咲く花もあり。盛る花もあり。残る花もあり。散る花もあり。

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またぞろ、花にまつわることにもかかわらず、身も蓋も浮かぶ瀬も華もないお話にならぬ鼻白むポンコツボンクラヘッポコスカタン野暮天/谷保天満宮の境内で蹴鞠セパタクローの鞠にして蹴りとばし、踏みつぶしたくなるような輩の御登場/お成りお成りである。朝日ににほふ山桜花の心を1mmも持たない唐物の輩だ。

神奈川県花き・植木振興地域協議会所属の花栽培農家で生け花作家である者が「真夏に開催される2020年東京五輪・パラリンピックを桜で彩りたい」と研究に取りくんで早咲き品種のトウカイザクラを満開にさせる実験に成功したというのだ。花で大儲けしようという銭ゲバナ一味の悪だくみに余念のない寄り合い所帯のポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊どもが華のないことをやりやがったものだ。華がない鼻まがり猫またぎのコンコンチキチキ・マシーン大レースもいいところである。身も蓋も雄しべも雌しべもないとはこのことだ。河津桜の石碑の前で両手に水満杯のバケツを持って立ちんぼしてやうやう白くなりゆく山際が少し明かるくなって紫だちたる雲の細くたなびきたるまで碑文を100回でも200回でも読めてんだ。

真夏に桜が咲いたからなんだてんだ? 真夏に咲く桜? それってうめえのか? ちったあ腹がふくれるのか? 花より団子も棚から牡丹餅もクソ田舎のピンボケ女の御担当ときたもんだ。真夏に桜吹雪を見るたあ貧乏長屋の貧乏花見も花見酒とたくあんの飲みすぎ食いすぎの勢いで貧乏長屋の貧乏人総出で大山詣りに行って毛がなくて無病息災寿手練経、おにょにょご津波のおっきゃらまあの酢豆腐自慢は夢のまた夢芝浜の夢てえ寸法になっちまうてんだ。いってえぜんてえどういう料簡だ! 秘すれば花てえ言葉を知らねえか! 大方、穀つぶし亡国の輩/木っ端役人の肝いりで「補助金」「交付金」名目で血税をじゃぶじゃぶ投入してのことだろう。反吐が出る。

咲く花もあり。盛る花もあり。残る花もあり。散る花もあり。秘すれば花。やはり野に置け蓮華草。春の初めに芽吹き、春の盛りに満開となり、春の終わりとともに散る。それが風流、粋というものだ。『いきの構造』の無粋九鬼周造もスイスイスーダララッタスラスラスイスイと尻尾を巻いて退散しちまうような箸にも棒にもかからねえ風が吹けば消えてなくなっちまうようなアンポンタン/いざとなれば風を食らって逃げちまえばいいような瘋癲/野暮天ばかりが幅を利かす国であることだ。カラスミ・サンドをむさぼり食いながら、お花見ピンクちゃんと鯔背に乗って旅に出たいような紀文のはんぺん気分である。

珍野苦沙弥先生虎皮下。

(おじゃんは鳴らない。火焔太鼓のお成りお成り)
 
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# by enzo_morinari | 2018-08-18 17:26 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(2)

STREET4LIFE#7 Straight, No Chaser.

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細く暗く荒れたまっすぐな一本道。落雷。無音。追跡者はいない。


Straight, No Chaser. まっすぐな一本道を行く。追跡者なし。路肩のマイルストーンに腰かけて強い酒をストレートでひと息にあおる。水なし。道も酒も追跡者/チェイサーのないストレートにかぎる。

Straight, No Chaser - Miles Davis
 

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# by enzo_morinari | 2018-08-18 02:45 | STREET4LIFE | Trackback | Comments(0)

あしたはどっちだ?

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やられたらやりかえせ。やられっぱなしにするな。

サンドバッグはどいつだ? おまえを殺したのはだれだ?

Where's Tomorrow? あしたはどっちだ?
When's The Day? その日はいつだ?


あしたのジョー - 尾籐イサオ

あしたのジョー/作詞 寺山修司 作曲 八木正生

サンドバッグに浮かんで消える
憎いあんちくしょうの顔めがけ
たたけ! たたけ! たたけ!
俺らにゃ けものの血がさわぐ
だけど ルルルル ルルル ルールルル
あしたはきっとなにかある
あしたはどっちだ?

親のある奴はくにへ帰れ
俺とくる奴は狼だ
吠えろ! 吠えろ! 吠えろ!
俺らにゃ荒野がほしいんだ
だけど ルルルル ルルル ルールルル
あしたはきっとなにかある
あしたはどっちだ?

少年院の夕焼け空が
燃えているんだ ギラギラと
やるぞ! やるぞ! やるぞ!
俺らにゃ闘う意地がある
だけど ルルルル ルルル ルールルル
あしたはきっとなにかある
あしたはどっちだ?
 
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# by enzo_morinari | 2018-08-17 05:34 | あしたはどっちだ? | Trackback | Comments(0)

辺見 庸を前倒し野辺送りする/非在の葬列の向こう側で生前追悼(2018年8月18日午後4時4分44秒現在、生存未確認飛行物体相馬野馬追矢追純一済み)

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悲劇にあって人を救うのはうわべの優しさではない。悲劇の本質にみあう、深みを持つ言葉だけだ。それを今も探している。辺見 庸

明日は保証するものではない。追悼すべきものである。E-M-M


辺見 庸からは魂と眼差しの研ぎすまし方と事実/事態/事象/現象との向きあい方を学んだ。まだ学ばなければならないことは山ほどあるのに辺見 庸は逝ってしまった。

知るかぎりにおいて、この国で唯一、大震災と真正面から向きあった辺見 庸。眼の海の死者たちにふさわしい言葉をじゅうぶんにあてがい、それでもなお言葉を探しつづけた辺見 庸。辺見 庸は眼の海の海底/黄泉の水底/地獄の奈落でも言葉を探しつづけるんだろう。

開高健先生も大森荘蔵先生も中上健次大兄も共同幻想本舗の吉本隆明もすでに身罷った。この先、だれからなにから学べばいいのか。途方に暮れている。生まれて初めて途方に暮れている。ひと気も街あかりもない秋の終わりの冷たい雨が降りしきる夕暮れの停留所で傘も長靴も雨具もなしにいったいいつ来るかもわからないバスを待っている小学校1年生のような気分だ。つまり、さびしい。つまり、心細い。しょうがないから、鱈と豆腐と白菜と長葱の烏合ウゴウゴルーガ烏滸蝦蟇地獄鍋でも食おう。

酒も飲む。秋ではないから静かには飲まない。飲めない。酒グレたあとは街場に出てひと暴れふた暴れする。肉体言語闘争/ストリート・ファイトのスキルが錆びついていないかの検証だ。還暦の前祝いにはお似合いだろう。辺見 庸を前倒し野辺送りし、非在の葬列の向こう側で生前追悼したんだから整合性もある。問題は本気/殺す気/手加減なし容赦なしでやるか準備運動/肩ならし程度にするかである。暴力反対反対論者としての態度はすでにして決まっている。

21日+1日検事パイもションベン刑もつまらないから10年満期で出所70歳を当てこんだ殺害態様にするか。いい仕事/本筋仕事の前にはG. マーラのシンフォニー第5番第4楽章アダージェットとS. ラフマニノフの交響曲第2番第3楽章アダージョを繰り返し聴く。それですべてがくっきりとする。粒立ちと解像度とダイナミック・レンジが上がる。

さて、サンドバッグはどいつだ? あしたはどっちだ?

大木伸夫の『涙の酒』はいい歌だ。


死者にことばをあてがえ 辺見 庸
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
百年かけて
海とその影から掬(すく)え

砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ

浜菊はまだ咲くな
畔唐菜(アゼトウナ)はまだ悼むな
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけのふさわしいことばが
あてがわれるまで


*辺見 庸『眼の海』より

Gustav Mahler - Adagietto (Sehr langsam) from Symphony No. 5 in C Sharp Minor - Mov. 4 - Herbert Von Karajan; Berliner Philharmoniker
 
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# by enzo_morinari | 2018-08-16 08:00 | He Died As He Lived | Trackback | Comments(0)

斃れる兵士、フェデリコ・ボレル・ガルシアの夢

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戦争は政治以外の手段によって行われる政治の延長である。C.V.C.


今般、2011年の春の初めに開戦したある戦争が終戦を迎えた。この戦いのあいだに斃れた多くの無名戦士たちに手向ける花を私は持たない。追悼の言葉さえない。ただ彼らの安らかなる眠りを祈るばかりである。

この戦いに勝者はいない。同様に敗者もいない。あるのは語りつくせぬことについて語ろうとしたことへの悔恨のみである。語りつくした果てにはなにものもないことを承知したうえであったとしてもだ。我々は和睦のためにではなく、ましてや戦いの果ての慈しみあいのためになどではなく、ただ戦うために戦ったのだ。

1枚のモノクロ写真に目を凝らす。長いあいだ繰り返し繰り返し凝視しつづけてきた写真。戦場カメラマンのロバート・キャパの手になる『斃れる兵士』だ。『D-Day』と並んでロバート・キャパの名を世界に知らしめた1枚である。斃れる兵士の声を聴きとろうと耳をそばだてつづけてきたが、いまだ彼の声を聴き取れずにいる。もどかしい。

斃れる兵士の土手っ腹ど真ん中を視えない自由を撃ち抜くための視えない銃で撃ち抜きたい衝動が身をつらぬくけれども、どう足掻いても引金を引きしぼるための魂の膂力が指先に宿らない。意志の中心にあるはずのメタルが錆つきでもしたか。情けないことだ。

1936年9月5日、スペイン内戦の最中。コルドバ戦線セロ・ムリアーノ近郊の戦いでロバート・キャパは一人の人民軍兵士にカメラを向けた。キャパがシャッターを切った瞬間、兵士は頭部に被弾し、崩れ落ちた。彼の名はフェデリコ・ボレル・ガルシア。24歳の若者である。

『斃れる兵士』はいつしか一人歩きをはじめ、戦争の悲惨さを語るときのステレオタイプのひとつとなった。しかし、『斃れる兵士』の本質はこの戦闘の際の他の写真と組みにしてこそ見えてくる。つらく苦しいが必要な作業だ。

一連の組写真の中で、西陽を浴びて敵弾に斃れた兵士は果敢に敵を攻撃している。彼の行為はまぎれもれもなく敵側の「斃れる兵士」を生む。

襲いかかる敵弾の雨の中、勇猛果敢に戦い、銃弾を放つ兵士と斃れる兵士。2枚の写真の対比は悲劇の主人公の行為の告発ではなく、兵士の本質の再確認である。

人は言う。いわく、彼はファシストから国を守ろうとした愛国者であると。いわく、侵略には断固として戦うべきだと。しかし、真に告発されるべきは権力者と、時代に迎合し熱狂し翻弄された一般大衆である。その意味において、斃れる兵士の狙う銃口の先にいるのもまた一人の兵士にすぎないことに気づく。

自由を守ったと喧伝される連合軍兵士の銃弾に斃れたガダルカナルやインパールの日本軍兵士も、ノルマンディーの戦いで死んでいったドイツ軍兵士も斃れる兵士とおなじである。斃れる兵士が伝える真のメッセージとは彼一人の英雄の悲劇ではなく、彼のように何千万もの人々が兵士として殺し合い、そして斃れたことに思いいたれということにつきる。
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祖国に捧げた彼の命は尊い。彼のように戦い、彼の斃れるように斃れていった兵士が、誰にかえりみられることもなく無数にいることの重さに思いを馳せなければならない。兵士として戦い、兵士として斃れる大きな悲しみに気づかなければならない。そのとき『斃れる兵士』は何千万倍もの命の重さを持つ。

戦争という冷徹冷厳リアルなテーゼに対し、人間はあらゆるアプローチで理解しようとし、様々なモチーフとして展開してきた。それはときに文学のかたちをとり、社会科学のかたちをとり、美術や音楽のかたちをとった。向かい合う者に深い沈黙をもたらしつづけるものもあれば、陳腐なステレオタイプに堕し、形骸化しているものもある。

命のかけらさえ差しださずに口先小手先で「平和」のお題目を百万遍唱えたところでコストも時間も人手も手間もかかりはしない。兵士の手元にフィールド・レーションDも飲料水も包帯も消毒液も届かない。

実現の道筋なき空虚な平和の絵空事をしたり顔鼻高々に語る者たち。家では家族の笑顔とあたたかい食事とやわらかなベッドが彼らを待っている。

20世紀の二度にわたる世界大戦や数々の紛争を経て、戦争そのものの様相が複雑化し、戦争の語られ方や認識は多様化した。そして、戦争という一種犯しがたいニュアンスを論理の後ろ盾としたあらゆるオピニオンが出現した。戦争はいまや語られるべき主体から、あらゆる主張に対して潤沢に論拠を提供する都合のいい素材へと変貌していった。

その一方で、そういった流れの中で次第に語られなくなった側面がある。それはほかならぬ戦場そのものだ。戦場においては、人は兵士としてあらゆる手段で殺戮する。戦場にあるのはリアルきわまりもない生と死である。

生き残るために殺し、生き残ろうとしても死ぬ。声高に反戦、あるいは戦争礼賛を唱えるのではなく、よりストレートなかたちで戦いの最も先鋭的な部分、すなわち人々が最も直接的にこだわった部分を伝えること。理論家、活動家、学者のもてあそぶ冷徹な素材ではなく、生身の兵士が命を賭け、苦悩と矛盾と信念とを胸に秘めて戦った戦場の点景を視えない銃で撃ち抜くこと。

百万の兵士が斃れても「西部戦線異常なし」と打電する世界の狂気と向かい合うこと。一人を救い、世界を救っても、なおすくいきれぬものがあることに思いをいたすこと。真の戦場は個々の胸の内にこそある。

いま、私が従軍する「言葉の戦場」には寒々しい風が飄々と吹くばかりだが、私はまた別の「言葉の戦場」へと出兵しなければならない。いくぶんかのかなしみがなくもないが、いずれ足取りは冷徹なクラウゼヴィッツ・ダンスへとかわるだろう。

過ぎた戦いの痛みは時の経過とともに忘却の彼方へと流れ去り、日常の一部となる。フェデリコ・ボレル・ガルシアの夢は一瞬、一度かぎりだ。
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# by enzo_morinari | 2018-08-15 20:49 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

STREET4LIFE#6 God Speed You, God Speaks to Me.

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ヴェロシティの市庁舎の尖塔の頂点にはスピード神の像があり、のろまがいないかつねに眼を光らせている。


自転車に愛を求めることはできない。なぜなら、自転車はより速くより遠く走るための道具だからである。

道具を使いこなすためには道具の構造、仕組み、原理、特性、物性をすべてグリップしていなければならない。そうでなければ道具のパフォーマンスを限界まで引きだすことはできない。

どこをどうすればどうなるか? 限界点はどこにあるのか?

自転車はどれだけ速く走れるか、どれだけ遠くまで走れるか。この2点にこそその眼目がある。より速くより遠く。そのためには筋力と心肺機能を高めることが求められる。

God Speed You, God Speaks to Me. 死にゆく者たちに黒い皇帝の祝福を。神はかく語りき。


God Speed You - Black Emperor(1976)
Word of God Speak - Mercy Me
 
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# by enzo_morinari | 2018-08-15 17:44 | STREET4LIFE | Trackback | Comments(0)

軽々しくJAL123便墜落事故について語るな。語りつくせぬことについては沈黙せよ。軽々しく死について語る者は死からもっとも遠い者である。

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悲劇にあって人を救うのはうわべの優しさではない。悲劇の本質にみあう、深みを持つ言葉だけだ。Hen Me-Yoh


経験の「け」の字も知らぬそのポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊は飽きることなく大雑把で空疎空虚な抽象/絵空事で語り、きれいごといい人ぶり善人ぶりを撒きちらし、つねに悲劇に眼差しを注いでいるポーズをとり、つねに悲劇と向きあう者を偽装する。まことに鼻持ちならない輩である。嘘くさい。いや、嘘そのものだ。

悲しいを100万回ならべても悲しみはわからない。楽しいを100万回ならべても楽しくない。苦しいを100万回ならべても苦しみは伝わらない。そのポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊の言説はこのたぐいのものである。死んだ言葉の羅列。不誠実の極み。つまり、まやかし/A( )C/中身空っぽ。

そのポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊は案の定、JAL123便墜落事故について地に足の着かぬうわべだけの美辞麗句の大安売り大売り出し叩き売り、魂の抜けた低次低劣低俗な言説、なんらの生活実感もない自立の思想的拠点なき安っぽい能書き御託、リアリティ、誠実/切実のかけらもない寝言たわ言を垂れ流した。そのポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊は御巣鷹の尾根の五百二十の御霊、御柱を鎮魂慰霊する碑にただの一度も参することすらせずに訳知り顔したり顔でなにを語ろうというのか? 520の死体の総重量がどれほどになるか考えたことすらなかろう。

夏の盛りの容赦のない炎熱にさらされて、すさまじい腐臭を放つ木っ端みじんになった520人分の死体、総重量30tを超えるリアルな死の重さの前で目を背けず息を止めずにぬかずきつづけることができるか否か。その圧倒的な死の重さに耐えきれずに何人もの医師や自衛隊員や消防士や消防団員や警察官や役所の担当者やマスコミ関係者がみずから命を絶った。この事態をそのポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊はなんと受けとめるか。阿鼻叫喚の機内で断腸のおもいで刻みつけるように記して妻に子にあてた痛切の最期の言葉/絶筆のふるえる文字を正視できるか。やはり、悲しいひどい苦しいという抽象/絵空事で片づけるのか?

散華した五百二十柱と遺された者の痛み苦しみ痛切痛恨苦悩困苦困憊をグリップできる者などいない。近親者、家族さえグリップすることが困難至難であるのに、そのポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊は散華した五百二十柱とその遺族の痛み苦しみ痛切痛恨苦悩苦悶困苦困憊をひとくくり十把ひとからげにして軽々と語る。悲劇痛み苦しみ痛切痛恨苦悩苦悶困苦困憊をあたかもイベントのたぐいででもあるかのようにとらえるおぞましいほどの軽佻浮薄さ。

広島/長崎に原子爆弾が投下された日にはその殺戮の悲劇悲惨を上っ面皮相表層浅はかに語った。具体的な放射性物質の名も放射性同位体も内部被曝/外部被曝の別も生体濃縮も各放射線障害も知らずにそのポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊は核兵器についてなにを語ろうというのか? 大震災、原発事故についてもおなじだった。いわく絆、いわく希望、いわく友愛、いわくがんばろう東北、いわくがんばろう福島というふうに。

3.11/3.14の出来事を大雑把で空疎な抽象/絵空事で語る者は直後からいて、そのような輩どもは絆/復興/希望/友愛/がんばろう東日本/がんばろう福島などという耳心地だけはいい言葉をどこか得意げに、そしていかにも満足げに垂れ流していた。

そのような輩どものリアリティのない一群の言葉はこの国の現在の心性をも象徴していたのであって、それらの使い古され、手あかにまみれ、虚しく空転する言葉はほどなく力を失った。当然のことだ。死者たちも、これから絶望と苦悩のうちに死にゆく者たちも、おまえたちにはなにひとつ期待などしない。いつか、おまえたちに身も凍るような惨事が降りかかることを祈っているのみだ。のたうちまわり、もがき苦しみ、むごたらしい死が訪れることを。

そのポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊は8月15日には「戦争の悲劇」について待ってましたとばかりに軽佻浮薄に語るだろう。銃弾も飛んでこず、炸裂した迫撃砲の肉を切り裂き、骨を木っ端みじんにする破片も飛んでこず、ナパームの雨も降らず、下肢を吹き飛ばす地雷もなく、Killing Fieldsの対極にある平穏安穏としたSweet Homeで。坂口安吾は8月15日の突きぬけた青空を見上げて、人間は変わりはしない。ただ人間に戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。生きよ。堕ちよと言いきった。

73年の歳月を経て、1941年12月8日から1945年8月15日に起こったことをリアルに語れる者は鬼籍に入り、資料は散逸隠蔽されて、1941年12月8日から1945年8月15日に起こったことどもに向きあうことすら困難になりつつある。

そのポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊はバターン死の行軍もサンダカン死の行進もサンダカンの娼婦の館にまつわる痛恨痛切苦悩苦悶困苦困憊も決して語られることのない沖縄戦の実態もひめゆりの塔のいまだに癒されぬ乙女たちの叫びの隠された真実も知らぬだろう。そのポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊の百万言よりロバート・キャパの『斃れる兵士』の1枚の写真のほうがすぐれて悲劇の一端を撃ちぬく。この際、『斃れる兵士』がロバート・キャパによるものか否か斃れる兵士/フェデリコ・ボレル・ガルシアが実際に被弾したか否かは問題ではない。

1985年夏。JAL123便は群馬県御巣鷹山に散華した。1985年8月12日18時12分に羽田を離陸した123便は離陸から12分後の18時24分、圧力隔壁の爆発により垂直尾翼の大半を失い、ハイドロプレッシャー・システムの4系統すべてに致命的な損傷が及んだ。警告音ががなり立て、すさまじいダッチロールに見舞われつづける修羅場で、文字通り、全身全霊を注いで機体をコントロールしようと試みる機長は、絶望の淵に立ちつくしながら管制室に向かって叫んだ。

操縦不能!

操縦不能(Uncontrollable)という最悪の表現がなされたのは、木星号墜落事故以来、2度目のことだった。航空機の運航に際して、操縦不能というのは、即、死を意味するから、123便の機長が管制官にこの言葉を伝えたのは最悪の状況であったことのまぎれもない証である。事実、JAL123便の墜落事故は世界の航空機事故史上、最悪の結果となってしまった。機長は下顎部の一部がみつかっただけだ。歯の治療痕からかろうじて判明した壮絶な生の痕跡。

圧力隔壁の爆発から墜落までの機長、副操縦士、機関士の生々しいやりとりを克明に記録した「ボイス・レコーダ」が15年を経て2000年に陽の目を見た際、私はその最後のやりとりを録画して繰り返し聴いた。震えた。涙が止まらなかった。そして、人間は捨てたものではないという思いを強くした。

123便のコクピットで行われた30数分間の痛切痛恨のリアルなドラマは、ギリシャ悲劇をしのぎ、アポロ13号のアクシデントにおける飛行士たちとNASAの地上スタッフによる壮絶な「生還への死闘」とともに人類史に永遠に記憶されるべきである。それは「人間はどこまで絶望と闘いうるか」という問いにはからずも答えた希有な記録だから。

*私は離婚協議に入っていた当時の妻の強い勧めで123便から次の次の便に変更し、生きながらえている。まことに不思議だ。


死にまつわるくさぐさのことどもを「悲劇」などという言葉で回収しようとするな。死はつねに個々の死である。
なりかわりようのない他者の不幸、不遇、悲運について軽々しく語るな。語りつくせぬことについては沈黙せよ。
浜菊はまだ咲かない。畔唐菜はまだ悼まれていない。死について軽々しく語る者は死からもっとも遠い者である。


あまたの「滅び」を生き残った者もいつか必ず朽ち果てる。だからこそできることはただひとつだ。死者に言葉をあてがい、朽ち果てるそのときまで絶えることなく刻め。


死者にことばをあてがえ 辺見 庸

わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
百年かけて
海とその影から掬(すく)え

砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ

浜菊はまだ咲くな
畔唐菜(アゼトウナ)はまだ悼むな
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけのふさわしいことばが
あてがわれるまで


*辺見 庸『眼の海』より
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# by enzo_morinari | 2018-08-14 22:22 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

STREET4LIFE#5 Ghetto Gospel

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世界平和の前にストリートの殺しあいを終わらせるべきなんだ。それが俺のGhetto Gospel. Tupac Amaru Shakur, Eminem, Elton John and Bernie Taupin


ジノが3歳のときに両親は死んだ。首吊り自殺。秋の夕暮れ、ジノが家のドアをあけると父親と母親はなげしに結んだロープからぶら下がって揺れていた。以後は祖母に育てられた。祖母の死後、ジノは孤児院に収容された。

孤児院はゲットーのようなところだった。見捨てられた者たちと愛を知らぬ者たちの吹きだまり。つまり、ゴミ捨て場。ネグレクト? そんな甘っちょろいもんじゃないとジノは思う。

7歳から15歳までのゲットーの日々。今でも夢にみるいやな日々。空腹と嫉妬と暴力と虐待と略奪と絶望と憤怒と憎悪の日々。

ジノの父親はS級の競輪選手だったが八百長スキャンダルに巻きこまれて競輪界から永久追放された。借金苦がジノの両親の自殺の理由であるとされたが、本当の理由は別のところにある。それだけではない。自殺ですらない。ジノはだれが父親と母親を殺したのかわかっている。名前も顔も仕事場も住んでいる場所も。いつでも殺しにいける。

父親と母親を殺したのは肉の中にガラスのかけらやカミソリを忍ばせて仔犬の鼻先に置くようなやつらだ。両親殺害の首謀者、黒幕は自転車振興会副会長。実行犯は陸上自衛隊第1空挺団に所属していた元自衛官。殺人マシーンだ。父親と母親の死にかかわった者は一人残らず完全殲滅するとジノは決めている。完全殲滅。つまり、皆殺し。殺しの技術も殺しの作法もすでにすべて身につけている。彼らの残り時間は少ない。ジノはすでにクロノスの大鎌を手に入れて、毎晩研いでいる。ジノは深い沈黙に入った。殺戮者は沈黙する。語りつくせぬことについては沈黙しなければならない。

Ghetto Gospel. God Spell. 福音? 啓示? 神の言葉? そんなものはこの世界にはない。あるのは空腹と嫉妬と暴力と虐待と略奪と絶望と憤怒と憎悪と殺戮だ。世界の平和だって? 笑わせるな。世界の平和なんておめでたいお題目は頭の中におが屑かオカラがつまった経験の「け」の字も知らない甘っちょろい愚か者の寝言たわ言だ。この世界を覆っているのはKilling Fields/殺戮の大地である。


Ghetto Gospel - 2PAC, Eminem and Elton John
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# by enzo_morinari | 2018-08-14 10:46 | STREET4LIFE | Trackback | Comments(0)

STREET4LIFE#4 Riding in my own sweet way.

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自転車乗りには哲学的な自転車乗りとそうでない自転車乗りがいる。E-M-M

水曜日の朝のトレーニング。ジノはバイクをピストからロードレーサーに乗り換える。ジノのトレーニング用のバイクはピュア・ポリッシュブラックのピナレロのカーボンフレームにカンパニョーロのスーパー・レコードをアッセンブルしてある。ハンドル、クランク、シートポストにいたるまでパーツはカーボンファイバーとチタンのものに換装している。総重量5.7kg. ツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアやブエルタ・ア・エスパーニャに出場するプロの自転車乗りが乗るクラスのハイ・パフォーマンス・バイクだ。

行きつく場所、たどりつく果て。
語りうることと語りえぬこと。
漕ぐ果てにあるもの、あるいはないもの。
語る果てにあるもの、あるいはないもの。

ジノは九段坂をアウター・ギアのまま登りながら心の中でそっとつぶやく。右手の靖国神社をすぎてすぐのT字路を左折し、内堀通りを目指す。まだ街は夜明け前の静寂のうちに沈んでいる。ジノの水曜日の朝のトレーニングは内堀通りを反時計まわりに30周回することである。距離にして約150km。トレーニングの実施は季節、天候、体調、その余の事情にはいっさい影響されない。毎週水曜日の早朝、5年間かわらずに続けている。

27周回目。半蔵門をすぎ、ギアを2段上げて国立演芸場、最高裁判所を横目に加速し、三宅坂をやりすごす。いま、この瞬間、両の手指、上腕、背筋、臀筋、大腿四頭筋、膝関節、下腿三頭筋、足首、そして足底筋にかかる負荷こそがまごうことなき「生」の証しだ。

サイクル・コンピュータをみる。80km/hオーバー。ギア比53T×12T。ケイデンス124rpm。ハートレート・モニターは毎分178回の心拍数を示している。液晶ディスプレイのインジケータがひっきりなしに点滅し、心臓の過負荷を警告する。しかし、ジノはペダルを漕ぐ力をゆるめようとはしない。それどころか、さらにケイデンスを上げようと試みる。カンパニョーロ社製のカーボン・クランクが軋み、撓む。

意識が遠のきかける。それでもジノはペダルを踏みつづける。内堀通りがゆるやかに左にカーブし、桜田門前、警視庁本庁舎屋上のパラボラ・アンテナの一部が視界のすみに入ったとき、ジノの意識は完全に消失した。

ブレーキ・レバーを引こうにももはやブレーキ・キャリパーを有効に作動させるだけの余力は残っていない。レバーを握りしめ、丸裸の筋肉の力を「梃子の原理」によって増幅する。増幅された力は1mmにもみたないインナー・ケーブルを通じてブレーキ・キャリパーに入力される。これらが間断なくなされなければ、カタログ・スペック上、いかにすぐれた制動力を持つ機材であってもその能力を発揮することはできない。すなわち、自転車は1ミリたりとも止まらないというわけだ。同様に、ペダルを踏みこみ、引きあげ、クランクをまわしてチェンにエネルギーを伝達しなければホイールは回転せず、前へは進めない。つまり、自転車とは身体の延長、身体の一部分を構成しているとも言えるのだ。

タイヤは限界性能を超えようとしていた。カーブの頂点で親指の爪ほどの面積で地面をグリップしているミシュラン・プロレース2-20Cが悲鳴をあげはじめる。鈍い擦過音を発しながら車線1本分右にふくらむ。もしもこのときペダリングが止まっていればタイヤはグリップを失い、車体もろとも遠心力によって外側にはじき飛ばされたはずだが、ジノは失神しながらもペダルを踏みこんでいた。

後続の大型車両から悪意にみちたクラクションが鳴る。急ブレーキの鋭い音とゴムの焦げる匂い。そして、罵声。

「これで、やっと死ねるんだ」

そう思った刹那、ジノの胸の奥深くをよぎったのは「言葉の祖国」にたどりつくための地図ではなかったか。残念ながらそれはジノにしかわからない。だが、けっきょく、きょうもまたジノは死ななかった。いつものことだ。

正気を取りもどし、しらみはじめた空に一瞥をくれ、東京の中心にドーナツ状にあいた「聖なる空虚」の周囲をジノは疾走する。

ゴールなど見えようはずもない。内堀通りは環状道路だが、その「円環」は閉じられていないからだ。走りつづける道はけっして引返すことのできない細く長い一本道である。

人はみな途中で死ぬ。例外はない。目的地にたどり着いてから死ぬことなど誰にもできない。つまり、THE END や FIN の文字が都合よく用意されてはいないということだ。もちろん、ゴールはない。

より速く、より遠く。自転車乗りはこのふたつを実現するためにこそ身体を鍛え、食事を制限し、夜明けとともに走りだす。彼らが目指す「速さ」は具体的な数値ではない。彼らは「現在」「今」よりも速く走ることを目的とする。

自転車乗りたちは「此処」ではない「彼処」、「此岸」ではない「彼岸」、「近く」ではない「遠く」を日々夢想し、憧れ、やがて夜明けとともに漕ぎだす。「今」の連続の果てにある「スピードの王国」を夢み、遠く遥かなる「彼岸」に向けて世界中の名もなき自転車乗りたちはきょうもまた走る。走りつづける。ジノは水平線に現れた日輪を凝視し、つぶやく。

Riding in my own sweet way. 世界中の名もなき自転車乗りに、きょうもいい風が吹きますように。


なにものもカンピオニッシモ・ファウスト・コッピの憂鬱を回収することはできない。


In Your Own Sweet Way - Miles Davis
 
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# by enzo_morinari | 2018-08-13 18:07 | STREET4LIFE | Trackback | Comments(0)

STREET4LIFE#3 Chasing The Soul Shadows.

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ジノは漆黒のカラヴィンカに素早い動きでまたがると、見送るミツコをふりかえることもなく走り去る。ジノの姿はみるみるうちに小さくなり、点になり、夕暮れの街に消える。

ジノは決してふりかえらない。反省もしない。反省だの後悔だのは臆病小心者と愚か者の担当だとジノは考えている。ジノがふりかえり、うしろを見るのは進路をかえる際の後方確認のときだけだ。ジノはふりかえるとき、自分の影が自分についてきているかもたしかめる。影が自分を追いかけてきているかを。影があるうちは自分は生きているとジノは思う。

Chasing The Soul Shadows. ジノは自分の影に追われ、自分の魂の影を追いかける。

「おれの魂はいったいどこに向かっているんだ?」


Soul Shadows - The Crusaders & Bill Withers

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# by enzo_morinari | 2018-08-13 14:15 | STREET4LIFE | Trackback | Comments(0)

アイルトン・セナ・ダ・シルバのこと/春のイモラに散った音速の貴公子

 
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クモモの樹探索から帰還し、おそい午睡をとった。そして、アイルトン・セナと春のやわらかな陽射しにあふれる隅田川沿いを散歩している夢をみた。

セナは愁いと甘さと哀しみとを含んだ微笑を浮かべ、陽の光を反射してきらきらと輝く隅田川の流れをみつめていた。セナが「境界のボート」に乗り込んだところで夢は終わった。すでに夕暮れどきをすぎ、街は闇に沈んでいた。目がさめると涙が一筋、頬をつたっていた。闇の中でセナのことを考えていたら、涙は次から次へと、いくらでもあふれてきた。
 
アイルトン・セナを初めて知ったのは1987年、鈴鹿の日本グランプリだった。セナはキャメル・イエローのロータスをドライビングしていた。彼が初めてワールド・チャンピオンになる前年のことだ。それは良くも悪くもセナ・プロスト時代の幕開けを告げる重要な年だった。

セナはどのドライバーよりも輝いていた。スリムな体から発する輝きが桁はずれてまぶしかった。端正で物憂げな面差しが輝きに深みをあたえているように感じられた。アラン・プロストもネルソン・ピケもナイジェル・マンセルもセナと比べてしまうとくすんでみえた。

「アイルトン・セナはいつかかならずワールド・チャンピオンになる」

私が言うと、同行のホンダ広報のSがうれしそうに何度もうなづいた。私の予言どおり、アイルトン・セナは翌年、F1最強のホンダ・エンジンRA168-E V6 Turboを搭載したMcLaren MP4/4というリーサル・ウェポンをえて、ワールド・チャンピオンとなった。私の6年に及ぶ「セナ時代」のはじまりだった。
 
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1991年、インテルラゴス・サーキットで行われたブラジル・グランプリでセナは初めて母国での優勝を遂げる。アイルトン・セナのブラジル・グランプリ優勝は「セナのやり残した大きな仕事のうちのひとつだ」という声があがるほど、セナにとってもブラジルの人々にとっても重要な意味を持っていた。これをやり遂げれば、セナに残されたのはファン・マヌエル・ファンジオの記録(F1ワールド・チャンピオン5度)を破ることだけだった。

レースを終え、メイン・スタンド前にマシンをとめて天を仰ぎ、神と対話するセナの陶酔しきった姿をみて、私は「セナはもうすぐ死ぬのだな」と不意に思った。死んだほうがセナにはよほど楽なんだとも。そのあとで、強い力で胸が押しつぶされ、胃が締めつけられるような感覚に襲われた。それは長い時間つづいた。

あるモーター・レーシング関係者は「モチベーション」という表現でセナの行く末を案じていた。私は燃えつきてしまった者の姿をセナにみた。

実際、母国グランプリの勝利以降、セナは抜け殻のようだった。セナが半透明に透けて、見えないはずの向こう側が見えてしまうことさえあった。愁いの影や哀しみの色は日ごと増していくように思われた。

私の「予感」は3年後に現実のものとなるのだが、もちろん、当時の私は「セナの死」を予感しながらも、決してそれはあってはならないことであるとも考えていた。だが、音速の貴公子、アイルトン・セナ・ダ・シルバは1994年5月1日、春のイモラ・サーキットに散った。
 
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予選走行の段階ですでに悲劇は序章を迎えていた。ルーベンス・バリチェロの身も凍るようなクラッシュ、ヘルメットから血潮を滴らせ、意志をうしなった肉の塊りがコクピットから露出したローランド・ラッツェンバーガーの壮絶凄惨な死。

「次はセナの番だ」

私は確信にちかい思いを抱いた。

運命のサンマリノ・グランプリ、運命の決勝。セナ通算65回目、生涯最後のポール・ポジション。スタート直前のセナは死人のように青ざめた表情でウィリアムズ・ルノーFW16のコクピットにおさまっていた。
  
レッド・シグナルからグリーン・シグナルへ。スタートと同時に、エンジン・ストールに見舞われたJJ・レートにペドロ・ラミーが追突。マシンから飛び散った破片で観客にも負傷者がでる。ペース・カーによる先導ののち、5周後にレースは再開した。

レース再開後の2周目。セナ、生涯最後のラップを車載カメラが克明に冷徹にとらえる。シューマッハのオンボード・カメラにセナのマシンが映る。運命のタンブレロ・コーナー。名にしおう高速コーナーである。

タンブレロ・コーナーの入口でセナのマシンは左リアのあたりから激しく火花を散らし、カメラの視野から流れるように消えてゆく。流星のように消えゆくアイルトン・セナ・ダ・シルバ。バック・ミラーに映るシューマッハの驚愕と恐怖に満ちた眼差し。

コンクリート・ウォールに向かって一直線に突き進むセナ。時速300km。息を飲む大クラッシュ。だれもがセナの死を思ったはずだ。

「セナがクラッシュ! アイルトン・セナがクラッシュ! イモラがアイルトン・セナにも牙をむいた!」

春のイモラ・サーキットに実況のフジテレビのアナウンサー三宅正治の絶叫が響きわたる。タンブレロ・コーナーを直進し、砂煙を上げてコンクリート・ウォールに激突するホワイト&ブルーのウイリアムズFW16をモニターが何度となく映しつづける。

引きちぎられたマシンの中で、ブラジル・カラーのヘルメットが激しく揺れる。「ROTHMANS」と記されたリア・ウィングはスローモーションのように宙空を舞い、セナの親友ゲルハルト・ベルガーのフェラーリ421T1の前に転がった。ベルガーは16周目、沈痛な面持ちでマシンを下りた ──。

セナは事故現場ですぐさま気管切開をほどこされ、ヘリで病院へ搬送されるが、破損したサスペンション・アームが頭蓋骨を砕き、激突の衝撃はセナからすべてを奪い去ろうとしていた。

1994年5月1日18時40分、心肺停止。享年34。その早すぎる死に世界中が涙した。事故原因は諸説入り乱れ、いまだ確定されぬままである。

セナのいないF1は気の抜けたビールのようだった。アイルトン・セナの死以降、私はF1をほとんどみなくなった。F1サイボーグといわれるミハエル・シューマッハがいくら「正確無比のドライビング」をみせつけて「記録」を塗りかえても、空飛ぶフィンランド人、ミカ・ハッキネンがワールド・チャンプに輝いても、悲劇の無冠の帝王、ジル・ビルヌーヴの忘れ形見、ジャック・ビルヌーヴが天才の片鱗をみせても、私のこころは動かされなかった。

ことF1に関して言えば、アイルトン・セナの死とともに、私のこころは石ころになってしまったのだ。もはや、マシンを大胆かつ繊細にスライドさせながらコーナーを攻めつづけるセナの姿を見ることはできない。わずか数センチの隙間をみつけだし、1秒間に6回、アクセル開度のON/OFFを繰りかえすといわれる「セナ足」でコーナーに飛びこんでいくセナの姿を見ることはできない。 
 
世界中のどこのサーキットにも、風をきり、風になって走りぬけていくセナの勇姿はないのだ。そのことを思い知ったとき、世界は完全に色あせた。

物事にはいつかかならず終りがくる。そう、かならず終りがやってくるのだ。だれもそのことから逃れることはできない。たとえ限界を超えるコーナリング・スピードを連発し、あまたのコース・レコードを打ちたてたアイルトン・セナ・ダ・シルバであってもだ。

「僕はレーシング・ドライバーだ。レーサーとして生まれたんだ。と同時に、それは自分が選んだ道なんだ。スピードへの興味はつきない。僕のライフ・スタイルだ。きっと生まれたときから急いでいるんだね」

生まれたときから急いでいる ── 生き急ぎ、死に急いだアイルトン・セナ・ダ・シルバ。

「僕にとっての1秒がセナにとっては10秒だったのだろうと思う。コースを走っている時、セナは僕とまったくちがう世界を見ていたのだと思う。彼はまちがいなく英雄だった。でも、やはり生きて素晴らしいレースをつづけてほしかった。こんなかたちでいなくなってはいけない人だった」

かつて、ロータス時代のセナのチーム・メイト中嶋悟が「そのときのこと」を振り返る。ふだんは寡黙で、めったに感情を表に出さない中嶋悟が顔面を紅潮させ、目を潤ませて語った。

アイルトン・セナは同時代に生まれ、同時代を生きることができた幸福を感じさせてくれる数少ない人物の一人であった。セナが世界のどこかにいて呼吸をし、ステアリングを握り、マシン・セッティングについて注文をつけ、いわれなき誹謗中傷非難に一喜一憂し、哀愁の微笑を浮かべていることを思うだけで、私は幸福な時間をすごすことができた。だが、そのセナはもはやいない。

アイルトン・セナの死によって、私の世界は、しけた、輝きのない、つまらぬものになってしまった。以来、今日までときめくことなどただの一度もない。そのようにして、四半世紀の歳月が流れた。そのあいだに、皇帝ミハイル・シューマッハが、おそらくは永遠に破られることのない「記録」を打ち立てて引退し、スキーで大事故に遭って死線をさまよい、ワンダーボーイ、マイク・タイソンはただの大うつけ者に成り下がり、スキーター・デイヴィスはアメリカ合衆国の田舎町でひっそりと息を引き取っていた。以後も、私にとっては「世界」はますますつまらなくなっていくだろう。それでいい。もう、「世界」になにも期待などしていない。記憶と思い出の中で静かに戯れ、遊ぶだけである。

いつか、春のイモラ・サーキットを訪ね、セナが流星になったタンブレロ・コーナーに花をたむけようと思う。そして、アイルトン・セナ・ダ・シルバのことを日が暮れるまで思おう。それまでは、ナイジェル・マンセルと死闘を演じた1992年のモナコ・グランプリを繰り返し繰り返しみることにしよう。

春のイモラで逢う日まで、アデュー、アイルトン。
 
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(o Fim)
 
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# by enzo_morinari | 2018-08-13 12:22 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(3)

300メートルの夏

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夏がくるたびに思い出すことがある。母親が片手で持てるくらいに小さくなって死に、父親が若い女のところへ行ってしまい、兄が結婚と同時に地方へ転居して、私ひとりだけになった20歳の夏の、タフでヘビーな300メートルのことを。

ひとりの夏。それはとても心地よい響きを持っていた。私はひとりの部屋でなんどなんども「ひとりの夏」と口に出してみた。口に出すたび、その夏は本当に自分だけの夏になるような気がした。しかし、実際にはいつもどおりの、なにごともない、さえない、ただ暑いだけの夏だった。家を明け渡したことをのぞいては。

その家には10年住んだ。正確には10年と3ヶ月だ。その家こそは、わが「黄金の少年時代」の最盛期と黄金のズンドコ時代の幕開けをともに生きた戦友のような存在だった。家を明け渡さなければならない原因を作った張本人は父親だが、私は彼を責めなかった。父親の放蕩や道楽はいまにはじまったことではなかったからだ。

家財道具を三人で山分けしてしまうと、家の中は夏の終わりのふやけた熱と、茫漠とした静寂に満たされた。


荷物を満載した運送屋のトラックを見届け、父と兄はそそくさと自分の生活の根拠地へ帰還していった。クールなやつらだと妙に感心したのをおぼえている。私はといえば、いつになく感傷的だった。自分の使っていた部屋の壁に残るスキーター・ディヴィスのポスターの痕跡を見ると胸が熱くなった。だだっ広い家の中に取り残され、少しだけ泣いた。

配電盤のブレーカーを落とし、火の元と戸締まりを確認し、家を出るときがきた。最後にドアを閉め、鍵をかけたときの音は腹にこたえた。こみあげてくるものがあった。こみあげてくるものはあるけれども、大丈夫だ。どうってことはない。こんなことはどうってことのないひとつの過程にすぎない。ありったけの言葉で自分をかきたてようとしたが無駄だった。

「あばよ」と小さく言って私は家をあとにした。家が見えなくなる曲がり角までは300メートルある。時間にして2分弱。何度もふりかえりそうになったがふりかえらなかった。2度立ち止まり、煙草を1本吸っただけだ。

「俺はクールなんだ。クールなタフ・ガイなんだ」

そう胸の中で呟きつづけなければいられない長くてタフでヘビーな300メートルだった。

以後、今日までに数えきれないほどの夏やら冬やら春やら秋やらをやりすごしてきた。しかし、あれ以上にタフでヘビーで腹にこたえる300メートルにはいまだにお目にかかっていない。


I Go Crazy - Paul Davis
 
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# by enzo_morinari | 2018-08-13 01:26 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

STREET4LIFE#2 Life goes on.

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人生は本当のことに気づくには短すぎ、本当のことを待つには長すぎる。それでも、人生はつづく。


火曜日。午後2時42分。青山通り青山1丁目交差点。青山ツインタワー脇の階段。ジノは通りを挟んで向かいにあるホンダ本社にドロップオフしたあと、つかの間の休息をとっていた。青山ツインタワー脇の階段はメッセンジャーたちの次の仕事の待機場所/休憩所だ。メッセンジャーのたまり場。大いびきをかいて寝る者さえいる。

無線のスウィッチを切る。無線を切れば仕事のコールはこない。休みたいときは休む。だれにもとやかくのことは言わせない。それがジノのスタイルだ。My Own Style.

7-Elevenで買ったスニッカーズとカロリーメイトのフルーツ味とキットカットを食べ、ウィダーインゼリーをひと絞りで口の中に流しこみおえたとき、ミツコがやってきた。Vol de Nuit/夜間飛行の香り。ミドルノートのジャスミン、水仙、インドネシアン・カーネーションのスパイス・ノートが香っているところからして、昼食後にシャワーを浴びて夜間飛行をつけたのだろう。

ジノは無線のスウィッチを入れ、ディスパッチャーに現金仕事である旨とドロップオフ先の住所を告げた。南青山1丁目から横須賀市役所まで。直線距離で43km/スーパーラッシュのスペシャル・デリバリー。しかし、実際にはデリバリーはしない。火曜日の午後はミツコとのデイドリーム・アヴァンチュールだからだ。料金はミツコが支払う。デリバリー料金とは別にスペシャルもある。

ミツコとの出会いは偶然だった。神宮外苑銀杏並木の青山通りから12本目の銀杏の樹の前のベンチで午睡しているときにミツコから声をかけてきた。ミツコのつけている夜間飛行の香りで目がさめた直後だった。そのとき、ジノはアウトドローモ・インテルナツィオナーレ・エンツォ・エ・ディーノ・フェラーリ(イモラ・サーキット)のタンブレロ・コーナーをMcLaren MP4/6で312km/hでアイルトン・セナとSide By Side/ランデブー・コーナリングしている夢をみていた。Honda RA121-Eの甲高いV12サウンドがまだジノの頭の中に鳴り響いていた。

F1ドライバーになることがジノのこどもの頃からの夢だった。夢は粉々に砕け散ったが、失ってはいない。粉々に砕け散った夢のかけらをひろいあつめ、つなぎあわせればいいだけの話だ。夢がこどもの頃に砕け散っていたとしてもだ。そして、アイルトン・セナは2PACとともにジノのアイドルだった。

ミツコは神宮前に豪邸を構える大金持ちの人妻だった。45歳。ジノより20歳年上だ。初めてミツコに会ったとき、ジノは18歳の誕生日を迎えたばかりだった。そのとき、ミツコは38歳。

青山通りから1本入った裏通り。神宮前2丁目の大豪邸。青山1丁目の交差点からジノとミツコは競争する。いつものことだ。当然、ジノの勝ち。都内の道路でバイシクル・メッセンジャーが乗る自転車より速い乗り物はない。路線バスより車よりオートバイより速い。渋滞の影響を受けないからだ。信号は完全無視。バイシクル・メッセンジャーにとって信号機はないも同然である。メッセンジャーが信号を守っていたら仕事にならない。いざとなったら、首都高を使う。入口も出口も料金所は突破する。

メッセンジャーにはある種の不良性と反権力/反骨の精神が必要である。メッセンジャーは現代のまつろわぬひとびとなのだ。純水ではなにものも生きることはできない。ドブさらいはだれかがやらねばならない。世界はそのようにできあがっている。

豪勢な正門の前でミツコが来るのを待つ。ミツコは15分遅れてやってきた。ミツコの操作で正門がゆっくりと開く。ジノは漆黒のカラヴィンカにまたがり、ウィリーで正面玄関に向かう。ミツコがエントランスにBentley Continental GTC Convertibleを停めると正面玄関が開けられた。

正面玄関を入ると年配の家政婦が満面の笑顔で迎える。

「シャワーはいつでもどうぞ。お召し物は洗濯しておきます。お着替えはパウダー・ルームにご用意してあります」

ジノはうながされるままにシャワーを浴び、用意されていたバスローブを羽織ってミツコの待つ寝室に向かった。

ジノは両腕を頭のうしろに組み、天井をじっと見ている。ミツコはジノの左腕に頭をのせている。ミツコが口をひらく。

「あなたを初めて見かけたのは ──」
「青山通りの外苑の銀杏並木の角」
「え?」
「あんたは白のAudi Quattroに乗ってた」
「気づいてたの?」
「うん。きれいなひとだなって思った」
「うふ」
「動体視力はだれにも負けない」
「すごいわ」
「青いラコステのポロシャツを着てただろ?」
「信じらんない」
「信じられなくても事実だ」
「赤坂方向から銀杏並木のとこをすごいスピードで右折してきた。急ブレーキ踏んだけどぶつかったと思った」
「危なかった。あと7cmでクラッシュだった」

「御両親のこと、きいてもいい?」
「だめ」
「そう」
「ふたりとも死んじゃったから」
「え?」
「おれが3歳の冬に。首吊った。そのあとはばあちゃんに育てられた」
「まあ」
「ばあちゃんが死んでからは中学を卒業するまで施設暮らし」
「そう」
「あんたはおれの母親とおない年だ」
「まあ」

「わたしたちどうなるのかしら? これから」
「どうにもならない。おれはメッセンジャーで、あんたは週に1度デリバリーをオーダーするお客さんだ。かたちがないもののデリバリーをね。メッセンジャーはなんでも運ぶ。それが仕事だから。確実に言えることは100年後にはおれもあんたも死んでいて、きれいさっぱり忘れられて、跡形もなくなってるってことだ。100年後の世界の住人はおれたちの名前を知らないだけじゃなくて、存在したことすら知らない。知ろうともしない。もちろん、おれが青山通りを疾走したことも赤坂見附のサントリー本社から外堀通りのセンターラインを17ヶ所ある信号をすべて無視して走りに走って汐留の電通まで3分で走りきったこともあんたがラコステの青いポロシャツを着てAudi Quattroを運転してたこともね」
「かなしいわね...。自分のことを知っているひとが1人もいない世界...。おそろしいくらい」
「おれたちだけじゃない。たかだか100年足らずしか生きない人間は次のたかだか100年しか生きない人間に知られもしない。例外なくね。人間だけじゃなくてすべての生き物はね。このたった今生まれた赤ん坊も100年後には死んでいる」
「...ねえ、愛してるとか言ったら?」
「わからない。好きなだけでいいじゃないか。おたがいに相手のことを好きだから会う。セックスもする。好きな相手とするセックスは気持ちがいい。だろ?」
「そうね」

ミツコの涙がジノの腕を濡らす。

「なんの涙?」とジノ。
「わからない」とミツコ。

Life goes on. それでも、人生はつづく。


Life Goes On - 2PAC
 
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# by enzo_morinari | 2018-08-12 11:36 | STREET4LIFE | Trackback | Comments(0)

STREET4LIFE#1 One Way, One Bike, One Life.

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路上にはいくつもの物語が転がっている。ひろうのは自由だが、いくぶんかの危険がともなう。


これはあるバイシクル・メッセンジャーの人生最後の1週間の話だ。彼は秋の東京、夕闇の路上で死ぬ。

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ランディ・クロフォードの歌声を聴くたび、あるバイシクル・メッセンジャーのことを思いだす。男はいつもiPodで音楽を聴いていた。J.S.バッハの『マタイ受難曲』のときもあれば、2PACの『California Love』のときもあれば、マイルス・デイヴィスの『The Doo Bop Song』のときもあった。とりわけて男が好きだったのがザ・クルセイダーズの『Street Life』だ。

ある夕暮れ、「『Street Life』はおれのテーマ・ソングさ」と男は言った。それから、缶ビールをひと息で飲みほし、空缶を握りつぶすとタトゥーを誇らしげに突きだした。男の右腕にはミッドナイト・ブルーの文字でSTREET4LIFEと彫られていた。

男は東京一のメッセンジャーだった。世界一のメッセンジャーと言う者さえいた。実際、男はバイシクル・メッセンジャーの世界大会で二度優勝していた。男を知るだれもが彼を「天才」「怪物」「化け物」「速い男」と呼んだ。

男は25歳の誕生日目前、銀座4丁目交差点、夕闇の晴海通りに消えた。Street Lifeを生きた男はStreetに散ったのだ。生前、男はことあるごとに言ったものだ。

「おれはStreetに生きる。ほかにはなにもできない。One Way, One Bike, One Life だ」

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金曜の夕暮れ。東京港区汐留。電通本社ビル地下3階メール・ルーム。

ジノはメッセンジャーたちの熱気でむせかえる部屋を早足に出て、メッセンジャー・バッグのクロス・ストラップを締めなおしながら汐留から臨海町までの最短ルートを頭の中で2度反芻した。永代橋の「危険な継ぎ目」の位置を思いうかべているとき、仕事にあぶれた何人かのメッセンジャーがジノに声をかけたが、ジノは彼らに視線を向けることすらしない。

「35分。押して、37分」

ジノはつぶやき、荷物のピックアップの際、髪の毛を金色に染めた担当者に念を押されたときのことを思いかえす。

「6時までに必着で」

左手首のG-SHOCKに眼をやる。5時17分。5時20分に出れば、エレベーターの乗り降りにかかる時間を考えてもぎりぎりだが間に合う。

「スーパー・ラッシュになりますがよろしいでしょうか? 通常料金の倍かかります」
「いいよ。かまわない。でも、ほんとに間に合うの?」
「間に合わせます」

ジノは表情をかえずに答える。上腕二頭筋の血管が青く膨らむ。

「すごいな。さすが世界チャンピオンだ。あんたくらいのもんだよ、こんなケツカッチン仕事を引き受けるのは。ほかのメッセンジャーはたいてい尻ごみする」

ジノは懸命に笑顔をつくり、ぎこちなく会釈した。そして、手際よく荷札にドロップオフ先の住所を書きこんで控えを渡し、引き換えに荷物を受けとった。2メートルほどもある筒だ。風の抵抗が強くなることを思い、ジノは気づかれないようにそっと舌打ちをする。

「気をつけて」

うしろから声がしたが、ジノは聴こえないふりをして脇目もふらずにエレベーター・ホールへ急ぐ。エレベーターを乗りつぎ、地上に出ると街は秋の夕闇に包まれはじめていた。1度だけ深呼吸をしてから、ジノは傷だらけの漆黒のカラヴィンカに勢いよく飛び乗った。鉄のフレームがかすかに撓む。ジノ、生涯最高にして最後のラッシュのスタートだった。だが、そのことをジノは知らない。

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月曜の朝。目覚ましがわりにタイマー・セットしておいたCDプレイヤーからザ・クルセイダーズの『Street Life』が流れる。もう何年もおなじ朝の目覚めだ。

「おなじことの繰りかえし。そうやって齢をとり、いつか死ぬ」

ジノは眼を閉じたままつぶやく。

「なあ、そうだろう? 兄弟」

ベッドの上で上半身を起こし、重い目蓋をこじあけ、部屋の壁に貼りつけてあるポスターの2PACに同意を求める。もちろん、返事はない。2PACは鉛の弾をしこたま撃ちこまれ、とっくの昔に死んだからだ。死者は黙して語らぬものと相場は決まっている。ジノはベッドを離れ、オーディオ装置の音量を少し上げ、再びつぶやく。

「これがオレ様のStreet Life. 本日も問題なし。だが、仕事はきらいだ」

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部屋の真ん中で腕組みをし、日曜日のストリート・レースで落車したときにできた右膝の傷に眼をやる。少し肉がえぐれている。鮮紅色の肉、滲んだ血。

「生きてるから赤いんだ。生きてる証拠なんだ。死んでりゃ、血も出やしない」

ジノが落車したとき、銀座4丁目の交差点周辺はちょっとした騒ぎになった。ジノは晴海通りを皇居方面から信号無視で交差点に進入し、右折しようとしたのだ。

タイヤのグリップ力が進入速度に耐えきれず、後輪がロックした直後にジノの体はアスファルトに削られた。見ていた誰もが息をのんだ。ジノの数センチ先を何台かの車がけたたましくクラクションを鳴らしながら走りぬけ、ジノは挽肉にならずにすんだ。「東京選手権10連覇」の夢が消えてなくなっただけだ。

全身に鈍い痛みがある。筋肉繊維の一本一本が軋んでいるのがわかる。ジノは首を数回まわし、窓から差しこむ秋の朝の光に眼を細める。そして、窓の向こう側に広がる東京の街に朝の御挨拶だ。

「きょうもたんまり稼がせてくれ」

曲がクレイグ・デイヴィッドの『7 Days』にかわったところでジノは腕立て伏せを始める。200回。そして、コーヒーをマグカップで2杯飲み、朝めしを喰う。これがジノの朝だ。

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メッセンジャーは生き方そのものだとジノは思う。もちろん、生き方はさまざまだ。区役所の戸籍係としてつつましく生涯をまっとうするやつもいれば、日がな一日、日比谷公園のベンチで鳩どもを相手に世界の共同主観的存在構造について思いをめぐらせるやつもいれば、インターネット・ラジオのDJとして、マイクとディスプレイに向かって朝から晩まで愚にもつかないことをしゃべりつづけるやつもいれば、真夜中の麻布十番商店街を素っ裸で走りぬけることに全存在をかけるやつもいる。ひとそれぞれだ。善し悪しを言う権利は誰にもない。

ジノはバイシクル・メッセンジャーとして東京の街を自転車で縦横無尽に走りまわる生き方を選んだ。1996年、17歳の秋の終わりのことだ。その年の秋の初めにはジノのアイドルだったヒップホップ・アーチストのトゥパック・アマル・シャクール、2PACが4発の銃弾を浴びてこの世からさっさとオサラバしていた。

2PACの死を知ったとき、ジノは理解した。未来は信じるに値しない。世界も信じるに値しない。信じるに値するのは自分の精神と肉体と物心ついたときから常にかたわらにあった自転車だけだと。そう気づいた翌朝、ジノは通っていた高校に退学届を出し、その足でソクハイに面接に行った。

バイシクル・メッセンジャーとして走りはじめた月からジノは桁外れの売り上げを記録した。すぐに、東京のメッセンジャーでジノを知らぬ者はいなくなった。だれもが敬意と憧れと諦めをこめて、ジノを「天才」「怪物」「化け物」「速い男」と呼んだ。

赤坂のサントリー本社から汐留の電通まで4分弱。ジノは外堀通りのセンターライン上をひたすら走り、ときに前を走るタクシーの後部にぎりぎりまで迫って風よけに使い、17ヶ所ある交差点の信号をすべて無視した。そのようにして、いまも「ジノ伝説」のひとつとして残る記録をつくった。

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バイシクル・メッセンジャーは東京の中心部を自転車で一日に100kmほど走りまわり、ビジネス文書やら印刷原稿やら商品見本やら証券類やらをデリバリーする仕事だ。拳銃や違法薬物などの御禁制品とおぼしきものを運ぶこともある。生後間もないナポリタン・マスチフや魚沼産コシヒカリ20kg、ひとかかえほどもある真っ赤なバラの花束を運ぶことすらある。ごくまれにだが、「わたしをカレの元へ運んで」という依頼もある。依頼主はニューハーフだ。新宿2丁目界隈からの依頼は注意が必要である。闇金融屋でピックアップしたレンガ2個、つまりは2000万円の現ナマをネコババし、トンズラを決めこんだ剛の者がいたが、これは例外中の例外である。ことほどさように、なんでも運ぶ運び屋がメッセンジャーだ。

荷物をピックアップし、走り、ドロップオフし、さらに走り、さらにピックアップし、さらにドロップオフする。この繰りかえしだ。単純極まりないが、いままで見えなかったことが見えてくることもあるし、見えていたと思っていたことが実はまったくの見当ちがいだったと気づくこともある。なにごともやってみて初めてわかるということだ。

下げたくもない頭を下げ、言いたくもないお愛想を口にしなければならない場面はもちろんある。だが、それらのうっとうしいことどもは行く手をふさぐタクシーやら大型トラックやら路線バスやらの隙間を白刃の切っ先をかわすがごとくにすり抜ければすぐにも失せてなくなるていどのことだ。どうということはない。

あるいは朝の青山通りを、あるいは昼時の丸の内を、あるいは夕暮れの西新宿の高層ビル群の間隙を疾走しながら、ジノはたったひとつのことを考えていた。

「ゴールなんかない。ゴールなんかあるはずがない。走り、走りつづけ、走りぬけ、そして死ぬ」

ジノよ。おれは去年、自転車を下りた。ときどき、『Street Life』を聴いておまえのことを思いだす。思いだすが泣きはしない。悲しくもならない。いっしょに夕暮れの晴海通りを疾走し、お台場の夕焼け広場の芝生の斜面に2人ならんで寝転んでよく冷えた6本パックのレーベンブロイを飲みほし、空缶を握りつぶしてメッセンジャー・バッグに放りこんで、時さえ忘れて夕焼けを眺めたいとは思うが、すべては夢のまた夢、路上に消えた。


ジノよ。TOKYO STREETはきょうもお祭り騒ぎだ。


Street Life - The Crusaders feat. Randy Crawford

 
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# by enzo_morinari | 2018-08-11 09:11 | STREET4LIFE | Trackback | Comments(0)

知の修羅場#02

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社会のために役立てたいというのぼせあがったことをほざいてきた若竹(以下、wktk)のメッセージに記されていた経歴/学歴/職歴/趣味/特技/資格他の概略は以下のとおり。

経歴
1970年、東京都千代田区麹町で出生。出生時に早産/低酸素症による脳性麻痺(Cerebral Palsy/CP)との診断を受ける。父は旧厚生省の官僚(退官時の役職は社会・援護局次長)、母は内科医(専門は神経内科)で東京大学医学部非常勤講師。

学歴
番町小学校/麻布学園麻布中学校/麻布学園麻布高等学校/東京大学文科三類/東京大学文学部。

卒業論文(学士論文)『言語にとって快とはなにか?』
1992年、東京大学文学部・大学院人文社会系研究科心理学研究室。
修士論文『短期/長期の運動記憶の視覚化と課題』
博士論文『運動と運動順応による知覚的位置の変化と顔と声を結びつける要因の検討』

職歴
1995年、国家公務員採用I種試験合格、旧厚生省社会・援護局に配属。2010年3月、退官。独立。

株式会社気まぐれハンディ・キャップ(Quicksilver & Volatile Handy Capp Co., Ltd.)設立。CEOに就任。現在に至る。

趣味/特技/資格他
読書。音楽鑑賞。映画鑑賞。人生というゲームにおけるポジションはアンカー・ボランチ。甲本ヒロトの物真似で『リンダリンダ』を歌うこと。原子周期表を諳誦すること。円周率を小数点以下4242桁まで諳誦できること(無理数/超越数の壁/闇の高さ深さに脱帽)。夏目漱石の『草枕』と鴨長明の『方丈記』と清少納言の『枕草子』を諳誦できること。

C.G.Jung- Institut Zuerich, Diplomkandidat/公認心理師/臨床心理士/ITストラテジスト/実用英語技能検定1級/日本漢字能力検定1級/中小企業診断士/総合無線通信士1級/システム監査技術者/プロジェクトマネージャ(PM)

ふん。エリート家庭/いいとこ出の生まれながらにハンディキャップを背負ったおぼっちゃまくんが絵に描いたようなエリート・コースを歩いたというわけか。ハンディキャップとエリート・コース。いい取りあわせだ。暇つぶし/腹ごなしにはうってつけだ。そして、資格マニア/資格オタクにして看板ぶら下げ好き。手加減なし容赦なしでコテンパンにするにはちょうどいい。

ある件ではらわたが煮えくりかえり、虫酸が走りまくり、憤怒と憎悪がたぎっているところだから八つ当たりのマークには格好の獲物だ。会社名をアメリカン・コミックスの『Andy Capp(邦題『気まぐれアンディ・キャップ』)に引っかけた点は数少ない加点要素だが、自分のハンディキャップを商売/ゼニカネに結びつけているところで致命的、パーフェクト・アウトである。アクセス数稼ぎ(アクセス数稼いでなにかメリットあるのか? もうすぐ終了のポンコツexblogでランキング上位になってメリットあるのか? 電気料金や水道料金やスマホ代や家賃や税金や月々の諸々の支払いが安くなるとか? 学校の成績や偏差値が上がるとか? カミさんの御機嫌がよくなるとか? JCやJKやHZをネゲトできるとか?)のために日がな1日イイネ・ボタンを押しつづけるリアリティのかけらもないきれいごとと善人ぶりを垂れ流すポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊と同類、同じ穴の狢である。

さあて、素っ首洗って待ってろよwktk. 今からwktkだ。呵々大笑。Ψ(`▽´)Ψウケケケケケ
 
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# by enzo_morinari | 2018-08-09 20:37 | 知の修羅場 | Trackback | Comments(0)

天使の厨房

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第299792458回天使聖公会議において満場一致で天使の厨房の末席に加わることがゆるされ、晴れて新米プロンジュールとなったフレンチの皇帝にして世紀のシェフであるムッシューJ.R.に不埒の魔王から祝電。

1989年1月7日火曜日、昭和最後の日。身も凍る真冬のパリ16区の忘れがたきジャマンの夜のために。ひとすくいの貧者のスープがいつもムッシューJ.R.とともにありますように。バナナ・ボートの上で夜の大捜査線を超えた涙を流しながら「デーオ・ミセ・デーオ/デ・イザダ・デーオ。もうすぐわたしも行くよ」とシドニー・ポワティエ捜査官も言っているはずだ。永遠の生命サラダ亭亭主B.パコーは厨房の片隅で赤ピーマンのムースと牛のしっぽとエイと春キャベツとシェリー酢とバタと醢をくつがえして慟哭いている。
E-M-M

最高の料理人は恋をしている料理人である。F.=R. de C.
死後、願わくば天使の厨房の末席に加えていただけますように。G. A. E
邯鄲の庭でLe Guide Culinaireを枕にしてひと晩眠れば秋元康一味ですら皿洗いにはなれる。ギャルソンは不可。確実にめしがまずくなる。E-M-M


凡庸な料理人はとびきりの恋をし、最高の料理人になった。
料理旅団誕生のはるか昔のこと。その凡庸な料理人は目立たない魚介担当の一人にすぎなかった。古株の肉切り職人や賄い係や前菜調理人や食材管理人にあごで指図され、罵声を浴びせかけられることさえあった。年下で後輩のギャルソン/セルヴールやコミ・ソムリエやコミ・ド・ランやプロンジュールの中にはあからさまに凡庸な料理人を馬鹿にする者すらいた。実際、厨房での凡庸な料理人の眼には輝きのひとかけらもなかった。彼になかったのは自信であり、希望であり、愛し愛されることだったろう。

厨房で毎日毎日馬車馬のように魚のウロコを取りのぞき、さばき、切りわけ、調理する。これとて、総料理長が決めたとおりのことを単純になぞっているにすぎない。そこには「創造」のかけらもない。そして、仕事を終えると疲れ果てたからだを引きずってアパルトマンに帰り、薄暗く湿った階段を上り、屋根裏部屋にたどりつくのだ。料理人を待っているのは回転網の中で走りつづける年老いたハムスターとマンサード・ルーフから見える街のあかりだけだ。

「なんて不甲斐ない人生なんだ」

通りひとつ隔てた小さなマルシェで買った安物のブルゴーニュ・ワインを鍋であたためながら料理人は薄汚いしみの浮きでた壁に向かってつぶやく。「まったく。なんてこった。なんて不甲斐ない人生なんだ。老いぼれのハムスターのほうがまだいきいきしてやがる」

凡庸な料理人はマグカップに注いだ生あたたかい赤ワインをひと息で飲みほす。そして、マンサード・ルーフの外に広がる街を見る。いまにも消え入りそうな街のあかりが物憂げにまたたく。通りに目を落とす。ミモザの花束を抱えた娘が通りすぎる。彼女のまわりだけやわらかい光がともっているように見える。

「花売り? こんな時間に?」

凡庸な料理人がそう思うと同時に、彼女のまわりにだけやわらかい光がともった。

「まさか。そんなことがあるはずない。幻に決まってる」

光が強さを増す。光を受け、あたりは確かに明るくなっている。建物の壁、エレーヌ・ジュグラリスとシルヴィ・ギエムが共演する舞台のポスター、そのとなりにはダニエル・ヴィダルのポスター、螺旋階段、ごみ箱、電柱、電柱に貼られたモンサントの農薬の広告、1970年代の古いロードレーサー、フレンチ・ブルュのCITROËN 2CV、クリーム色のPEUGEOT 401 ECLIPSE、モス・グリーンのRENAULT JUVAQUATRE、シルバー・メタリックの1955年式Mercedes-Benz 300SL Gullwing Coupe、ミッドナイト・ブルーのMAYBACH 57S Exelero、そして、トスカーナ・ブルーのBUGATTI VEYRON 16.4。すべてがミモザの娘の発する光に照らされている。

ロードレーサーのフレームはコルナゴだ。クローバーのロゴと COLNAGO の文字がはっきり読みとれるくらいに光は強い。エレーヌ・ジュグラリスとシルヴィ・ギエムはグラン・パ・ド・ドゥとグラン・パ・クラシックを踊りだし、ダニエル・ヴィダルはスポットライトを浴びて『オー・シャンゼリゼ』と『カトリーヌ』を繰り返し歌いはじめる。シルヴィ・ギエムの弓型にしなった足の甲に青く浮き出た静脈さえはっきりとみえる。グラン・ジュテのときの開脚の角度はまちがいなく200度を超えている。

「あの光はいったいどこから?」

料理人の視線は光の正体を探ろうとミモザの娘に釘づけだ。まぶしい。目映い光のただ中でミモザの娘は微かに身震いする。

「啓示だ!」と料理人は叫ぶ。細く筋張った料理人の貧弱な体もミモザの娘とおなじように震えだす。料理人は部屋を飛びでて階段を駆けおり、通りに出る。そして大声でミモザの娘を呼びとめた。

「ねえ、きみ!」

娘はふりかえり、ミモザのような笑顔をみせた。ミモザの娘の輝きは変わらない。料理人はまぶしくて少し眼を細めた。娘は目の前にいるのに光の正体はわからない。

「突然、ごめん」
「いいえ。いいのよ」
「あの、なんといったらいいのか、あしたの昼、ぼくの店でごはんを食べないか?」

凡庸な料理人は彼が働くレストランの名を告げた。

「よろこんで。でも、わたしはあなたのお店で食べるほどお金を持っていないのよ。まともな服もないし」
「もちろん、ぼくのおごりだよ。服はいまきみが着ているのでじゅうぶんだよ。席に着いたらギャルソンにぼくの名前を言えばいい」

ミモザの娘はとても礼儀正しく頭をさげ、通りを歩いていった。凡庸な料理人は彼女の後ろ姿を見送りながら、生まれて初めて心が浮き立つのを感じた。

翌朝。いつもどおり不機嫌そうな総料理長に凡庸な料理人は意を決して言った。

「ムシュ。きょうの昼、ガール・フレンドが来るんです。私に一皿だけ料理を作らせていただけませんか?」
「おれの料理をか? それともおまえの?」
「私の考えた料理をです」
「余分な食材はなにひとつない。あるとすればエイの切れっぱしくらいのもんだ」
「それでじゅうぶんです。あと、春キャベツを少々」
「いいだろう。で、なにを作るんだ?」
「エイひれと春キャベツの蒸し煮シェリー酢バターソース」
「なんだそりゃ?」
「一世一代のラブレターです」

12時きっかりに娘はやってきた。白いシャツと黒のスカート。シンプルそのものだ。飾りけと言えば、唯一、髪にミモザの小枝をさしているだけである。

「かわいいお嬢さんがおまえをご指名だ」と気のいい給仕長が凡庸な料理人に耳打ちをする。凡庸な料理人はうなづく。そして、あらかじめそうすることが決められていたように包丁をふるい、ソースをアレンジし、味見をし、皿に盛りつけた。

料理ができあがると厨房に鮮烈で清々しい香りがあふれた。厨房で忙しく働いていた者たちが手をとめ、凡庸な料理人をみた。ミモザの娘が座る隅のテーブルに凡庸な料理人の「一世一代のラブレター」が怪訝な表情の給仕長によって運ばれるとき、通りすぎるテーブルの客たちは驚きの表情で顔を上げ、去ってゆく皿を見送った。そして、給仕長を呼び、口をそろえてたずねた。

「いったい、あの料理はなんなんだ?」

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凡庸な料理人の恋心が本当に伝わったのかどうかはわからない。しかし、「エイひれと春キャベツの蒸し煮シェリー酢バターソース」という一皿の料理をきっかけに、凡庸な料理人は「最高の料理人」と呼ばれることとなった。そして、数年後、自分のレストランをもった。テーブル数わずか5席のちいさな店だが、客足が途切れることはない。彼の店、『黄金のエイ亭』に行けばミモザのような笑顔のマダムがいつでもわれわれを迎えてくれる。

陽が落ち、夜がやってきても、『黄金のエイ亭』だけは昼間のように明るい。日を追うごとに明るさを増している。あの光が『黄金のエイ亭』をいつも包んでいるからだ。初めのうちこそ不思議な「光」のことは話題になったが、カミュ・エトランジェー街の最長老ムッシュ・ムルソー・シジフォスの「街が明るくなったんだからいいじゃないか。まぶしくたってだれか死ぬわけではあるまいし、殺人が起こるわけでもない」というひと言で光のことが話題にのぼることはなくなった。それどころか、『黄金のエイ亭』の前を通るたびにだれもが「ごくろうさん」と声をかけるようになった。

声をかけられた光はまんざらでもない様子だ。名前もつけられた。黄金のミモスくん。とてもぎこちないけれど、パントマイムの真似事をするようになった。いまのところはなにもしゃべらないが、しゃべるようになるのも時間の問題だろう。そのとき、黄金のミモスくんがいったいどんなことを話すのか、「オジギソウとフサアカシアの闇の闘争」の真実は語られるのか。おおいに興味をそそられるが、それはまた別のお話である。


Les Champs-Elysees(オー・シャンゼリゼ) - Daniele Vidal
Catherine(カトリーヌ) - Daniele Vidal
Aime Ceux Qui T'aiment(天使のらくがき) - Daniele Vidal


(Bon appétit!)
 
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# by enzo_morinari | 2018-08-08 03:54 | 天使の厨房 | Trackback | Comments(3)

知の修羅場#01

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「あなたの発信力を社会のために役立てたい」というのぼせあがったメッセージが来た。ごていねいにも自分が運営するサイト/Facebook/Twitter/LINEのアカウント名/スマートフォンの番号/本名/出身地/経歴/学歴/経営する会社名と会社のHPその他のゴミ情報が山のように書き連ねてあった。普段なら華麗にスルーするところだが、暑気払いもかねてスマートフォンに番号通知で直接電話をかけてみた。

「もひぃもひぃ。pqvy4 31-3;45bnzでふがぁ」

ん? なんだ? こいつはただものじゃねえぞ。

「あんたから発信力を社会のために役立てたいというメッセージが来たんだがな」
「Aalsdeohasだぁほひぃね、DKL23[0A;LDまふぅ」
「よく聞き取れない。なに言ってるかさっぱりわからない。落ちついて、ゆっくり話せよ」
「ふぃまひぇん。ひひょにかはわりぃまふぅ」

若い女が電話口に出た。

「若竹の秘書をしております加納と申します。若竹は脳性麻痺のためにうまく言葉を喋ることができません」
「そういう事情ならしょうがないな。若竹さんからメッセージをもらったんだが、その件で話したい。LINEのアカウントに認証のリクエストを送るから認証するように伝えてください」
「かしこまりました。若竹にそのように申し伝えます。お手数をおかけいたします。よろしくお願いいたします」

LINEのアカウントはすぐに認証された。かくして、風変わりでFoo, Fou, Foolでいくぶんかフーガの技法(D minor/BWV1080)を敷衍した知の修羅場は幕を開けた。


The Art of Fugue/D minor BWV1080(J.S. Bach) - Glenn Gould
 
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# by enzo_morinari | 2018-08-07 03:59 | 知の修羅場 | Trackback | Comments(0)

昼めしはウィンダムヒル・ハンバーガー

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「イマ、ココハ、戦場ダ。」と意志の中心にメタルを持つ男は言った。


かつて、「ハンバーガー・ヒル」と呼ばれる丘があった。最悪の戦争のさなか、ハンバーガー・ヒルで男たちは最善をつくした。War at its worst, Men at their best.

遠い昔、まだいくぶんか若く、死ぬには手頃な日いい死に場所を探していた時代。1年間だけ戦場カメラマンをやった。

孤立無援のフリーランス。戦地/前線に単独で乗りこみシャッターを切る。カメラは中古で手に入れた Nikon F4E と Leica M3。Leica M3は沢田教一の影響だった。

ギャランティなどどうでもよかった。カネがなくなれば帰還する。運がなければ死ぬ。死ぬには手頃な日いい死に場所がみつかれば死ぬ。それだけのことだった。おもにレジオン・エトランジェールの第13外人准旅団に同行した。レジオン・エトランジェールの司令官につてがあったからだ。

兵士と戦場と戦場を記録するカメラマンに強い関心があった。そして、死にも。戦地に行くことを告げたとき、出会って以来、ただの一度も私の言動に異議を唱えたことのないわが人生の同行者である虹子が血相を変えて反対した。

「あなたが死んじゃったらわたしはどうすればいいんですか!」
「 ── おまえも死ね」
「 ── わかりました」
「ありがとう」
「あのう ── 」
「うん」
「わたしもいっしょに行きたいです」
「それはだめだ。戦場は男の仕事場である」

1ヶ月後、私はトルコ航空アブダビ行きのボーイング747に乗った。およそ1年後、命運はつきず、死ぬには手頃な日はなく、いい死に場所はみつからなかった。カネだけがなくなった。気持ちいいくらいの一文無し、すってんてんのすっからかんだった。

最後はモロッコのカサブランカでモロッコ人の酒場のおやじに10000フラン借りて飛行機代にした。そのモロッコ人の酒場のおやじとはいまでもつきあいがある。

高校を卒業するまでは横浜が生活の本拠地であり、周辺には本牧、根岸台、磯子の杉田、金沢区の富岡などに米国軍属の居住エリアや米軍の関連施設があった。フェンスの向こう側のアメリカだ。東神奈川の神奈川ミルク・プラント(17th ASG KANAGAWA MILK PLANT)や横浜駅にほど近い金港町にあった米軍のパン工場である横浜ベーカリーからはいつもいいにおいがしていた。よく腹の虫が鳴った。いつも腹がへっていて気分はギミチョコレートだった。

国道16号線をアメリカン・スクールの黄色いスクール・バスが走る風景はあざやかにおぼえている。アメリカン・スクールの生徒とバスの窓越しに罵りあうのは日常茶飯事だった。

住んでいた家の向かいには海兵隊の下士官の家族が住む大きなハウスがあった。同級生の中には何人もハーフがいた。「あいのこ(混血児)」という言葉はごく普通に使われていた。

のちに意味を知る「オンリー」「パンパン」などという言葉も小学校の低学年のときには耳でおぼえていた。近所の主婦どもが声をひそめて「○○さんはオンリーだから」とか「パンパンふぜいが」と話す風景はどこでも見かけた。「オンリー」とは米国軍人専門に売春をする女性のことである。Babysan(ベビサン)とも言った。

夜の銀狐ことブロンド痩身のメリーさんはオンリーの象徴だった。顔面白塗りで真っ赤なルージュ。けたはずれに長いアイラッシュ。濃密濃厚なシャネル5番のにおい。フリルのついたピンクか白のロングドレス。寒い季節にはミンクかロシアン・セーブルのロングコート。

伊勢佐木町や山下公園やマリンタワーのエントランスや本牧や元町や中華街にいれば必ずメリーさんがやってきた。メリーさんはどこからともなくやってきてどこへともなく去っていくか、ただそこに立ちつくしているかする存在だった。ある意味でヨコハマ/Yokohamaのランドマーク/メルクマールだった。

メリーさんは驚くほど流暢達者に英語を話していた。派手派手しい格好とは裏腹にとても悲しげでうつろな目をしていた。メリーさんにハーシーのチョコレートとリグレーのチューインガムをもらったことがある。「パンパン」は言うまでもないだろうが「パンスケ」だ。これも売春婦を意味する。京急黄金町駅周辺にはいまも放蕩淫微なあかりが漏れる売春宿の名残りがある。

横浜にかぎらず、神奈川県内には厚木基地や米軍の関連施設がいくつもあった。逗子の池子の弾薬庫にはフェンスをくぐって忍びこみ、戦争ごっこやかくれんぼや泥巡や缶蹴りをして遊んだことがある。米国海軍軍港のある横須賀が近かったのでベトナム戦争で負傷した兵士をよくみかけた。腕や脚を失った元兵士たちは一様に焦点の定まらない眼をしていた。

ヨーハイ(Yokohama American High-school)に通うともだちの年上の兄弟が何人もベトナムで戦死した。ベトナム戦争で戦死した兵士専門の死体洗いのアルバイトをしたこともある。戦死者の死体はすさまじい。バラバラ。木っ端微塵。どろどろ。ぐちゃぐちゃ。

バラバラ、木っ端微塵の死体の一部を寄せ集めるのはパズルを組み合わせるようなものだった。かなり精と根のいる作業だった。大江健三郎の『死者の奢り』を読んだときの感想は「甘っちょろいぜ」だ。

戦場においては死は問答無用で襲いかかってくるし、圧倒的にすべてをなぎたおし、なしくずしにする。サルトルの言うとおりだ。問答無用でなしくずし。戦場においては死とともに差別もまた日常だ。戦場では銃後よりもむしろ差別は先鋭化する。一番危険なエリアに送りこまれるのはまず黒人であり、カラードだ。それが現実である。

死体洗いの話に戻る。慣れてくると(慣れ? そうだ。慣れるのだ。慣れなけりゃめしが喉を通らない)当然に手際がよくなり、処理スピードは速くなる。

1体につき2万円もらえた。1日に7〜8体やった。組み合わせがうまくいかず、白人の胴体に黒人の腕と脚、頭はアジア系のものをつけたこともあった。手の指が全部で13本などという勘定が合わない「完成品」もあった。しかし、だれも笑わない。なにごとにも関心を示さない。殺伐といえばあれくらい殺伐とした風景にはお目にかかったことがない。

ある意味では戦場よりも腹にこたえる風景だった。いや、風景ですらない。なにもない。会話がない。挨拶もない。表情もない。感情もない。あるのは細切れ、挽肉状態の無惨な死体と薬品の匂いと作業の音だけだ。天井近くの窓から射す光の束の角度が時間の経過を知らせていた。

実存の風景だった。これまでに「実存主義文学」と呼ばれるたぐいのものはほとんど読んだが、安部公房と大江健三郎、アルベール・カミュ、J.P. サルトルらの作品のいくつかをのぞけば腹にこたえるほどの「実存」を感じたことはなかった。あのときの実存の風景にくらべれば「甘っちょろい」ということだ。繰り返すが、実に奇妙で殺伐としていて腹にこたえる風景だった。

一体できあがるたびに検査官のチェックを受けるのだが、検査官の中尉は表情ひとつかえずに「O.K. No problem」と素っ気なく言ってチェック・シートに無造作にサインをした。そんなわけで、こどものころから兵士と戦場と死は身近にあった。

戦場カメラマンをした1年間にえたものなどなにもない。絶望やら人間不信やらが深まっただけだ。わりが合わない。命をかけたところで報酬はたかがしれている。いまの御時世、わりのいい仕事はほかにいくらでもあるだろう。まあ、すすめない。すすめられるような仕事ではない。

渡辺陽一? ありゃ、ただのカメラおたくだろう。やばい場所で会ったことはない。会ったことがあるのは石川文洋さん、広河隆一さん、年下では鴨志田穣と宮島茂樹くらいのものだ。

さて、本題だ。この夏の初め。7月4日の昼前、雨上がりの街を歩いていた。これといったあてがあったわけではない。風の向くまま気の向くままにただ歩く。

日本橋浜町界隈、新大橋通り。2本裏手の路地にさしかかったとき、電柱に色褪せたポスターが張られているのを発見した。早足に近づき、内容を確認する。いたるところが傷んでいる。長い年月にわたって風雨やら陽射しやらにさらされたことがわかる。眼を凝らさなければ中身を読み取れない。ポスターに近づいたり、遠ざかったりすること数度。やっとわかった。

ハンバーガー・ヒル ── 1969年のベトナム、ラオス国境で実際に行われた戦闘を描いた映画である。兵士の死体がハンバーガーの挽肉状態で転がっている激戦地、戦闘の舞台となった小高い丘を生き残った者たちは恐怖と絶望をこめて「ハンバーガー・ヒル」と呼んだ。

四半世紀も前にみた映画の断片がよみがえる。当時は『プラトーン』を筆頭に、『フルメタル・ジャケット』『グッドモーニング・ベトナム』『友よ、風に抱かれて』『カジュアリティーズ』『7月4日に生まれて』など、ベトナム戦争を主題とした映画が多く製作されていたような印象がある。

『プラトーン』と『グッドモーニング・ベトナム』はいまでもみることがあるが、『ハンバーガー・ヒル』や『フルメタル・ジャケット』はあまりにも生々しく、身につまされるのでみることはない。誰のどこの部位ともわからぬ肉片、引き裂かれた皮膚、焼け焦げた毛髪、飛び散った内臓は現実でも映像・映画でももう御免だ。

夏の盛りの陽が射してきたころ、さしかかったオープン・カフェからはウィンダムヒルの平和静謐安穏な音楽が流れていた。ハンバーガーでもかじりながら午後の予定を立てることにした。

テーブルにつくと同時に天井からぶら下がったBOZEのスピーカーからジョージ・ウィンストンの弾く『Fragrant Fields』が聴こえはじめた。

芳しい大地? 香りたつ地上? やめてくれ。冗談じゃない。そんなものはこの世界にはない。まやかしだ。うそっぱちだ。ペテンにもほどがある。この世界は『Killing Fields』だらけだ。殺戮の大地が世界を覆っているんだ。

ジョージ・ウィンストンの耳心地のいいきれいなピアノの旋律が無性に腹立たしかった。どうかしてる。きょうのおれはどうかしてるんだと自分に言い聞かせようとしたが無駄だった。

味も素っ気もないパサパサしたバンズとただ柔らかく歯ごたえ食感のかけらもない脂っこいだけの挽肉のパティと酸っぱいだけのピクルスでできあがったハンバーガーをかじりながら、いまのところこの国に生きていれば挽肉にされる心配はたぶんないだろうなと思った。いい国、いい時代ということでもあるのか? さあね。私にはわからない。


ある戦友への惜別の辞(2007年3月)

さらば、戦友よ。酒神とともに逝け/ここはお国を何百里離れて遠きアジアンの酔いどれ月に照らされて

またひとり、戦友が逝った。鴨志田穣。戦場写真家。酒豪。熱血漢。好漢。いい男だった。いくつか年下だったが、学ぶところの多い男だった。気合いの入った眼をしていた。私と面とむかって視線をそらさぬ数少ないやつだった。その「眼」で戦場を撃ち抜き、修羅場を駆け抜けた。鴨志田の眼と声がよみがえり、響く。

底なしの酒豪だった。酒の飲み方を知る男だった。悲しい酒も楽しい酒も苦しい酒も怒りの酒も飲める男だった。いつか、冬の夜、湯豆腐などつつきつつ、二人きりで静かな酒を飲みたいと思っていた。だが、もうそれはかなわぬ。またひとつ、夢が消えた。

『火垂るの墓』の節子の話をはじめると声は大きくなり、オクターブは上がり、唾を飛ばしまくり、そして、いくらでも涙を流した。宝石のような涙を流す男だった。昨今、どいつもこいつも流す涙はガラス玉ばかりだが、鴨志田の流す涙はダイヤモンドだった。本物だった。

「酒はまだ飲み足りないが、いまは死に場所をさがしている」

はっとしておまえを見たが、おまえはもう新しい盃になみなみと酒を注いでいた。

鴨志田よ、おれはやっぱり、おまえと酒を離縁させるべきだったのではないかと悔やむこともなくはないが、それは気の迷いにすぎないと思うことにした。これからは思うぞんぶん飲め。泣け。そして、視えない自由を視えない銃で撃ちまくれ。もはや、おまえを縛りつけるなにものも、なにごとも、ありはしない。

いつの日か開高健を乗り越えようと誓った横浜のバー「クラーク」の夜。そして、マラッカ海峡に轟々と沈みゆく巨大な太陽を眺めながら飲んだ生温く糞まずいバドワイザーの味を忘れはしないぞ、鴨志田よ。ますますいい奴は死んだ奴ばかりになっていきやがるなあ、鴨よ。

さらば、戦友よ。酒神バッカスとともに逝け。そして、ただ静かに眠れ。ただし、おれとおまえの二人分、天上極楽極上の般若湯ととびきりのトム・ヤム・クンの用意を怠るな。おれはきょうはわが人生の同行者に強がりをほざきつつ、グレープフルーツ・ムーンを眺めながら涙の酒を飲む。

わが友、鴨志田穣よ。酔いどれの月で会おう。そして、尽きることなき友情の盃を酌み交わそう。それまで、しばしのお別れだ。

Adieu! Adios! Amigo!


弾(さけ)、込め! 捧げ筒(さかずき)! 撃て(のめ)!

Left Alone - Mal Waldron
Grapefruit Moon/Thomas Alan Waits
Drunk on the Moon/Thomas Alan Waits


鴨志田穣の戦友諸氏に告ぐ ── 総員武装解除せよ!

鴨志田穣は逝った。二度と帰れぬ場所へ。視えない自由を撃ちぬくために視えない銃を担いで出征した。再度、言う。鴨志田は逝った。二度と戻らぬ。出征兵士を送るのに涙はふさわしくない。思うぞんぶん涙を流したのちは泣いてはならぬ。以後の涙は鴨志田の盃に落ち、鴨志田が飲む酒を苦くするだけである。

鴨志田穣はすでにしてじゅうぶんすぎるほどの苦い酒を飲んだ。苦い酒はもういらぬ。諸君の心の痛み、嘆きは、当然のごとく、わたくしの痛み、嘆きである。痛み、嘆きに打ち克つには、飼い馴らすか、無視するかしかない。生きつづけるというのはそういうことだ。

薄っぺらな感傷ではなく、かといって、訳知ったようなニヒリズムでもなく、われわれ鴨志田穣の戦友がせめてもの弔いとしてできることは、ただただ鴨志田穣を心のうちにとどめつづけ、生涯にわたって忘れぬことだけである。

かくして、鴨志田穣をめぐるわれわれの戦いはここにひとまずの終戦を迎える。勝利の美酒も勲章も凱旋も勝鬨すらもない。そのような「困難な戦い」をわれわれは戦ったのだ。このことは誇っていい。

諸君は誇り高き無名戦士、名もなき英雄である。諸君なくば、鴨志田穣は視えない自由を撃ち抜くための視えない銃の引金に指をかけることすらかなわなかったろう。

鴨志田穣とともに前線に列し、銃後を守ったのは、まぎれもなく鴨志田穣の戦友たる諸君である。諸君はよく戦った。もう戦わなくていい。「言葉の祖国」へ帰還するときだ。この戦いで諸君が流した涙はひと粒残らず、まごうことなきダイヤモンドであった。そのダイヤモンドのごとき涙は必ず鴨志田穣の盃に注がれる。そして、鴨志田穣は甘露を飲み干すように満足げに喉を鳴らすだろう。

総員武装解除せよ! 涙を拭き、涙をこらえ、それぞれの故郷へと帰還せよ! 散開!


── こちら、シエラ・インディア・ゴルフ・ノヴェンバー・インディア・フォクストロット・エコー! ノヴェンバー・アルファ・パパ・アルファ・リマ・マイク! ノヴェンバー・アルファ・パパ・アルファ・リマ・マイク! ビクター・シエラ・フォクストロット・アルファ・シエラ・タンゴ! キロ・ユニフォーム・ロメオ・オスカー・ノヴェンバー・エコー・キロ・オスカー・ノヴェンバー・オスカー・タンゴ! 援軍! 援軍! 応答せよ! ナパーム! ナパーム! こちら、シエラ・インディア・・・ ── ── ゴル・・ストロ・・・リ・・ ── ──────

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# by enzo_morinari | 2018-08-05 11:40 | イマ、ココハ、戦場ダ。 | Trackback | Comments(0)

さよなら、夏の日 ──「時が止まればいい」とつぶやく女の子の瞳からこぼれる涙のゆくえを見届けたかった。

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曖昧で、名前すらつけることのできない空を見上げながら雨の気配をさぐる日々。かつて、 われわれはそのような日々を「夏休み」と呼んだ。


逝く夏の陽を浴びて燃えたつ花たちよ
その束の間に消えゆく恋と知りながら
E-M-M

波打つ夕立ちのプール しぶきを上げて
一番素敵な季節が もうすぐ終わる
時が止まればいい 僕の肩でつぶやく君を見てた
さよなら夏の日 いつまでも忘れないよ
雨に濡れながら僕らはおとなになっていくよ
TATTOO-Y


2018年夏最後の十里木高原週末の初日。空調なしでも涼しい十里木高原を離れて下界へ降りることにはいささかの決断と覚悟と思いきりが必要だった。

富士サファリパークを過ぎ、須山の集落を過ぎ、東名高速裾野インターチェンジにさしかかる頃には夏の暑さが音を立てて襲いかかってくる。三島や沼津は放蕩の灼熱、放埓の熱帯だ。だが、このまま十里木にいると心が折れてしまうような気がして、思いきって昼前に十里木を出た。カーナビゲーションのスウィッチを切り、幹線道路を外れて田舎道を走る。カーナビゲーションにいっさい頼らないドライブがあっていい。

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名もなき小川のせせらぎやその小川で夏の日盛りを浴びながらすばしこく泳ぎまわる魚たちや村の鎮守様や夏祭りのお囃子や摂氏15度を下回る冷気に満たされた駒門風穴や熱風に揺れる稲穂や数ヵ月後には秋の訪れと深まりとともに豊穣をたたえる里山にまみえながら、伊豆半島の付け根を目指す。

県道17号線は予想通り、去りゆく夏を惜しむ人々によってものすごい渋滞に見舞われていたが、少しせつなく、気持ちのよい時間がずっと流れつづけた。

淡島の手前の内浦の海で遊んだ。内浦の海は時間が止まり、内浦漁港前の突堤で釣竿を垂れる人々のまわりの時間も止まり、ゆるやかに上下動を繰り返す釣竿の先端だけがかろうじて時の移ろいを知らせている。

内浦の海に別れを告げ、17号線をさらに北上して下田方面に向かう。それまで青かった西の空が色づきだし、海辺の街が夕暮れの気配に包まれはじめた頃、幅20メートルほどの小さな海岸が目に飛び込んできた。脇に車を停め、その海岸に下りた。海に沈みゆく夏の終わりの太陽に魅入られていると、この夏をとびきりの夏にしてくれたとびきりの笑顔を持つ女の子が言った。

「時が止まればいい」

私の肩でつぶやく女の子の瞳からこぼれ落ちる涙のゆくえを見届けたかったが、太陽はみるみる力を失い、涙は見えなくなった。それでも、いつかの夏の日の夕暮れ、彼女の涙のゆくえを見届け、ぬぐう者が現れるだろう。目をうつすと、大瀬崎の山の連なりの上に秋の気配をわずかに漂わせる月が出ていた。

さよなら、夏の日。明日になれば僕らはもうここにはいない。そして、涼しくなつかしくせつない十里木の夏ともしばしの別れである。またいつか ── 。


さよなら夏の日 - 山下達郎
さよなら夏の日 - ミスター潮風(Classical Guitar Solo)
 
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# by enzo_morinari | 2018-08-03 17:12 | 夏への階梯 | Trackback | Comments(0)

天才のメカニズム

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中学2年のときの知能検査の2週間後。サッカー部の顧問のマンゴロー先生がやや緊張した面持ちで教室にやってきた。

「ちょっといいか?」
「よくない」

私はマンゴロー先生のほうを見もせずぶっきら棒に言った。マンゴロー先生は動揺を隠せない。

「えっ?」
「いま、因数分解遊びと三角関数ごっこしてるとこだから。それと、リーマンゼータ関数の零点みっけなきゃなんねえし、臨界線の線路の幅を測らなきゃなんねえし、ヒルベルトの23の問題もほとんど手つかずだし、リーマン予想とゴールドバッハ予想を仲直りさせなきゃならない。abc予想の登場は12年後に迫ってるし、42年後の12月に出てくるabc予想を証明することになる宇宙際タイヒミューラー理論解読の準備もしなきゃいけないし。だから、おれはいますごく忙しい」
「なんにもしてないじゃないかよ」
「頭の中でやってんだよ」
「すぐ終わるから」
「きょうの練習をおれに指揮させてくれるなら考えてもいい。それと、整数論と複素数と虚数のわりと簡単な計算もかわりにやってくれたら」
「整数論も複素数も虚数もさっぱりわからないよ」
「あんた数学の教師だろ。情けないこと言わないでくれよ」
「わからないものはわからない」
「サッカー部の指揮は?」
「それならいいよ。好きにやっていい」
「で?」
「これなんだが」

マンゴロー先生は上着の内側のポケットから1枚の紙切れと知能検査の問題用紙の束を取りだした。

「なんだよ。おれの知能検査の解答用紙じゃねえかよ」
「うん。そうなんだ」
「カンニングなんかしてねえぞ。あんなくだらない問題、カンニングする必要もないし」
「おまえの近くの席の生徒も点がいいんだけど、来たのはそのことじゃない」
「10分で終わったからまわりのやつらが見やすいようにして、あとは寝てたけどな」

マンゴロー先生が笑ったので少しホッとした。

「この問題なんだけど」とマンゴロー先生は言って知能検査の問題用紙の14ページ目をめくった。

「答えは267個」

私が言うとマンゴロー先生はギョッとした顔をした。

「問題、おぼえていたのか?」
「ちがうよ。いま見てわかった」
「えっ!?」
「立方体はいくつあるかって問題だろ?」
「うん」
「だから、立方体の数は267個」
「なんでひと目でわかるんだ?」
「なんだかわかんないけどわかるんだよ。しょうがねえだろ。こどもんときからそうなんだから」

行われた知能検査はB式検査(非言語性検査)だった。図形や数字などの理数系の問題。検査時間は50分。10分ほどで全問解答した。全問正解だった。

「全問正解なんてありえないことなんだよ。正解どころか、知能テストは問題の途中までしかたどりつけないようにできているんだ」

マンゴロー先生はそう言って深々とため息をついた。

「知能検査は全問正解がありえないことくらい知ってるよ。設問の途中までしかたどりつけないようにつくってあることもな。だいたい、知能検査は問題だらけじゃねえかよ。貧乏でまともに学校行けないやつや親が教育に無関心で学校に行かせてもらえないやつや日本語を理解することも話すこともできないやつが低い結果が出るのはどうすんだ? 第1次世界大戦前、1905年、いまから70年近くも前にビネーとシモンが知能測定尺度/ビネー‐シモン法を作成したときから指摘されてたことだぞ。パーセンタイルで知能の高低を表すのだってまやかしだしな。優生政策、人種政策、人権問題にかかわることでも問題は大ありだぜ。去年、アメリカ合衆国の連邦最高裁判所が入社試験での知能検査の実施を禁止する判決を出してるしな」

マンゴロー先生は小刻みに震えだした。教室は水を打ったように静まりかえっている。息を止めているやつもいる。大きな音がしないように飲みこむように咳払いをしているやつもいる。えずいているやつさえいる。

「知能なんてのは人間の脳の働きの一部でしかない。創造力、社会性、芸術的センスなどは含まれてない。知能検査は人間の能力のごく一部を測定しているにすぎない。それもすごく精度と信頼性が欠如したやり方でな。それとなあ、知能テストじゃねえよ。知能検査だ。それまでの経緯や背景や環境がちがう者をならべてやることはテストじゃない。検査だ。ケ・ン・サ!」

私が怒鳴るとマンゴロー先生は首をすくめた。それまで笑い声や話し声でざわついていた教室が静まりかえった。

「マンゴローさあ、たばこ吸いたいんじゃないの?」
「すごく吸いたい」
「吸えよ。そんで、おれにも1本くれ」
「だめ。くびになっちゃう」
「じゃあ、こうしようぜ。屋上でおれを生徒指導。マンゴローはたばこを落とす。おれは隙を見て落ちたたばこをひろう。マンゴローは生徒指導の現場から一時的に離れる」
「しょうがないやつだ」
「ライターも落としてけよな」

私はマンゴロー先生の落としてくれたハイライトとペンギンライターをひろい、急いで吸った。急いで吸いすぎて唇が熱かった。吸い終えて、元の落ちていた場所にハイライトを置いた。ハイライトから10本抜きとるのを忘れなかった。ペンギンライターはシンクロニ・シティ東部エリアの火の用心喚起といつも会津ほまれの手ぬぐいを頭に巻きつけている理科の八巻のクソハゲじじい先公のだっさい燕脂のフローリアン(燃焼実験の被験対象)に着火するためにいただいた。ほぼ同時にマンゴロー先生が戻ってきた。おそらく、物陰でこちらの様子をうかがっていたんだろう。

「ライターは?」

マンゴロー先生はハイライトをひろいあげてから言った。

「怪しいじじいが持ってちゃったぞ。会津ほまれの手ぬぐいを頭に巻いてたから理科の八巻の関係者だと思う。伴淳三郎と東京ぼん太を足してタクシー数8753919をかけたような声で”イッペーやっか?”とか言ってた」
「どんなやつだよ、そいつ。タクシー数ってなに? あのライターすごく気にいってたのにな…。ま、いいや。あれ? たばこがだいぶ減ってるなあ」
「それは尻の軽そうな年増のババアが抜いて持ってった。股おっぴろげのヒーライタ・ババアだから整合性はあるな。腰つきが棒杭にとまってる大宮デン助と乳繰りあうときのクイクイイクイクの様子からして、スーパー・オールドミスの生稲の婆さんの可能性大だ。床上手床惚れの生稲の婆さん、クイクイイクイクはなかなかのもんだけどゆるいんだよな。あたりないし。タクシー数についてはおいおいな。フィンガー5を見出して育てたと言い張ってるポンコツボンクラヘッポコスカタン木偶の坊の世志凡太にでも迎車で持ってかせる。浅草と向島の芸者付きで」

私が言うとマンゴロー先生は声をあげて笑った。

「この立方体の数が267個の問題だけど、横浜市で正解したのはおまえだけなんだ。神奈川県でも2人だけ」
「ふーん。それがなんだってのよ」
「あの問題までたどりつけたのはおまえともう一人の生徒だけ。ほかは解答すらできなかった」
「だから、それがなんだってんだよ!」
「相談というか、頼みなんだけど、専門機関で正式な検査を受けて欲しい」
「おれが病気だとでもいうのかよ」
「そうじゃなくて」
「まあ、マンゴロー先生の頼みじゃきかないわけにもいかねえな。いいよ。そのかわり、ポジションをセンター・フォワードからハーフへコンバートしてくれよ」
「うーん。困ったな。それはなんで?」
「センター・フォワードってボールが来るのを待って、来たらシュートするだけだろ。つまんねんだよな。ゲームを作りたいんだよ。ゲーム・メイク。イマジネーション・フットボール。わかる?」
「イマジネーション・フットボール...。なんだかわからないけど、すごいな」
「フォワードは攻撃、バックスは守備なんて膠着したサッカー、4-2-4/4-3-3なんて旧態依然としたシステムは時代遅れになっちゃうぜ。全員がすべてのポジションをやる。そんで、ぐるぐる渦を巻くようにポジション・チェンジする。全員攻撃/全員守備のトータル・フットボール。わかる?」
「ますますわからない」
「ところで、マンゴロー先生よお。神奈川県でおれともう1人正解したってやつだけど」
「うん」
「どこのどいつ?」
「茅ヶ崎の女の子。その子は全問正解じゃないけどね」
「会わせろよ」
「向こうもおまえに会いたがってる」
「頼むぜ」
「なんとかがんばるよ」

1972年秋。イマジネーション・フットボール/トータル・フットボールという言葉すらない時代。日本代表がワールド・カップに出場するなど夢のまた夢、百姓一揆サッカーに明け暮れる日本サッカーの旧石器時代だ。ワールド・カップのTV中継すらやっていなかった。

1974年の西独ワールド・カップにヨハン・クライフ率いるオランダ代表がトータル・フットボールをひっさげて登場し、世界のサッカー界にとてつもない衝撃を与える2年前のことだ。私はヨハン・クライフの名前すら知らなかった。知っていたワールド・クラスのサッカー選手は1000得点/10人抜きのキング・ペレ、モザンビークの黒豹エウゼビオ、愛すべきウーヴェ・ゼーラー、ランニング・シュートのジャイルジーニョ、左足の魔術師リベリーノ、元祖イケメン/長髪/ジャージ外出しのジョージ・ベスト、神の手GKゴードン・バンクス、キャノン砲のボビー・チャールトン、骨折腕吊りのベッケンバウアー、爆撃機ゲルト・ミュラーくらいのものだった。マラドーナは小学生、メッシとネイマールは生まれてすらいない。

「きょうの練習は樽が指導指揮する」

サッカー部員を朝礼台の前に集合させてマンゴロー先生は言った。私はセンターサークルで円陣を組むように促した。円陣の真ん中に立ち、全員にグラウンドに座るように言ってから宣言した。

「これからおれたちのサッカーはまったく別物になる。トータル・フットボールだ」

私が宣言するとサッカー部員たちはどよめいた。

「トータル・フットボールに決まったポジションはない。だれもがフォワード/オフェンスであり、だれもがバックス/ディフェンスであり、だれもがハーフ/ミッドフィールダー/ゲームメイカーである。ゴールキーパーもゴールエリア、ペナルティエリアから飛びだしてディフェンスし、ゲームメイクし、シュートを撃つ。渦巻きのように回転しながらどんどん自由にポジション・チェンジする。チーム全体がひとつの大きな渦巻きだ。よそのチームは前進と後退しかしない能なしサッカー、百姓一揆サッカーだ。前へ蹴って走りこむだけ。そんな単純単調な2サイクル・エンジンの原付サッカーが、前に後ろに横に斜めにボールをまわしてポジションの決まっていない人間がさらに複雑に動きまわるロータリー・エンジンのレーシングカー・サッカーに勝てるわけがない。円運動をパワー、エネルギーに変換すること。宇宙万物森羅万象を支配する物理法則を味方につけてすべてのプレーを行うこと。物理法則を制する者は世界を制する。その方程式は ──」

全員が固唾を飲んで私の一言一句を聞きもらすまいと耳をそばだてていた。

「 ── その方程式は、腹がへったらめしを喰うだ」

全員、同時にガクっときた。「円運動は完成された形であり、これに勝る運動はない。それがトータル・フットボールだ。いいな? トータル・フットボールだぞ。運動、練習して腹がへったらめしを喰うんだぞ」

私が言うとさらに大きなどよめきが起こり、一斉に拍手と笑いと歓声が上がった。私の考えるトータル・フットボールは1年後に完成し、それまで、せいぜい横浜市のベスト16が最高成績だったチームは神奈川県大会の決勝に進んだ。

***

私は天才という呼び方、その意味するところがまったく気にいらない。記憶力がいい。計算が速い。これまでのパラダイムを飛びこえた発想着想ができる。だからどうした八百屋の五郎という感想しかない。頭のいいわるいもきわめていい加減で曖昧なものだ。学力が高くて試験の点数がよくて成績表の数値がよくて頭のわるいやつは掃いて捨てるほどいる。逆に落第点ばかりで成績表はアヒルの行進でも頭のいいやつはいる。ワイルド・ライフには頭のわるいものはいない。頭がわるければ喰われてしまうから生き残れない。子孫を残せない。遺伝子はそのようなことを選択しない。天才/秀才/頭がいい/頭がわるいというくくり方/物言いはきわめて曖昧で非科学的である。社会学の与太話と思っておくくらいでちょうどいい。

記憶力はハードディスクには到底かなわない。計算はCPUのほうが桁外れに速い。パラダイムを飛びこえた発想着想は100年か200年経てば道っぱたに転がっている石ころみたいにありふれたものになる。時間的な長短/速い遅いにはいささかの価値もない。速くなってえられるものはない。たかだか100年足らずしか生きることのできない人間に速いも遅いもない。宇宙創生138億年からすれば100年など零に等しい。1指パッチンにも値しない。1指パッチンには65刹那がつまっていることを考慮勘案してもだ。

アインシュタインは天才ではない。レオナルド・ダ・ヴィンチもゲーテもモーツァルトもだ。たかだか100年か200年早くなにごとかをしたことなどになんの意味も価値もない。天才などいないというのが結論である。天才などいるわけがないし、いる意味も必要もない。物理法則が支配する世界に無意味不要なものは存在しえない。

***

「すべてオフレコで」という年老いた大脳生理学者のひと言で検査後の話しあいは始まった。

「なにかある」と年老いた大脳生理学者はぽつりと言った。「あるはずのない場所にあってはならないものがある。しかし、この事態を認めるわけにはいかない。認めれば、わたしがこれまで営々としてつづけてきたことがすべて意味を失ってしまう」と年老いた大脳生理学者は最後に言った。
 
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# by enzo_morinari | 2018-08-01 17:17 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

齢の決算書 ── マイナス100度の太陽みたいに

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だれにも見られたくない涙の幾粒かがある。真夏の果実さえ一瞬にして灼きつくすマイナス100度の太陽にも消すことのできない涙が。


「齢の決算書」をつくる過程で、泡の時代の「もうひとつの貸借対照表」のための参考資料として1990年前後の自分自身のテクスト、世に出たあまたのテクスト、楽曲/音楽を読み、聴きなおしている。

1990年の夏の盛りに出たサザンオールスターズの『真夏の果実』を聴いていたら無性に泣けてきた。『真夏の果実』の中に出てくる「マイナス100度の太陽みたいに」という言葉が突き刺さった。それは実体をともなってわが身を貫いた。マイナス100度の太陽は、当時もいまもかわらず微動だもせずに頭上にあり、私と世界を灼きつくし、凍りつかせながら輝いている。しかし、いまや世界に伝説の水曜日の大波と稲村ジェーンの消息を知る者はいない。

1990年夏。天国と地獄と残酷と冷酷と冷淡が嵐のように吹きすさんでいた。1990年の春には置き場所に困り、うなるほどあったゼニカネはものの見事に消え失せていた。あのときあったゼニカネはいったいどこに消え失せてしまったのか。すでにして30年近くが経過している現在もすべては解明できていない。これからここに書き示すのはマイナス100度の太陽のごとき日々の記録となるはずだ。

***

1989年の暮れだった。泡劇場は最終幕に入ろうとしていた。

「おまえが小学校に入学した頃、おれは30歳で、すでにして人生に起こりうるあらかたは経験済みだった」

私に大きな仕事をもたらしたちょうどふたまわり年上の画商はそう言って私の瞳をしげしげとのぞきこんだ。「いま限界ぎりぎりまで膨らんでいる泡はいずれ弾ける。おまえも30歳だ。この先、泡が弾けたあとにどう生きていくか覚悟だけは決めておけ」

しかし、時すでにおそし。1989年の暮れの段階ですでに手のほどこしようがないほど私を取り巻く事態は悪化していた。敗戦処理さえできない状況だった。

数ヶ月後、画商の言葉どおり、泡は大音響とともに弾け飛び、私は泡の時代に手に入れたもののすべてを失い、画商は2253億円の巨額の負債を抱えて自己破産した。画商の破綻のことは日経にもでかでかと記事が載った。

見事なほどの弾けっぷりだった。救いは当の画商が大笑いしていることだった。私も一緒に大笑いしたかったが、大笑いするには私にはまだ人生経験、踏んだ修羅場の数、通りすぎた門松、喰った餅の数が少なすぎた。笑い話にできるようになったのはここ最近だ。

銀行、金融機関は手加減容赦なくありとあらゆるものを差し押さえ、ゼニカネの亡者となった債権者たちは鍋釜の果てまで、めぼしい金目のもののあらかたをトラックを乗りつけて持ち去っていった。そして、予想どおり、「泡劇場」の最終幕、大団円には裏街道、闇社会の修羅、下衆外道どもが津波のように押し寄せてきた。勿論、画商のところにもだ。

泡の時代の最中には米つきバッタよろしくすり寄ってきていた雑魚三下奴どもは恥も外聞もなく手のひらを返し、蜘蛛の子を散らすように私と画商のまわりから消え去った。そして、私は学んだ。金輪際、人間を信用してはならないと。肝心かなめのことは経験を通してしか学ぶことはできないし、身につかないということだ。

以後、今日に至るまで、私は誰憚ることのない人間嫌いになった。ただし、実際に目の前にいる人物を信用しないというのは精神的にとても疲れるので、極力、生身の人間とは会わず、関わりを持たないようにすることでかろうじて精神の均衡を保っている。実際、生身の人間と会ってしまえば情がうつり、しがらみが生じる。そうなればいやでもその人物を信じるようになり、親愛の情も湧く。猜疑心に苛まれ、疑いの目で他者と接することほど不幸なことはない。会うことがなければ信じることはなく、疑うこともない。よって、私は滅多なことでは人と会わず、関わりを持たなくなった。

そのような次第で、経験の「け」の字も知らぬような若造小娘甘ちゃんのリアリティのない甘っちょろい寝言たわ言きれいごとおべんちゃらおためごかしには一切耳を貸さない。聞かない。物静かに退場させる。事と次第によっては踏みつぶす。あらゆる手練手管を行使駆使して回復不能な打撃を加える。生涯にわたって抱えつづけるトラウマをもたらす。

寝言は寝てから言うものと相場は決まっている。寝言たわ言きれいごとおべんちゃらおためごかしは年端もいかない若造小娘相手か退屈で陳腐でかわりばえのしない閨室の寝物語/ピロー・トークのときにでもほざくがいい。

***

1990年の冬の初め。昼めしどきを過ぎた昼下がり。私と画商は麻布十番の永坂更科の小上がりにいた。

「死ぬしかないか?」と画商が言った。
「まだ死ぬときじゃありません。死ぬのは裏切り者どもを見返し、葬ってからです」と私は答えた。画商は黙ってうなずいた。
「樽よ。おまえ、ずいぶんとおとなになったな。いい男に。面構えもたいしたもんだ」
「授業料はいささか高くつきましたがね」

二人して同時に静かに笑い、鰤のあら煮を肴に冷やのコップ酒を3杯ずつ飲んだ。ひさしぶりに飲む酒が五臓六腑にしみわたった。うつむいた画商が声を殺して泣いているのがわかったが気づかぬふりをした。だれにも見られたくない涙の幾粒かがある。経験の「け」の字も知らぬような若造小娘甘ちゃんにはわからぬたぐいのことだ。

死は決して敗北ではないが、罵声を浴びせかけられ、針の筵を歩きながら、それでも生きつづけることの意味を考える絶好の機会だった。

いい年をぶっこいてよく腹がへった。腹は決まっていたがちょくちょく腹の虫が鳴った。鉄管ビールでしのいだ最長は9日間。ポンコツボンクラヘッポコスカタンデクノボウどもが「オサレなランチ」やら「豪華絢爛ステキステキのディナー」やらを喰い、「仲良しとグルメ温泉ツアー」にうつつを抜かしている頃、私はひたすらわが刃を研いでいた。そんな私の姿を見た虹子が泣き出すこともしばしばだった。

「あのころ、あなたは本物の鬼でした」とはつい最近の虹子の言葉だ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母をも殺す。そんな日々だった。

「コペルニクス的転回」も「コペルニクス的転回の転回」も「絶対矛盾的自己同一」も「身心脱落本来面目現前」も私の係ではない。それってうめえのか? ダシはきいているか? 歯ごたえはどうなんだ? そんなリアリティのないものは「くそまじめな精神」の持ち主様にでもくれてやれ。さもなきゃ、犬畜生にでも喰わすか糞掻きべら一閃、宇宙の果てまでかっ飛ばしちまえ。

おのれを捨てろだあ? おのれを虚しゅうしろだと? 何度でも言う。寝言は寝て言え。のたうちまわりながらほかの何者にもなりかわりえない自身のリアルをグリップすること。それが意味を持つ。

その頃の私には「死のリアリティ」は薄く、不思議なことに「生のリアリティ」だけは手づかみ赤むけだった。しかしながら、私がしたような経験などはできうればしないに越したことはない。マイナス100度の太陽が決して沈まぬことを知らぬ者は。

敵は視えないし、24時間戦うことはできないし、24時間戦ってえられるものなどなにもない。視えない敵とは100年戦っても答えは出ないし、和睦もできない。しかし、「最終解答」「本当のこと」「約束の地」はある日突然その姿の一端を垣間みせる。ただし、姿の一端が垣間みえたからといって手に入る保証があるわけではない。まれに手に入ることがあるが、手に馴染まなかったり収まりが悪かったり折りあいがつかない場合もある。手にいれた刹那に逃げてしまうことだってある。

すべてはその時々の風向き、天の配剤、めぐりあわせ、宇宙を支配する巨大な意志の力の如何による。このとき、これらの事態に人間の意志のたぐいはおよばない。Que será, será/Let it be/なるようになるさと嘯くか、空を見上げてLa Vie en Rose/バラ色の人生を歌うとほんの少し人生の景色が色づくこともある。巨大なブルーマーリン・セイルフィッシュを釣りあげた元気な頃のパパ・ヘミングウェイがMoveable Feast/移動祝祭日を携えて海流の中の島々を案内してくれることさえ。
 
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# by enzo_morinari | 2018-07-31 17:24 | 齢の決算書 | Trackback | Comments(0)

埴生の宿の夜はふけて#3 母が教えてくれた歌 ── 人生の夕暮れ/残照のときを迎えて

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歌いなさい。泣きなさい。そして、最後は笑いなさい。OFF-CROW-SAMA


母はいつも歌を口ずさんでいた。わが母ながら素晴らしい美声の持ち主だった。エディット・ピアフに心酔していた母が歌うのは『バラ色の人生』や『パリの空の下』や『愛の讃歌』などのシャンソンが中心だった。『ダニーボーイ』のときもあれば『すみれの花咲く頃』のときもあれば『テネシー・ワルツ』のときもあった。ドヴォルザークの『母が教えてくれた歌』もよく歌っていた。

『母が教えてくれた歌』(Když mne stará matka zpívat, zpívat učívala/Als die alte Mutter mich noch lehrte singen/Songs My Mother Taught Me)はアントニン・ドヴォルザークが1880年に作曲した作品55『ジプシーのメロディ』の第4曲である。『ジプシーのメロディ』はボヘミアの詩人アドルフ・ヘイドゥクによる連作詩集を元にしたものであって、これに深い感銘を受けたドヴォルザーク自身がチェコ語の原詩をドイツ語に翻訳し、曲をつけた。『ジプシーのメロディ』は荒野を放浪するジプシーの母親による一人語りの形式を持ち、全7編からなる。『母が教えてくれた歌』の日本語訳は以下のとおり。

遠い昔に老いた母が歌を教えてくれたとき
母の目に大粒の涙が絶えることはなかった
母親となってその歌を子供らに教えるとき
私の目にもいつの間にか涙が浮かんでいる


母親思いで子煩悩であったと伝えられるドボルザークの『母が教えてくれた歌』にこめられた切々とした心情は聴く者を強く深く揺さぶらずにはおかない。

『母が教えてくれた歌』は『ジプシーのメロディ』の中でも特に愛され、フリッツ・クライスラーがヴァイオリンとピアノのために編曲したことによって広く世に知られるようになった。レパートリー、持ち歌とする歌い手、ヴァイオリン奏者、ピアニストも多い。エリーザベト・シュヴァルツコップ、ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス、ネリー・メルバ、ジョーン・サザーランドらの歌唱がある。ポール・ロブソンの愛唱歌でもある。また、映画『刑務所の中』のエンディングでゆっくりとタンポポが大写しされるシーンで流れる日本フィルハーモニー演奏の『母が教えてくれた歌』はとても印象的だった。それまで飄々としたギャグ連発の映画が一転、美しく深い詩情を湛えるものとなった。監督の崔洋一は「運不運、幸不幸は人それぞれだが、だれでもに等しく古今東西の別なく母はある」とでも言いたかったか。

やむにやまれぬ種々の事情、経緯によって母のいない者であってもその胸の内に「母の面影」を宿すことはできる。レオナルド・ダ・ヴィンチは生涯にわたって「母の面影」を追いつづけた果てに「万能の天才」「知の巨人」「創造の王」となった。

母は『母が教えてくれた歌』をいつ、どのような場面で歌っていたのであったか。いずれにしても心さびしいときか困憊のときでもあったろう。母の哀しげな歌声もさることながら、『母が教えてくれた歌』の曲調と旋律は子供心にも大層せつなく哀しく儚く聴こえた。このまま母が私の前から永遠に消え去り、死んでしまうのではないかとさえ思われた。

母は歌いながら泣いていた。いつも決まって夕餉前の夕暮れ時だったと記憶する。黙々と夕餉の仕度をする母の哀しげな歌声に混じって狭く薄暗い台所から煮物のにおいがした。大根と人参と生揚げの煮物。裸電球に照らされた母と私だけのつつましく貧しい夕餉。それでも、母と二人きりで向かう夕餉の食卓は暖かく慈しみに満ちていたのだと思える。

夕餉のときは母と実に色々のことを話した。学校での出来事や勉強のことや音楽のこと、読書のことや日々の暮らしの不満や母の青春時代の思い出話など。母は私に真剣に向き合って話に耳を傾け、身ぶり手ぶりを交えて話してくれた。かけがえのない宝石のような時間だった。

他愛のないことでしょげかえる私に母は言ったものだ。「歌いなさい。泣きなさい。そして、最後は笑いなさい」と。今、虹子と二人囲む食卓にもおなじ時間が流れ、おなじものがある。

母は私が中学2年生の秋に片手で持てるほど小さく軽くなって死んだが、今も静かに語りかけてくる。「歌いなさい。泣きなさい。そして、最後は笑いなさい」と。

人生の夕暮れ/残照のときを迎えたいま、仕上げがわりに、せめて、母の言いつけを守ることにしよう。そして、母にできなかった分の孝行を虹子にしようと密かに決めている。

おそくはない。まだ間にあう。折れそうになったら、『母が教えてくれた歌』を聴き、歌えばいい。母の歌う『母が教えてくれた歌』が聴ける日も、遠い日の花火ほど遠くはない。


Dvorak - Songs My Mother Taught Me (No.4, Op.55)/わが母の教えたまいし歌
Itzhak Perlman
Victoria de los Angeles
Pablo Casals
Yo-Yo Ma
Bela Banfalvi & Budapest Strings
Joshua Bell

 
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# by enzo_morinari | 2018-07-31 11:29 | 埴生の宿の夜はふけて | Trackback | Comments(0)

Stay Gold ── 夕焼けをみる心が黄金なんだ。

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夕焼けがせつないのは太陽が別れを告げながらすべてを燃やしつくすからである。一日に起こり、思い、感じ、経験したもののすべてを。 E-M-M


風邪っぴきのため、体調はなはだ悪し。咳が止まらぬ。体温38度7分。平熱が35度ほどの吾輩にはかなりしんどい。人間という生き物はきわめて狭いサーマル・バンドの中で生きていることを実感する。

ひと晩、たっぷりと休養を取ったら、体調は驚くほど恢復した。景気づけに『レオン』『紅の豚』、そして『アウトサイダー』を立てつづけにみる。『レオン』は週に一度、『紅の豚』は月に一度、『アウトサイダー』は夕焼けをみたくなったとき、それぞれみる。特に『アウトサイダー』を見終えたあとはかならず夕焼けをみにいくことにしている。名うての夕焼け屋である吾輩はいつどこでどのような夕焼けをみることができるか常に把握している。パーフェクト・グリップ。抜かりはない。抜かりはないがたまにオマヌケな事態になる。まあ、ご愛嬌ということだ。

アウトサイダー。好きな映画だ。内容は下町の「グリース」と呼ばれる不良グループと山の手の「ソッシュ」と呼ばれるお坊ちゃんたちの戦いと傷心と痛みの寓話である。

『アウトサイダー』は『地獄の黙示録』で山ほどの借財を抱えたフランシス・フォード・コッポラが資金稼ぎのために制作したといわれている。公開当時、YA/アメリカン・ヤング・スターズといわれた若手の役者が大挙して出演している。

トム・クルーズ、パトリック・スウェイジ、マット・ディロン、C.トーマス・ハウエル、ラルフ・マッチオ、ロブ・ロウ、ダイアン・レイン、エミリオ・エステヴェスら、のちに「大物」となる役者が目白押しである。

映画評論家どもやら訳知り顔の映画通どもに貶されることのほうが多い作品だったが、映画評論家も映画通もいっさい信用しないし、認めないから、彼らが『アウトサイダー』をどのようにこきおろそうと吾輩の知ったことではない。

1983年公開。封切り初日に横浜馬車道の東宝会館でみた。映画は一人でみるものと決めている吾輩が『アウトサイダー』だけはガールフレンドと一緒にみた。映画が終わって立ち上がれない吾輩の背中をガールフレンドはずっとさすっていた。彼女自身もしゃくりあげながら。夕焼けのシーンからふたりともしゃくりあげていた。夕焼けはひとの心と魂を赤むけにする。そして、夕焼けをみる心の黄金は沈黙する。

あの日から35年が経ってしまったか。35年のあいだにのちに人生の同行者となるガールフレンドは死の淵を綱渡りするような過酷峻烈な闘病を経て、幼い女の子を3人残して自らの揺るぎなき強固な意志に基づいて尊厳死を選びとって夕焼けをみる心の黄金の物語を完結させ、パトリック・スウェイジは膵臓がんでエンジェル・ゴーストとなった。トム・クルーズはハリウッドというワンダーランドで押しも押されもせぬ大物となり、エミリオ・エステヴェスの実弟のチャーリー・シーンは救いようのないポンコツに成り下がった。吾輩の「荒ぶる魂」もなりをひそめるはずだ。ポンコツヘッポコスカタンの無礼非礼を華麗にスルーできるようになったんだからな。時間は手加減なし容赦なしに残酷だが、ときとしてひとをいい方向に変えることもあるということか。

下町の「グリース」と呼ばれる不良グループと山の手の「ソッシュ」と呼ばれるお坊ちゃんたち。単純だが永遠の「階級闘争」が『アウトサイダー』の主題である。陳腐なテーマではあるが、この図式はずっと続くんだろう。変わらないもの、変えようのないものもまたいくらでもある。

『アウトサイダー』は20世紀前半のアメリカを代表する農村詩人、ロバート・フロストの詩集『New Hampshire』中の美しい詩『Nothing Gold Can Stay(黄金は情け容赦なくうつろう)』をモチーフのひとつとしている。人間は生まれたときは黄金のように輝いているが、時間の経過とともに輝きは色褪せる。しかし、だからこそ友よ、ずっと黄金のままでいてほしいというメッセージ。そのメッセージを受け取れない者の魂は錆つき、背中は煤けていると思ったほうがいい。

『アウトサイダー』のテーマ・ソングはスティーヴィー・ワンダーの『Stay Gold』だ。『アウトサイダー』の夕焼けのシーンでこの歌が流れるといつも鳥肌が立つ。「映画の夕焼けのシーン」ランキングがあればおそらく上位にランクインするだろう。肝心の夕焼け、夕映えが一部作り物という無作法不調法鼻白みがあるが、おのが魂、性根、心映えに黄金に輝く夕焼け、夕陽、夕映えがあれば気にもなるまい。要は夕焼けをみる心の黄金を持っているかどうかということだ。

映画のラスト近く。主人公のポニーボーイと主人公の親友のジョニーが夕焼けに染まる丘に立ち、すべてを赤く染めながら沈んでゆく太陽をみる。ジョニーがフロストの詩を引用したあとに言う。

「Stay Gold. ずっと輝きを失わないでくれ。夕焼けをみる心が黄金なんだ」

ジョニーはまもなく不慮の事故で大やけどを負って命を落とす。病院のベッドで死の間際にジョニーはポニーボーイに再びいう。

「黄金のままでいてくれよ」


東京時代はいい夕焼けをみるのにすごく苦労した。もっぱら浅草松屋屋上のフェンス越しに上野のお山の東天紅あたりに沈む夕陽をみるか、お台場海浜公園の夕焼け広場の芝生に寝転んで夕焼けをみるかすることが多かった。

きのう、心ふるえる夕焼けにまみえた。ここ20年でもっとも沈黙せざるをえない夕焼けだった。いつか、気持ちのいい風に吹かれながら、「締め切り」やら「予定」やら「約束」やらといった鬱陶しいことどもとは遠く離れて、燃えあがる夕焼けを時さえ忘れていつまでもいつまでも眺めてみたいものだ。ついでに、魂は錆びついていないか、赤むけか、背中は煤けていないか、まだおのが魂、心に黄金があるか否かの計測も。夕焼けをみる心の黄金の物語はまだ完結していない。


Stay Gold. 夕焼けをみる心が黄金なんだ。


Nothing Gold Can Stay / Robert Frost『New Hampshire』より

Nature's first green is gold,
Her hardest hue to hold.

Her early leaf's a flower;
But only so an hour.
Then leaf subsides to leaf.

So Eden sank to grief,
so dawn goes down to day.
Nothing gold can stay.

創造の時 滴る緑は黄金に輝き すぐにうつろう

創造の時 輝く葉は花 そして瞬く間に散りゆき
やがて葉はただの葉

エデンは悲しみの底に沈み 夜明けはただの昼
黄金は情け容赦なくうつろう




Stay Gold - Stevie Wonder
 
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# by enzo_morinari | 2018-07-30 15:11 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

遠い日の夏、山手のドルフィンで海を見ていた午後の思い出

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Once upon a time in The Dolphin, We See the Sea in Sweet Sorrow Afternoon.


昔々の大昔の小さな泡のようには消えなかった恋の話である。小さな泡のようには消えなかったけれども、終わった恋であることにかわりはないし、深傷を負ったし、痛みの痕跡は胸の奥のほうにわずかに残っている。痛みはいまも残っているが回復不能というわけではない。

山手のドルフィンから三浦岬は見えない。晴れた午後だろうと天気雨だろうとゴッデスにライトニング・ボルトが落ちようと水平線がみるみる煙ろうと夏の初めの通り雨が降ろうと相模線が脱線して茅ヶ崎の白いハウスをなぎたおそうと血が先に出ようと片時雨だろうと14番目の月が欠けようとサーフ&スノー日和だろうと見えない。春夏秋冬、1年中見えない。窓に頬を寄せようが飛ぶカモメがジョナサン・リヴィングストン・シーガルだろうがドルフィンの前に雨のステーションができようがシンデレラ・エクスプレスに弾き飛ばされた灰皿が直撃して死のうがかもめホテルといるかホテルといないかホテルと田舎ホテルとラブサイケデリコ・ホテルが合併しようがペンギンズ・バーでベックソお荷物/劣化皇太后の浜崎あゆみがアルバイト先のコストコの3サイズ小さい制服に相撲取り肉塊を無理矢理押しこんだパッツンパッツン状態でディナーロール36個を一気喰いし、巨大ティラミスをむさぼり喰いながらドスコイドスコイと四股を踏んで息も絶え絶えに口パク/18番パクリで『Sweet Memories』を歌おうがバナナ烏賊とバラライカがララバイをめぐってヴァルヴァ合戦しようが見えないものは見えない。断固として見えない。見えたら、それは日系ウガンダ人呪術師にして不全感回収業者であるハルキンボ・ムラカーミの呪いである。走行中に突如車内の照明が消える地下鉄銀座線の大猿の呪いに匹敵する狷介胡乱さである。

山手のドルフィンは小さなレストランではないし、古い暖炉も真赤なバラも白いパンジーもないし、ブルーの絨毯は敷きつめられていないし、メニューに貨物船が航行できるような巨大なソーダ水はないし、ドルフィンの紙ナプキンはインクがにじまない。ドルフィンの3階にあるトイレの入口を入って左側の壁に「ユーミンのうそつき!」と落書きしたのは17歳の私である。

「ねえ、約束して。忘れないって。もう二度と会えないかもしれないけど、忘れないって」と彼女は言った。目には涙がにじんでいた。彼女の涙をぬぐうことすらできない自分の不甲斐なさが腹立たしかった。彼女と出会った高校生の頃からおなじだ。30歳を目前にしたおとなの男の態度ではない。情けないもいいところだ。

「忘れないよ。きっと忘れない」

そう答えるのが精一杯だった。夏が終わる頃には彼女はもうこの世界にいないからだ。彼女との14年4ヶ月の日々がよみがえる。正確には14年4ヶ月と24日だ。宝石のような14年4ヶ月と24日。かけがえのない14年4ヶ月と24日。二度と取りもどすことのできない14年4ヶ月と24日 ──。

世界がゆれる。にじむ。崩れてゆく。見ると、彼女は店の紙ナプキンになにかを書いている。息が荒い。肩で息をしている。この瞬間にも彼女の残り時間は容赦なく削られてゆく。刻々と削られてゆく残り時間に耐えられなくなって彼女は自ら死を選んだ。自ら死を選んだけれども、それは彼女にとって「よりベターな選択肢」だったんだろう。「よりベターな選択肢」というのは高校生の頃からの彼女の口ぐせだった。

彼女はしばらく窓に頬を寄せていたが、カモメは1羽も飛んでいなかった。貨物船も見えなかった。この期に及んでも、やはり三浦岬は見えなかった。

高校2年の秋。2限目の古典特習の終鈴が鳴り終わらないうちに学校を抜けだし、授業をサボった。京浜東北線の根岸駅から歩いて不動坂のゴツゴツした急坂を息をきらして登った。不動坂の崖に彼岸花が群生していた。横浜市営バス103系統の路線バスが脇をかすめていった。根岸森林公園になる前の根岸競馬場跡地の廃墟のような観覧席跡に忍びこみ、彼女がつくったお弁当を2人ならんで食べた。塩ジャケはしょっぱかったし、厚焼きタマゴは甘すぎたし、タラコは焼きすぎだった。でも、おいしかった。お腹いっぱいになった。

フェンス越しにフェンスの向こう側のアメリカである米軍軍属居住エリアのカラフルなペンキがペイントされたハウスを眺め、M16自動小銃をかまえたMPに追い返され、立ち去るときに、Kiss My Ass Hall! Monkey Donkey Yankee! と捨てぜりふをぶちかましてやった。そして、彼女と全力疾走でドルフィンまで逃げた。うしろから、Fuck You! Jap! Fuck You! Nip! Fuck You! Yellow Monkey!という怒鳴り声が聴こえた。M16自動小銃の照準はまちがいなく私の頭に合わされていたはずだ。かなりビビったが、冥王星の税務署正面玄関までだって走れるほど気分は高揚し、全身に力が漲っていた。

初めてドルフィンに行ったがメニューにソーダ水はなかったし、三浦岬は見えなかったし、カモメも飛んでいなかった。彼女が止めるのにもかまわず、3階のトイレの壁に「ユーミンのうそつき!」と落書きした。はるか遠い日の思い出。2人とも若かった。若すぎるほどに。空を見上げて雨の気配をさぐる永遠の夏休みのような日々だった。そのような日々が永遠につづくものと思っていた。当然のように。

彼女は陶器のように白くて細くてつるりとした指先で紙ナプキンを私のほうに滑らせた。紙ナプキンには青いインクで「忘れないで」と息も絶え絶えに書かれていた。彼女は「忘れないで」の5文字を書くのに5回手を止めて4回深く息を吸った。こどもの頃から書道を習っていて字がじょうずなはずの彼女の書いた文字はひどくぎこちなかった。ふるえていた。わなないていた。「忘」の文字は途切れ途切れに書いたのが手に取るようにわかった。苦しそうだった。涙でにじんで文字がかすんでみえた。

「忘れないよ。きっと忘れない」

私は繰り返した。やっと。絞りだすように。彼女は私の涙を白くて細くてつるりとした指先でぬぐってから、「ごめんね。本当にごめんね」と言った。

「なんで謝るんだよ。謝るなよ。頼むから、謝ったりしないでくれよ。...忘れないけど、つらいし、痛いだろうな」
「痛いのは苦手だもんね。高校生の頃から。インフルエンザの予防接種のたびにあなただけ大騒ぎしてた」

そう言ってあごを少しあげて笑う彼女の喉元は指先とおなじように白くて細くてつるりとしていた。

夏がくるたびに確実な痛みをともなってせつなかったドルフィンの午後を思いだす。もう、30年が経つ。30年のあいだに数えきれないほどの夏と秋と冬と春が通りすぎていった。多くの人々と出会い、少しの友だちが残った。酒の味をおぼえ、酒の飲み方を学んだ。

元町POPPYの専務と齢の差/世代の壁を超えて仲良しになり、3年後に野辺送りした。やさしい雨の降る美しい葬列だった。葬列の向こう側ではPOPPYのロゴが入ったレジメンタル・タイがかすむように揺れていた。

『犬の聖歌』を知って愛唱歌/座右の銘とし、最良の友となる世界にただ1頭のミニチュア・セントバーナードのトパンガと出会い、美しい友情を育み、虹の橋へ見送った。憎悪の巡礼/ルサンチマンの旅の日々が始まった。

ほっかむりはゆるさない。なかったことにはしない。水にも流さない。ほとぼりは冷めない。冷めないどころかいや増す。吐いたツバは飲みこませない。倍返しではない。百倍返しだ。

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30年のあいだに、生きつづけるというのは取り残されることであると学んだ。マル・ウォルドロンがビリー・ホリディに先立たれ、取り残された痛みを『Left Alone』で慟哭きながら演奏していた。1988年の8月15日から1989年の8月15日までのあいだ、毎日毎日朝も昼も夜も『Left Alone』を聴いた。

出だしのAsのジャキー・マクリーンが吹くパピポーを聴いて352回泣いた。セルマーのAsを買って『Left Alone』を耳コピーして吹いた。出だしのパピポーはジャキー・マクリーンと寸分たがわずに吹けるようになった。

葬送/野辺送りの調べのようなマル・ウォルドロンのピアノにつづくジャッキー・マクリーンの出だしの1章節を聴いただけで完全にノックアウトだった。より厳密に言うならば、ジャッキー・マクリーンの最初の3音。パピポー。あの3音だけで脳味噌を鷲づかみにされ、ぐらぐら揺さぶられた。

『Left Alone』におけるジャッキー・マクリーンの影響で、最初に手に入れたサクソフォーンはアルト・サックスだった。「パピポー」の「ピ」のところは左の親指でオクターブ・キーを押さえて1オクターブ上げる。単純。シンプル。O Sancta Simplicitas!

ある友人の結婚披露宴で「結婚が人生の墓場であるとは古来よりの定説なので、これに従い、セメタリーへ入定せんとする長年の友人である君に葬送/野辺送りのうたがわりに贈る」と前置きスピーチし、『Left Alone』を吹いた。大顰蹙だった。当然だ。和気藹々とした空気が『Left Alone』のメロディが会場に響きわたると同時に一変した。泣きだす者もいた。その友人は先頃、癌との長い闘病の末に死んだ。奥方を一人残して。

レフト・アローン。ジャッキー・マクリーンのアルト・サックスが哭いている。マル・ウォルドロンのピアノも哭いている。ベースもドラムスも哭いている。

『Left Alone』はビリー・ホリデイ作詞/マル・ウォルドロン作曲。ビリー・ホリデイに先立たれ、取り残されたマル・ウォルドロンの慟哭だ。

マル・ウォルドロンは1957年、31歳のときにビリー・ホリデイの伴奏者に大抜擢され、1959年に彼女が他界するまで影のように寄り添った。『Left Alone』のジャケットを見ると、ビリー・ホリデイがまるで亡霊のようにマル・ウォルドロンの脇に立っている。

ある時期、知り合って間もない人物の魂の質を見きわめるために、なんらの前置き、説明なしで『Left Alone』を聴かせていた。男も女もだ。

哭くかどうか。哭けば合格。ソウル・ブロー。魂風呂にだって一緒に入る。哭かなければ不合格。以後は一切つきあわない。傲岸不遜きわまりないが、人物の魂の質を見きわめることについてのやり方は、いまも当時とそれほど変わっていない。当時とちがうのは生身の人間とはよほどのことがなければ顔を合わせなくなったことだ。

師匠や弟子や相棒や親友や仲間が随分と死んだ。平均寿命の半分も生きなかった者たちばかり。生き急いででもいたか。中には死に急いだ者もいる。

人間は死ぬし、病気になるし、衰えるし、変節するし、手の平を返すし、背を向けるし、裏切る。生きつづけるというのは誰かに取り残され、死ぬというのは誰かを取り残すことでもある。誰もが取り残されたくないし、取り残したくない。おそらくは、そのような地平から心映えというようなものは生まれてくるんだろう。Sweet, Bitter Sweet. 甘く、ときに苦く、ときに甘い。人生という厄介なゲームはそう思っておくくらいでちょうどいい。リズムは3拍子。ヴィヴァーチェとアダージョとダ・カーポをうまく組み合わせて。ときにピアニッシモ、ときにフォルティッシモで。最後はデクレシェンドで物静かに退場。フェードアウト。照明落ちる ──。

***

30年。生まれたばかりの赤ちゃんは区役所の戸籍係として住民全員の戸籍と住民票と個人情報を把握し、リアルな核の時代がやってきてアトミック・エイジの守護神は去り、ソ連とベルリンの壁は崩れて東西冷戦は終結し、狂ったカルト集団によって地下鉄でサリンがばらまかれ、慟哭とメガ・デスの20世紀は終わりを告げ、厳粛な綱渡りをしていた鯨たちは持続する志を失って死滅寸前、視えない蜘蛛の糸が隅々に張りめぐらされて人間と世界を雁字がらめにし、1000年単位の憎悪と憤怒と怨念の塊がアッラーフ・アクバルというタクビールの下にマンハッタン島のWTCに突っこみ、大地は激しく揺れ、大津波はすべてを飲みこみ、ドストエフスキーはすっかり力を失って、福島のF1, F2, F3, F4はシビア・アクシデントを起こして「黙示録的世界」は現実のものになった。永遠につづく世紀末の始まり。終わりの始まり。

風向きは悪くなるいっぽうのように思える。あしたを信じることはできないし、信じたくもない。経験の「け」の字も知らないような若造小娘甘ちゃんが「もうそろそろ限界」と依存根性丸出しでほざく寝言たわ言とはレベルもラベルもちがう時代になった。追悼するための明日ならなんとか待てる。「もう待てない」と言って東京事変を起こして自裁自死した文武両道軒三島由紀夫の数々の言説がやけに現実味をもって迫ってくる。諸行無常屋の武田泰淳はこの時代をなんとみるか。読み解くか。哀しい視線の小林秀雄は。精度のいい照準で狙いすます江藤淳は。ポンコツボンクラヘッポコスカタン銭ゲバの糸井重里にくいものにされた共同幻想本舗の吉本隆明は。

人間も世界ももうだめかもしれないと思う。いっそ、世界も人間も滅びてしまえばいいとさえ思う。そう思うたびに彼女の「ちゃんとして!」という声が聴こえてくる。遅刻ばかりしている私を叱る学級委員の頃の彼女の声が。「ちゃんとするのよ! 森鳴燕蔵!」という彼女の凜とした声と胸の奥がくすぐられるような笑顔が ──。

日々、時々刻々、またみることもないわけいってもわけいっても青い山は遠ざかり、すべては二度と取りもどすことのできない遠い場所に向かって299792.458km/sで音もなく去っていくが、彼女との日々が色あせることはない。もちろん、あの遠い日の夏のドルフィンで海を見ていた午後も。どうか、そうあってほしい。あと10年。いや、あと5年でいいから。

***

約束は守っているよ。これからもずっとね。きみとの約束の紙ナプキンは『MISSLIM』のアルバム・ジャケットと一緒にしまってある。ときどき、取りだしたくなるけど我慢する。涙で文字がにじんで読めないのがわかってるから。

『MISSLIM』はビニルのLPレコードもCDもあるけど、聴いていない。聴かない。聴けない。心が折れるにちがいないから。あのあと、ドルフィンには行っていない。

きみによく似た女の子1号はこの春、やはり、きみによく似た女の子4号を産んだ。33歳と0歳のきみによく似た女の子。DNAの新しい物語のはじまり。遺伝子の船に乗って君へと受け継がれ、君から受け継がれたオデュッセイア/イーリアスをもしのぐ壮大な叙事詩はつづく。

きみがおばあちゃんとはね。おれはおじいちゃんだけど。なんだか、すごくへんな感じだ。きみによく似た女の子2号と3号は去年、そろって人生の同行者をみつけた。それぞれ、サンディエゴとパリに住んでいる。そこでも、いずれまた別のDNAの新しい物語がはじまるはずだ。いい物語になればいい。いい物語になることを願う。きみも少し力を貸してやってくれ。なにも足さず、なにも引かない程度におれも力を貸す。年老いた背中、しぐれゆくうしろ姿を見せることくらいしかできないけどね。

きみによく似た女の子1号2号3号にはただの1度も涙を見せずにきょうまで生きてきた。自分で自分をほめてやりたい。きみにも「よくがんばったね」って頭を撫でてもらいたい。昔のように。いい子いい子って。でも、そろそろ、泣いてもいいだろう。そして、いつかきみによく似た女の子たちに、きみと出会い、ともに歩き、ともに笑い、ともに泣き、ともに生きたすべての日々を、遠い日の夏にきみとドルフィンで海を見ていた午後のことを話そうと思う。みんなで『海を見ていた午後』を繰り返し聴きながら。いままで我慢してきた涙を思うぞんぶん流しながら。涙のステップを踏んで。きみと最後の最後にドルフィンに行った7月27日の午後の数時間、ドルフィンを借りきって「『海を見ていた午後』の午後」というのもいいな。ずっとエンドレス・リピートで『海を見ていた午後』をかけてもらって。どうしようもなく痛くてせつなかった1988年7月27日の午後に頬ずりし、どうしようもなく痛くてせつなかった1988年7月27日の午後を追悼し、埋葬し、あきらめきれずに掘り起こし、また頬ずりし、埋めもどし、埋葬するために。

きみにも聴こえたらいい。きみにも届けばいい。きみに届け。なんならおれが届けにいく。スペシャル・デリバリーで。バイシクル・メッセンジャー仲間のあいだで「平地最速」と言われたおれがピックアップし、ドロップオフする。外堀通りのセンターラインを走りに走って、路線バスとダンプカーとタクシーを風よけに使って、赤坂のサントリー本社から汐留の電通まで3分で届けたおれが。真冬のラルプ・デュエズの峠で、たった1度だけ海賊マルコ・パンターニの魂が宿ったこのおれが。マドレーヌ峠で失われた時と1杯の紅茶と誇りを取りもどすために、ファウスト”カンピオニッシモ”コッピとエディ・メルクスとフェリーチェ・ジモンディとベルナール・イノーとミゲル・インドゥラインとランス・アームストロングとヤン・ウルリッヒで構成される幻のプロトンを置き去りにして大逃げをうったこのおれが。

この夏が終わる前にドルフィンに行ってみよう。ひとりで。なつかしい根岸線に乗って。不動坂を登って。『海を見ていた午後』以後にメニューに加わったというドルフィン・ソーダの中に貨物船を通して。小さな泡のゆくえを見届けて。ドルフィンからは見えない三浦岬を思い描いて。窓越しに横浜港を飛ぶカモメを追いかけて。2人で何度も何度も聴いた『MISSLIM』のアルバム・ジャケットときみとの約束の紙ナプキンを窓辺にそっと立てかけて。2人の思い出の痕跡をたどって。


恋は遠い日の花火ではない。
 

Once upon a time in The Dolphin, We See the Sea in Sweet Sorrow Afternoon
 
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# by enzo_morinari | 2018-07-27 12:55 | 昔々、横浜で。 | Trackback | Comments(0)

沈黙ノート ── またしても、森田童子に別れを告げる。

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童子はやがて大童となり、紅顔の美少年もいつか皺だらけの爺さんとなり、やがて髑髏となる。 E-M-M


暗躍海星の暗躍により、森田童子のファースト・アルバム、『GOOD BYE/グッド バイ』を入手し、聴いた。入手後、しばらく聴くことはなかった。「いまさら、森田童子でもなかろう」というのがすぐに聴かなかった理由である。森田童子を聴くことは墓を掘りかえし、眠りについている死者を叩きおこして引きずりだすことのように思えた。首吊りの足を引っ張るのに等しい行為だと。何者も死者の眠りを妨げてはならない。

ときどき、突如として、前後の脈絡なく、不条理きわまりもなく、おちゃらけ、浮かれ騒いでいるボンクラどもを全存在をかけ実存をさらけだして踏みつぶしてやりたくなる。

もちろん、やらない。踏みつぶしたところで、次から次に「おちゃらけ浮かれポンチ」は湧いて出てくるからだ。だが、そのような衝動に襲われたとき、外で、一人で酒を飲んでいたりすると事態は深刻な方向へ推移する。一大悶着の発生という次第である。であるからして、このごろは、よほどのことがなければ、外で酒を飲むことはしない。接待も宴席もすべて断る。悪童時代の腐れ縁仲間に誘われても、断固として断る。なにがなんでも断る。

「おれが例の、アレ状態になったとき、おまいがおれのケツを拭いてくれるというなら、飲んでもいい」

そのように言えば、よく事情を知った者は快くお誘いを撤回してくれる。持つべきは悪友、朋輩。余計なことはいっさい言わず、たずねず、即座に察する。けっこうなことである。

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さて、「自我」ばかりが無節操に肥大した能天気な「おちゃらけ浮かれポンチ」どもは、無節操ぶり、能天気ぶりをさらに加速させながら、今後もますます増殖していくんだろう。それでいい。吾輩の知ったことではない。

この東海の小島の国はもうどうにもならない。なにも期待などしない。だが、待てよ。森田童子が登場したとき、おれはなにをしていたんだ? 極悪非道祭の先頭を突っ走っていたのではなかったか? 時代はかわらず、時代はめぐり、「おちゃらけ浮かれポンチ」はいつの時代にもいたということか。こんなときこそ、自嘲し、自重し、「生Poisson d'Avril問題以前」の次長課長のDVDでもみて、ムフフムフムフすればいいんだ。

ある個人的な、言ってみればどうでもいいような、しかし、不愉快きわまりない出来事があり、iTunesの楽曲リストを腹立ちまぎれに次から次へとスクロール・ダウンしていった。そして、森田童子に行きついた。

クリック。怒りにまかせて、クリック。

聴いているうちに、怒りはやわらかな布に吸い取られるように収束していった。そうか。むかっ腹が立ったときは森田童子を聴けばいいのか。またひとつ、知識は集積された。

森田童子の精神性、世界観をもったジャズ、古典楽曲、R&B、HIP-HOPは登場しないものか。期待しても無駄か。森田童子を聴けばいいだけのことだしな。

森田童子は、ぼんくら田中康夫の『なんとなく、クリスタル』に象徴されるスカタンヘッポコ1980年代の到来とともに潔く身を引いた。

「森田童子がとっとと引退したのは慧眼だったな。鼻のきくやつだったからな」とつくづく思いつつ、恥ずかしげもなくなんクリ的なるものにうつつを抜かし、翻弄されつづけている「おちゃらけ浮かれポンチ」どもの無節操能天気ぶりを肴に、安酒でもかっ喰らうとするか。

『早春にて』あたりを聴きながら飲めば、苦い酒がすこしは春めいて甘くなるか。それとも、さらに苦くなるか。たらの芽の天ぷらくらいの苦みだったら大歓迎だ。いずれにしても、酒はひとり侘しく寂しく、静かに飲むべかりけり、である。いざとなったら、ひと暴れ、ふた暴れしちまえばいい。どうってことはない。


さよならぼくの友達、さよならぼくの童子

晩餐後、聞きたくもない訃報が届いた。またひとり、悪童仲間が逝った。早すぎる死だ。平均寿命まではまだ20年近くある。悪童仲間で鬼籍に入るのはこれで何人目か。何年も前に数えるのはやめた。青二才の頃から不摂生不養生不道徳をかさねてきたツケがではじめているのだ。同世代の平均寿命を下げるのは、われわれ悪童一味にちがいあるまい。笑い話にもならぬ。悪童仲間どもと会うたび、最初にくたばるのはまちがいなくおれだ、おまえだと嗤いあいつつ、きょうまで生き延びてしまった。「憎まれっ子世に憚る」というのは真理の一端を突いている。

大昔、1980年の夏。若くして逝ったある友人の葬儀の席で、酒ぐれたすえに、「人はほっておいても死ぬ」などとコマしゃくれたことをほざいた鼻持ちならない下衆外道がいた。もちろん、ほざいた直後に踏みつぶした。初対面だったが、容赦はしなかった。21日プラス1日で検事パイ。予想していたよりも安くついた。

人はほっておいても死ぬ ── 。そのたわけ者がみずから紡ぎだした言葉であるならいざしらず、村上春樹が『風の歌を聴け』だか『1973年のピンボール』だかで書いていたことを小賢しくも剽窃し、あたかも自分の手柄のような風情、表情、仕草でほざいたのがゆるせなかった。

その愚か者は吾輩よりずいぶんと年上だった。聴いているこちらが恥ずかしくなるほどよくアゴがまわった。デュポンの金張りのライターをカチャカチャと落ちつきなく鳴らす鼻持ちならない男だった。「安田砦の攻防戦」とやらについて、とくとくとして御託能書き寝言たわ言を並べつづけ、「全共闘」という虫酸の走る言葉を数十回も繰り返した。卑しい酒の飲み方も腹にすえかねていた。野辺送りの場で酒ぐれるやつがあるものか。

それにしても、あのときはなぜ葬儀の席で大立ち回りを演じるほど苛立っていたのか。時代の軽佻浮薄さに? 世間の風当たりに? 相手が大嫌いな「団塊の世代」だったから? それらもあるだろう。だがつまるところは、「青かった」「ガキだった」という地点に落ちつく。

森田童子との再会は、ここ数日のあいだにいろいろのことを思いださせてくれた。妙な場所を刺激されもした。封印していたことどもまでも。「永遠のガキ大将」などと悪童仲間どもに呼ばわれて、よろこびころこぶ時期はとっくの昔に過ぎている。

童子はやがて大童になり、紅顔の美少年もいつか皺だらけの爺さんとなり、やがて髑髏となる。このあたりで、森田童子とは再びさよならしておくことにしよう。「また会う日まで」「さよならをもう一度」などということは、もう、ない。あるべきでない。

さよならぼくの友達
さよならぼくの童子


*「人はほっておいても死ぬ」とほざいた大うつけ、たわけ者は、ある地方都市でながく政治屋をやり、先頃、公職選挙法違反並びに受託収賄のかどで検挙された。卑しいやつは歳月を経ても卑しいままであるということの見本である。もって、瞑すべし。


「高校教師? 知るか! それってうめえのか? 誰も知らない、生きない、僕ってなに?」のごとくに終わる。

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# by enzo_morinari | 2018-07-27 02:57 | 沈黙ノート | Trackback | Comments(0)

暗躍海星の逆襲

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暗躍海星の妻のカズノコは突然、狂ったように舌を差し入れてきた。アップルのシネマディスプレイからキングギドラの右から3番目のやつのような動きで現れたカズノコの舌はうす桃色で、表面にぶつぶつした突起物がびっしりと生えていた。私はブルックナーの交響曲第2番第3楽章に心を奪われていて、彼女のねっとりつぶつぶした舌が差し入れられたことに気づくのにしばらくかかった。

「ヒトデの仲間の世界をひらきたいんです」

私がカズノコの舌のねっとりとした感触を味わっているとき、暗躍海星が言った。妻の舌を盗まれているにもかかわらず、暗躍海星はそのことをちっとも気にかけていないようだった。「ヒトデ族は気がいい」というヒトデナシ博士の言葉は本当だった。

「君の問題は」と言い、私はいったん言葉をとめた。カズノコの舌にこびりついていたテイク・イット・イージー天丼の食べかすが喉にひっかかったのだ。「君の問題は、妻の舌を盗まれながら、というより、妻が舌をほかの男の口に差し入れながら、平気でいられる無神経さだよ。しいては、その無神経さがヒトデ族の世界を狭くしているんだ」

私はそのように言ってから、さらに時間をかけてカズノコの舌を味わった。すこしだけ、味の素の味がした。頭の中で「お箸の国のひとだもの」とミタヨシコの声が聞こえた。

「ヒトデの思い出について話してくれたら、あと1時間カズノコの舌を自由にしていいです」

ややうわずった声で暗躍海星が言った。悪い条件ではない。ヒトデに関する思い出など他愛ないものばかりだし、他者に知られたところで痛くも痒くもない。主導権が私にあることにかわりはないのだ。

「いいでしょう。私のヒトデについてのとっておきの思い出をお話ししてさしあげましょう」

私はにやけそうな自分を戒め、自分の「ヒトデの思い出」を話しはじめた。

あれは私が海の近くのちいさな街に住んでいた頃のことだ。私は小学校の3年生だった。永遠とも思われた夏休みが残り数日になった昼下がり、私は海岸のはずれの磯でヤドカリや石蟹を捕獲していた。

予想以上の大漁に気をよくした私は、おとなどもから近づかないように忠告を受けていた五郎兵衛岩に足を踏み入れてしまった。ふだん、めったにひとの寄りつかない五郎兵衛岩は獲物の宝庫だったのだ。

ほかの場所なら一日がかりでやっとこさっとことれる量の獲物が小一時間でとれた。私はさらに調子に乗った。五郎兵衛岩の切っ先にまで私は侵入し、「それ」をみつけたのだ。「それ」はターコイズ・ブルーをした六芒星型の巨大なヒトデだった。ひとつの腕の長さはゆうに1メートルはあった。網の先でつついても、巨大ヒトデは緩慢な動きをするだけだった。危険がないことを確信した私は、自信たっぷりに巨大ヒトデに近づき、手で叩いたり、足蹴にしたり、唾を吐きかけたり、罵声を浴びせたりした。しかし、私がいくら攻撃しても巨大ヒトデは無抵抗だった。あいかわらず緩慢な動きをみせるだけだった。しかし、「そのとき」はついにやってきた。
 
「このロクデナシ!」と罵りの言葉を私が投げかけると同時にターコイズ・ブルーの巨大ヒトデは2本の腕で立ち上がり、裏側に隠れていた補食口を大きく開き、獰猛な牙をむいたのだ。私は食われると思った。もうだめだと観念した。すると、大きな波が寄せて巨大ヒトデにぶつかり、巨大ヒトデは足元をすくわれて、もんどりうってその場に倒れたのだ。私はすぐそばの小岩のひとつをひっつかみ、巨大ヒトデに殴りかかった。そして、何度も何度も打ちすえた。巨大ヒトデはすぐにぐったりとし、やがてぴくりとも動かなくなった。

「まいったか! ばかやろう! ばかやろう! ばかやろう!」

私は狂ったように勝利の雄叫びをあげた。また大きな波がやってきて、巨大ヒトデを海の中へと連れ去った。私は生まれてはじめて自分の手で生き物のいのちを奪った興奮で身動きひとつできなかった。正気にもどったとき、海は血の色に染まっていた。

「と、まあ、これが私のヒトデにまつわる思い出です」

私が言うと暗躍海星は深々と息をつき、とても悲しそうな眼をしてから、私をおだやかな表情でみつめ、言った。 
 
「モリナリさん。実はね。私があのときの巨大ヒトデなんですよ」
 
音が消え、カズノコの舌も消え、暗躍海星も消え、すべてが消え失せた。東京の空は音もなく澄んで、青かった。ちょうど、あの夏の巨大ヒトデのターコイズ・ブルーのように。

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# by enzo_morinari | 2018-07-26 13:27 | 暗躍海星の逆襲 | Trackback | Comments(0)

さくらんぼの実る頃をすぎても

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さくらんぼの実る頃をすぎても、6月15日をすぎても、ナショナル・ダイエット・ビルヂングのサウスゲートが血に染まっても、美智子さん、あなたは「桜田通りはジャン=バティスト・クレマン通りだ」と言い張っていた。たぶん、あなたは桜田通りが本当に「ジャン=バティスト・クレマン通り」だと思っていたんだろう。「いつかジャン=バティスト・クレマン通りの街路樹をすべて白樺の樹にするのが夢よ。そして、わたしは樺美智子から白樺美智子に改名するの」と言って細い顎をほんの少し突きだして笑った。

6月15日の何日か前に卒論の準備は進んでいるかたずねると、懇願でもするように「これで最後にするからデモに行かせて」と答えた。「じゃあ、そのあとに卒論について話そう」と言うと、あなたは素直にうなずいた。白のブラウス、濃紺のスラックスに淡いクリーム色のカーディガンを肩から羽織ったあなたがなぜかまぶしかった。あなたがかなしげな微笑みを浮かべたとき、一瞬、あなたの向こう側が透けて見えたような気がした。

それもこれも、「血の1週間」であなたが負った痛手のせいだ。ひどい深手だった。多くの友だちが去り、多くの裏切りがあり、多くの悲しい出来事があった。「血のしずく」や「ひらいた傷口」はいまでも目に焼きついている。

どこからか飛んできたコーラ瓶の破片で切れて出血している仲間の脚を見て「デモ行進も歌も静かにやって静かに聴くものよ」と言ったときのあなたのかなしそうな目も。「この傷もいつかあなたのコカコーラ・レッスンになるのね」と言って手当の手を止めてくすりと笑い、鼻にかわいらしいしわを寄せたことも。生々しく痛みは残っているけれども忘れがたきいい思い出だ。

ゆうべ、夢の中で集めたさくら色の珊瑚でつくったさくらんぼのイヤリングを贈るよ。あなたに似合うといいのだが。さくらんぼのイヤリングをつけたあなたを見ることができたらいいのだが。統三さんのエチュードを聴けていたらいいのだが。浩平くんがカーネーションを握りしめていた理由をたずねてくれたらいいのだが。悦子さんと会えていればいいのだが。ナイーブなロースハム好きの日系ウガンダ人呪術師/不全感回収業者/スパゲティ・バジリコ野郎のハルキンボ・ムラカーミに説教してくれたらいいのだが。間にあえばいいのだが。さくらんぼの実る頃をすぎても。

ロシニョールやモッキンバードを殺すのに銃も剣もいらない。


Le temps des Cerises - Yves Montand



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村上春樹という墓標 ── 二十歳にして心朽ちたり
村上春樹の『風の歌を聴け』を読んだのは二十歳の夏の初めだった。『群像』の1979年6月号掲載。その年の「群像新人賞」受賞作。私も応募していたが、最終選考止まり。以後、一切の懸賞小説に応募するのをやめた。「スパゲティ・バジリコ野郎が認められるような世界なんかにコミットメントしてられるか!」というのが理由だ。「スープに毛が入っていようが、スパゲティ・バジリコが完全なるアルデンテに茹であがろうが、牛の胃の中にひとつかみの牧草しか入っていなかろうが、ある種の誇りを持ちつづけるためにアレック・ギネスが命がけで橋をつくろうが知ったことか!」ということである。

1980年の春に『1973年のピンボール』が出て、おなじ年に田中康夫が『なんとなく、クリスタル』で文藝賞を受賞したのをきっかけに、「文学青年」の日々とはきれいさっぱりおさらばし、「文学」と縁を切った。清々した。パスタを茹でつづける男の人生と厚さ5cmに積み重なった南京豆の殻と25mプール1杯分のビールに担保された青春とナイーブなロースハムを売っているナイーブな肉屋に関する話とチャイナのC席に回収される不全感とカタログが文学、小説だというなら萩本欽一は合衆国大統領だと思った。

ひと冬をかけて1973年製のピンボール・マシン、スリーフリッパーのスペースシップを探したが街のどこにもスリーフリッパーのスペースシップはみつからなかったし、気のいい中国人のバーテンダーは中国行きの貨物船の船員になって街から消えていた。しかも、厚さ5cmに積み重なった南京豆の殻が火元になって街の半分は焼けてしまい、ソルト・ピーナッツとナイーブなロースハムの食べすぎと25mプール1杯分のビールの飲みすぎのせいで多くの人が痛風を発症し、だれも死なない小説とほっておいてもセックスする者たちに装着されていた使用済みコンドームと蛍の死骸と焼きつくされた納屋と午後の最後の芝生を刈って出た枯れ芝の残骸と醜悪きわまりないリチャード・ニクソンの悪臭ふんぷんたるクソが浮かぶ不全感の海で溺死した。

街のあちこちに鈎状砂嘴ができて、鋭い切っ先を突きつけていた。街はクリスタルどころか灰色に濁り果てていて、TILT117回のおまけ付きだった。三百代言試験に合格したことを除けば、1980年は本当にひどい年だった。えた結論は「村上春樹は死者を食いものにしている」ということだ。さびしい林で揺れている林直子さんを一刻もはやく回収するのは村上春樹の義務である。

『風の歌を聴け』を読んだ1979年は高野悦子の『二十歳の原点』と原口統三の『二十歳のエチュード』と奥浩平の『青春の墓標』とポール・ニザンの『アデン・アラビア』を同時進行で読み、ともにある日々だった。高野悦子と村上春樹は同い年だ。奥浩平は村上春樹より六歳歳上の同世代。原口統三はふた世代上。ポール・ニザンの『アデン・アラビア』はその当時の私にとっては「青春」を象徴するもののうちのひとつだった。

二十歳は重要だった。人の一生で1番美しく傷つきやすく垢むけでなければならなかった。「区切り」であると思った。二十歳を過ぎて以降の人生は「本当のこと」「大切なこと」を見失い、手放して、あとは汚れ、醜くなり、ただ単に生き延びることにすぎないとさえ考えていた。二十歳になった時点で、なんらかのかたちで「死」を経験しなければならないとも。そのことは最優先の課題であるように思われた。


二十歳にして心朽ちたり秋桜子
 
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# by enzo_morinari | 2018-07-25 19:19 | 巴里で午睡 | Trackback | Comments(0)

黄金のカエル#2 黄金のカエルの墓碑銘

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初代黄金のカエルの墓碑にはヴォラピュク語とロンゴロンゴ語とトレーン語で次のエピタフが刻まれている。

漂いつつも決して沈まず、やせ我慢の果てについに〈蛙の王〉となりし宇宙一の大馬鹿蛙ここに眠る。冬眠ではない。

黄金のカエルの42代目の直系の子孫であるオイラが初代黄金のカエルの墓碑の存在を知ったのはまったくの偶然だった。7歳の春のことだ。

コバルト・ブルーのルーン・ストーンでできた墓碑は、ある時代には冥王星までにも達するような「宇宙を支配する巨大な意志の力」が宿る不倒不変のモノリスとも崇められ、またある時代にはカンテレを奏でるワイナミョイネンの横で不貞寝するカレワラ・カーリング・ストーネとして氷上を滑走し、またある時代にはペトログリフ/ヒエログリフ兄弟愛用のルーン・ナポリタン・マスティフ・ストーンとして悪事に手を貸し、またある時代にはブリテン市ソールズベリー大通り42番地にある声をかけてもろくに返事もしないような輩どもばかりが集積した不思議石愛好会の全国組織ストーン・サークル・ユニオン本部本館ヘンジ棟の礎石となり、またある時代にはマイルス・デイヴィスが鳥の饒舌に対抗して敷設した里程標、「帝王の沈黙の石」となってポンコツヘッポコスカタンどもを華麗に黙殺してスルーし、またある時代には二擦り三擦りすると充血して青筋が立ってどっくんどっくんになっちゃって所有する者をアレアレモーモーにしてくれるカトリシンゴナイト・エボナイト・スットーーーーンとして地学教室の午後を地味めから派手めに変え、またある時代にはニューエイジ・ピープルの信奉を集めるガネガネ・ウソッパチマヤカシインチキ・セドナ・ストーンとしてゼニゲバの片棒を担ぎ、またある時代には九州地方の伝統郷土料理ボボブラ汁を調理する際に器の中に投げ込まれる真っ赤に灼けたデトックス・ストーンとなってウンマーし、またある時代にはギガサイズのブルーマリーン・セイルフィッシュにもキリマンジャロのダイアモンド・ダストにも誰のためにでもなく自分のためだけに鳴り響く鐘にも視えない自由を撃ち抜くための視えない銃が保管されている武器庫に別れを告げるジーン・パチェットにもなれるヘミングウェイ・ストーンとしてアドリアンニューウェイ・ブルーマリーン・セイルフィッシュを手なずけ、またある時代には戦国大名の使いっ走り足軽三十八人衆の38番目だったピース缶ボム・ケースの真犯人千石38としてコッコーショー・コガを恫喝した。

現在はスナドリネコさんがコレクションしているしまっちゃうおじさん石としてぼのぼのやらアライグマくんやらシマリスくんやらに朝から晩まで石蹴り遊びで蹴り飛ばしまくられ、クモモの樹と一面に赤い花が咲き乱れるダニーボーイ断崖のあいだを往還している。

初代黄金のカエルの墓碑は巨大だ。高さは正確に42メートル42センチ42ミリあり、22ヶ条に及ぶ戒めが刻まれている。

汝、黄金のカエル以外の蛙を崇めるなかれ
汝、黄金のカエルの偶像を作るなかれ
汝、黄金のカエルの名をいたずらに口にするなかれ
汝、冬眠日を守るべし
汝、深く静かに父母を敬え
汝、殺蛇するなかれ
汝、長きものを殺すなかれ
汝、蛇淫するなかれ
汝、盗むなかれ
汝、偽証するなかれ
汝、嘘を言うなかれ
汝、隣人の御玉杓子を貪るなかれ
汝、隣人の妻と接するなかれ
汝、干からびるなかれ
汝、いたずらに合唱するなかれ
汝、痩せるなかれ
汝、雀と戯れるなかれ
汝、がま口となるなかれ
汝、黄金水を浴びるなかれ
汝、ひっくり返るなかれ
汝、帰るきっかけとなる鳴き声をあげるなかれ
汝、カエル・コールするなかれ

 
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# by enzo_morinari | 2018-07-25 07:48 | 黄金のカエル | Trackback | Comments(0)

黄金のカエル#1

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オイラは黄金のカエルだ。名前なんかねえ。あすの朝一番で旅に出る。北の沼を出るんだ。あてはねえが目的はある。ずっと昔にオイラの前から姿を消した一匹の緋鯉を探しにいくのさ。

オイラがまだオタマジャクシに毛の生えたようなガキの頃によ。北の沼一番の不良でオイラの憧れだった鯉の兄ちゃんが、ある秋の夕暮れ、やけに遠い目をしてこう言ったんだ。「おい、坊や。漂うのはいいが、絶対に沈んだりなんかするんじゃねえぞ」ってな。もちろん、当時のオイラに鯉の兄ちゃんが言った言葉の本当の意味なんかわかるわけねえけども、オイラは「そうか。とにかく沈んじゃいけねえんだな。上のほうで漂ってりゃいいんだな」って、てめえ勝手に納得して、それ以来、ほかのやつらがぎゃーぎゃー沼の底のほうで騒いでいるときでも、オイラだけはあっぷあっぷしながら水面の辺りを漂っていた。

そりゃ、みんなで固まってりゃ安全だし、楽しいだろうけどもよ、憧れの鯉の兄ちゃんの言いつけだ。守らなくちゃならない。おかげでずいぶんと危ない目にもあったぜ。カラスの馬鹿野郎には喰われそうになるし、大風がいきなり吹いてきてすっ飛ばされるし、おまけに 太陽はギラギラまぶしいしよ。年がら年中手足をバタつかせて浮かんでなけりゃいけねえんだから疲れるしな。それでもオイラは鯉の兄ちゃんの言いつけを守りとおしたんだ。単純といえば単純、はっきりいやあ大馬鹿野郎もいいとこだな、オイラはよ。まあたいがいのカエルは頭がいいとは言えないがな。てめえで言ってりゃあ世話もねえな。

次の年の冬、鯉の兄ちゃんは沼から突然姿を消した。龍になったんだっていう奴もいれば、大鯰のうすら馬鹿に喰われちまったって奴もいれば、沼の果てにある大岩の裂け目に身をひそめているらしいって奴もいたが、本当のところは誰にもわからなかった。

そのうち、誰も鯉の兄ちゃんのことは話さなくなり、のっぺりとした平穏な日々が続き、そして忘れた。でも、オイラだけは鯉の兄ちゃんを絶対に忘れなかった。一度だけ沼の果てのあたりを丸一日泳ぎまわってみたが鯉の兄ちゃんとは会えなかった。大岩のかげの淀みにはクヌギやらナラやらブナやらの落ち葉が頼りなげに揺れているだけだった。そんときはさすがのオイラもちょっと泣きそうになったな。

鯉の兄ちゃんがいなくなってもオイラは言いつけをちゃんと守ったぜ。そして今日まで生きてきた。同じ日に生まれたほかのオタマジャクシのやつらは、どいつもこいつもくそ面白くもねえ緑色のカエルだが、オイラは黄金に輝くカエルになった。どういうわけでオイラだけが金ピカのカエルになっちまったのか原因はわからない。たぶん、年がら年中太陽にあたっていたからだろうぜ。目立つから危険も多いけどよ、いまさら他のやつらとおんなじくそ面白くもねえ緑色のカエルになんかなれやしねえし、なりたくもねえな。

そりゃ、おっかなくてキンタマが縮みあがっちまうときだってある。だけど、この世界に決して揺らぐことのない自信を持ちつづけられるやつなんかいるのか? いるわけがねえよ。みんななにかに怯えてるんだからな。

いつ喰われちまうか、いつ裏切られるか、いつ梯子をはずされるか、いつ傷つけられるか、いつ失っちまうか、いつ足元をすくわれるかってな。それが生きるってことだろうぜ。第一からして、オイラのような痩せガエルは、夏にゲコゲコ、冬にグーグーって相場が決まってるが、それだって絶対に生やさしくはねえんだぜ。

夏の恋の季節には恋敵たちがあっちでもこっちでもゲコゲコグワッグワッの大合唱だ。調子っぱずれなのや、やたら美声なのや、カミナリでも落ちたのかってなくらいでっけえ声のやつらが、それこそ死にものぐるいで鳴きわめく。そういうライバルたちをかきわけかきわけ恋の相手を見つけなきゃならねえんだ。それでも相手がみつかりゃあラッキーもいいとこだな。たいていのやつは相手も見つからず、ひと夏中、やかましくもさびしく鳴きつづけるわけさ。わがことながら情けないかぎりだな。

夏が終わり、秋が駆け足で通りすぎれば冬将軍様のおでましだ。冬眠に備えてしこたまエサの虫ども喰らうわけだが、十分にエサを食いだめできなくて眠っているあいだに餓死しちまうやつだっている。カサカサに干からびてよ。冬をやりすごし、狭っくるしい穴ボコから這い出したとき、仲の良かったやつが煎餅みたいな姿に変わり果てているのを目にすると、この世界には絶対に神さまも仏さまもいねえとつくづく思うよ。

真っ暗な穴ボコの中でだんだんと死んでゆく自分を知って、そいつはどんなことを考えたんだろうな。やっと冬眠からさめりゃ、たちの悪いヘビの野郎どもが虎視眈々と狙ってやがるから、いくら春の光が気持ちいいからっておちおち日向ぼっこもできやしねえ。最近はエサの虫どももめっきり少なくなっちまったしな。いつだって飢え死に寸前だ。腹が減ってどうしようもねえからいつもゲコゲコ鳴いてんだよ。鳴きながら泣いているんだ。上等にいやあ、哭いて啼いて慟いてるってなもんだな。こんなふうにオイラたちカエルは一年一年をやっとの思いで生き抜くんだ。情けねえもいいとこの生きざまじゃねえか。

でもな、こんなオイラのような者でさえ誰かがちゃんと見ていてくれるもんなんだ。不思議なもんだな。この広い世界にはスズメやらカエルやら虫けらやらが好きな変わったやつが少なくとも一人はいるもんなんだな。「痩せ蛙よ、負けるんじゃないぞ。いつも応援しているよ」ってな。「救い」だなんて大袈裟なことじゃねえけども、そんなことが生きる支えになるもんだな。 

さて、旅の仕度は済んだ。覚悟もできた。明日は早起きしなけりゃならない。夜明け前には沼を出たい。今夜はマイルス・デイヴィスが『So What?』をミュートなしで吹きまくる夢でも見られたらいい。
 
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# by enzo_morinari | 2018-07-24 22:55 | 黄金のカエル | Trackback | Comments(0)

エピタフごっこ♯01

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わたしのお墓の上でエビちゃんダンスを踊らないでください。ある墓碑銘
わたしのお腹の上でザメちゃんダンスを踊らないでください。(中田氏禁止)ある墓碑銘


エビデンスのようなエピローグ風プロローグとエピグラフ
「エピタフごっこしようよ」と1日にエビフライを42本食べないとエピグラムにされてしまうエピキュリアンの海老根海老蔵が海老反り体勢で言ったのがことの発端だった。エピック・ソニーでAP通信とAPP肝いりのエーピー・ゴールドバーグ・トリビュートのエビプレゼンテーションが4時間後に迫っていた。

海老名SAで海老名みどりと泰葉が海老名SA名物のシュリンプ・バーガーをめぐってとっくみあいの海老場修羅バーガーを繰りひろげる音がエビエビしく聴こえた。心底、二人とも死ねばいいのにと思った。海老名香葉子もこぶ平も一平も海老名一味は林家たい平を除いて海老みそ蟹みそ耳だれみそみたいにドロドロになって溶けてしまえばいいのに。

海老根海老蔵はキング・クリムゾンの『クリムゾン・キングの宮殿』のアルバム・ジャケットの巨大鼻の穴男なみに鼻の穴が大きいうえに、意味なく鼻息が荒い。その鼻息でキタサンブラックを後押ししたせいでキタサンブラックは菊花賞/天皇賞(春秋2回)/ジャパンC/有馬記念に勝った。お礼に北島サブには薔薇族とサブの詰め合わせをもらったうえに新宿2丁目の北海園で海老みそラーメンをご馳走になった。

おもしろくないのはエビカツこと通名海老沢勝二(本名エビ・ジョンイル)である。潮来市水郷イカタコ大使のエビカツとしてはイカとタコをこそ食卓の主役にしたいのだ。そのためには放送メディアを異化し、他個だらけの鳥越セクハラスケコマシ俊太郎一味に一杯も二杯も食わせなければならない。烏賊は一杯二杯、蛸は「杯」「蓮」「匹」だからどうした八百屋の五郎は芋蛸南京好き。凧凧上がれ。TACO-RICEってどうなの?

エビカツはインチキイカサママヤカシスモーの利権保持とショタ公野球の発展と少年愛の美学ウヒヒムヒョヒョのために絹の道全面アスファルト化、ポンコツボンクラヘッポコスカタン外交のさらなる劣悪化、一億総白痴化の旗手としての責務を果たすためにシマゲジの一の子分の本領を発揮した。エビカツが最初に着手したのはキムチニダ・ドラマの普及発展のためと強弁して当該ドラマはすべてハイビジョン放送という荒技に出たが、荒事の第一人者をもって任じる市川海老蔵から強烈なブログ仕込みの横槍が入った。エビカツはほうほうの体で日本芝刈り股旅機構の会長室に逃げこんだ。問題はエピック・ソニーでAP通信とAPP肝いりのエーピー・ゴールドバーグ・トリビュートのエビプレゼンテーションだ。

スマホをめぐるイカとタコの永遠の階級闘争/エピタフとしてのスマートフォン
海老根海老蔵は緊急連絡用と電話帳がわりにスマホを持ってはいるが、ほとんど使わない。SNSとやらもまったくやらない。スマホを使うとき以外は電源を切っていることがほとんどである。

なぜか? 海老根海老蔵は「不在の権利」を大手を振って行使する者だからであり、スマホを常用するほど忙しくないからだ。外出中でも公衆電話を利用することがほとんどである。公衆電話はスマホより格段に料金が安いし、音質もいい。そんな海老根海老蔵にとって、公衆電話の設置数が減少しているのは腹立たしいかぎりだ。NTTの通信事業の中で、電話帳事業、電話番号案内事業、そして公衆電話事業は不採算部門のワースト3だからしかたないとしてもである。

スマホぎらいの海老根海老蔵にとって、近頃、もっとも不愉快なシーンはスマホでくっちゃべりながら/ディスプレイをせわしなくいじりながら路上を闊歩する小僧小娘どもの臆面もない姿である。よくみれば、くっちゃべっていなくてもその手にはスマホが片時もおしゃぶりを離さぬ乳飲み子のようにかたく握りしめられている。

海老根海老蔵は彼らは歩いている最中でも情報交換をしなければならないほど多忙をきわめているにちがいないと了解しようとしたが、それはまったくの見当ちがいだった。彼らは単に「忙しそうに」「ともだちがいるように」みせかけているにすぎないように思える。

彼らをスマホ依存へとかき立てるのはある種の「不安」にちがいない。自分だけが取り残されることへの不安。だれかと/なにかとつながっていなければいられないという不安。彼らはつながっているときにだけ「不安」から逃れられるのだ。もっとも、不安から逃れたとしても、安心をえられるわけではない。逃れたのではなく、隠蔽しただけだからだ。

かつて、エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』の中で、「ひとは自由であることに耐えられるほど強くない。だから自由から逃走し、不自由を選択するのだ」と言いきった。また、ミシェル・フコは「やがて"人間"という概念は砂浜の楼閣が打ち寄せる波にかき消されるように消えてしまうだろう」と予言した。読み替えれば、人間は身にまとった記号によってしか語ることのできない、実体を失った存在になってしまうということだろう。

都市には仮説と記号が充満している。そしてひとびとは記号を身にまとうことで、ようやく「他個」から我が身を守る。茶髪もロンゲもガングロも厚底もコスプレもスマホも、すべて刹那のフルメタル・ジャケツだったのだ。だが、かれらは「他個」から身を守るために自分自身が「他個」になっていることにおそらくは気づいていない。「異化」することを避けるかれらは永遠にイカさない。かくして、「他個」と「異化」の闘争は永遠につづく。それにつけてもおやつはカールだし、問題はエピック・ソニーでAP通信とAPP肝いりのエーピー・ゴールドバーグ・トリビュートのエビプレゼンテーションだ。さらには、ボストン・クラブの逆側の通りのダイナーでボストン・クラブ・サンドをオーダーしたら逆エビ固めをかけられた蟹の蟹谷道楽の立場はどうなるんだ?


Epitaph including March For No Reason and Tomorrow And Tomorrow - King Crimson
 
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# by enzo_morinari | 2018-07-24 10:02 | エピタフごっこ | Trackback | Comments(0)