(『ニュルンベルクの歌合戦』の演奏中に居眠りしていた若いコンサート・マスターに対して)
とっとと帰りやがれ!ワグナーはガキの音楽じゃねえってんだ! オットー・クレンペラー
バーゼル帰りだというその男は左手首に巻かれたBREVAのGénie 01をこれ見よがしにバー・カウンターの上に突き出し、不自然きわまりなくしきりと動かしつづけた。「いけ好かない野郎だ」と思った。世界はすべて「シンプル・イズ・ベスト」で出来上がっているんだ。おまえのようなゴテゴテ野郎の居場所はない。
腹立たしかった。おまけに肝心の仕事の話はどう考えてもゴテゴテ野郎に分がある。ゴテゴテ野郎には黙っていても年に10万ユーロのゼニが転がりこむ勘定だ。
はらわたは煮えくりかえる寸前だった。そんなところへ今度はこの話を持ち込んできたチャラチャラ野郎が現れた。15分の遅刻だ。少し前なら、席を蹴り飛ばし、テーブルをひっくり返し、ついでにその場にいる奴らを一人残らず、誰彼かまわずに叩きのめして帰っているところだ。
チャラチャラ野郎はきょうもあいかわらず文句のつけようのない金ピカ、チャラチャラ野郎だった。ベルサーチ(いまどき? 冗談かなにかだよな?)のウィスタリア・パープルのダブル・ブレステッドのスーツ。靴はテストーニのピカピカ光るエナメル、時計は宝石がジャラジャラついたピンク・ゴールドのロレックス・デイデイト(これも冗談のつもりか? これから年間1億ユーロにもなるビジネスの話をしようってときに?)。おまけに髪の毛をエルモア・レナードさえ顔色を失いそうな金ピカに染め、ジェルを1本丸ごと塗りたくっているのではないかというほど大量に塗ってオールバックにしている。つけているフレグランスはディオールのプワゾン。しかもシャワーで浴びたのではないかというほどに。気が狂っているとしか思えない有様だ。野村沙知代が上品に思えてくる。
どうかしてる。世界は本当にどうかしている。ゴテゴテ男とチャラチャラ・プワゾン野郎はもちろん、店にいるお高く止まった腑抜けどももまとめてウージー・マシンガンで皆殺しにしてしまいたかった。それで世界はいくぶんかはすっきり、シンプルになる。
「はやいところ話を済ませてしまいましょう」
ゴテゴテ男が3秒に1度の割合で見ていた左腕の BREVA Génie 01 から眼を外しながら言った。
「そんなにお忙しいなら、この話、他へ持っていったらどうですかね? 急ぎ仕事、急ぎ働きは性に合わないもんでね」
悪意と敵意と蔑みを潜ませて言ってやる。ゴテゴテ男のこめかみに浮かぶ血管がぷくりと膨らんだ。
「まあまあ。あんたがいなけりゃ、この話は一歩も先へ進まないことはわかってるだろう。ひとが悪いぜ。あいかわらず」
ふん。そんなことは先刻承知の助だ。でなけりゃ、いきなり右フックを繰り出すもんかよ、愚か者めが。
「ここは気分なおしに一杯飲んで、なにか喰おうじゃないか。な? いいだろう?」
チャラチャラ・プワゾン野郎は場を取りなそうと躍起だ。だが、ここは連打しておくところだ。ゴテゴテ男が隙をみせるのを待つ局面だ。自ら墓穴を掘るのを。
「気分を害してしまったなら謝りますよ」
ゴテゴテ男が神妙な面持ちで頭を下げた。ゴテゴテ男の墓穴が見えた。大量失点を喰らわせ、大量得点するチャンスだ。
「害してしまったならだって? あんた、それはおれに喧嘩を売っていると受け取っていいのか?」
「とんでもない! とんでもありませんよ! あなたに喧嘩を売るなんて!」
「これだけはおぼえておけよ。誇りと流儀にかかわることはおれの前で一切口にするな。生きて帰りたきゃな。足元が明るいうちに帰りたきゃな。首が胴体に繋がっているうちに帰りたきゃな。わかったか?」
ゴテゴテ男もチャラチャラ・プワゾン野郎もうつむき、黙り込む。二人とも青ざめている。1回の表の先制攻撃は成功だ。だが、まだゲームは8回と半分残っている。9回裏が終わり、アンパイアの「ゲームセット!」の宣言がスタジアムに響きわたるまで気は抜けない。