前座酔いどれ詩人、トマス アラン ウェイツのもっとも得意とする楽器はピアノでもギターでもない。ヴォキャブラリー、語彙である。トマス アラン ウェイツのステージをみた者であれば、例の嗄れ声とともに彼の軽妙洒脱な語り口に魅了されたことだろう。私もそのうちの1人である。トマス アラン ウェイツはピアノの上にジムビームの白ラベルを置き、というよりも居座らせ、ビンから直接飲んでいた。飲みつつ歌い、しゃべりつつ飲みの連続のうちにトマス アラン ウェイツは酔いどれてゆき、へべれけになり、そしてパフォーマンスは終わる。トマス アラン ウェイツが酒を飲む姿も酔いどれる姿もともに立派なパフォーマンスであった。
ライヴハウスを出て、並びにある1杯飲み屋に駆けこんだ。カウンターの椅子に座り、ジムビームの白ラベルを注文した。
「きょうのトムはどうだった?」とトマス アラン ウェイツにすごくよく似たバーテンダーがたずねた。『薔薇の名前』に出ていた豚殺しの下男ともみえる。
「幸せそうだったよ。もちろん、ぼくもね」と私は答えた。
「そうか。そりゃ、よかった。やつが幸せなら世界は安泰だ。では、これはおれからのおごりだよ。さらにもうちょっとだけ幸せになってくれ」
そう言って豪快な笑顔をみせ、トマス アラン ウェイツ・バーテンダーは私のショット・グラスになみなみとジムビームをそそぎ、バケットにあふれそうなほどのポップコーンを私の前に無造作に置いた。
私はジムビームのダブル2杯分の酔いで幸福な気分にひたりながら、トマス アラン ウェイツとトマス アラン ウェイツの
語彙とトマス アラン ウェイツの嗄れ声と世界中の酔いどれと、そしてもうひとつのことに乾杯した。すなわち、トマス アラン ウェイツと同時代に生きていることに。
二ツ目私が愛してやまぬ噺家、五代目古今亭志ん生。ある高座での出来事である。志ん生は楽屋入りと同時に差し入れの酒を飲みはじめ、出番のときにはすでに泥酔状態だった。老松の出囃子とともに高座に出てきた志ん生は「えー、毎度、ばかばかしいお笑いを一席」と口上を発したとたんに大鼾をかきはじめ、そのまま眠りこんでしまったのだ。客席の野暮天の一人が、「高いゼニ払って、遠くから足を運んでやってるんだぞ! ちゃんと落語やれ!」と怒鳴る。すると、常連の粋筋がひと言。
「うるせえ! スットコドッコイ! 志ん生の噺はいつでも聴けるが、高座で大鼾かいて眠りこける志ん生はめったにお目にかかれるもんじゃねえや! そのまま寝かしとけ!」
野暮天と粋筋の勝負は文句なしに粋筋の数寄者氏に軍配である。粋筋の粋な言葉にほかの客からはやんやの喝采が起こった。まったくもってこの国にもいい時代があったものである。トマス アラン ウェイツの「酔いどれパフォーマンス」を見ながら、私は志ん生のこの逸話を幸せな気分で思いだしていた。1997年の春のことである。
そろそろ、トマス アラン ウェイツに会いたくなってきた。近いうちに、森の漫才師サルーを道連れに会いに行こうと思う。もちろん、この道行きにかかる費用はすべて森の漫才師サルー持ちである。「持つべきものは金持ちの友だち」というのは本当だ。
Grapefruit Moon/Thomas Alan Waits (1973)Drunk on the Moon/Thomas Alan Waits (1974)Tom Traubert's Blues (Four Sheets to the Wind in Copenhagen)/Thomas Alan Waits (1976)San Diego Serenade/Thomas Alan Waits (1974)Closing Time/Thomas Alan Waits (1973)五代目古今亭志ん生(「真打ち」につづかない)