なにも足さない。
なにも引かない。 1987年、秋。夕暮れどき、サンアドのSUNTORY Divisionのプロデューサーから電話があった。舌打ちを3回連続でし、不機嫌さを伝えるためにことさらぶっきら棒に電話に出た。
「お電話、よろしいですか?」
「よろしくない。きわめてよろしくない」
「…。かけなおしましょうか?」
「かけなおさなくていい。不在にするから。不在の権利は徹底的に行使する」
「困ったな…」
「困るのはあなたの事情だ。私は少しも困っていない。困っているとすれば、夕暮れの街に繰り出そうってときにつまらない電話につきあわされていることです」
「手短かに言います」
「なにごとも手短かがいい。簡潔明瞭でクールでハードボイルドなのが」
「では、手短かで簡潔明瞭でクールでハードボイルドに。開高健先生が樽さんに会いたがってます」
私は大きな音をさせて唾を飲みこみ、居ずまいを正した。唾を飲みこんだ音は相手にも聞こえたはずだ。つまらない失点をしてしまったと悔やんだが、あとの祭りだった。
「大先生が無名のフリーランスの若造小僧っ子の広告文案家に会いたいなんて、にわかには信じがたいな」
「SUNTORYのPure Malt Whiskyの広告です。Pure Malt Whiskyの広告の樽さんの仕事を開高先生はいたく気に入られたようです」
なるほど。そういうことか。
SUNTORY/Pure Malt Whisky TV-CM