メルドー物件0010 霞が関の三下奴/木っ端役人の手になる霞が関文学『特定秘密保護法』
子曰く。民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず。泰伯/『論語』
亡霊が復活し、彷徨い、世界を覆いつくそうとしている。「特定秘密保護法」という名の治安維持法の亡霊が。E-M-M
子曰く。民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず。(子曰、民可使由之、不可使知之。)
「由る」は「頼る」の意。国家を治める際の為政者の基本理念/基本姿勢/心構えを説いた文言だ。現代文にすれば以下のごときものとなる。
孔子は言った。「人々を頼らせることは容易だろう。しかしながら、理解してもらうのはむずかしい。」
「民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず。」は長きにわたって権力者の都合のいいように曲解されてきた。すなわち、
孔子は言った。「愚かな民は(為政者に)頼らせるべきで、わざわざ知らせるべきではない。(いたずらに混乱を招くだけである。)」
このような解釈は、長いあいだ、為政者/権力者による秘密保持/秘密保護/情報統制の根拠とされてきた。その連続が政治の歴史であるとも言いうる。これは「べし」を恣意的に「命令」または「当然」の意味に解釈した結果だ。本来、「べし」は「可能」あるいは「推測」の意味である。
為政者/権力者たちは以後も情報統制しつづけ、国民を欺きつづけようとするだろう。「真の為政者/権力者=官僚」であることを巧妙狡猾に隠蔽したまま。
「特定秘密保護法」の原案は「知る権利」を明記することを見送った。このことはなにを意味するか?
言葉が変化していくのはどんな時代でも世の習いだ。しかし、誤った解釈が定着するのは変化ではない。愚劣愚鈍である。しかしながら、繰り返し誤った用法を聞かされつづけるとこちらの理解が変なのかと不安にすらなってくる。
過日のNHKの政治討論会。野党の政治家から、「与党のやりかたは、由らしむべし。知らしむべからず」であり、それが「政治不信のもとになっている」という発言があった。
野党議員の発言した「由らしむべし。知らしむべからず」は孔子の『論語』中にある泰伯の言葉である。野党の発言者はこの言葉を「為政者は国民に無批判に頼らせればいいのであって、本当のことは知らせてはいけない」というように解釈している。
つまりは「強きには文句を言わず、黙って従え」という意味に理解しており、そうした与党の政治姿勢が国民の政治不信の原因を作っていると言いたかったのだろう。こうした解釈は、上位下達がいかに人々を虐げるかという批判をあらわす言葉として使われている。
専制君主、暴君の言葉ならまだしも、孔子の言葉だとわかれば、少しは「ちょっと待てよ」とこの言葉の真意を考え直してみてもよさそうなものだが、どっこいそうはならない。思い込みがそうさせているのか、一人歩きを始めた「由らしむべし。知らしむべからず」の語は本来の意味を無視して突っ走っていく。
「由らしむべし。知らしむべからず」の語は確かに為政者が国家/国民を治めるときの心構えについて語ったものではあるが、国民に目隠しして、「黙って俺について来い」と命令しているのではない。
この語の意味は、「為政者は国民から信頼されて導いていかなければならない。しかし、国民に正しい教えを完全に理解させるのはとても難しい」というところにこそある。だからむしろ、「国民に頼られることは容易だが理解してもらうことはとても難しい」という意味だと解釈すべきだ。「文句を言わずに俺についてくればいいのだ」というような専制君主のごとき解釈をするのはあきらかな誤用である。
このごろは「政府は信用できないから情報を公開せよ」というのが当たり前の状況になっていて、孔子の時代に為政者が国民に真実を知らせるにはどうしたいいかと悩んだのとはまったくちがう時代になっている。
「由らしむべし。知らしむべからず」を多くの人が誤用するのはメディアの浅薄な解釈、安易な考え、そして無批判に権力は悪であり、権力に対抗することこそが正義だと思い込んで報道する思い上がりに起因している。それとも今の現実政治が誤用のベクトルとなり、絶対多数という隠れ蓑の陰で本当に国民から真実を隠そうとしているのか。そして、誤用が現実のものとなったか。
東京五輪開催決定以降、福島原発事故は問題が「汚染水」にのみ矮小化され、土壌汚染の状況、除染により発生した汚染物質の保管方法やメルトダウン/メルトスルー/メルトアウトした福島第1原発の1~4号機の事故収束に向けた作業の進捗状況等について、政府/東電からの情報発信はなく、大手メディアもまともに報じていない。
まことにげにも薄ら寒くなる「原発事故隠蔽大政翼賛体制」である。東電破綻処理、巧妙狡猾な総括原価方式と地域独占によって支えられた諸悪の根源である電気事業の改革など夢のまた夢だ。
「特定秘密保護法」が成立すれば、「テロの危険対策と防御」という「美名」によって原発に関するすべての情報が遮断され、福島原発に関する情報についてはなにも知らされないばかりか、これを探る動きさえも合法的に排除されることとなるのは今から目に見えている。
「霞が関文学」の最新作は木っ端役人/霞が関の三下奴が、戦後、支配の金科玉条のひとつであった「治安維持法」消滅を経て、スパイ防止法以来、何十年もかけて虎視眈々、待ちに待った機会を逃すこともなく「特定秘密保護法」として結実する。そのことの重大さ、深刻を知ってか知らずか、きょうも能天気な極楽とんぼどもはあれやらこれやらそれやらに御執心、御満悦という次第。恐れ入る。
霞が関の三下奴/木っ端役人の下衆外道どもの頭にあるのは「省益」と「官益」だけである。しかし、「特定秘密保護法」を可決成立させる政治屋どもはみずからの首を絞めることにつながっていることに気づかない。なぜ気づかないか? 馬鹿だからである。愚かだからである。脳みそのしわがないからである。勉強していないからである。ものを考えていないからである。
オガクズかオカラかが詰まったような脳みそでなにごとかを考えることなどできはしない。そして、木っ端役人/官僚の三下奴どもに寝首をかかれ、尻を叩かれかかれ、いいようにヤラレまくるのだ。
尻に浅いも深いもない。尻は尻だ。しかし、落とし噺やらお能やら歌舞伎やら狂言やらの「古典芸能」を三昧して御満悦に浸っているような腑抜けは狂言回しの猿以下、自分の撒いたタネの始末もつけられず、自分の小汚い尻も拭けぬ三下奴、瘋癲、ドサンピン(ど三一)である。虫酸が走り、反吐が出る。
通好み? あんたが通ならおれはワンだ。樽犬だ。樽犬タルティーヌ様だ。お天道様が陰るから樽犬様の前に立つな。目障りだ。
*「特定秘密保護法」が可決成立されるまで、知らしむべくひっそりこそこそとつづく。