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パリ北駅発、現象。バラ色の人生。

 
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パリ北駅4番線ホームにおける知覚の現象学的手法


遠い異国から来た若者はすでに列車の中だ。遠い異国から来た若者は生涯最高にして最悪の旅に出ようとしている。

遡ること数時間前。わが要塞、わが知の胎内。わが知覚の現象学的手法が誕生する場。

朝、いつものように眠られぬ夜をやりすごし、ベッドから抜けだすと遠い異国から来た若者が居間の中央に正座し、神妙な面持ちで吾輩を待っていた。

「おはよう。どうした? こわい顔して」
「お暇乞いを申し上げにまいりました」
「死ぬのか?」
「死にゃしません」
「なんだ。つまらない」
「わたしが死ぬとおもしろいですか!」
「うん」
「ひどい!」
「うん。吾輩がひどいのは有名だ」
「鬼ですね!」
「うれしいことを言ってくれるじゃねえか。あと1、2週間いろよ。アゴアシは面倒みるから」
「もうなにがなんだかわけがわかりません!」
「またまたうれしいな。わけがわかることくらい面白くないことはないからな」
「しばらく放浪することにしました」
「ほう。そりゃまたなんで?」
「あなたの、いえ、先生の背中すら見えない自分が情けないからです」
「なるほど。いい心がけだ」
「ありがとうございます。あの夜、ラ・セーヌを行ったり来たりしているとき、ほんの少し見えかけたんですけど…。すぐに見えなくなっちゃいました」
「ほうほう。ほんの少し見えかけた吾輩の背中はどんなだった?」
「血煙が上がってました」

吾輩は言いかけた言葉を飲みこんだ。血煙か。なつかしい言葉だ。思えば吾輩自身が血煙を上げている人物を探し求める人生を生きてきた。

小学生のときに靖国神社ですれちがった三島由紀夫は青白い炎のような血煙を上げていた。その数日後、三島由紀夫は自裁した。小林秀雄も埴谷雄高も吉本隆明も江藤淳も高橋和己も大江健三郎も五木寛之も吉行淳之介先生も松本治一郎も高山登久郎もビートたけしも中上健次も阿部薫も鴨志田穣も田中角栄もマレーネ・ディートリッヒもベニー・グッドマンもマイルス・デイヴィスもジョン・コルトレーンもエリック・ドルフィーもアルバート・アイラーもローランド・カークもミシェル・ペトルチアーニもウラジミール・アシュケナージもムスティスラフ・ロストロポーヴィチもスティーヴ・ジョブズも高倉健も鶴田浩二も市川崑も長谷川和彦も森田芳光もやしきたかじんも泉谷しげるも忌野清志郎も桑田佳祐も渡辺香津美も吉田美奈子もベルナール・ロワゾーもアイルトン・セナもミケーレ・アルボレートも古今亭志ん朝も野村秋介先生も、そして開高健先生も血煙を上げていた。それぞれ色や形や強さはちがったが血煙を上げていた。自分も血煙を上げる人間になりたいと思った。

村上春樹? 血煙ではないがあたたかそうな暖炉の炎のようなものはある。たまに暖を取るのにはちょうどいいだろう。村上龍? 血煙も炎も出ていない。マッチの軸ほどもだ。あとはひと山いくらだろう。

「たばこを切らしちまった。建物を出て左の並びにタバー屋があるから買ってきてくれないか?」
「銘柄はなにがよろしいんでしょうか?」
「ピースのアロマ・ロワイアル」
「それはさすがに売っていないんじゃないでしょうか」
「そういうもんか。ではジタンとゴロワーズを1カートンずつ。ほれ、おカネ」
「いえ、それはわたしが。置き土産がわりです」
「すまんね」
「とんでもございません」

遠い異国から来た若者は風のように駆けだした。虹子を呼ぶ。

「はい?」
「いまキャッシュの手持ちは全部でいくらある?」
「ちょっと待ってくださいね」

虹子戻る。

「おねいちゃんたちからもかき集めてきてくれ」
「はいはーい」

全部で2万ユーロちょっと。

「いまユーロはいくらだ?」
「円でですか? それともドルで?」
「両方」

虹子ネットで調べる。

「吾輩の書斎に青いヒポポタマスの置物があるのは知ってるか?」
「はい。ガビーさんですね」
「やつをここへ。それとフランク・ミューラーも」
「あなたあれは ──」
「いいからここへ」

「若者!」
「はい!」
「荒野をめざせ」
「古い…」
「いいから最後まで黙って聴いてろ。必ず泣かしてやるから」
「泣きません! もう涙は枯れ果てました。泣きすぎて」
「重要なのはカタルシスだ」
「肝に銘じます」
「けっこうけっこう。では、つづける。どこまでいったっけ?」
「五木寛之のパクリのところまで」
「ああ、うん。青年が荒野をめざすところまでだな。よしよし。で、だ」
「はい」
「苦しみつつなおも働け。安住を求めるな。この世は巡礼である」
「はい」
「そして、漂っても沈むな。悠々として急げ。わかるな?」

若者をみる。案の定泣いていやがる。

「な? やっぱり泣かせただろう?」
「ずるいや!」
「ずるかろうがずるくなかろうが泣かせるのが吾輩の仕事だ」
「どんな仕事だよ」
「こんな仕事だ。泣かせ屋。ひとは吾輩のことを泣かせ屋一代と呼ぶ」
「またわけがわからなくなってきた…」
「けっこうけっこう」

発車時刻が迫っていた。遠い異国から来た若者も落ち着きがない。虹子が「あなた、これ」と言ってラデュレの袋をよこす。打ち合わせどおりだ。

「若者」
「はい」
「虹子ちゃん特製のお弁当とラデュレのマカロン・パリジャンだ。食べなさい」
「ありがとうございます!」
「それとこれを記念にあげよう」

フランク・ミュラーのカサブランカを渡す。

「先生! こんな高価なものをいただくわけには ──」
「吾輩はフランク・ミュラーは好みではないんでね。吾輩の愛する時計はパテック・フィリップとブレゲとバセロン・コンスタンタンのみっつのみ! ほかの有象無象は吾輩にとってはひと山いくらのケイチャン売りのゴミ時計とおなじだ」
「では遠慮なくいただきます!」
「うん。けっこうけっこう。腕時計なら置き場所には困るまい。いざというときに売れば旅費と当面のめし代くらいにはなるはずだ」
「なにからなにまで…」
「泣くなよ。笑とけ笑とけ。ここから先に流す涙はすべてガラス玉と認定する!」
「わかりました!」
「それとな。さっきのラデュレの袋の中にも置き場所に困らないちょいとしたものを入れておいた」
「なんですか! にやにやして! なにが入ってるんですか!」
「ソバージュ・ネコメガエルのエクリを旅のお供にと思ってね」
「ええええええええええ! カエルは苦手だって言ったじゃないっすか!」
「三島由紀夫は蟹が苦手で大きくなったんだ。苦手な蟹を克服せんとする過程で『金閣寺』も『仮面の告白』も、そして『豊饒の海』も生まれたのだ。カエルだって似たようなものだろう」
「蟹は食べますけどカエルは食べません!」
「食用蛙があるがね」
「あ。そうか」
「弁当を食うときにでもたしかめなさい。弁当は誰の眼もないところでこっそり食べるようにな。ちょっとヤバめのブツが入ってるんでな」
「もう! いいかげんにしてください!」
「うへへへへ」

発車を報せるベルがけたたましく鳴る。

「まあ、冗談はさておき、達者でな。漂えど沈まず、悠々として急ぎたまえ」
「はい! ありがとうございます! なんとお礼を ──」
「みなまで言うな。いや、なにも言わなくていい。マットンヤ・ユミーンの歌にもあるだろうが。ヴィトゲンシュタイン先生は語りつくせぬことについては沈黙せよと言っている」
「わかりました」
「いいか、若者。忘れるなよ。漂えど沈まず、悠々として急げだぞ。いいな?」
「はい!」
「スワヒリ語で言ってみろ」
「無理です」
「ではトレーン語とヴォラピュク語とエウスカレで」
「無理です」
「まったく無知者には困ったものだ。ラテン語で言ってみろ」
「えーと、えーと。思い出した! Fluctuat nec mergitur, Festina Lente! だ!」
「でかした! さあ、とっとと行きやがれ! さらば友よ。二度と来るな!」
「何度でも襲撃します。何度でも」

列車が動き出す。数十秒後、窓があき、遠い異国から来た若者が吾輩のくれてやったラデュレの袋をかざしてなにか叫んでいる。その眼からはじゃぶじゃぶと音を立てて涙がこぼれている。

さらば、友よ。荒野をめざし、いい旅を。再度言う。漂えど沈まず、悠々として急げ。そして、一日の花を摘め。なにがどうあれ、人生はバラ色だ。


パリ北駅発、現象。バラ色の人生。かくして、人生の日々はつづく。

La Vie en Rose - Edith Piaf
Sous le ciel de Paris - Edith Piaf

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(補遺)
パリの空の下のバラ色の人生 ── ラデュレのバールで「君の瞳に乾杯」したあとハシゴ酒する。
 
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ラデュレのバールで「君の瞳に乾杯」する。
遠い異国から客人が遥々やってきた。バツイチになったばかりだというその人物はインターネット黎明期に吾輩が出没していたあるチャット・ルームの常連で、当時は大学生だった。吾輩の幻惑衒学のエクリチュール・クワルテットによってコテンパンにされていたうちの一人である。

「酒は飲めるのかね?」
「はい」
「かなり飲めるのかね?」
「はい」
「ものすごく飲めるのかね?」
「はい」
「では、君の瞳に乾杯だ」

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安酒がやけにどてっ腹にしみる夜だった。
「だれにだって触れられたくない疵のひとつやふたつはある」と吾輩は言い、カルヴァドスの杯をあけた。そして、隣りにいる遠い異国から来た若者をみた。若者はうつむき、大粒の涙をぽたぽた床に落としている。

「なんの涙だね?」
「言いたくありません」
「言いたくなくても言うんだ」
「言わないとだめですか?」
「言わないとだめだ。それが掟である」
「なんの掟ですか!」
「吾輩と一緒にいるときの掟である」
「言います」
「いい子だ」
「うれし涙です」
「そうか。では、今夜は好きなだけ泣いてよろしい。いや、吾輩が泣かしてやる」

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本物の一流になることが一番大事なことなのだ。
「いいか? ここが肝心なところだからよく聴くんだぜ」と吾輩は言い、カルヴァドスをシルヴプレした。遠い異国から来た若者の眼にいつのまにか輝きが戻っている。

「今、すごく気分がいいだろう?」
「はい」
「なぜだと思う?」
「わかりません」
「考えろ」
「考えてもわかりません」
「わかるまで考えなさい」
「日が暮れてしまいます」
「もう夜だ」
「それじゃあ、夜が明けてしまいます」
「夜明けは遠い」
「うーん」
「もう逃げ場はない」
「もう死にたいです」
「仕方のない奴だ。では、教えてやろう」
「はい」
「本物の一流の場所で本物の一流と一緒にいるからだ」
「あ。なるほど」
本物の一流になれ。いいな? 吾輩は本物の一流と本物の一流になる可能性のある者と本物の一流になろうと努力する者としかつきあわない
「はい。でも、本物の一流になるためにはなにをすればいいんですか?」
「知りたいかね?」
「はい。もちろんです」
「どうしても知りたいかね?」
「どうしても知りたいです!」
「ロハで?」
「おカネは帰りの飛行機代しかありません」
「困ったな」
「わたしも困ってます」
「きみに困られては吾輩はもっと困る」

吾輩が言うと遠い異国から来た若者はくくくと笑った。

「本物の一流になるためにはだな ── いつも、常に、求めることだ」
「はあ? それだけですか?」
「無料の場合はこの程度である」
「飛行機代はあきらめます」
「ほんとか?」
「本当です!」
「本当の本当か?」
「本当の本当の本当です!」

遠い異国から来た若者の眼を覗きこむ。よし。腹をくくった眼だ。吾輩の眼に狂いはない。

「覚悟を決めたんだな?」
「決めました」
「どう決めたんだ?」
「飛行機代がないくらいで命を失うわけではありません」
「自分で答えをみつけたじゃないか」
「え?」
「つまりだな。いつ死んでもよし。臨終はこの瞬間、このたった今、現在のまっただ中にあるということだ」
「はあ…」
「つまりこういうことだ。アマゾンの奥地であろうとアフリカのサバンナのど真ん中であろうとマリアナ海溝の最深部であろうとアネイブル・コントロール中のV-22オスプレイの操縦席であろうとヨハネスブルグのポンテ・アパート42階の4242号室であろうとメイク・ラブの真最中であろうとめしもろくに喰えない貧乏どん底の困窮困憊の日々であろうと最愛の子、最愛のパートナー、最愛の親兄弟を失おうと、いつも、いかなるときにも、いかなる境遇にあろうとも、常に志をもって求めることだ」
「はあ…。でも、なにを求めたらいいんでしょうか?」
「ばかもの! それくらい自分でみつけやがれ!」

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世界の天井でハシゴ酒というのも乙なものだが、飲んだ酒は甲類である。
吾輩と遠い異国から来た若者は杯をかさね、ラデュレのバールのあと3軒ハシゴ酒した。

ベルモケで聴くジャッキー・テラソンの『Sous le ciel de Paris』は吾輩と遠い異国から来た若者の心にしみた。リヴェ・ドゥ・ラ・セーヌ・ア・パリを二人並んで歩き、ポン・デザールとポン・ヌフとポン・ロワイヤルを渡り、巨大な宝石、ポン・アレクサンドル・トワを1往復半して右岸に戻った。


アレクサンドル3世橋の女神たちにナンパされかかる。
4人の女神の前を通りすぎるたびに女神どもがウィンクしてきたが吾輩は華麗にスルーした。ピエール・グラネの女神だけが怒りの形相になり、闘いを挑んできたが、遠い異国から来た若者はその異変にまったく気づかない。暢気なものだ。ピエール・グラネの女神は吾輩がひと睨みするとすごすごと元の場所に戻っていった。


それにつけても、やはり人生はバラ色だ。
アレクサンドル3世橋を1往復半するあいだに吾輩は「本物の一流になれ」を3回言った。遠い異国から来た若者はそのたびに「はい」と言った。「3回目は自分に言ったのだ」と吾輩が言うと、遠い異国から来た若者がまた大声で泣いた。

「泣け泣け。もっと泣け。ここは世界の天井、パリだ。喜びも悲しみも一番最初に降りかかる」

それにしても、吾輩は本当によく人を泣かせる。天下御免の泣かせ屋一代。いまに始まったことではない。世界の天井でもなにひとつ変わらぬ。これもまた至誠一貫のひとつのかたちである。

遠い異国から遥々とやってきた若者よ。薄紅匂う荒野をこそ行け。なにはともあれ、人生はバラ色だ。

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La Vie En Rose - Edith Piaf
La Vie En Rose - Jacqueline François
La Vie En Rose - Sophie Milman
Sous le ciel de Paris - Edith Piaf
Sous le ciel de Paris - Yves Montand
Sous le ciel de Paris - Juliette Gréco
Sous le ciel de Paris - Larry Goldings & Harry Allen
 
 
by enzo_morinari | 2018-09-12 01:13 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback | Comments(0)
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