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人生のエアロダイナミクスとプラネタリウム・デイズとIAU No.9

 
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エイブラハム・ジャコービとサー・デレク・ジャコービが手を携えて夢枕に立った夜、空に近い場所へ出かけていきたかった。


人生でもっとも重要なのは空力だ。人生のエアロダイナミクス。そのことを証明したのがF1宇宙の空力大王、エイドリアン・ニューウェイである。エイドリアン・ニューウェイはことあるごとに言ったものだ。

人間には1枚のシールもタグもステッカーもレッテルも必要ない。必要なのは風と翼とほんの少しの勇気と冒険心、そして、ベルヌーイの法則である。それ以外のものはきれいさっぱり剥ぎ落とさなければならない。

なるほど。まさにエイドリアン・ニューウェイの言うとおりだ。しかし、風の谷の小さな村に住む風使いの少女をのぞけば、たいていの人間は風をまともに使いこなすことはできず、巨大で重い金属でできた、やかましいうえに大めし喰らいの翼しか持たず、勇気は古臭い合い言葉として流通しているのみで、冒険心はティファニーとのダブルネームのロレックスのオイスター・ケースの中に閉じこめられてしまった。

熟練の牡蠣打ち職人がこじ開けようと試みても無駄だ。頑なになってしまったオイスター・ケースの心を開かせることは野村沙知代やイカサマ・パルジー・マサシやアホマホばばあや緑内障の下衆外道クソじじい居残り佐平次に品性品格を求めるのと同じくらい困難を極める。つまり、不可能である。「ベルヌーイの法則」に至っては「ベルヌーイの法則」以前の「エネルギー保存則」すらも理解していない者がほとんどである。私のまわりを見渡しても「ベルヌーイの法則」について正確に説明できるのは虹子とミニチュア・セントバーナードのポルコロッソをのぞけばキクラデスの空飛ぶパン屋くらいのものだ。だから、人間は無駄なことばかりをするのだ。私がそのことに気づいたのはエイドリアン・ニューウェイを知るずっと前、まだ世界やら人間やらにいくぶんかの信頼を置いていた昔々の大昔だ。

同一流線上のエネルギーの保存則を知らずに生き、呼吸し、摂取し、排泄し、生殖行為をし、眠り、飛行機に乗っていることが私には驚異である。夕暮れの野毛山動物園に行きさえすれば容易に分け隔てなく同一流線上のエネルギーの保存則を理解できるというのに、だれも夕暮れの野毛山動物園に行こうとしないばかりか、「夕暮れの野毛山動物園」の存在すら知らない者がほとんどだ。嘆かわしいかぎりである。

私はかつて、夕暮れの野毛山動物園における幸福論のための日々を生きた。幸福とはとんと縁のなかった私が幸福について考えるのはとても厄介だった。それはマカロン・パリジャンを食べたことも見たこともない者が「マカロンとアマレッティのちがい」をピエール・エルメやダヴィド・オルデーに説くくらい厄介なうえに馬鹿げている。

夕暮れの野毛山動物園における幸福論のための日々を生きても、私はひとかけらの幸福とも出会えなかった。しかし、私は夕暮れの野毛山動物園における幸福論のための日々を生きることによってアシカとアザラシとオットセイのちがいがわからずに目をまわす不思議な少女と出会うことができた。彼女と出会えたことが私の人生において最大にして最高の幸運であり幸福だったのだと気づくのはずっとあとになってからだった。アシカとアザラシとオットセイのちがいがわからずに目をまわす不思議な少女こそが虹子だ。

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遠い日、小学校3年生の私は1年間、毎日欠かすことなく桜木町駅から歩いて15分ほどのところにある紅葉ヶ丘の神奈川県立青少年センターに通った。そして、センター内のプラネタリウムで横浜の季節ごとの夜空を眺めた。休館日をのぞけばかならずだ。

毎日見たところでたいしたかわりばえがないのはわかっていても、紅葉坂をのぼり、座り心地の悪い椅子に座り、作り物の星空を繰り返し繰り返し見る。愚かしく、滑稽で、馬鹿げているが、それが「こども」という得体の知れない生き物の愚直さであり、真摯さであり、特権である。いまから思えば、プラネタリウムはお粗末きわまりないものだったが、当時はみるたびに心ときめいた。

私が夢中になっていたのは、現在のハイテク満載のプラネタリウムのように全自動で制御されたものではないし、あらかじめ録音された声優による自動音声でもなかった。白衣を着た解説者がマイクを片手にリアルタイムで星のことや銀河のことや星座のことや宇宙のことを解説するのだ。解説者の話は実に巧みで、夢やら好奇心やらをかきたてられた。星に魅入られはじめていたその頃の私にとって、彼は星博士であり、ヒーローであった。また、横浜の街並の360度パノラマの影絵などは、(縮尺率/スケールにひどい矛盾があったとはいえ)こども心にもせつなく感じられた。

プラネタリウム観賞後はセンター内の科学ものの遊具、実験器具で遊んだ。フレミングの法則やベルヌーイの法則やアルキメデスの法則など、物理の基本法則を簡易に視覚化立体化した器具は好奇心の塊のような私には実に魅惑的だった。そして、この経験によって私は自然科学に関する基礎知識を身体でおぼえた。

札付きの悪童、筋金入りの不良どもとの出会いとかかわりによって自然科学よりも人間学のほうがよりダイナミックで複雑でたのしく、刺激にみちていると知ることがなければ科学者を目指していたかもしれぬと思うこともあるが、そうはならなかった。悪童、不良どもとの出会いは精妙不可思議な「縁」がもたらしたのであり、その出会いが、私の人生とやらのわかれ道となった。まことにけっこうなことであった。星々はめぐり、因果もまためぐるのだ。そして、そのような日々のただ中、プラネタリウムの帰りがけに立ち寄った夕暮れの野毛山動物園で私は人生のエアロダイナミクスと出会った。

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エイドリアンニューウェイ・ブルーの真実へ。そして、よみがえるプラネタリウム・デイズ

人生のエアロダイナミクスは野毛山動物園のミツユビナマケモノの檻の前でゆっくりと揺れながらたたずんでいた。出会った頃の人生のエアロダイナミクスはいまよりずっと痩せていて、食べものにもほとんど手をつけなかった。人生のエアロダイナミクスはすべてにおいて無駄がなかった。人生のエアロダイナミクスのエイドリアンニューウェイ・ブルーに輝くからだはあざやかだったが、からだのまわりには趣味の悪いモスグリーンのBPエアがいつもまとわりついていた。人生のエアロダイナミクスの不幸はまちがいなくBPエアがもたらしていた。

BPエアは本当に悪いやつだ。BPエアは20世紀世界において、少なくとも人生のエアロダイナミクスを不幸にし、多くの海の生き物たちを殺した。21世紀になったいまもだ。BPエアはいまも世界中にたちの悪い不幸をばらまき、世界を汚し傷つけ、眉ひとつ動かさずに殺戮をつづけている。BPエアとモンサントにはいずれ飢えた思想的な大地の狼たちの午後の襲撃がある。

エイドリアンニューウェイ・ブルーの真実」についてはEliane Eliasの弾く『Blue in Green』が夕暮れの野毛山動物園に聴こえはじめる頃にあきらかにしようと思う。「エイドリアンニューウェイ・ブルーの真実」が明らかになり、世界に向けて解き放たれたとき、再び私のプラネタリウム・デイズは夢の墓場からよみがえるのだ。

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TRUTH - T-SQUARE
 
by enzo_morinari | 2019-03-12 06:03 | 人生のエアロダイナミクス | Trackback | Comments(3)
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Commented by SBM0007 at 2019-03-17 06:36
夕暮れの野毛山動物園の幸福論、のところが妙に気になりました。無料って聞いたことがありますが。ちなみに夕暮れがめっちゃ美しいんでしょうか。最近、人が絶賛するものを確かめて、自分の感覚を見つめ直してます。人がそれほど絶賛するものを、自分がなんとも思わなくて、ぎゃくに、これがすごいんですよね、と言ったときの、孤独があって、寂しい感じです。それでも、周りにおもねることなく、書き続けようとしてますが、何か、誰かに、尋ねたくなります。夕暮れの野毛山動物園の幸福論って、幸福を感じることですか。
Commented by enzo_morinari at 2019-03-17 18:38
>>Good Will Good Well Hunting World SBM-Man

Coca-Cola Lesson 005
野毛山動物園はいまやどこにもない動物園です。夕暮れの野毛山動物園となると世界どころか銀河系宇宙中を探しまわっても絶対にみつからない。

なぜ野毛山動物園および夕暮れの野毛山動物園が稀有かというと、かつてはどこにでもある動物園であることをつづけているから。頑固に。まさしく野毛山動物園的に。

旭山動物園を筆頭に行動展示方式とやらが主流になっていますが、ナンセンスもいいところです。水族館でも植物園でもおなじです。おめえら、Wild Life/Natureを見世物にしてんじゃねーよってことです。

「動物とのふれあい」がどーたらこーたらほざくのをよく耳にしますけども、ちゃんちゃらおかしくて臍茶です。のぼせあがってんじゃねーよ、おもいあがってんじゃねーよと。アフリカのサバンナで半日も生きていられない愚かで弱っちいニンゲンごときがエラソーにと。

幸福はなるものでもするものでもなくて、感じるものです。身を食べたあとに鮭缶/鯖缶の缶の底に残る缶汁のごときもの。そうたとえるしかありません。

おもねっちゃいけません。ダメダメです。同調圧力? 空気読め? それってうめえのか? 空気は読むもんじゃなくて吸って吐くもんだろうっつー具合に生きる。他人他者のことなんぞ知ったこっちゃねえよといったスタイル。表現するというのはそういうことです。

他者と仲良くする/馴染む/馴れ合うというのはいい表現の敵です。さらに言うなら、自己/自分自身とさえ仲たがいできるようになれば言うことなしってことですね。さらなる御健闘と御精進を。へうげた大皿に山盛りてんこ盛りの13里半のような。そうたとえるしかない。忝ない。
Commented by enzo_morinari at 2019-03-17 23:38
>>Good Will Good Well Hunting World SBM-Man

Coca-Cola Lesson 005-蛇足
表現行為はつねに他者と逆立します。否が応でも、軋轢を生みます。「あ」とひと言発しただけでもです。表現行為はそのような宿命を孕んでいるので、軋轢や対立やぎくしゃくや白眼がいやならば表現しないほうがいい。そのほうがよほどお気楽極楽のほほん気ままに生きることができる。私は金輪際、お気楽極楽のほほん気ままを望みませんから物言うならず者という立ち位置はかえませんけどね。生まれつき、親和欲求がZEROなので、そうするしかない。
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