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GRIP GLITZ モバードとハミルトンとトロピカル

 
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クルマ。時計。靴。スーツ。自由。友情。流儀。誇り。音楽。映画。読書。長い休暇。貧者の食卓。デイヴィッド・ホックニーのリトグラフ。ラブレスのカスタムメイド・ナイフ。McIntosh MC275。フロマージュ。フロマッジオ。良妻のスープ。アボカド。檸檬。ズッキーニ。万願寺唐辛子。酒。体脂肪率一桁。そして、カネ。── 女の出番は当分ない。E-M-M


昼下がり。街の中心部の裏通り。ヴィンテージのリスト・ウォッチ専門店。看板には「Festina Lente」とある。

「"悠々として急げ"だって? 洒落臭い。」

GRIP GLITZは低く唸る。

「寝言は寝て言え。」

苛立ちを吐き出す。眉間の皺が強く深くなる。GRIP GLITZの機嫌が最悪のレベルに入りつつあることを示す兆候だ。GRIP GLITZはさらに呟く。

「おれは悠々ともしないし、急ぎもしない。踏みつぶし、蹴散らし、姿を消す。それだけだ。」

GRIP GLITZは店の扉を右足で蹴り、傲然とした足取りで店に入ってゆく。

「モバードの腕時計をした男を捜しているんだが。」
「モバード? 色は? デザインは?」
「ブルー。明るいブルー。三日月形。」
「ああ。文字盤とベルトがブルーの。」
「そうだ。」
「もうこの街にはいませんぜ。」
「どこへ?」
「なんでも、”弛むことなき前進”とやらいう集まりに行くとかで。」
「弛むことなき前進 ── 。あの野郎。」
「旦那、なにか混みいった話ですかい?」
「混みいりすぎて、もう3人死んでる。」
「そいつは恐ろしいことだ。」
「ほかになにか知ってることはないか?」
「無料の場合はここまでですがね。」

時計屋はGRIP GLITZの腕をちらりとみやる。

「おや。旦那、いい時計をしてますな。HAMILTONのVENTURAとは。しかも、オリジナルだ。」

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「爺さんの形見だ。」
「そいつを欲しがっているコレクターがいるんですがね。」

GRIP GLITZの血相が変わった。表情がみるみる曇っていく。1秒刻みで険しさを増す。

「おい。おやじ。まだもう少しは長生きして、クソまずいおまんまをそのへらず口に詰めこみたいんだろう?」

声にそれまでとはちがう凄味が加わる。数知れぬ修羅場と地獄をくぐり抜け、血が迸り、肉が弾け飛び、絶叫と悲鳴が子守唄がわりの戦場を鼻歌まじりに悠然と横切ってきた者の凄味が。

「旦那、旦那。冗談ですよ、冗談。」
「はきちがえるなよ、時計屋。時計屋ふぜいがおれと駆け引きするのは百万年早いぜ。身のほどをわきまえるこった。おまえさんは時計のことだけ考えてりゃいいんだ。余計なことに首を突っこむな。時計に余計は禁物だ。でなけりゃ、正確に時を刻めない。時計屋が余計なことに首を突っこめば死刑がお待ちかねという寸法だ。まだ死のカウントを刻みたくはないだろう?」

時計屋の顔から血の気が引いてゆく。唇はわなわなと震えている。それまでとは打って変わって媚び諂うような表情になった。

「で、知ってることを全部話す気になったか? あん? どうなんだ?」
「もちろんですよ、旦那。知っているかぎりのことは全部話しますよ。」

時計屋は洗いざらい話した。話す必要のないことまで。ほっておけば母親の浮気の現場のことまで話しはじめそうな勢いだ。

「礼を言うぜ。これはほんの気持ちだ。」

GRIP GLITZは浅黒く引き締まった左腕からHAMILTONのVENTURAを外し、ショウケースの上に置いた。そして、最後通牒を言い渡した。

「おれのことをモバードの男のように話すんじゃないぜ。長生きしたきゃな。わかったな?」
「もちろんですよ、旦那。だれにも旦那のことは話しゃしませんよ。」
「おれに嘘と冗談は通用しねえからな。おぼえとけ。」
「肝に命じますよ、旦那。」
「わかりゃいいんだ。わかりゃあな。で、いま店で一番高い時計はどれだ?」
「へいへい。お待ちを。」

時計屋は奥の金庫を開け、パテック・フィリップのトロピカル・ゴブリンを恭しく取り出した。GRIP GLITZは眉ひとつ動かさずに受け取り、ケースの傷み具合、ダイアルと文字の劣化、運針音、ゼンマイの巻き上げ具合、竜頭の動きを確かめた。

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「中の機械はちゃんとしてるんだろうな?」
「バッチリですよ、旦那。文句のつけようがありません。」
「歯車や雁木車やバネやゼンマイがつぎはぎだらけってことはないな?」
「ワンオーナーもので、メンテナンスは2年に一度、パテックの本社で念入りにやってきたものですよ、旦那。正真正銘、オリジナルのまんまですぜ。これだけのトロピカルにはそうそうお目にかかれるもんじゃございませんですよ。」
「できれば前の持ち主の仕事が知りたいんだがな。」
「なんでもペリーが浦賀にやってきたころからの老舗の御主人だそうで。ちょっと待ってくださいよ。台帳に書いてあったと思いますので。」

時計屋は小刻みに指を震わせながら台帳のページをめくった。目指すページが見つかると知らぬ者のいない老舗の貿易会社の名を言った。GRIP GLITZはそれを聴くと、いかにも満足げにうなずいた。そして、再度、手にしている時計を確かめた。時計屋の言うとおり、コンディションは完璧だった。ダイアルのエナメルもいい状態だ。クラックなどこれっぽっちもないし、灼けてもいない。極上のトロピカルだ。

「いいだろう。こいつをもらおう。いくらだ?」

時計屋は大卒の初任給2年分近い金額を言った。恐る恐るだが。GRIP GLITZは「電話を借りるぜ」と言い、表通りの銀行の支店長に電話した。5分後、太った禿げ頭の男が大汗をかいてやってきた。GRIP GLITZがアゴでショウケースの上を指し示すと、デブハゲ男は札束をショウケースの上に積み上げた。GRIP GLITZはデブハゲが寄越した書類に無造作に書きこんだ。書類を受け取り、デブハゲは来たときよりもさらにあたふたしながら帰っていった。

「また来る。今度は気のいい時計マニアの客としてな。ついちゃあ、ヴァシュロン・コンスタンタンの1958年の手巻きを探しておいてくれ。ミント・コンディションのをな。ケースはトノーのピンク・ゴールド。ダイアルは黒でブレゲ数字。スモール・セコンド。カネに糸目はつけない。こいつは手付金がわりだ」

GRIP GLITZは言い、大層な厚みの札束を放り投げた。青ざめ、震えていた時計屋の顔に光が戻る。

「大急ぎでお探しいたしますよ、旦那!」

踵を返し、出口に向かうGRIP GLITZの背中に時計屋は何度も何度も頭を下げた。明るいブルーの三日月形のモバードがGRIP GLITZの若い愛人の腕に巻かれたのは3日後だ。
 
by enzo_morinari | 2013-07-22 08:07 | GRIP GLITZ | Trackback | Comments(0)
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