人気ブログランキング |

昔々、横浜で。/生まれくる子供のために伝えたいことがあったが言葉にできなかった夜。妊娠とハードボイルドとMPの『失われた時を求めて』

 
昔々、横浜で。/生まれくる子供のために伝えたいことがあったが言葉にできなかった夜。妊娠とハードボイルドとMPの『失われた時を求めて』_c0109850_15575466.jpg

頼るもの何もないあの頃へ帰りたい。 Kazoo Massa Oodál


高校2年の秋から恋愛関係にあった女の子から妊娠を告げられたのは1979年のクリスマスのことだった。私の誕生日だった。偶然か天の配剤か。部屋のオーディオ装置ではオフコースの『生まれ来る子供たちのために』がかかっていた。おそらくは、女の子がタイミングを合わせたんだろうと思う。

「どんな気分?」と女の子は言った。
「不思議で、こそばゆくて、恥ずかしくて、うれしくて、ちょっとしあわせな気分。うまく言葉にできない」と私は言い、女の子のお腹にそっと触れた。

妊娠13週に入ったばかりだった。まだ見ぬ生まれくる子供はしきりに手だか足だか頭だかを動かしていた。手のひらに伝わってくるものの重さについて考えているときに女の子は言った。

「産んでいいの?」
「オフコース。もちろんだよ。産んでいいもヘチマもない。おれは生まれてこのかた産んだことはないし、死ぬまで産むことはできないだろうから産むのはおまえに頼るしかないけど、育てるのは一緒にやる。今からたのしみだ」
「でも、結婚もしてないんだよ。あなたもわたしも20歳になったばかりで、学生だし」
「それがどうしたって言うんだ? おれもおまえもじいさんばあさんで、悠々自適だったらいいのか?」

女の子は何度も首をふり、ぽろぽろ塩味ダイヤモンドをこぼした。私は手早くTDKの30分テープの両面に『生まれ来る子供たちのために』を片面15分に3回ずつ録音し、リピート再生した。

「さて、生まれくるぼくらの子供のためにどんな物語を書くかな」

私が言うと、女の子は声をあげて泣いた。

「泣くとこ?」
「うん。泣くとこ」
「そうか…。ここはやっぱり、抱きしめたり、胸に顔を埋めさせたりしたほうがいいのかな?」
「そんなことより、ゆで玉子作って。ハードボイルドで」

完璧なハードボイルドを食べながら女の子はプルーストの”À la recherche du temps perdu”を声に出して読んだ。きれいな発音だった。特に、冒頭の”Longtemps, je me suis couché de bonne heure.”のところが。思わず聞き惚れるほどだった。

妊娠とハードボイルドとMPの『失われた時を求めて』。ミッキー・スピレーンほどではないがレイモンド・チャンドラーくらいはハードボイルドだった。

私が罰当たりでどうしようもないのは激しく欲情し、勃起したことだった。生まれくる子供にあわす顔もないと思った。頭を撫でるかわりにタートル・ヘッドの先っぽでつついたが、その先は言葉にできない。

生まれきた子供はいまでは40歳。不惑だが不倫恋愛の真っ最中だ。子供は3人。その余のことは知らない。子守唄がわりに『ダニーボーイ』を歌ってやったことをおぼえていない不埒なやつなんかに興味はない。料金着払いで内容証明付きの不幸の手紙を送ってやる。


生まれ来る子供たちのために オフコース (Three and Two/1979)

言葉にできない オフコース (over/1981)
 
by enzo_morinari | 2019-05-08 16:04 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://enzogarden.exblog.jp/tb/30264902
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
<< 世界の果ての岬で考えるいくつか... Poisson d'a... >>