
かつて、目黒の権之助坂の中腹に喫茶室ウエストがあった。乃木坂の喫茶室ウエストとともに、時々、考えごとをしたいときに利用していた。ドライケーキをかじりながら。
喫茶室ウエストは、いわば私の思索部屋だった。しかし、ドトールコーヒーやスターバックスやタリーズの台頭とともに昭和のにおいを残す喫茶室はみるみるうちに姿を消した。喫茶室ウエストも例外ではない。「
ドライケーキのウエストでございます。 」というシンプルで美しいCMを目にすることもなくなった。
喫茶ウエストのあとはルノワールとなり、ルノワールも撤退してしばらく「空き店舗」のプレートがかかっていた。目黒駅にほど近い場所柄、すぐになにかしらの店が入ると思っていたがそうはならなかった。

きょうの昼すぎ、除去仕事のために目黒川沿いを下見した帰り道、勝丸でラーメンを食い、ついでにポーク亭でカツ丼を食べ、目黒雅叙園で雅叙園観光の残党を除去してから目黒駅方向に権之助坂を登った。
喫茶ウェストのあったビルは漆黒に塗り替えられて「黒猫社」という看板がかかり、喫茶室ウエストのあった2階にはシノワール・シャノワールというカフェ風の店が入っていた。
シノワール・シャノワール? Chinoise Chat Noir? 支那の黒猫? 黒猫社のビルに黒猫という名のカフェ。黒幇。黒龍会。龍頭...。気分の悪くなる言葉が次々に浮かんだ。
階段を小走りに駆けあがり、マットブラックの扉を押した。店の中はムスクのにおいが充満していた。
扉を入ってすぐの壁には
黒い絵描きのルノワール・ファム・ファタールとすごすドイツ表現主義とフィルム・ノワールの夜というポスターが貼ってあった。ポスターはあきらかにドイツ表現主義の影響がうかがえるデザインと色使いだった。ポスターの下隅には小さく「『マルタの鷹』『黒い罠』『暗黒街の顔役』もノンストップ同時上映」とある。
黒い絵描き。ルノワール。運命の女。甘く危険な香りのする女。ドイツ表現主義。そして、フィルム・ノワール。
私は途轍もない災厄を孕んだ運命の歯車が音もなく回りはじめ、自分が陰謀/謀略の大迷宮に迷いこんだことをはっきりと感じた。そして、左脇のホルスターに収まっているFN Browning Model 1910の銃身を指先で2度撫で、Benchmade Vallation 407のグリップを握りしめ、「Grip Glitz」と口にした。
The Cat - Jimmy Smith