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流儀と遊戯の王国 チキンライス世界の松本人志とハードボイルド・ワンダーランド

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クリスマスが近くなるとできたてのチキンライスの酸っぱい湯気の向こう側に見え隠れするまだ若く美しい母親の笑顔を思い出し、『チキンライス』を聴く。『チキンライス』はいい歌だ。デビュー当時の宇多田ヒカルくらいいい。たけしの『浅草キッド』に迫る。

『チキンライス』を初めて聴いたときは自分が経験してきたことと驚くほどに酷似していたのでびっくりした。親の顔色をうかがい、懐具合を気づかって一番安いメニューのチキンライスを注文するところ。「貧乏自慢ですか」と無言で問うおっちょこちょいの愚か者に対して抱く諦めと悲しみがないまぜになった複雑な思い。いまはなき赤坂プリンスのスィーツで「やっぱり七面鳥よりチキンライスがいいや」というところ。そして、「最後は笑いにかえるから」というところ。

『チキンライス』を聴いて松本人志という男と真っ正面から向かいあおうと思った。入手可能な松本人志の本やら雑誌のインタビュー記事やらをすべて読み、考えた。結論は、「松本人志は本物だ」ということだった。

松本人志はきわめつきのハードボイルドだ。「笑い」の質のエキセントリックさに気を取られていると松本人志の本質を見失う。松本人志の根っこ、基礎、支えているもの、ルサンチマン、闇、そして影。松本人志を松本人志たらしめているもの。それは、貧乏/貧困であり、不全感だ。

松本人志は一見すると斜に構えているようだがとんでもない。松本人志は人間、社会、世界と真っ正面から向きあっている。真っ正面から向きあっていなければあの種類の笑いを生みだすことはできない。照れ隠しに「斜に構えている」ように見せているだけだ。

きょうび、どいつもこいつもやに下がり、ふやけたやつばかりだが、松本人志はとんがっている。切っ先鋭い。結婚し、こどもができて落ちついたようにみられているがそれは表面上のことだろう。ふてぶてしい面構えは以前となにも変わっちゃいない。

テレビ受像機の画面をときどきぶっ叩いてやることもあるくらいのふてぶてしい面構え。そこがまたいい。クチビル・ハマーなど松本人志に比べたらまだまだどこにでもいるあんちゃんにすぎない。かわいいものだ。

松本人志がなにかに集中してぐっと視線を止めたときには背筋が凍りつくような凄味がある。あの松本人志の眼のたぐい、眼の奥に秘めているもの、宿しているものは長い人生でもそうそうお目にかかれるものではない。松本人志もめったに人前ではみせない。意識してそうしているのかどうかはわからない。あの眼はまちがいなく「地獄」をみた眼だ。いや、「地獄」に堕ちること、「地獄」に引きずりこまれることを覚悟し、腹をくくったうえで「地獄」の尻の穴まで観察し、見届けようとした眼である。地獄を観察する者。あるいは、地獄を計測する者。それが松本人志だ。

過去に2度だけ松本人志の「あの眼」とおなじ眼に遭遇したことがある。「いい死に場所」と「死ぬには手頃な日」を探して「ヤバイ場所」をほっつき歩いていた頃だ。一人はペルーで。反政府ゲリラ組織の兵士。もう一人は開高健。2度ともおそろしかった。背筋が強い痛みをともなって凍りついた。もうあのたぐいの眼にお目にかかることはないだろうと思っていたら、テレビ受像機の画面から松本人志に睨みつけられた。以前とおなじように背筋が凍りついた。

松本人志の独創と発想力と即興は瞠目に値する。たけしと松本人志の対談を読めば松本人志の「精神性」の一端を垣間みることができる。『遺書』も「松本人志解読」の必読書である。

松本人志にはいずれ、保身と利権の確保に血道を上げる愚劣卑劣な木っ端役人どもや既得権益の上にあぐらをかいている守旧派守銭奴どもの牙城に風穴をあけるくらいの爆弾を炸裂させてほしいものだ。

人生という厄介なゲームに土塊ひとつ担保提供せぬまま恥知らずにもローリスク・ローリターンの定額貯金に精を出す善人づらした小市民や醜悪きわまりもない親和欲求に翻弄されるボンクラや臆面もなく純朴偽装した能天気や暮らし自慢、ライフ・スタイル自慢にうつつをぬかして日も夜もあけぬ極楽とんぼや裏切りと嫉妬と欲得と保身に彩られた者たちに回復不能な一撃を加えることがお茶の子さいさいになるくらいのごっつええ感じでガキ帝国なのを。

もともと、上っ調子な「笑い」にはまったく興味がなかった。鬱屈したもの、ルサンチマン、闇、影を誰にも触れることのできない敏感でナイーヴで脆い、もっとも奥まったところに隠し持ちながら、それを「笑い」にかえる。そのような「笑い」に魅かれた。萩本欽一やらドリフターズやらとんねるずやらのたぐいのなにがおもしろいのかこれっぽっちも理解できなかった。不思議でしかたなかった。いまの「お笑い芸人」と呼ばれている若造どものあらかたについても同じだ。チュートリアルの徳井とブラマヨの吉田には少し注目している。あとはひと山いくらという括りでじゅうぶんだ。徳井と吉田はTwitterでフォローして、ときどき「毒舌」をかましているが、いまのところ反応はない。まあ、縁がないということだろう。

できるならば貧乏なんぞしないほうがいいに決まっている。好き好んで貧乏になるやつなどいない。いるはずがない。こどもの頃の貧乏、経済的な不遇はたいていの場合、一生ついてまわる。そして、さらに悪いことに貧乏は世代交代しながら拡大再生産されていく。貧乏人のこどもは親よりさらに貧乏になり、そのまたこどもはもっと貧乏になる。石川啄木の依存性向と甘っちょろさはきらいだが、「働けど働けどわが暮らし楽にならず」というのは人生、社会の実相の一面を言いあらわしてはいる。

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小学校の6年間、ただの一度も給食費を払えぬような貧乏の中に育ったので暮らし自慢、ライフ・スタイル自慢に日も夜もないおセレブさまがたの極楽とんぼぶりに接すると虫酸が走りまくる。反吐が出る。はらわたが煮えくりかえる。

ゼニカネにはなにひとつ不自由などなく、周囲には鼻高々の暮らしっぷりなんだろうが、私は彼らの中にいやしさ/あさましさ/さもしさのにおいをどうしても嗅ぎとってしまう。「○○でランチ♪」なんぞというテクストを目にすると8分音符を分解して蝦蟇のオタマジャクシに変えてから、ネウマ記譜法もタブラチュア記譜法もいっさい無視してダ・カーポかフェルマータかダル・セーニョに全休符つけあわせてデルフォイ神殿に生け贄としてお供えしてやりたくなる。

私が長いあいだ喰らってきた昼めしは「日の丸弁当に玉子焼きが一枚のっかったドカベン」だ。うまかった。腹いっぱいになった。お品がないか? 野蛮か? おセレブさまがたの暮らしや「おランチ」や「午後のお茶の会」や「オサレなカフェ」が上品で文化的であるというなら、品も文化も糞食らえだ。

おセレブさまがたには100万回に一回でいいから「すべらない話」を聞かせてもらいたいものだ。あんたたち、気づいているかどうか知らんが、いつも滑ってるよ。それもレベルがすごく低いところで大滑り上滑りだ。豪勢な「おランチ」を画像入りで見せられ、読まされても、肝心の料理の味も香りも盛りつけのセンスもサーヴィングのよさもまったく伝わってこない。画像はどれもこれも雑誌かネット上のどこかで見たことがあるような構図ばかりで、まるで観光客の客足が絶えて久しい寂れた観光地の土産物屋で売っている絵葉書みたいだしな。

人生も世界もおセレブさまがた乃至はその追従者が考えているほど単純でもハッピーにも出来あがってはいない。「おランチ」やら「午後のお茶の会」やら「オサレなカフェ」やらディズニーランドやらスカイツリーやらで幸福と「いい人生」が手に入るなら神さまも苦労しない。ハッピー・クリスマスもメリー・クリスマスもけっこうだが、上っ調子上滑りに街中でお祭り騒ぎをやられるのはもうたくさんだ。

「貧乏」「貧困」というのはひとつのクライシス・モーメントだ。クライシス・モーメントの季節をすごしたことのない者は例外なく向上心がない。恥知らずである。恥知らずは恥を知らぬがゆえにためらいなく人を裏切り、手のひらをかえす。ちょっとした風向きの加減で経済的な不遇をかこっている者をこそ私はわが友とする。

カネがないならカネのあるほうが出せばいい。そろってカネがないならいっしょに泣けばいいだけの話である。貸したカネを返さずに消息を絶った者がいたらそのことによって彼が一瞬でも救われたのであると思えばいい。しかし、恥を知らぬ輩に飲まされた煮え湯だけは何十年経とうと煮え湯のまま、はらわたの煮えくりかえり具合は当時のままだ。そして、私は恥知らずとはどのようなしがらみ、事情があれ、たとえ大きな仕事をもたらすとしても、いっさい縁を持たない。いずれ、煮え湯を飲まされ、はらわたが煮えくりかえりつづけることを知っているからだ。

恥知らずは一度二度三度どころか何度でも恥知らずを繰り返す。もはや「恥知らず病」と呼びたくなるほどだ。そして、「住宅ローン」とやらを完済したことを得意げ自慢げに得々としてほざく愚か者はゴマンといる。人生という一筋縄ではいかないゲームで、土塊ひとつ担保提供していないくせにわけまえだけは一丁前に要求した挙げ句、裏では郵便局の定額貯金に精を出すいやしさあさましささもしさもちょくちょく目にする。喪もあけぬうちから近所の狒狒爺/狒狒婆と御懇ろに及ぶ不逞の輩が掃いて捨てるほどいる。

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おセレブさんにまつわるある驚愕のシーン。あれは泡の徒花が末期の狂い咲きをしている最中のことだ。場所は銀座。RESTAURANT L'OSIER だ。おねいちゃんのたってのリクエストに「おまえのおごりならつきあってやってもよろしい」と申し渡して、いやいやながら待ち合わせ場所の銀座4丁目交差点和光前に出向いた。

ロオジェの料理がうまいのは十分に知っている。おそらく、その時点で亡くなった高橋徳男の「アピシウス」、広尾の「RESTAUTANT Hiramatsu」、ムッシュ勝又登の「オーベルジュ・オー・ミラドー」と並んで、日本一うまいフランス料理が喰える店だった。何年も行っていないがジャック・ボリーの舌、味蕾、嗅覚、視覚、聴覚が劣化していなければ料理のクオリティは超一級を維持しているはずだ。リニューアル・オープンのときには行ってみたいものだ(と思ったら、ジャック・ボリーの野郎、ロオジェにアデューしてやがるじゃねえか。終わったな、ロオジェ)。サーヴィングのレベルもトップ・クラス。ジャック・ボリーは鼻持ちならなくて好きではなかったが、人物を喰うわけではない。あくまでも料理を喰うんだからシェフがたとえ福島瑞穂や勝間和代や田嶋陽子や辻元清美や秋元康や石橋貴明やAKB48でも料理がうまけりゃ文句はない。

おねいちゃんは待ち合わせの定刻よりだいぶ前に和光前に来ていた様子で、私が本当に来るかどうか不安そうに見えた。私はあえて中央通り反対側の三越前に車を迂回させた。そして、車の中からおねいちゃんの様子をしばし観察することにした。落ちつきなくきょろきょろと右に左に顔を振っている。私を探しているんだろう。しきりに腕時計を見ている。

待ち合わせ時刻10分前。苛立たしげに左足の靴のかかとを地面に打ちつけてやがる。車から降り、腕組みをし、仁王立ちで和光方向を見る。おねいちゃん、すぐに気がつく。満面の笑顔。信号がまだ青になっていないというのに小走りで私に向かってくる。

「もう! いらっしゃらないかと思いました!」
「もう? 牛? 偶蹄目?」
「ちーがーいーまーすっ!」
「いや、それが急用ができちゃってだな、きょうは」と言ったところでおねいちゃんの顔がみるみる歪み、崩れていく。

「おいおい。冗談だよ。人前で泣いていい街は大阪だけだぜ」

私が言うとおねいちゃんは私の胸に顔をうずめて泣きだす。おねいちゃんをなんとか慰め、なだめ、銀座7丁目の資生堂をめざす。おねいちゃんは指導どおり私の左側やや後ろを歩く。そして、とても自然に巧みに私の左肘の少し上あたりに手を添える。腕を組むような下品なことはしないようにとの指導をきちんと守っている。上出来上出来。「このおねいちゃん、もしから当たりかもしれないな」とさえ思う。「嫁にしてやるか」とも思う。このおねいちゃんこそが虹子だ。

食後、2杯目のエスプレッソ・ダブルを飲んでいるときに生涯にわたって忘れえぬおセレブさんはやってきた。Dior POISON の地獄の大釜で煮立てた馬房のような毒々しいにおいをふりまきながら。藤色のヴェルサーチのスーツを着て髪をキンキラキンに染めた親子ほども齢の離れた若い男を従えて。野村沙知代だった。まちがってもチキンライスの湯気の向こうには見たくない御面相だった。


チキンライス/浜田雅功と槇原敬之
 
by enzo_morinari | 2018-09-17 10:29 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback | Comments(0)
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