人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ニザン、バラ色の人生、うしろ姿のしぐれてゆくか

ニザン、バラ色の人生、うしろ姿のしぐれてゆくか_c0109850_14475570.jpg


2017年秋。ニザンはしたたかに酔っぱらい、足元もおぼつかない風情で麹町大通りのローソンの前にたたずんでいた。ニザンがついにやってきたのだ。

「酒ある?」

ニザンは酒臭い息で言った。「あるよ」と吾輩がぶっきら棒に答えるとニザンはこっぴどく叱られたミニチュア・セントバーナードの仔犬みたいな眼をした。

「御機嫌がお悪いんですか? 怒っていらっしゃるんですか?」
「馬鹿野郎! いきなり丁寧語になってんじゃねえよ! ニュートラルに戻せよ。おまえはニュートラルしか似合わないんだよ! さもないとオールナイトでエボナイト棒百叩きかましのあと、しょんぼりとアンモナイトに付け合わせちまうぞ!」

吾輩が怒鳴るとニザンの顔に100W電球のような明りがともり、ミニチュア・セントバーナードの仔犬の寝顔みたいに魅力的な笑顔をみせた。

我々の乗ったエレベーターは音もなく上昇をつづけ、最上階の42階に着くまでのあいだ、吾輩とニザンは息をひそめ、ときおり嘘くさい咳払いをほぼ同時にし、無言だった。吾輩とニザンが会うのは今日が初めてであり、会ってからまだ数分しか経っていないのだから無理もない。しかし、お互いの声だけはわかっていて、とはいえ、吾輩を吾輩としてニザンをニザンとして知ってから2週間ほどにすぎない。はやい話が我々は初対面でおまけに出会ってまだ間もない「友人」(吾輩とニザンの関係性に「友情」などという厄介な要素が介在しえているならばの話だが)の新米同士ということになる。出会いなどという鬱陶しい事態から遠ざかって何年にもなる吾輩がニザンと会うことにしたのはひとえにニザンの「声」に魅かれたからである。

エレベーターのドアがかすかなコンプレッサー音を発して開き、吾輩とニザンはなにかの儀式に向かうかのごとくにまっすぐ伸びた大理石の通路を進んだ。吾輩とニザンの足音はポリリズムのようにも、レゲエのようにも、またマーラの交響曲第5番第4楽章『アダージェット』のようにも聴こえ、響いた。いくつものセキュリティ・システムをクリアして吾輩の「隠れ家」にたどりつき、さらに指紋認証を経てすべてのロックが解除された。分厚い鋼鉄製の扉を押すと聞きなれた重量感のある音がした。ニザンがごくりと音をさせて唾を飲み込んだのがわかった。

「緊張するな。ここはおそらく、世界で2番目に安全で快適な場所だ」

吾輩が言うとニザンは静かにうなずいた。何台ものコンピュータや時々刻々リアルタイムで変動する株価、ニュース、監視映像などが映るマルチ・ディスプレイや新旧取り混ざった放送機材、10万枚にも及ぶCD、ビニルのLPレコード、16トラックのオープンリール・テープに占領された部屋に入り、吾輩とニザンはせわしなくたばこを吸い、ヘネシーのVSOPを3本と焼酎大五郎2.5ℓを1本あけ、エディット・ピアフの『La Vie en Rose』を繰り返し聴きながら、「最初で最後の別れを告げあう夜」を主たるテーマに西田幾多郎とThe Birthdayの『stupid』『鯱』とジャック・デリダとミシェル・フコとモーリス・ブランショと村上春樹と大江健三郎と坂口安吾と夏目漱石と杉山登志と秋山晶と松岡正剛と鎌田東二と戸田ツトムとゲーデルとエッシャーとバッハと後醍醐天皇とチバユウスケと全米自由人権協会とラーゲと怒りの葡萄と『アデン・アラビア』とJ.P. サルトルとティファニーとバカラのオールド・ファッションド・グラスとオールド・ファッション・ラブソングとケンブリッジ大学のコーヒーポットと第三象限と浮動小数点とその他(アウトサイダー、スカトロジー、レジデンシー、オロナミンC、神経内科、盛者必滅、脱構築、ポスト・モダーン、散逸構造、利己的遺伝子、フラクタル、アデニン、チミン、シトシン、グアニン、ガジン、乾燥重量1グラムのDNA、複雑系、六根清浄、The End of The World、What a Wonderful World)について、つまりはどうでもいいクソの役にも立たないことどもについて語り合い、怒鳴りあい、結局、答えはなにも出ず、夜はさらにふけていき、われわれの「最初で最後の別れを告げあう夜」は終りを告げた。

朝、ニザンを蹴り起こし、ベランダでコーヒーを飲んだ。コーヒーは見事なほどメルドーにクソまずく、いつもどおり、東京の空は糞だった。ニザンはZIPPOの蓋を「シャキーンッ!」といい音をさせて跳ね上げ、KOOL MILDに火をつけた。「スカしてんじゃねえよ」と吾輩が言うと、立てつづけに5回、「シャキーン!」をやった。「ばかやろう。虹子が起きてくるじゃねえかよ! あいかわらず素っ頓狂な野郎だな。おめえがそんなにシャキーン、シャキーンやるから、いやな借金のことを思いだしちまったじゃねえか! このスットコドッコイ!」

ニザンは満足げにたばこの煙りを吐き出し、さらにもう1回、「シャキーン!」をやった。

ニザン、バラ色の人生、うしろ姿のしぐれてゆくか_c0109850_04330528.jpg

「このZIPPOには10年分の思い出が詰まってるんだ。それは   

言いかけたニザンを制して吾輩は言った。

「わかってるよ。みなまで言うな」

吾輩とニザンは海賊の宝物箱の前に二人ならんで虹子が支度してくれた朝餉を食べた。ニザンがうまいうまいを連発するのがうるさくて縄文式土器で後頭部をぶっ叩いてやりたくなった。

ブロッコリの炒め物はうまかったな、ニザンよ。おまえの食事の作法は合格だ。酒の飲み方はまだまだ修行が足りぬ。「プライム紀尾井町店の大五郎」で脳みそを洗って出直してこい。

ポン茶を飲みながら「最初で最後の別れを告げあう朝」を主たるテーマに、また朝方までやったのと同じようなヨタ話を昼すぎまでし、「四谷の伯父さんのところへ行く」というおまえを引き止めもせず、手土産にテイク・イット・イージー天丼用の揚げ玉をふた袋とCrosby, Stills & NashのつまらないCD、ポンチョ・サンチェスのファンキーなCD、その他のCDを数枚と『草枕』『PRESS EYE』、森鳴燕蔵の著作(『アルマジロと宇宙と僕と』『世紀末ホテルの夜』『ギャツビーの女』『さようなら、ウィングチップ・シューズ』『ランボーは水色の自転車に乗って』『ゴクドーを待ちながら』『ヘミングウェイ・ゲーム』『ディートリッヒ・スピン』『わが心のベイサイド』『レジメンタル・タイの思い出』『水曜の午後の動物園』『東京の午睡』『おたずね者、清川ロイド・ジュニア』『アノニマス・ガーデン』)をスターバックスのしわくちゃの袋に入れてくれてやった。ありがとうございますを連発しやがったので、「礼は一度言えばよい。無駄なことはするな。ぶん殴るぞ」と吾輩が言うと、また「ありがとうございます!」と「!」付きで言いやがったので今度は本当にぶん殴りそうになった。

別れ際、去りがたい風情をかますニザンが目を真っ赤にして言った。

「かならず会いに行く。きっと行く。パリに」
「来なくてよろしい」
「来なくてよろしくてもきっと行きます」
「断然来なくてよろしいがチケットは吾輩が取って送ってやる。アゴアシ含めた滞在費のことも心配しなくてよろしい」
「ありがとうございます!」
「礼には及ばぬ。ファースト・クラスに乗ったことはあるのか?」
「まさか! あるわけないでしょ」
「往復ファーストにしてやろう。ただし、パリが気に入っても吾輩のところに居座るなよな」
「それについてはなんとも言えません」
「ふん。まあ、あれだ。いい仕事をしろ。いい仕事をして本物の一流になれ。わかったな?」
「はい!」
「吾輩は本物の一流としか付き合わない。おぼえておけ」
「肝に銘じます!」
「”!”をつけるなと何度も言ってるだろうが!」
「自分だってつけてんじゃん」

昼下がりの麹町大通りで二人して大笑いし、別れを惜しんだ。「じゃ、行く。次はパリで」とニザンは言い、吾輩にくるりと背を向けた。

ニザンよ。おまえを見送り、しばしその背中を見つめ、うしろ姿がしぐれてゆくまで見つめつづけ、ちょっとだけしょんぼりし、声をかけようかと思ったが我慢し、心の中で「さらば、友よ。元気で。ずっと元気で」とつぶやき、それからわが本拠地に帰還し、本棚の森鳴燕蔵の著作の前にそっと置かれた10年ZIPPOをみつけた。火をつけたがおまえの例の「シャキーン!」という音はだせず、たばこは苦く、煙りは目にしみた。目から少しだけしょっぱいものが出た。だがそれはたばこの煙りのせいだ。たぶん。

ニザンが帰還し、吾輩はいま物静かにどしゃ降りの雨にうたれながらエディット・ピアフの歌う『La Vie en Rose』を聴いている。「編集焼きめし婆めが」と吾輩は独りごちる。ついでに「ふん」と鼻を鳴らしてもみる。人生がバラ色だなどとは誰にも歌わせまい。言わせまい。「La Vie en Rose」を歌い、「バラ色の人生♪」と言えるのは吾輩だけだ。「La Vie en Rose」とそっと口に出してみた。「バラ色の人生♪」とも言ってみた。ほんの少しだけ人生が色づいたような気がした。未来とやらに冷徹につづく道が薄紅に匂うかとも思われた。だが、それも長くはつづかず、吾輩の目の前にはいつもどおりの東京の鈍色の空が広がっているだけだった。空はみるみる黒くなり、どしゃ降りの雨。激しい雨。吾輩はずぶ濡れになりながら、「La Vie en Rose、バラ色の人生」とつぶやきつづけていた。


by enzo_morinari | 2018-05-02 04:18 | 東京の午睡 | Trackback | Comments(0)
<< 夜ふけの車の中で静かな痛みをと... 笑えない話#001 (笑)のテ... >>