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ある賢者の死

 
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 恩師が逝った。K先生。64歳。肝臓がん。高校時代、K先生には倫理社会と日本史Bを教わった。当時、K先生は正教員ではなく非常勤講師だった。私が通っていた高校は教員も生徒も「偏差値」と「東大合格者数」しか頭にないつまらぬ輩ばかりだったが、K先生はちがった。志があった。「読むべき本」「観るべき映画」「聴くべき音楽」、そして「考えるべき事」のリストが新学期の最初の授業の冒頭に渡されるのみで、教科書の類いはいっさい使わず、黒板に板書もしなかった。毎回、あるテーマをめぐって、その意味、成り立ち、背景、問題点などについて自説を展開し、生徒とディベートすることがK先生の授業スタイルだった。教科書を持参しない私には都合がよかったばかりでなく、すこぶる楽しい時間であった。中間、期末の試験は白紙の藁半紙が配られ、自由課題で書きたいことを書くというものだった。返された答案用紙には赤ペンで寸鉄釘を刺す講評が書き込まれていた。K先生のそのようなやり方は姑息臆病小心な職業教員どもの格好の標的にされたが、K先生はまったく意に介さぬ様子だった。それもまた私にはたまらなく痛快だった。私のこましゃくれて悪意に満ちた質問の数々にK先生は丁寧に答えてくださった。
 高校2年の秋、文化祭のテーマをめぐる問題で学校側と対立したとき、私は悪童仲間とともに校舎の屋上に立て籠ることを企て、最初にK先生に相談した。K先生は苦笑しながらも嬉しそうだった。

 高校解体    ○○高を日本のカルチェ・ラタンに!

 それが私たちが掲げた文化祭のテーマだった。学園紛争が尻すぼみの格好で終熄し、浅間山荘事件も忘れ去られようとしていた時代。このようなテーマが学校側に認められようはずもないことはわかっていた。わかってはいたが、ふやけた空気、ぬるま湯のような雰囲気をぶち壊したいという思いが強かった。わずか数日でもいい、受験にかかわることのすべてを忘れて学校全体をなんでもありの解放区にしたかった。当然、目論見はことごとく粉砕され、裏切り者、脱落者、傍観者を生んだ。そして、幾人かの友人が去っていった。

やったことだけが残るんだ。恥じることはありません

 土曜の放課後の職員室。消沈する私と数人残った私の仲間にK先生は言った。そして、私たちを自宅へ招いてくださった。自由が丘の駅にほど近い住宅街の一角にK先生の御自宅はあった。広い敷地に建つ母家の外観は黒死館もかくやとでもいうべき古色蒼然としたものであって、外壁を越えて生い茂る庭の木々は鬱蒼としていた。K先生の部屋は「知の洞窟」といった様相を呈していて、「風に揺れる欅の梢を眺めるため」に残された50センチ四方ばかりの窓を除けば、壁はすべて天井に届くほどの書棚に占領されていた。カビ臭かったが、生き生きとしていた。熾き火の熱のようなものがK先生の部屋にはあった。酒を飲ませていただき、晩飯にもあやかった。そして、「人生いかに生きるべきか」に端を発したことどもについて明け方まで語り合い、大笑いし、胸震わせ、放歌高吟し、ついには全員で雑魚寝した。あやうくも懐かしい忘れがたき思い出である。以後、K先生の御自宅を訪ねるたび、私は断りもなく目についた書籍、ビニル・レコードの類いを持ち去り、K先生がそれを咎めることはなかった。私の手元にはいまも、返しそびれたまま光陰を経たK先生の本とLPレコードがある。

地に足をつけて、自分の言葉で語りなさい

 30数年におよぶかかわりの中で、それがK先生の私に対するただ一度きりの「お説教」だった。K先生からは数多くのことを学んだ。K先生はいつも私の少し前を歩いていてくださった。そして、ときどきこちらをふりかえり、控えめに手を差しのべ、歩むべき道筋に導こうとしてくださった。しかし、私はK先生の手を振り払う愚を犯しつづけた。あのとき差しのべられたK先生の手を握っていたらと思うこともなくはないが、それは一時の気の迷いと諦めるしかない。K先生はすでにして鬼籍に名を連ねてしまったのだ。もう言葉を交わすことも、酒を酌み交わすことも、「思い出話」に花を咲かせることもできない。世界のすべては刻々と二度と取り戻すことのできない遠い場所へ去ってゆくのだ。私にできることと言えばK先生とK先生にまつわる記憶の断片を語り継ぐくらいである。
 今夜はK先生の好きだったJ.コルトレーン、中でもとりわけて愛聴されていたアルバム『CRESCENT』を繰り返し聴こう。そして、2曲目の『WISE ONE』のときには声をあげて哭くこととしよう。WISE ONE    。賢明なる者の死にこそふさわしい。


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by enzo_morinari | 2012-10-18 02:25 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)
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