばしながら話した。サルトルから民俗、芸能、歌舞伎、紙芝居、花街/赤線、やくざ者、花札、丁半博奕、パチンコ/スマートボール、競馬まで。
文化財保護法は民俗を殺すということ。アンチ村上春樹とアンチ田中康夫とアンチ・ウェストコーストで共同戦線を張ることでも一致した。話はつきることがなかった。たのしかった。その後、三省堂の『江戸東京学事典』の資料集め、資料整理、下書きで加太を手伝えたのはいい思い出になった。
どういう風の吹きまわしか、立ち飲みのモツ屋のラジオからAzymuthの”Vôo Sorbe O Horizonte”が聴こえてきた。私と加太は顔を見合わせ、大笑いし、ホッピーで乾杯した。加太が驚くほどじょうずにJosé Roberto Bertramiのスキャットを真似たのには心底びっくりし、感動した。加太は少しだけはにかみながら、「クロスオーバーイレブンはいつも聴いてるんだ」と言った。塩味ダイヤモンドがこぼれそうになった。時計の針は12時をまわろうとしていた。
そのようにして、常磐線金町駅前の立ち飲みのモツ屋で加太一松との
昭和の水平線を越えるための夜は時さえ忘れてふけていった。忘れがたき昭和の夜だった。
昭和枯れすゝき さくらと一郎 (1974)Vôo Sorbe O Horizonte - Azymuth (Águia Não Come Mosca/1977)