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されど、われらが幻のラ・トゥール・エッフェル

 
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1987年秋。早逝した戦友を追悼するために集ったリラの花影揺れる凱旋門の近くの小さな食堂で、漂えど沈まず、悠々として急ぐ宴の締めくくりに、我々はカルバドスの満たされた杯をあげ、死んだ友を思い、魂の奥深く刻み、誠を捧げてから静かに最後の乾杯をした。そして、固く再会を誓い、それぞれの戦場へと帰還した。

ある者は中東へ。ヨルダン川のほとりへ。ある者はアフリカへ。ヨハネスブルクのポンテシティ・アパートへ。ある者は民族の血で血を洗うボスニア・ヘルツェゴビナへ。希代の独裁者が跋扈するブカレストへ。またある者は西アジアへ。ベドウィンの民の中へ。

あれから四半世紀が経つ。そのあいだに数えきれぬほどの秋やら冬やら春やら夏やらが音も立てずに過ぎていった。再会も果たされぬまま多くの友が逝き、斃れ、少しの友が残った。幻のエッフェル塔はいまもかわらず、我々の前に墓標のように屹立する。友よ ── 。

"Giuseppe Tartini: Trillo del Diavolo (Devil's Trill Sonata)"
Anne-Sophie Mutter, James Levine & Wiener Philharmoniker
 
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by enzo_morinari | 2014-01-30 19:43 | 流儀と遊戯の王国 | Trackback

母が教えてくれた歌 ── ドヴォルザーク

 
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歌いなさい。泣きなさい。そして、最後は笑いなさい。OFF-CROW-SAMA


母はいつも歌を口ずさんでいた。わが母ながら素晴らしい美声の持ち主だった。エディット・ピアフに心酔していた母が歌うのは『バラ色の人生』や『パリの空の下』や『愛の讃歌』などのシャンソンが中心だった。『ダニーボーイ』のときもあれば『すみれの花咲く頃』のときもあれば『テネシー・ワルツ』のときもあった。ドヴォルザークの『母が教えてくれた歌』もよく歌っていた。

『母が教えてくれた歌』(Když mne stará matka zpívat, zpívat učívala/Als die alte Mutter mich noch lehrte singen/Songs My Mother Taught Me)はアントニン・ドヴォルザークが1880年に作曲した作品55『ジプシーのメロディ』の第4曲である。『ジプシーのメロディ』はボヘミアの詩人アドルフ・ヘイドゥクによる連作詩集を元にしたものであって、これに深い感銘を受けたドヴォルザーク自身がチェコ語の原詩をドイツ語に翻訳し、曲をつけた。『ジプシーのメロディ』は荒野を放浪するジプシーの母親による一人語りの形式を持ち、全7編からなる。『母が教えてくれた歌』の日本語訳は以下のとおり。

遠い昔に老いた母が歌を教えてくれたとき
母の目に大粒の涙が絶えることはなかった
母親となってその歌を子供らに教えるとき
私の目にもいつの間にか涙が浮かんでいる


母親思いで子煩悩であったと伝えられるドボルザークの『母が教えてくれた歌』にこめられた切々とした心情は聴く者を強く深く揺さぶらずにはおかない。

『母が教えてくれた歌』は『ジプシーのメロディ』の中でも特に愛され、フリッツ・クライスラーがヴァイオリンとピアノのために編曲したことによって広く世に知られるようになった。レパートリー、持ち歌とする歌い手、ヴァイオリン奏者、ピアニストも多い。エリーザベト・シュヴァルツコップ、ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス、ネリー・メルバ、ジョーン・サザーランドらの歌唱がある。ポール・ロブソンの愛唱歌でもある。また、映画『刑務所の中』のエンディングでゆっくりとタンポポが大写しされるシーンで流れる日本フィルハーモニー演奏の『母が教えてくれた歌』はとても印象的だった。それまで飄々としたギャグ連発の映画が一転、美しく深い詩情を湛えるものとなった。監督の崔洋一は「運不運、幸不幸は人それぞれだが、だれでもに等しく古今東西の別なく母はある」とでも言いたかったか。

やむにやまれぬ種々の事情、経緯によって母のいない者であってもその胸の内に「母の面影」を宿すことはできる。レオナルド・ダ・ヴィンチは生涯にわたって「母の面影」を追いつづけた果てに「万能の天才」「知の巨人」「創造の王」となった。

母は『母が教えてくれた歌』をいつ、どのような場面で歌っていたのであったか。いずれにしても心さびしいときか困憊のときでもあったろう。母の哀しげな歌声もさることながら、『母が教えてくれた歌』の曲調と旋律は子供心にも大層せつなく哀しく儚く聴こえた。このまま母が私の前から永遠に消え去り、死んでしまうのではないかとさえ思われた。

母は歌いながら泣いていた。いつも決まって夕餉前の夕暮れ時だったと記憶する。黙々と夕餉の仕度をする母の哀しげな歌声に混じって狭く薄暗い台所から煮物のにおいがした。大根と人参と生揚げの煮物。裸電球に照らされた母と私だけのつつましく貧しい夕餉。それでも、母と二人きりで向かう夕餉の食卓は暖かく慈しみに満ちていたのだと思える。

夕餉のときは母と実に色々のことを話した。学校での出来事や勉強のことや音楽のこと、読書のことや日々の暮らしの不満や母の青春時代の思い出話など。母は私に真剣に向き合って話に耳を傾け、身振り手振りを交えて話してくれた。かけがえのない宝石のような時間だった。

他愛のないことで悄気返る私に母は言ったものだ。「歌いなさい。泣きなさい。そして、最後は笑いなさい」と。今、虹子と二人囲む食卓にもおなじ時間が流れ、おなじものがある。

母は私が中学2年生の秋に片手で持てるほど小さく軽くなって死んだが、今も静かに語りかけてくる。「歌いなさい。泣きなさい。そして、最後は笑いなさい」と。

残り少ないわが人生の日々。仕上げがわりに、せめて、母の言いつけを守ることにしよう。そして、母にできなかった分の孝行を虹子にしようと密かに決めている。おそくはない。まだ間にあう。折れそうになったら、『母が教えてくれた歌』を聴き、歌えばいい。母の歌う『母が教えてくれた歌』が聴ける日も、遠い日の花火ほど遠くはない。


Dvorak - Songs My Mother Taught Me (No.4, Op.55)/わが母の教えたまいし歌
Itzhak Perlman
Pablo Casals
Yo-Yo Ma
Anna Netrebko(Soprano)+Daniel Barenboim(Piano)
Bela Banfalvi & Budapest Strings
Joshua Bell
Julian Lloyd Webber
Victoria de los Angeles
 
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by enzo_morinari | 2014-01-16 05:33 | 埴生の宿の夜はふけて | Trackback