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夜ふけの車の中で静かな痛みをともなって終りを告げる恋

 
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『Nuovo Cinema Paradiso』をみたのは泡の時代の真っただ中だった。世界で一番若かった。世界で一番傲り高ぶっていた。世界で一番愚かだった。本気で世界一の大金持ちになれると思いこんでいた。風向きが変わり、土砂降りの日々が数年後にやってくるとも知らずに。脇役であるとも知らずに。脇役ですらなかったとも気づかずに。

『Nuovo Cinema Paradiso』で忘れられないのは、映画監督として成功した初老のトト、サルヴァトーレがアルフレードじいさんがトトに形見として遺した映画フィルムの断片のコラージュをみるラストシーン、そして、不条理に別れ別れになったかつての恋人と痛みをともなった再会を果たし、夜ふけの車の中で「本当の別れ」を告げあうシーンである。かつての恋人、エレナとの車の中の「最後の夜」のシーンは泣けたな。涙はとどめようもなかった。「これがおとなの恋の終わり方なのだ」とも思った。エンニオ・モリコーネの音楽もスコブル付きでよかった。エンニオ・モリコーネは『Once Upon a Time in America』でも泣かせるいい音楽を聴かせていた。

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何十年ものあいだ別々の道を歩み、それぞれの生活、それぞれの暮らし、それぞれの人生をかかえたおとな同士の抜き差しならぬ恋くらいせつなく、痛みをともなうものはない。「明日」も「その先」もない恋。「快楽」のたぐいに身を窶す卑しい恋、倫ならぬ恋などとは意味がちがう。もちろん、「快楽」は重要なタームではある。好きな相手とともに「快楽」を共有したいというのは至極当然のことだ。しかし、そのためにあらゆる嘘、出鱈目、言い訳言い繕い言い逃れを並べたてた挙句に手に入れられるものなどなにもない。道端に吐き捨てられたチューインガムほどの価値さえない。あるのは虚しさだけだろう。残るのは傷痕くらいのものだ。そのせいで失い、傷つけるのは本当に大事なものということだ。その刹那、至上のものだと思った「快楽」は時が経てばつまらぬ石ころですらない。

頬ずりし、埋葬し、掘り返し、埋め戻す過去だって? A( )Cもたいがいにしておけ。ロマンチシズムの味つけで過去を飾りたてたいのだろうが、そんなものにはロマンの「ロ」の字もありはしない。そのような輩、不届き者にはマロン・グラッセもモンブランもマカロン・パリジャンも食す資格なしだ。「終わったことじゃなかったっけ?」だと? お生憎様、終わっているのはおまえさんの人生だ。一昨日おでまししやがれてんだ。糞ポンコツめ。

鏡で自分の顔をよくよく見てみるがいい。鏡の中には「卑欲」に蝕まれたあさましい畜生以下の顔が映っているはずだ。老いさらばえてから悔やんだところで、もはや取り返しはつかない。それが「時間」の残酷さである。「時間」が時間薬としての効果を発揮し、人生にひと筋の光が射すのは気高く生きた者、品性品格を失わなかった者に対してのみだ。卑しくあさましい者に本当の陽の光が射しこむことなどない。寡婦あるいは寡夫となってのち、ろくすっぽの操さえ立てられぬような輩もおなじである。近所の狒狒爺、狒狒婆と恥も知らぬげにいけしゃあしゃあ御懇ろとしけこむようなポンコツスカタンもだ。

サルヴァトーレとエレナはその後の人生でもおそらくは互いを胸の奥深くに思いながら、思いを秘めながら生きたにちがいない。もちろん、その「思い」はぬぐいようのない痛みをともなう。そして、それでいい。成熟は喪失と痛みの集積だから。クリティカル・ポイントのない恋などただの火遊びにすぎないということだ。火遊びが好きだというなら好きにするがいい。待ち受けているのは再生移植の効かない大やけどと火宅だ。

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 Nuovo Cinema Paradiso: Love Theme


by enzo_morinari | 2018-05-07 05:57 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback | Comments(0)
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