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アイルトン・セナ・ダ・シルバのこと/春のイモラに散った音速の貴公子

 
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クモモの樹探索から帰還し、おそい午睡をとった。そして、アイルトン・セナと春のやわらかな陽射しにあふれる隅田川沿いを散歩している夢をみた。

セナは愁いと甘さと哀しみとを含んだ微笑を浮かべ、陽の光を反射してきらきらと輝く隅田川の流れをみつめていた。セナが「境界のボート」に乗り込んだところで夢は終わった。すでに夕暮れどきをすぎ、街は闇に沈んでいた。目がさめると涙が一筋、頬をつたっていた。闇の中でセナのことを考えていたら、涙は次から次へと、いくらでもあふれてきた。
 
アイルトン・セナを初めて知ったのは1987年、鈴鹿の日本グランプリだった。セナはキャメル・イエローのロータスをドライビングしていた。彼が初めてワールド・チャンピオンになる前年のことだ。それは良くも悪くもセナ・プロスト時代の幕開けを告げる重要な年だった。

セナはどのドライバーよりも輝いていた。スリムな体から発する輝きが桁はずれてまぶしかった。端正で物憂げな面差しが輝きに深みをあたえているように感じられた。アラン・プロストもネルソン・ピケもナイジェル・マンセルもセナと比べてしまうとくすんでみえた。

「アイルトン・セナはいつかかならずワールド・チャンピオンになる」

私が言うと、同行のホンダ広報のSがうれしそうに何度もうなづいた。私の予言どおり、アイルトン・セナは翌年、F1最強のホンダ・エンジンRA168-E V6 Turboを搭載したMcLaren MP4/4というリーサル・ウェポンをえて、ワールド・チャンピオンとなった。私の6年に及ぶ「セナ時代」のはじまりだった。
 
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1991年、インテルラゴス・サーキットで行われたブラジル・グランプリでセナは初めて母国での優勝を遂げる。アイルトン・セナのブラジル・グランプリ優勝は「セナのやり残した大きな仕事のうちのひとつだ」という声があがるほど、セナにとってもブラジルの人々にとっても重要な意味を持っていた。これをやり遂げれば、セナに残されたのはファン・マヌエル・ファンジオの記録(F1ワールド・チャンピオン5度)を破ることだけだった。

レースを終え、メイン・スタンド前にマシンをとめて天を仰ぎ、神と対話するセナの陶酔しきった姿をみて、私は「セナはもうすぐ死ぬのだな」と不意に思った。死んだほうがセナにはよほど楽なんだとも。そのあとで、強い力で胸が押しつぶされ、胃が締めつけられるような感覚に襲われた。それは長い時間つづいた。

あるモーター・レーシング関係者は「モチベーション」という表現でセナの行く末を案じていた。私は燃えつきてしまった者の姿をセナにみた。

実際、母国グランプリの勝利以降、セナは抜け殻のようだった。セナが半透明に透けて、見えないはずの向こう側が見えてしまうことさえあった。愁いの影や哀しみの色は日ごと増していくように思われた。

私の「予感」は3年後に現実のものとなるのだが、もちろん、当時の私は「セナの死」を予感しながらも、決してそれはあってはならないことであるとも考えていた。だが、音速の貴公子、アイルトン・セナ・ダ・シルバは1994年5月1日、春のイモラ・サーキットに散った。
 
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予選走行の段階ですでに悲劇は序章を迎えていた。ルーベンス・バリチェロの身も凍るようなクラッシュ、ヘルメットから血潮を滴らせ、意志をうしなった肉の塊りがコクピットから露出したローランド・ラッツェンバーガーの壮絶凄惨な死。

「次はセナの番だ」

私は確信にちかい思いを抱いた。

運命のサンマリノ・グランプリ、運命の決勝。セナ通算65回目、生涯最後のポール・ポジション。スタート直前のセナは死人のように青ざめた表情でウィリアムズ・ルノーFW16のコクピットにおさまっていた。
  
レッド・シグナルからグリーン・シグナルへ。スタートと同時に、エンジン・ストールに見舞われたJJ・レートにペドロ・ラミーが追突。マシンから飛び散った破片で観客にも負傷者がでる。ペース・カーによる先導ののち、5周後にレースは再開した。

レース再開後の2周目。セナ、生涯最後のラップを車載カメラが克明に冷徹にとらえる。シューマッハのオンボード・カメラにセナのマシンが映る。運命のタンブレロ・コーナー。名にしおう高速コーナーである。

タンブレロ・コーナーの入口でセナのマシンは左リアのあたりから激しく火花を散らし、カメラの視野から流れるように消えてゆく。流星のように消えゆくアイルトン・セナ・ダ・シルバ。バック・ミラーに映るシューマッハの驚愕と恐怖に満ちた眼差し。

コンクリート・ウォールに向かって一直線に突き進むセナ。時速300km。息を飲む大クラッシュ。だれもがセナの死を思ったはずだ。

「セナがクラッシュ! アイルトン・セナがクラッシュ! イモラがアイルトン・セナにも牙をむいた!」

春のイモラ・サーキットに実況のフジテレビのアナウンサー三宅正治の絶叫が響きわたる。タンブレロ・コーナーを直進し、砂煙を上げてコンクリート・ウォールに激突するホワイト&ブルーのウイリアムズFW16をモニターが何度となく映しつづける。

引きちぎられたマシンの中で、ブラジル・カラーのヘルメットが激しく揺れる。「ROTHMANS」と記されたリア・ウィングはスローモーションのように宙空を舞い、セナの親友ゲルハルト・ベルガーのフェラーリ421T1の前に転がった。ベルガーは16周目、沈痛な面持ちでマシンを下りた ──。

セナは事故現場ですぐさま気管切開をほどこされ、ヘリで病院へ搬送されるが、破損したサスペンション・アームが頭蓋骨を砕き、激突の衝撃はセナからすべてを奪い去ろうとしていた。

1994年5月1日18時40分、心肺停止。享年34。その早すぎる死に世界中が涙した。事故原因は諸説入り乱れ、いまだ確定されぬままである。

セナのいないF1は気の抜けたビールのようだった。アイルトン・セナの死以降、私はF1をほとんどみなくなった。F1サイボーグといわれるミハエル・シューマッハがいくら「正確無比のドライビング」をみせつけて「記録」を塗りかえても、空飛ぶフィンランド人、ミカ・ハッキネンがワールド・チャンプに輝いても、悲劇の無冠の帝王、ジル・ビルヌーヴの忘れ形見、ジャック・ビルヌーヴが天才の片鱗をみせても、私のこころは動かされなかった。

ことF1に関して言えば、アイルトン・セナの死とともに、私のこころは石ころになってしまったのだ。もはや、マシンを大胆かつ繊細にスライドさせながらコーナーを攻めつづけるセナの姿を見ることはできない。わずか数センチの隙間をみつけだし、1秒間に6回、アクセル開度のON/OFFを繰りかえすといわれる「セナ足」でコーナーに飛びこんでいくセナの姿を見ることはできない。 
 
世界中のどこのサーキットにも、風をきり、風になって走りぬけていくセナの勇姿はないのだ。そのことを思い知ったとき、世界は完全に色あせた。

物事にはいつかかならず終りがくる。そう、かならず終りがやってくるのだ。だれもそのことから逃れることはできない。たとえ限界を超えるコーナリング・スピードを連発し、あまたのコース・レコードを打ちたてたアイルトン・セナ・ダ・シルバであってもだ。

「僕はレーシング・ドライバーだ。レーサーとして生まれたんだ。と同時に、それは自分が選んだ道なんだ。スピードへの興味はつきない。僕のライフ・スタイルだ。きっと生まれたときから急いでいるんだね」

生まれたときから急いでいる ── 生き急ぎ、死に急いだアイルトン・セナ・ダ・シルバ。

「僕にとっての1秒がセナにとっては10秒だったのだろうと思う。コースを走っている時、セナは僕とまったくちがう世界を見ていたのだと思う。彼はまちがいなく英雄だった。でも、やはり生きて素晴らしいレースをつづけてほしかった。こんなかたちでいなくなってはいけない人だった」

かつて、ロータス時代のセナのチーム・メイト中嶋悟が「そのときのこと」を振り返る。ふだんは寡黙で、めったに感情を表に出さない中嶋悟が顔面を紅潮させ、目を潤ませて語った。

アイルトン・セナは同時代に生まれ、同時代を生きることができた幸福を感じさせてくれる数少ない人物の一人であった。セナが世界のどこかにいて呼吸をし、ステアリングを握り、マシン・セッティングについて注文をつけ、いわれなき誹謗中傷非難に一喜一憂し、哀愁の微笑を浮かべていることを思うだけで、私は幸福な時間をすごすことができた。だが、そのセナはもはやいない。

アイルトン・セナの死によって、私の世界は、しけた、輝きのない、つまらぬものになってしまった。以来、今日までときめくことなどただの一度もない。そのようにして、四半世紀の歳月が流れた。そのあいだに、皇帝ミハイル・シューマッハが、おそらくは永遠に破られることのない「記録」を打ち立てて引退し、スキーで大事故に遭って死線をさまよい、ワンダーボーイ、マイク・タイソンはただの大うつけ者に成り下がり、スキーター・デイヴィスはアメリカ合衆国の田舎町でひっそりと息を引き取っていた。以後も、私にとっては「世界」はますますつまらなくなっていくだろう。それでいい。もう、「世界」になにも期待などしていない。記憶と思い出の中で静かに戯れ、遊ぶだけである。

いつか、春のイモラ・サーキットを訪ね、セナが流星になったタンブレロ・コーナーに花をたむけようと思う。そして、アイルトン・セナ・ダ・シルバのことを日が暮れるまで思おう。それまでは、ナイジェル・マンセルと死闘を演じた1992年のモナコ・グランプリを繰り返し繰り返しみることにしよう。

春のイモラで逢う日まで、アデュー、アイルトン。
 
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(o Fim)
 
by enzo_morinari | 2018-08-13 12:22 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(3)
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Commented by fideal at 2018-08-13 17:47
子供の頃に「赤いペガサス」をよく読んでいました。漫画の舞台となったF1サーカスは、当時富士スピードウェイに来ていて、熱い時代だったですね。高校の頃はカウルのついたプロトコルカー選手権なんかよく富士スピードウェイまで見にいって、とても楽しかった記憶があります。セナも居なくなり、なんだか今はしらけていますね。
Commented by fideal at 2018-08-13 18:00
プロトコルでなくて、プロトタイプカー選手権でした。(笑)あと、富士スピードウェイのバンクサーキット、あれもインパクトがありましたね。
Commented by enzo_morinari at 2018-08-14 18:25
日本で初めて開催されたF1GPに行ってるんですよ。1976年、高3の秋にチケットが当選して。

ロータスのJPSのマシンが圧倒的にカッコよかった。黒にゴールド。一時的にショッポからJohn Player Specialにかえたくらい。タバコは高くてまずかった。

土砂降りの雨で終盤雨は上がったけども寒かった。ジェームス・ハントは馬ずらでつまらないレース運び。マリオ・アンドレッティはレースもマシンも文句なし。フェラーリのクレイ・レガツォーニはかっこよかった。ニキ・ラウダのリタイアにはがっかり。アラン・プロストみたいなスタイルのドライバーだったな。安パイばっかり。セナの対極。

ドライバーの中にはレース中のアクシデントで死んじゃったのがずいぶんいる。かわいそうに。走る棺桶時代だからな。しょうがない。

あれからもう40年以上かあ。しみじみ。

*プロトコルじゃシオン議定書でジュー野郎どもがなにやらだから。
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