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『シンドラーのリスト』を奏でる少女

 
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蝋燭のあかりは細く小さくていい。E-M-M


1994年の早春。横浜山手・根岸台の洋館。ひどい寒さと強い風の日だった。
場ちがいな集まりに来てしまったことに後悔しはじめていた。ワインなどではなく、強い酒が飲みたかった。安く強い酒を。一人で。他者の嘘くさい笑い声など聴きたくもなかった。腑抜けて引きつったようなお愛想笑いに唾を吐きかけたかった。もちろん、世界にも。一人になりたかった。

宴の終わり近く。私のうんざりした気分を打ち消すように一人の少女が思い詰めた面持ちでホールの中央に進み出た。少女は古く時代がかったフリルのついた赤いドレスを着ていた。年の頃、10歳前後。少女から大人へのとば口に震えながら立ちつくしているように思われた。

少女はあちこちニスの剥げた古色蒼然としたヴァイオリンを抱えていた。かき抱いていた。大切なものを何者にも触れさせまいとする強固な意志の力が感じられた。私は少女の瞳の中に深い絶望と怒りと憎悪を読み取った。ペグの天使の彫刻が怒りの形相をしているかにみえた。

少女は自分の祖母が長い癌との闘病の果てに数日前に死んだことを話しはじめた。そして、ホロコーストについて言及し、死んだ祖母がユダヤ系ポーランド人であり、自分はユダヤ系フランス人の母と日本の外交官とのあいだに生まれたのだとも。

愚にもつかぬ談笑の種々がぴたりと止んだ。軽佻浮薄な宴の場は一気に静まり返り、凍りついた。その場にいる者のすべての視線が少女に注がれた。固唾を飲み込む音があちこちから聴こえてきた。

S.スピルバーグの『シンドラーのリスト』が興行的に大成功を収め、アカデミー賞をほぼ総なめにして間もない時期でもあって、少女の切々たる話は宴の場を深い沈黙の館へと変えた。

「お願いです。どうか、わたしたちの悲しみと苦しみを忘れないで。聴いてください」

少女は話の最後に引き絞るように言ってからメントニエラに小さくて華奢なあごをのせ、眼を閉じ、弓を祈りを捧げるように持ち上げた。そして、『シンドラーのリスト』を奏ではじめた。少女がヴァイオリンを弾く姿は強く深い痛みをともなう祈りの姿ででもあるように思われた。

少女のリコッシェ・サルタートとポルタメントのかけ方は独特で、ところどころにハイフェッツの憤怒のごとき鋭いイディオムを思わせるものがあった。フラウタートで奏でる音には目を見張る柔らかさと悲しみとがあった。フラジョレットは思わず引き込まれるほどに澄んだ音だった。グレゴリオ聖歌の「怒りの日」の旋律の一部が引用されたときにはわが耳を疑った。

フロッシュが何本も切れて生き物のように揺れ、舞った。先端のスクリューでなにかしらのど真ん中、土手っ腹を貫かれているような気分だった。あとで、少女のヴァイオリンの師匠筋にエリック・フリードマンがいると知り、なるほどと納得した。

決して巧みではないし、全体として技巧は稚拙きわまりもなかったが、魂に届く音だった。揺さぶられた。いまでも『シンドラーのリスト』をみた冬の夜には少女のことが頭をよぎる。ギロチンの刃先のような鋭利で凄味の利いたヴァイオリンの音とともに。そして、少女と『シンドラーのリスト』の赤い服の女の子とが重なる。20年も昔のことだ。

20年の歳月を経て、彼女も今では母親となっているだろう。この冬、彼女は赤い衣装を身にまとった氷の上の少女、ユリア・リプニツカヤの『シンドラーのリスト』の舞いを、キャンドル・スピンをどのような思いでみていたか。こどもたちに『母が教えてくれた歌』を聴かせているだろうか。彼女の心に薄闇の中の細く小さな蝋燭の炎はともっているだろうか。そうあればいい。人間はひとつの命さえ救うことはできないが、どうか、そうあってほしい。

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Theme from Schindler's List
Itzhak Perlman (Violin)
Luka Sulic (2CELLOS)
Simina Croitoru (Violin) - Angelys Symphonic Wind Orchestra
 
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by enzo_morinari | 2014-02-26 07:05 | あなたと夜と音楽と | Trackback

東京地検特捜部 旧東京電力の経営陣と電事連幹部を一斉検挙へ

 
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ある冬の夕暮れどき。隅田川っぱたブルー・テント仮設集合住宅前広場。三人の男が萎びてどす黒く変色した福島産朝採れきゅうりをかじりながら、放射能がれきが勢いよく燃えさかる焚火を囲んでいる。焚火には縁がかけて薄汚れた土鍋がかかっている。土鍋の中身は『駒形どぜう』のゴミ捨て場から頂戴してきたセシウムたっぷりのどじょうと絶滅危惧種に指定目前のカスミガセキシロアリだ。味つけは嫉妬と猜疑と勘ちがいと傲岸不遜と知ったかぶりと善人ぶりとによって熟成されたインチキ・ハンドメイドの色は白いが中身は真っ黒けっけ似而非味噌である。関東地方ではサワラ味噌ともいう。見た目、表面上はいいが中身と腹は真っ黒けという意味だ。(なにを食べてもおいしいおいしい、なにを見てもきれいかわいい、なにに対してもありがとうありがとう、ありがたいありがたい。しかし、その実、腹の中では「ちっ! だりーんだよ。うっとうしい。オラオラ、あたしにもっと額突きな。へえこらしな! あたしだけが気持ちよくて、あたしとあたしの家族だけがしあわせならそれでいいんだよ!」という具合。あんたが一番鬱陶しいんだよ、羊頭狗肉婆さん。どこぞからコピペしてるのはバレバレなんだよ、原書原典を読んでもいないくせに鰤の照り焼きしやがって!)
1人目の男は野田内閣倒閣運動の先頭に立ち、消費税増税法案に子分ともども反対票を投じて民主党を除名され、次の総選挙に無所属で立候補したものの落選した壊し屋・小沢一郎。
2人目はクーデターでダーティー・ハンド亀井静香を国民新党代表の座から引きずりおろした挙句に追放し、自ら代表となって野田政権との連立を維持、消費税増税法案成立に尽力したものの、やはり落選して議員センセイの椅子から転げ落ちた陣笠風見鶏・下地幹郎。
そして、3人目は持病である糖尿病と痛風と高血圧と歯周病が悪化して痩せ細った不退転の決意財務省勝英二郎(千年に一人の大食わせ者元事務次官)の操り人形こと、元内閣総理大臣/元国会議員の木偶の坊顔面土左衛門・野田佳彦。まわりを見渡せば、それまで這いつくばらせていた天下り先から石持て鞭打たれて裸同然で追放され、いまやプータローとなった元キャリアの木っ端役人どもが亡霊のような御面相を寄せ合って「隅田川っぱたになにか利権はないか」と実現の道筋なき空虚な悪だくみに精を出している。
駒形橋を虚偽の会の宣伝カーが大音量で「国家公務員法・地方公務員法・演技性人格障害者福祉法の剽窃偽装改正」と「脱原発脱広島国民投票」を呼びかけつつ走り去る。一陣の風が吹き、野田の足元に因果応報、風前の灯となった産經新聞朝刊がまとわりついた。1面の見出しが野田の目に飛び込む。

佐村河内守内閣、国家公務員法並びに地方公務員法改正案提出 全公務員の身分保障廃止へ
独立行政法人改革法案の骨子かたまる 独立行政法人全廃へ
東京地検特捜部 旧東京電力の経営陣と電事連幹部を一斉検挙


ひと際、北風が強くなった。北の将軍様のミサイル花火がひっきりなしに飛び交っている。支那のステルス型偵察機は我が物顔で「東京上空いらっしゃいませ」だ。3人の男の目に光はひとかけらもない。街の灯はどこにも見えない。千代田区内幸町の旧東京電力本店跡地の競売入札期限が3日後に迫っている。
 
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by enzo_morinari | 2014-02-20 12:13 | Poisson D'Avril | Trackback

超現代語訳 般若心経

 
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超スゲェ気持ちが楽になる方法を知りたいかい?
教えてやんよ。誰でも気分よく生きる方法のヒントだぜ。
力を抜くんだよ。心も体もな。そんで、胸いっぱいに空気を吸う。
めしを腹いっぱい喰う。寝る。遊ぶ。どうよ? 簡単なことだろう?
苦しみもつらさもすべてはいいからかげんな幻だ。安心しな。

この世は空しいもんだ。人間も世界も宇宙も空っぽだ。
痛みも悲しみも最初から空っぽのスッカラカンなのさ。
この世は移ろい変わりゆくもんだ。有為転変てんだ。
苦を楽に変えることだってできる。その逆もだ。
汚れることもありゃあ、背負いこむことだってある。
だから、抱えこんだもんを捨てちまうこともできるはずだ。

この世がどんだけいいからかげんかわかるかい?
苦しみとか病とか、そんなもんにこだわるなよ。
見えてるものにこだわるな。聞こえるものにしがみつくな。
味や香りなんてのは人それぞれだろ? なんのあてにもなりゃしない。

揺らぐ心にこだわってちゃダメだぜ。それがってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。つらいものを見ないようにするのはできない相談だ。
でもよ。そんなもん、その場に置いてっちまえよ。

先のことは誰にも見えやしねぇ。無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えないことを愉しめばいいんだよ。それが生きてる実感ってヤツさ。
正しく生きるのは確かにむずかしいかもな。
でもよ。明るく気分よく生きるのは誰にだってできるんだよ。

菩薩として生きるコツってもんがあるんだ。
苦しんで生きる必要なんてねえよ。愉しんで生きる菩薩になれよ。
まったく恐れを知らなくなったらロクなことにならねえんだ。
適度な恐怖だって生きていくのにゃ役立つもんさ。

勘ちがいすんなよ。非情になれって言ってるんじゃねえんだ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな。それができりゃ涅槃はどこにだってある。

生き方はなにも変わりゃしねえ。ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもホトケになれるってこったな。

この般若を覚えとけ。短い言葉だ。
意味なんて知らなくていい。細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったら、それで上等ってもんだろ?

嘘もデタラメもすべて認めちまえば苦しみはなくなる。そういうもんなのさ。
今までの前置きは全部忘れてもいいぜ。でも、これだけは覚えとけ。
気が向いたら呟いてみろ。心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。
いいか? 耳かっぽじってよく聞けよ。

唱えよ。
心は消え、魂は静まり、すべては此処にあり、すべてを越えたものなり。
悟りはそのときにかなうだろう。すべてはこの真言に成就する。



オーケイ。心配すんな。なにも心配しなくていい。大丈夫だ。

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by enzo_morinari | 2014-02-19 15:30 | 沈黙ノート | Trackback

人生の景色が少しだけ良くなる歌 ─ ラビ・シフレ/Labi Siffre "My Song" (1972)

 
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コットン100%の音がする。朝と夜、5回ずつ聴くと、人生の景色が少しだけ良くなるよ。


My Song
This is my song
And no one can take it away
It's been so long, but now you're here,
here to stay
And I wonder if you know what it means
To find your dreams come true

これが僕の歌
だれも奪うことなんかできやしない
とても長かったけど 今君がここにいる
ここにいてくれよ
僕は願う
君は夢がかなう方法を見つけるってね
その意味をわかってくれるって


This is my song
And no one can make it a lie
It's been so long since someone
Could make me cry
And I wonder if you know what it means
To laugh as tears go by

これが僕の歌
だれもごまかせやしない
とても長かったよ だれかが僕を泣かしてから
僕は願う
君が涙に別れを告げて笑うってね
その意味をわかってくれるって


I may not always sing in tune
And sometimes you don't hear me
But you don't have to be near me
To know that I'm singing

僕はいつも調子っぱずれに歌っているかもしれない
時々 君はちっとも聴いてくれない
でも 知っておいてほしいんだ
僕が歌っているとき 君は近くにいなくてもいいんだってことをね


This is my song
And nothing can make it die
It's been so long and it's stronger
I know why
And I wonder if you really, really know
That as long as I live I will sing my song for you

これが僕の歌
なにものも消し去れやしない
僕は願う
心の底から君にはわかって欲しいって
生きているかぎり 君に僕の歌を捧げるってね


I may not always sing in tune
And sometimes you don't hear me
But you don't have to be near me
To know that I'm singing

僕はいつもまともに歌えていないかもしれない
時々 君はちっとも聴いてくれない
でも 知っておいてほしいんだ
僕が歌っているとき 君は近くにいなくてもいいってことをね


That as long as I live I will sing my song for you

I may not always sing in tune
And sometimes you don't hear me
But you don't have to be near me
To know that I'm singing

生きているかぎり 君に僕の歌を捧げるよ

僕はいつもまともに歌えていないかもしれない
時々 君はちっとも聴いてくれない
でも 知っておいてほしいんだ
僕が歌っているとき 君は近くにいなくてもいいってことをね


This is my song
And nothing can make it die
It's been so long and it's stronger
I know why
And I wonder if you really, really know

これが僕の歌
なにものも消し去れやしない
僕は願う
心の底から君にはわかって欲しいって
生きているかぎり 君に僕の歌を捧げるってね


That as long as I live I will sing my song for you
That as long as I live I will sing my song for you
That as long as I live I will sing my song for you

生きているかぎり 君に僕の歌を捧げるよ
生きているかぎり 君に僕の歌を捧げるよ
生きているかぎり 君に僕の歌を捧げるよ


Labi Siffre - My Song


Crying Laughing Loving Lying/Labi Siffre収録
Released: 1972
Recorded: 1972
Genre: Pops, Rythm & Blues, Soul, Black Contemporary
Label: Pye International/EMI
Producer: Labi Siffre

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*「ラビ・シフレ」と聞いてピンときたり、思い当たる節があるなら、中年真っ盛り、さらには団塊世代の爺さん婆さん、あるいはコアなソウル系音楽ファンのはずだ。その両方ならわが友だ。
 
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by enzo_morinari | 2014-02-17 05:52 | 真言の音楽 | Trackback

セルゲイ・プロトコルフィエフのゴーストライティング代表作ならびに剽窃作および贋作

 
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献呈: 現代のベン・ジョムシー/佐村河内守ならびにすべての絵図面を描いた黒幕/古賀淳也と岡野博行と講談社と幻冬社とカプコン一味


交響曲第0番『KAGEMUSHA ─ 影武者』
交響的冒頭陳述『三百代言もお手上げ』
交響詩『銭ゲバ』
歌劇『セビリ屋の詐欺師』
歌劇『地獄の沙汰も金次第』
交響的物語『サムーと狼少年』
交響的教訓曲『悪銭身につかず』
歌劇『カネの切れ目が縁の切れ目』
組曲『雲隠れ』
組曲『逃げ切り』
交響詩『小悪党』
交響詩『大悪党』
交響詩『怒り心頭』
歌劇『臭い膿』
歌劇『無様島で』
嬉遊曲『化けの皮』
交響組曲『詐欺師』
組曲『火宅の人』
組曲『渦中の人』
組曲『蝸牛の人』
組曲『賠償地獄』
組曲『嘘の上塗り』
組曲『幽霊の灯人』
歌劇『冷笑水の精』
歌劇『刑務所での離婚』
交響組曲『2014年2月』
バレエ音楽『シンデルヨ』
バレエ音楽『宙ぶらりんこ』
組曲『原発ジプシー幻想曲』
組曲『我らの捏造時代の歌』
交響組曲『ライジング・サギ』
オラトリオ『ピンフのみの守り』
バレエ音楽『サムーとガッキー』
大諧謔曲第1番『耳がきこえる』
大諧謔曲第2番『海がきこえる』
大諧謔曲第3番『嘘が多すぎる』
大諧謔曲第4番『髪が長すぎる』
大諧謔曲第5番『光が眩しすぎる』
大諧謔曲第6番『薬を飲みすぎる』
大諧謔曲第7番『金がなさすぎる』
歌劇『ペテン流行期の酒池肉林』
不純恋歌『広島東洋カープの恋』
幻想曲『悪霊と死霊と亡霊のワルツ』
三文猿芝居と茶番劇終結に寄せる頌歌
カンタータ『身も蓋もない中年のバラード』
映画音楽『本当のことはなにもイワン雷帝』
バレエ音楽『放蕩息子のヒロシマへの帰還』
歌劇『裸の王様には絶対音感の無敵耳がある』
カンタータ『法螺吹け、偉大なる汚染の大地よ』
交響的冒険物語『ミュンヒハウゼン男爵の妄言』
交響詩『知性と教養のない者 ─ 無知と無恥と鞭』
ピアノ協奏曲第42番『亡き往生のためのパヴァーヌ』
映画音楽『ウレナイシーディー草原のアルチザンたち』
交響的物語『下衆が外道の道案内をすれば二人とも地獄に落ちる』
クレタ人とピノキオのためのプソイドロギア・ファンタスティカ・ミトマニア
無伴奏ヴァイオリンのためのバジリータ『会見は1回100万円のシャコンヌ』
超絶欺罔技巧練習曲『50歳のエチュード ─ バタイユとヘーゲルをめぐって』
交響的物語『運命の不可能を可能にする可聴帯域無限大の偽感音性難聴地獄耳』
馬歌劇『詐欺虚偽虚妄嘘誤魔誑騙捏の男の三都物語 ─ イロシーマ/ヨコハーマ/トキーオ』
 
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by enzo_morinari | 2014-02-15 08:42 | Poisson D'Avril | Trackback

強固な意志の力で巨大な岩盤を破壊せし者の魂の記録/スコット・ロス『スカルラッティ:鍵盤楽器作品全集』

 
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精緻。明晰明瞭にして端正。そして、鬼気迫る。E-M-M


スコット・ロス/スコット・ストーンブレーカー・ロス(Scott Stonebreaker Ross/1951年3月1日 - 1989年6月13日)
チェンバロ並びにオルガン奏者。享年三十八。死因: AIDSによる合併症。
強固な意志の力を持つ者はドメニコ・スカルラッティが遺した巨大な岩盤、『鍵盤楽器のためのソナタ全集 K.1- K.555』(ERATOとRadio Franceの共同企画)を1年余をかけて穿ち、破壊しつくし、そして、最後は抱きしめ、撫で、頬ずりし、静かに埋葬した。
総演奏時間34時間31分。全CD34巻/570曲。これをして、「音楽という名の仕事」と言うのである。「心の耳」を失った者や生と死のリアリズムを持たぬ親和欲求まみれの甘ちゃんどもには到底聴き取れない「真言の音楽」である。
出自やら生い立ちやら抱えている種々、諸問題を削ぎ落とした果てに「いい音楽」「いい仕事」はある。『ドメニコ・スカルラッティ: 鍵盤楽器のためのソナタ全集 K.1- K.555』はまごうかたなきスコット・ロスの魂の記録だ。

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トリトヌス/悪魔の音程にも十字架音型にも頼らず、「障がい」やら「被爆」やらという音楽に直接関わりのない「装飾音」を徹底的に排除したときに聴こえてくるものと視えてくるもの。そろそろ、この国も薄っぺらであさはかな「甘ちゃんの時代」を終わらせる潮時である。


強固な意志の力で巨大な岩盤を破壊せし者の魂の記録の一端


Domenico Scarlatti: The Keyboard Sonatas [Box Set]/Label: ERATO

Product Details:
Domenico Scarlatti (Composer), Scott Ross (Cembalo), Marc Vallon (Bassoon), Christophe Coin (Cello), Michel Henry (Oboe), Monica Huggett(Violin)

Recording Data:
June, 1984 - September, 1985/Château d'Assas, Chapel, France etc.

Length:
34 Hours 31 Mins. (34 Discs/570 Tracks)

Works on This Recording
Disc: 01/K. 01 (L. 366) - K. 19 (L. 383)
Disc: 02/K. 20 (L. 375) 'Capriccio' - K. 30 (L. 499) ('The Cat's Fugue')
Disc: 03/K. 31 (L. 231) - K. 48 (L. 157)
Disc: 04/K. 49 (L. 301) - K. 66 (L. 496)
Disc: 05/K. 67 (L. 32) - K. 93 (L. 336)
Disc: 06/K. 94 - K. 112 (L. 298)
Disc: 07/K. 113 (L. 345) - K. 125 (L. 487)
Disc: 08/K. 126 (L. 402) - K. 139 (L. 6)
Disc: 09/K. 140 (L. 107) - K. 155 (L. 197)
Disc: 10/K. 156 (L. 101) - K. 172 (L. S40)
Disc: 11/K. 173 (L. 447) - K. 188 (L. 239)
Disc: 12/K. 189 (L. 143) - K. 203 (L. 380)
Disc: 13/K. 204a - K. 216 (L. 273)
Disc: 14/K. 217 (L. 42) - K. 229 (L. 199)
Disc: 15/K. 230 (L. 354) - K. 243 (L. 353)
Disc: 16/K. 244 (L. 348) - K. 257 (L. 169)
Disc: 17/K. 258 (L. 178) - K. 267 (L. 434)
Disc: 18/K. 268 (L. 41) - K. 286 (L. 394)
Disc: 19/K. 289 (L. 78) - K. 301 (L. 493)
Disc: 20/K. 302 (L. 7) - K. 317 (L. 66)
Disc: 21/K. 318 (L. 31) -K. 327, K. 329 - K. 338 (L. 87)
Disc: 22/K. 339 (L. 251) - K. 355 (L. S22)
Disc: 23/K. 356 (L. 443) - K. 371 (L. 17)
Disc: 24/K. 372 (L. 302) - K. 391 (L. 79)
Disc: 25/K. 392 (L. 246) - K. 409 (L. 150)
Disc: 26/K. 410 (L. S43) - K. 427 (L. 286)
Disc: 27/K. 428 (L. 131) - K. 448 (L. 485)
Disc: 28/K. 449 (L. 444) - K. 467 (L. 476)
Disc: 29/K. 468 (L. 226) - K. 484 (L. 419)
Disc: 30/K. 485 (L. 153) - K. 500 (L. 492)
Disc: 31/K. 501 (L. 137) - K. 519 (L. 475)
Disc: 32/K. 520 (L. 86) - K. 539 (L. 121)
Disc: 33/K. 540 (L. S17) - K. 555 (L. 477)
Disc: 34/K. 81 (L. 271), 88 - 91, 287, 288, 328 (L. S27)

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by enzo_morinari | 2014-02-12 03:07 | 真言の音楽 | Trackback

現代のベン・ジョムシーをめぐる大諧謔曲 "耳がきこえる" 第1楽章

 
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現代のベン・ジョムシーをめぐる大諧謔曲 "耳がきこえる" 第1楽章 変タヒタヒネC調 - 悪徳の栄え或いは美徳の不幸


【プレリュード】
音楽の話ではない。そもそも、現代のベン・ジョムシー/佐村河内守をめぐる種々は「音楽」としてとらえるようなシロモノではない。言わば、クロモノ。あるいはゲテモノ。マガイモノ。ニセモノ。マユツバモノ。ワルモノ。つまりは、「詐欺」「騙し」「悪徳」「欲得」といったタームでとらえるべきものだ。

悪魔的スケルツォとなるか交響的スケルツォとなるか。佐村河内守が例の獺祭グラサンを外し、外界からの「雑音」「雑言」に反応していかなる眼の玉の動きをみせるかによって調性も旋律も律動も和声進行も変化する。ポリフォニーの次第によってヘゲモニーは変化する。コンダクトは混濁まみれのコンフリクトとなることもありうる。だが、まちがってもリスペクトもリコメンドもない。なにがどう転がろうとも、すべてはダ・カーポだ。そこに「悪徳の栄え或いは美徳の不幸」がないことだけは確かである。

楽聖ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンも HIROSHIMA型運命の扉の前でHIROSHIMA型原爆頭 Opus 1をさらにかき毟り、振り乱し、さぞや苦虫を噛み潰していることだろうが、この際、ハイリゲンシュタットしていただくしかない。(マエストーソなグランディオーソ・エスクレメントはちゃんとファト・ラバーボへ行って、ウン・ポコだけコン・ブリオしたまえよ、ルートヴィヒくん)

さて、コーヒー豆を60粒数え終えたら、グラーヴェでポッシービレでラルゴでアダージョでアンダンテでアレグロモデラートでアニマートでプレスティッシモでトランクィッロでマエストーソでコン・ブリオでスピリトーゾでアパッシオナートでカンタービレでラメンタービレでグラツィオーソでフェローチェでスケルツァンドでアマービレでドルチェ・アンド・ガッバーナでグランディオーソでリゾルートでコモドでカプリチョーソでアッサイでレガートでフェルマータにピッツィカートしよう。無論、メッテルニヒ・ミュートしようとしなかろうと、心の耳を失った現代のベン・ジョムシー/佐村河内守にはおなじだ。
 
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by enzo_morinari | 2014-02-07 15:04 | Umbra Viventis Lucis | Trackback

フェデリコ・ボレル・ガルシアの夢

 
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戦争は政治以外の手段によって行われる政治の延長である。C.V.C.

今般、2013年の春の初めに開戦したある「戦争」が終戦を迎えた。この戦いのあいだに斃れた多くの無名戦士たちに手向ける花を私は持たない。追悼の言葉さえない。ただ彼らの安らかなる眠りを祈るばかりである。

この戦いに勝者はいない。同様に敗者もいない。あるのは語りつくせぬことについて語ろうとしたことへの悔恨のみである。語りつくした果てにはなにものもないことを承知したうえであったとしてもだ。我々は和睦のためにではなく、ましてや戦いの果ての慈しみあいのためになどではなく、ただ戦うために戦ったのだ。

一枚のモノクロ写真に目を凝らす。長いあいだ繰り返し繰り返し凝視しつづけてきた写真。戦場カメラマンのロバート・キャパの手になる「斃れる兵士」だ。「D-Day」と並んでロバート・キャパの名を世界に知らしめた一枚である。斃れる兵士の「声」を聴きとろうと耳をそばだてつづけてきたが、いまだ彼の声を聴き取れずにいる。もどかしい。

斃れる兵士の土手っ腹ど真ん中を、視えない自由を撃ち抜くための視えない銃で撃ち抜きたい衝動が身を貫くけれども、どう足掻いても引金を引き絞るための魂の力が指先に宿らない。意志の中心にあるはずのメタルが錆つきでもしたか。情けないことだ。

1936年9月5日、スペイン内戦の最中。コルドバ戦線セロ・ムリアーノ近郊の戦いでロバート・キャパは一人の人民軍兵士にカメラを向けた。キャパがシャッターを切った瞬間、兵士は頭部に被弾し、崩れ落ちた。彼の名はフェデリコ・ボレル・ガルシア。24歳の若者である。

「斃れる兵士」はいつしか一人歩きをはじめ、戦争の悲惨さを語るときのステレオタイプのひとつとなった。しかし、「斃れる兵士」の本質はこの戦闘の際の他の写真と「組」にしてこそ見えてくる。辛く苦しい作業だが必要な作業だ。

一連の組写真の中で、西陽を浴びて敵弾に斃れた兵士は果敢に敵を攻撃している。彼の行為はまぎれもれもなく敵側の「斃れる兵士」を生む。

襲いかかる敵弾の雨の中、勇猛果敢に戦い、銃弾を放つ兵士と斃れる兵士。2枚の写真の対比は悲劇の主人公の行為の告発ではなく、「兵士」の本質の再確認である。

人は言う。曰く、彼はファシストから国を守ろうとした愛国者であると。曰く、侵略には断固として戦うべきだと。しかし、真に告発されるべきは権力者と時代に迎合し、翻弄された人々である。その意味において、「斃れる兵士」の狙う銃口の先にいるのもまた一人の兵士にすぎないことに気づく。

自由を守ったと喧伝される連合軍兵士の銃弾に斃れたガダルカナルやインパールの日本軍兵士も、ノルマンディーの戦いで死んでいったドイツ軍兵士も「斃れる兵士」と同じである。「斃れる兵士」が伝える真のメッセージとは彼一人の「英雄の悲劇」ではなく、彼のように何千万もの人々が兵士として殺し合い、そして斃れたことに思いいたれということにつきる。

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祖国に捧げた彼の命は尊い。彼のように戦い、彼の斃れるように斃れていった兵士が、誰にかえりみられることもなく無数にいることの重さに思いを馳せなければならない。兵士として戦い、兵士として斃れる大きな悲しみに気づかなければならない。そのとき「斃れる兵士」は何千万倍もの命の重さを持つ。

「戦争」という冷徹冷厳なテーゼに対し、人間はあらゆるアプローチで理解しようとし、様々なモチーフとして展開してきた。それはときに文学のかたちをとり、社会科学のかたちをとり、美術や音楽のかたちをとった。向かい合う者に深い沈黙をもたらしつづけるものもあれば、陳腐なステレオタイプに堕し、形骸化しているものもある。

命のかけらさえ差し出さずに口先小手先で「平和」のお題目を百万遍唱えたところでコストも時間も人手もかかりはしない。兵士の手元にフィールド・レーションDは届かない。

実現の道筋なき空虚な平和の絵空事をしたり顔鼻高々に語る者たち。家では家族の笑顔とあたたかい食事とやわらかなベッドが彼らを待っている。

20世紀の二度にわたる世界大戦や数々の紛争を経て、「戦争」そのものの様相が複雑化し、戦争の語られ方や認識は多様化した。そして、「戦争」という一種犯しがたいニュアンスを論理の後ろ盾としたあらゆるオピニオンが出現した。戦争はいまや「語られるべき主体」から、あらゆる主張に対して潤沢に論拠を提供する「都合のいい素材」へと変貌していった。

その一方で、そういった流れの中で次第に語られなくなった側面がある。それはほかならぬ「戦場」そのものだ。「戦場」においては、人は兵士としてあらゆる手段で殺戮する。「戦場」にあるのはリアルきわまりもない生と死である。

生き残るために殺し、生き残ろうとしても死ぬ。声高に反戦、あるいは戦争礼賛を唱えるのではなく、よりストレートなかたちで戦いの最も先鋭的な部分、すなわち人々が最も直接的にこだわった部分を伝えること。理論家、活動家、学者のもてあそぶ冷徹な素材ではなく、生身の兵士が命を賭け、苦悩と矛盾と信念とを胸に秘めて戦った戦場の点景を「視えない銃」で撃ち抜くこと。

百万の兵士が斃れても「西部戦線異常なし」と打電する世界の狂気と向かい合うこと。一人を救い、世界を救っても、なおすくいきれぬものがあることに思いをいたすこと。真の戦場は個々の胸の内にこそある。

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いま、私が従軍する「言葉の戦場」には寒々しい風が飄々と吹くばかりだが、私はまた別の「言葉の戦場」へと出兵しなければならない。いくぶんかのかなしみがなくもないが、いずれ足取りは冷徹なクラウゼヴィッツ・ダンスへとかわるだろう。

過ぎた戦いの痛みは時の経過とともに忘却の彼方へと流れ去り、日常の一部となる。フェデリコ・ボレル・ガルシアの夢は一瞬、一度かぎりだ。
 
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by enzo_morinari | 2014-02-06 17:48 | イマ、ココハ、戦場ダ。 | Trackback