おうちを買って住宅ローンかかえて、ソコソココソコソ生きよう。意志の中心が空虚なメタルのドーナツ小僧
泡劇場の最初期。1980年代後半。ビートたけしのマシンガン・トーク全盛時代。どうということのないトーク番組の収録現場。
『最終便に間に合えば』で直木賞を受賞後間もない林真理子。時代の寵児づらをして気色の悪いけばけばしい厚化粧と金輪際似合わない華美にして下卑たブランド物の服は、その日が林真理子にとって苦悩と苦痛の日になることを暗示していた。
林真理子については無名時代から
上昇志向の強い知性も教養もない品性品格とは無縁の卑しく醜悪なる魂の持ち主/クソ田舎のウルトラ級のどぐされた糞ブス不細工という評価が定着していた。林真理子を取り立てた糸井重里への取り入りかたは度外れていて、尋常ではなかった。はたから見ている者にとっては不愉快きわまりなかった。その後の林真理子の跳梁跋扈については糸井重里にも責任の一端がある。
林真理子が直木賞をとったとき、広告批評の天野祐吉は「これで日本の知の底は2段3段下がった」と言い、深々とため息をついた。広告批評2代目編集長の島森路子も激しく同意していた。ふたりともすでに鬼籍入りしている。ゴミカスは無様に恥知らずにツラの皮厚く生き残り、善きひとは死ぬ。なんてことだ。まったく。
遅れてビートたけしが登場。そのときの林真理子の挙動不審ぶりは見ものだった。顔面に激しいチックが起こっていた。特に左眉の周辺の痙攣がすさまじかった。しかし、本当の見ものはそのあとだった。
ビートたけしが林真理子の真正面に座ったときから、林真理子の媚び諂いおべんちゃら劇場は幕をあけた。ビートたけしを見れば、あからさまにうんざりしていた。
休憩時間。ビートたけしはフロア・ディレクターを呼び、小声で言った。
「あのおねいちゃん、だいじょうぶかよ。見ちゃいられない。かわいそうすぎる」
ぺこぺこと赤ベコの張り子人形のような動きをするフロア・ディレクター。休憩後、林真理子の媚び諂いおべんちゃら劇場はなおもつづいた。スタジオの温度はまちがいなく5度下がった。だが、残酷にも収録はつづき、林真理子は滝のような汗をかき、服は汗で体に張りついて見ちゃいられない有様。
その林真理子がNHK大河ドラマの原作者となり、あろうことか紫綬褒章受章、有識者(林真理子が「有識者」なら、萩本の欽公はアメリカ合衆国大統領、老害明石家さんまは国連事務総長だってのよ!)として新しい年号選定にかかわった。ルンルン気分にはほど遠い末法の世になったものだ。キビダンゴなんぞ、創らず、言い繕い、寛ぐことができず、轡を嵌められている知性教養皆無、品性下劣にして品格とは無縁の林真理子といっしょに半笑いでルソン壷に詰めこんでルソン島に捨てちまえ!