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埴生の宿の夜はふけて#2 二度と取りもどすことのできない夜の訪問者 ── タツゾー先生のこと

 
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タツゾー先生は中学のときの担任だ。音楽教師だった。クラーク・ケントに似た男前で、テニス部の顧問をしていた。東京オリンピックの開会式で合唱団の一員となるほどの美声の持主でもあった。とうに定年退職し、裁判所の調停委員をしながら、今は悠々自適の日々を生きている。ちょくちょく吾輩を音楽室に呼び出して本格式のサイフォンで淹れたコーヒーを飲みながらレコードを聴かせてくれた。勿論、音楽教師らしい解説付きで。

思い立って「過去の遺物」の整理をしているときにタツゾー先生の自宅の電話番号が出てきた。晩めしどきだった。早速電話した。素晴らしく声のきれいな奥様が出た。タツゾー先生の奥様は声楽家だ。なるほど。声の美しさは齢を重ねても変わらない。

名乗ると、「あら! 樽さん! 主人からいつも樽さんの話は聴かされてますよ」とタツゾー先生の奥様は言った。

「いい噂話だといいんですが」
「いいこともわるいこともですよ」

奥様はそう言ってから、からからと笑った。そして、タツゾー先生に電話をかわった。タツゾー先生は口をもぐもぐさせながら電話に出た。

「樽! 樽か!」

40年ぶりに聴くタツゾー先生の声だった。中学の卒業式の夜以来だ。タツゾー先生は声をつまらせた。「とっくに死んだと思ってた。あちこち手をつくして探したけど、おまえはみつからなかったよ。いい噂はひとつもなかったし」

「うん」
「すごく心配してた。おかげで白髪三千丈だ」
「うん。── ごめんなさい」
「今はどこにいるんだ?」
「冥王星の刑務所」
「ばかもん!」
「馬鹿は今に始まったことじゃない」

そこでタツゾー先生はやっと笑った。吾輩は住んでいる街の名を伝えた。

「隣町じゃないかよ!」
「そうだよ」
「驚いたな。おまえが日本にいるとは」
「地球にいるとはと言っていただきたいもんですな。── いろんなことがあったんだ」
「うんうん。おれもだよ。おれもいろんなことがあったよ」
「タツゾー先生といっしょに聴きたい曲があるんだ」と吾輩は涙をこらえて言った。
「そうかそうか。先生もだよ。先生もおまえと聴きたい音楽が山のようにある。話したいことも」

そこでタツゾー先生は再び言葉をつまらせた。吾輩は苦しいときつらいときかなしいとき、善きにつけ悪しきにつけ、長いあいだタツゾー先生と一緒に聴きたいと思いつづけてきた曲を言った。

「『旅愁』『埴生の宿』『仰げば尊し』『故郷』『冬の星座』『星の界』『Deep River』『讃美歌312番』── そして」
「うん」
「フランク・シナトラの『Strangers in the Night』」
「二人で最後に一緒に聴いた曲だな」
「そう。音楽室で」
「音楽室で。卒業式の夜の」
「うん。いい夜だった。40年経っても忘れない」
「先生もだよ。あんなに心にしみた夜はない」
「おれもです。二度と取りもどすことはできないけど」
「取りもどせるよ。── 今から来れないのか?」
「行くよ」
「待ってる。何時まででも。あの夜を取りもどそう」

そして、吾輩は夜の訪問者となった。月のきれいな深々とした夜だった。


Strangers in the Night - Frank Sinatra
 
by enzo_morinari | 2013-11-07 00:51 | 埴生の宿の夜はふけて | Trackback | Comments(0)
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