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食美をせんとや、生まれけむ #1 山田ホームレス襲撃事件

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 1年の締めくくりをホーム・グラウンドである横浜に遊んだ。同行者は希代のファンキー&ファニー&ロケン・ロオオオオルゥッ&シェキナベベ&キュート&キューウィ&「パパ、そこはイヤッ!」&ゴ、ゴ、ゴ、マンゴーー! ゴーーーーズ、オーーーーーン!なビートニク・ガールである。背景に流れつづけていたのはクール&ギャングな「横浜カベ(ルイズ居留守)石川町横浜文化体育館前ストーミー・マンデー・オールナイト・ライヴ&本牧イタリアン・ガーデン、ガブガブいっちゃうよ、ガブガブ、関東学院のベースマン・スズキくん、ちょっと体育館の裏まできたまえ黄金の盃音楽」である。すなわちこれ、幸せいっぱい、夢いっぱい、悪党不良てんこ盛り、歩きすぎてすでに筋肉痛勃発DAY。文句ある? セローニアス? SEX ? 書きたいことは山ほどあるし、書きたいのは山々であるし、「今夜が山田」でもあるが、いろいろありすぎるので、きょうのところは、「山田ホームレス」のおいしい話でお茶を濁しておく。
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 山田ホームレス。横浜市中区相生町3丁目61番地先。すなわち、洋食の「山田ホームレストラン」は横浜のビジネス街、中区相生町の雑居ビル1階にある。JR京浜東北線関内駅北口で降り、海っぱた方面に向かって通りの左側を「山田ホームレス、山田ホームレス」と呪詛しながら進軍すればいやでも見つかる。目抜きに面している。それでも到達できない御仁は永遠に吉野家なる満腹感製造工場で「汁だく」だか「汗だく」だか「特盛りねぎぬき」だか「特少クリハマ上等」だかの下卑たシロモノに喰らいつきつづけるがよかろう。

【採点】
店主:170点。(本牧のシーメンズクラブとは別の中華街玄武門そばの名店、シーメンズクラブで修行したツワモノにして、好々爺である) その使用人にして妻、女将:280点。食いもん:170点。店構え:280点。値段:1~20の等差級数点「おい、ここは昭和40年代かい?」という勢いの低価格。破壊的である。いずれも「100点満点」による採点。店名は「ホームレスの人たちにうまいもんを鱈腹しこたま食べてもらいたかったから」という不可解な動機から、というのは真っ赤な衝撃Tシャーツ級の嘘で、40年前の開業当時、「ホーム」という言葉が流行していたからというのが店名の由来である。また、「ホーム」には家庭という意味をこめ、ホームレストラン、すなわち、家庭休息所>>家庭料理というしだいである。味と人物はホームラン級である。なんせ、ホームレスなだけに。

 喰らったのは、
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1.(プリン体補給のため)当然のごとくにビール。ドクター野本からドクター・ストップがかかっても「毒を喰らわば皿まで」の勢いでビール。
2.オムレツ(昨今の中身がゆるすぎる理念なきオムレツではなく、「昭和の香り」をきっちりと反映した明確明快な理念、心意気心映え気位気構え気概矜持自負誇りを表明した逸品である)
3.ヒレカツ定食(定食D/揚げ加減、肉の厚み、揚げ油の風味、そして、なんと言っても絶品究極、極悪凶悪ともいいたいグレービーソース! さらに特筆すべきは「味噌汁」のあまりにもなうまさ、おいしさ。煮干し&イリコ他&「実家が味噌つくってんのよぉ」っつー無添加自然極上味噌によるものである)
4.ポークソテー(単品)。もはや言葉はない。単品でみっつ食した。前記グレービーソースがかけてある。たまらん。聞けば、無名時代の矢沢永吉が横浜地裁そばにある横浜洋食草分けの名店、開港亭の2階に住みながら足しげく通い、ポーク・ソテーばかりを食していたという。

 山田ホームレス、一度やったらやめられない! ガブガブいっちゃうよ、ガブガブ!「食わずに死ねるか!」である。

【参考情報】
 右隣にエディ藩の歌にも出てくるレストラン『オリヂナル・ジョーズ』がある。
 
(背景音楽:ゴンチチ『短かめの昼食』、ゴールデンカップス『長い髪の少女』)
 
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by enzo_morinari | 2012-12-31 18:00 | 食美をせんとや、生まれけむ。 | Trackback

『Amazing Grace』という奇蹟/別れゆく朝のために

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『Amazing Grace』はずっと昔から好きな楽曲だったが、真の意味でその「癒す力」を実感したのは9.11後のグラウンド・ゼロで行われたセレモニーの折り、ニューヨーク・バグパイプ・バンドによって『Amazing Grace』が演奏されるのを目撃したときだった。
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 よく知られているとおり、『Amazing Grace』は奴隷商人の男がみずからの半生を悔い、絶望と悲しみと恐怖のうちに死んでいった者たちへの鎮魂として誕生した讃美歌である。祖国を追われるようにして新世界にやってきたピルグリム・ファーザーズの苦闘と数々の過ち、独立戦争から奴隷制の深い闇を経て近代国家建設のための産みの苦しみ中で身悶え、のたうち回るアメリカの沸騰する蒸気機関のような社会が『Amazing Grace』を産んだと考えてよい。
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 アメリカ社会はホワイトとカラードという分け方で理解されてきたが、事はそう単純ではない。ホワイトの中にもめまいをおぼえるほどの格差、クラースがある。いわゆる「WASP」に属さないイタリア系、アイルランド系、ユダヤ系等々の人々は陰に陽に数々の差別と弾圧を受けてきている。「9.11」という人類史の転換点ともなるような強烈な事態に直面して、初めてアメリカはWASPであるか否か、白人であるか有色人種であるかを問わずに現実と向きあわざるをえない経験をしたというのが吾輩の考えだ。そして、そのときに傷つき、苦しみ、悲しむ彼らの魂を癒したのが『Amazing Grace』だったろう。
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「素晴らしき神の恩寵」が果たしてアメリカ社会だけでなく、人種、民族、宗教を超え、生きとし生けるもののすべてを包みこむことができるか否かをこの両の眼で目撃するのはとうていかなうまいが、それでも、『Amazing Grace』にはあらゆる世界、あらゆる時代に無数にある死や悲劇や飢餓や困難困憊の一端を癒す役割を担ってもらいたいと、別れゆく朝をあと数時間後にひかえ、強く思うものである。
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 旧い年と別れゆき、出会う新しい年が健やかな1年であることを祈ります。
 
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by enzo_morinari | 2012-12-31 16:00 | QUO VADIS? | Trackback

わが心のベイサイド#01

 
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帰りたい街が見えた。正確には、帰れない街が見えた。T.N.
R. チャンドラーは人生の師匠、固茹で卵はわが主食。E.M.M.

もしも俺がフィリップ・マーロウなみのタフガイか、ジーン・ケリーばりのタップの名手だったならば、俺の「青春」とやらも少しは気の利いたものになっていたかもしれないな。お生憎さまだ。俺は相手の鼻っ柱を一発でへし折るだけのストレート・パンチを持ち合わせていなかったし、女の子をうっとりさせるほどのタップを踏むセンスにも恵まれていなかった。取り柄らしいものがあるとすれば、アルコールに対する類まれなる強さとサキソフォンで『レフト・アローン』をジャッキー・マクリーンばりに吹けることくらいだ。このふたつについて、そんなものは取り柄なんかじゃないと異議申し立てする奴がいても俺はいっさい取り合わない。もちろん、言い訳もしない。実際、1ダースのウィスキーの空き瓶で飯のタネが稼げるわけではないし、むせぶようなサックスの音色が明日を保証してくれるわけでもない。そもそも、ウィスキーの空き瓶など取っておくものではない。たとえそれがMacallan Private Eye 35th AnniversaryあるいはMacallan 1928/50 Year Oldもしくは木箱入りのGlenfarclas The Family Casks 1953であってもだ。明日はただ追悼するためにだけあればいい。

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まあ、そんなわけで、明るい表通りで胸を張って表明できるような種類の取り柄を俺はなにひとつ持ち合わせていないということだ。しかし、フィリップ・マーロウだってコンチネンタル・オップの前では青二才の新米探偵にすぎなかったろうし、ジーン・ケリーにしたところでフレッド・アステアには舌を巻いてシビれていたにちがいない。俺はそれをある種の慰めとして受け取ることで、「輝かしき青春」とはまるで無縁にばかばかしさとかなしさの渦巻く時代の真っ只中を今日まで漕ぎつづけることができたというわけだ。そして、俺はついに30歳になった。

30年。気が遠くなるほど長い年月だ。同い年の奴の中には世界の平和を訴える者さえいる。 区役所の戸籍係として住民基本台帳をまるごと暗記しているやつだっているかもしれない。30歳の記念に俺がしたのは部屋の扉に「ベイサイド探偵社」の看板を掲げることだった。看板には一行のラテン語の成句をいれた。

Fluctuat Nec Mergitur

意味は「漂えど沈まず」。俺の好きな言葉だ。座右の銘というやつだな。パリの市民憲章でもある。看板を掲げたのは、人生の半分を降りたという俺の宣言である。

かねがね、探偵は人生を最低でも半分降りた者でなければ務まらないと考えてきた。だから、俺にも探偵を名乗る資格はある。もっとも、探偵社の看板を掲げたからといって俺は本物の探偵というわけではない。だいたいからして、俺は探偵の経験などこれっぽっちもないのだ。探偵に関係するものといえばレイモンド・チャンドラーとミッキー・スピレインのペーパーバックが本棚に何冊かあるにすぎない。『尾行入門』なんて怪しげな本もあるが、それは『思考は現実化する』の類の本とおなじ程度に馬鹿げた内容だ。20世紀における空虚なもののベスト・テンにまちがいなく名を連ねるとさえ思えるくらいだ。

俺の本業は中古の電器製品を外国船の船員に売る仕事だ。中古バイクや廃車になった自動車を売ることもある。大型電器店や運送屋の何軒かと契約を結び、廃品の電器製品を手数料を貰って引き取る。それをさらに船員に売りさばく。二重の儲けというわけだ。カネを貰ってゴミを集め、それをさらにカネにする。まさに錬金術だ。ある金持ちの未亡人は俺の右肩に頭をもたせかけながら、俺の仕事について「完璧な生態系ね」と言った。「完璧な生態系」か。金持ちの未亡人という人種は物事の本質がなにひとつわかっちゃいない。経験上、例外はない。運に見放された料理人の見映えだけはいい料理を食いすぎたうえに、「オサレなカフェの午後のお茶の会」でまがいもののお紅茶をお召し上がりあそばしすぎたせいだろう。完璧な絶望が存在しないように完璧な生態系だってこの世界には存在しないことも知らずに。「完璧な生態系」はウガンダ系日本人、ハルキンボ・ムラカーミが経営する小港町のナイーヴ屋でならひと山いくらで売っているかもしれないが、そのことは黙っていようと思う。

この商売を始めて3年になる。1990年の夏からだ。きっかけはバブル経済の崩壊である。あの金ピカ時代に俺はたいていのものを手に入れ、そしてすべてを失った。金も友情も信用もだ。岸壁から車ごと海に突っ込むつもりで本牧埠頭D突堤に来たとき、外国船の船員相手に商売をしている年寄りを見た。その年寄りはどう見ても粗大ゴミとしか思えないようなモノを売っていたのだ。しかも、船員たちは興奮して我先にと荷台の粗大ゴミに飛びついている。荷台に満載されていた粗大ゴミは瞬く間に消えてなくなった。年寄りの手にはドル紙幣が束で握られていた。

知り合いの中古車屋から廃車寸前の4トントラックをただ同然で手に入れ、運送屋や電器店を回って廃品の家電製品を集めた。もちろん、その当時は引き取り料を貰うことは思いもよらなかった。頭を下げて、恵んでいただくのだ。当時はドルの交換レートが今ほど安くなかったから、一日に冷蔵庫を一台も売れば充分に喰っていけた。2ドア冷蔵庫の場合、程度が良ければ一台100ドルで売れた。1ドルが250円前後を行き来していた時代だからけっこうな稼ぎになった。

産廃業と古物商の免許を取るのはかなり苦労したが、取ってからというもの、商売は軌道に乗った。引き取り料と売った分とで、軽く会社勤めをしていた頃の平均月収の20倍は稼ぐことができた。今は5人の人間を雇っている。売り上げを折半する条件だ。小港に借りている倉庫には中古品が山のように積んである。一番よく買うのはアジアの船員である。ロシアの船員もけっこういい客だったが、ロシア経済の悪化に伴い、近頃はほとんど買わなくなってしまった。

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その夜、シーメンズ・クラブはいつにも増してにぎわっていた。酔ったロシアの船員が店の隅にある調律の狂ったアップライト・ピアノでモーツァルトのピアノ・コンチェルトを弾いていた。14番だった。彼の演奏スタイルはマウリツィオ・ポリーニの影響を強くうかがわせた。問題はロシアの船員ピアノ弾きには高貴なピアニズムと冷徹な硬質さが欠如していることだった。おまけに彼はところどころで取り返しのつかないミスを犯していた。涙を流すというミスを。きっと、故郷に残してきた家族のことが彼の頭の中をよぎったんだろう。

感情に溺れていてはマウリツィオ・ポリーニの影さえ踏めない。彼はポリーニの起こした奇跡、ショパンの練習曲の10番と25番を繰り返し繰り返し聴かなければならない。そのことをメモに書いて20ドル札と一緒に鍵盤の端っこに置いてやった。ビリヤード台のまわりではフィリピンの船員が馬鹿騒ぎしていた。俺は米ドルを日本円に交換し、カウンターの席に座った。

「探偵稼業を始めたぜ、ジミーさん」
「そりゃ、たいしたもんだ」

ジミーは俺の前に氷の入ったロック・グラスを置き、カティーサークを注いだ。

「早い話が、よろず揉め事引き受けますってわけだ」
「今の商売はやめるのかい?」
「つづけるさ」
「なるほど。二足の草鞋というわけだね」
「まさに」
「うまくいくといい」
「ありがとう」
「これはあたしからのお祝いだよ。新米探偵さん」

ジミーはそう言うと、俺の前にカティーサークのボトルを置いた。同時に、ロシアの船員ピアノ弾きが血相をかえてやってきて俺に抱きついた。そのあとのことは話せば長い。ロシアの船員ピアノ弾きの名はセルゲイ・バシーリィニコフ。チャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院を首席で卒業した本物のピアニストだ。音楽家だけでは喰っていけず、仕方なく船員をやっていた。セルゲイとは以後、強い絆で結ばれることとなるが、それはまた別の話だ。この夜のこともいずれあきらかになるはずだ。

初めての依頼人は看板を掲げて三日目に現われた。マイルス・デイビスの古いレコードを聴きながら、俺は一杯引っかけていた。前の晩、フィリピン船のセカンド・オフィサーからもらった安物のウィスキーだ。ストレートで飲むとガラスのような味がした。窓からやけに大きな夕陽が見えた。

マイルスが空気を引き裂くような鋭いハイ・ノートをヒットさせたとき、ノックの音がした。ノックは初めにゆっくりと二回、次にためらいがちに三回鳴った。ドアを開けると、そこに太った若い男が憔悴しきった顔で立っていた。「たすけて」と男は変なアクセントで言った。俺は男の目を見据え、品定めしながら「入れよ」と言った。

男はチャーリー・チャンと名乗った。上海出身だと言う。チャーリー・チャンはやってきてから正確に15分、濡れネズミのように震えていた。どんよりと濁った瞳には生気のかけらも感じられない。唇からは血の気が失せ、眼のまわりには黒々とした隈を貼りつけている。「たすけて」とチャーリー・チャンは再び言った。今度ははじめより少しだけまともなアクセントだった。俺はグラスにウィスキーをなみなみと注ぎ、チャーリー・チャンの前に置いた。

「飲めよ」

チャーリー・チャンは震える手でグラスを固く握りしめ、口元にもっていった。グラスと歯とがぶつかり、カチカチと乾いた音を立てた。

「なにがあったんだ?」

俺が尋ねるとチャーリー・チャンはグラスのウィスキーを飲み干して絞り出すように言った。

「電話」
「えっ?」
「真夜中に、電話」
「誰から?」
「わからない。なにも言わない。もう三ヶ月」
「俺のことは誰に聞いたんだ?」
「ジミーさん」
「シーメンズ・クラブのジミーか?」

チャーリー・チャンは答えるかわりに空のグラスを俺のほうへ突き出した。俺はウィスキーをグラスに2/3ほど注いでやった。

「助けてくれますか?」
「事と次第によるな」
「お金はちゃんと払います」
「そういう問題じゃない」

マイルスがまたハイノートをヒットしやがった。少しばかり厄介な夜になりそうだった。
 
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by enzo_morinari | 2012-12-30 23:30 | わが心のベイサイド | Trackback

アンドレ・リュウという「希望」

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 アンドレ・リュウがいい。口さがないクラシック通(何度でも言う。おまえらがツウなら吾輩はワンである。樽犬である)あたりからはさんざっぱらおぞましいほどの悪態をつかれ、陰湿で陰険で退屈な誹謗中傷、罵詈雑言を浴びせかけられてきたアンドレ・リュウだが、とにかく、そのエンターテインメントのレベルの高さ、親和力、演出等々が実に素晴らしい。
 現在、63歳。吾輩はアンドレ・リュウという底抜けのポジティブ・シンキングな魂がこれから世界に対してどのようにコミットメントしつづけるのかにも大いに興味がある。
 フルトヴェングラー/ベルリン・フィルのベートーヴェン/交響曲第五番「運命」やメンゲルベルク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のJ.S. バッハ『マチュウ・パッション(マタイ受難曲)』を眉間にしわを寄せて聴くのも音楽のひとつの聴き方であり楽しみ方ではあろうが、それらのクラシック通さまがたの対極にある「音楽の聴き方、楽しみ方」が厳然としてある。「思想」あるいは「哲学」として音楽と対峙するのと、鯱張らず肩肘張らず深刻にも神妙にもならず、単純に音楽を聴いて、あるいは演奏者を見つつ聴いて心地よくなるのとは等価である。優劣などいっさいない。
 吾輩は2007年のN.Y.ラジオ・シティで行われたアンドレ・リュウのコンサートを運よく経験できたが、そのコンサートは演奏者、聴衆観客を含めたラジオ・シティのミュージック・ホール全体がひとつの巨大な楽器、演奏者とも思えるような親和力と一体感を持つものであったと記憶する。まさに、「主客未分」の事態。神妙な面持ちですましている者などただの一人もおらず、ある者は大声で歌い、ある者は踊りだし、ある者は誰彼かまわずに抱き合っている。一種異様な昂揚感と恍惚と至福をともなってコンサートが終わったとき、吾輩は思った。アンドレ・リュウほかの演奏者と聴衆観客とコンサート会場とが渾然一体となって2時間の壮大な叙事詩を奏でたのだと。アンドレ・リュウの他のコンサートやライブ、リサイタルでもおそらくは同様の事態が起こっていることは容易に想像がつく。

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 アンドレ・リュウはコンサート、ライブ、リサイタルに直接出向くのが一番だが、それは現実には中々難しい。であれば、DVD等の映像ソフトで愉しむのがよろしかろう。CDだけではアンドレ・リュウの半分も味わえない。

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 アンドレ・リュウの表情、仕草を見ているだけで幸せな気分になれる。吾輩はなった。そして、なにより、アンドレ・リュウ本人が幸せそうで楽しそうだ。アンドレ・リュウだけではない。アンドレ・リュウと一緒に仕事をしている楽団員もその他のスタッフも一人残らず幸せで楽しそうである。観客聴衆もだ。時折みせる哀しげでやや疲れたような表情も味わいがある。初めはなにやらカルト集団に共通するものがあるのではないかとやや斜に構えていたが、どうやらそのたぐいのものではない。もちろん、大がかりなビジネスではあるわけだし、コンサートはプロ中のプロがきっちりと計算し、組み立て、作りあげたものではある。そして、それでいい。素人に毛の生えたようなポンコツを「ランキングの魔術」と「数字の詐術」と「ゴリ押しタイアップ」でいかにも人気があるかのように仕立てあげ、残念で勘ちがいも甚だしくて虫唾が走るほどチンケな48人衆をメディアに露出させまくることしか能のない輩どもなど足元にもおよばない。

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 アンドレ・リュウは時化て退屈で辛気臭いことばかりのこの世界に一瞬でも「希望」につながるなにごとかを味わわせてくれる。吾輩は味わった。西洋の「杉さま」とでも言いたくなるようなアンドレ・リュウの「流し目」ならぬ「チラ見」と「どや顔」の威力はたいしたものだ。オーディエンスの中には男女老若鍋釜を問わずに失神する者がいると聞く。YouTubeで「André Rieu」「Andre Rieu」で検索すれば一聴一見に値するものがいくつもみつかるはずだ。参考までに吾輩が一日に一回は視聴するものを下記にあげておく。開演しょっぱなのフランツ・レーラー『Dein Ist Mein Ganzes Herz(You Are My Heart's Delight)』がすこぶるいい。終演における総勢300人を超えるバグパイプ楽団の登場と、それにつづく『Amazing Grace』『Auld Lang Syne(蛍の光)』の演奏ならびに会場のシーンは強くストレートに魂に迫りきて、涙腺がゆるむ。



【「音色」に関する付記】
 ヴァイオリンの音色にかぎらず、楽器にかぎらず、この世界にあるすべての「音」については、極言すれば「好きな音」と「嫌いな音」しかないというのがわたくしの考えです。気持ちいい音と気持ちわるい音、いい音とわるい音。フィドルの音をキーキーギーギーのノイズと聴く者もいればケルト音楽には欠かせない味わいのある音と聴く者もいる。それでいいと思うんですね。マイルスの音は暗いと言う者もいればブラウニーの輝かしい音色こそがトランペットの理想の音であると言う者もいる。そうかと思えば、マイルスの音数少なく暗い音こそ「沈黙」の奥にひそむ魂の音であると言う油井正一みたいな者もいるし、クリフォード・ブラウンの能天気な明るさにはうんざりだというひねくれ者もいる。まったくもってそれでいい。
 ストラディバリだろうとアマティだろうとガルネリだろうと、クレモナの新米新人ヴァイオリン制作職人が作った初号機だろうと、そして日本製の数万円のものだろうと、演奏者との相性が良ければいい音がするし、悪ければ散々な音しかしない。
 ずっと昔、海野義男がまだパクられる前に上野の奏楽堂で色々なヴァイオリンをピンからキリまで弾くテイスティングみたいな企画があって、海野義男はストラディバリを弾こうが国産の安物を弾こうが極上の音を出しちゃう。これには会場がどよめきましたよ。ことほどさように、天才なり名人が奏でれば極上の音が出ちゃう。奏でるのがポンコツボンクラスカタンペッポコなら、たとえストラディバリだろうとアマティだろうとノイズにしかならない。『You Are My Heart's Delight』を馬子にも衣装にすらならないダッサダサに着飾った田嶋陽子の婆さんがラジオ・シティやらカーネギー・ホールやらで絶唱したら客席は瞬時にして閑古鳥の死骸で埋まってしまうということ。逆にホームレスに化けたマリオ・デル・モナコやキリ・テ・カナワやシュワルツコップやカルーゾーや鮫島有美子が街角、道端、裏通りで『鹿のフン』を歌えばあっという間に人垣ができちゃう。大仏ちゃんだってすっ飛んでくるかもしれない。
 そのあたりのことも含めて「音色」は語られるべきでしょうな。そして、であるからこそ「音色」を味わうというのは実は最後の音楽の楽しみ方でもあるとわたくしは考えております。(音松)
 
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by enzo_morinari | 2012-12-29 17:30 | あなたと夜と音楽と | Trackback

ラカンの鏡

 
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浅田彰が『構造と力/記号論を超えて』という名の哲学カタログを大売り出ししてから、すでに30年の歳月が経とうとしている。

当時の「知」の大安売りに便乗した者たちは今どうしているのか? へっぽこスカタン瀕死頓死寸前の朝日ジャーナルの部数拡大戦術にうまうまと乗せられて軽薄表層上っ面おっちょこちょいにも「ニュー・アカデミズム(ニューアカ)」なる珍妙奇天烈な「立場」「立ち位置」を標榜していたボンクラポンコツどもは?

A( )Cの代表格である中沢新一は相も変わらず施錠済み密室状態の研究室で脳味噌のしわの足りないJDのうなじに息を吹きかけ、尻を撫で、追いかけまわしているのか? あまたの空間プロデューサーは? 往年の新人類たちも、いまや中年もしくは老人初期の真っ只中を生きている。

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ジャック・ラカン先生が死んだとき吾輩は22歳だった。ラカン先生のセミネールはいつもハラハラドキドキの連続だった。

吾輩がラカン先生のセミネールに初めて参加した頃、セミネールはサンタンヌ病院の消毒液と糞尿とナポリタン・マスチフの肉球の匂いのする部屋で行われていた。ジャン・イポリットやユリア・クリステヴァやルイ・アルチュセールを何度かみかけた。

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ユリア・クリステヴァは当時から胡散臭かった。インチキとまやかしと色仕掛けのにおいがした。鼻持ちならなさは野村沙知代豚クラス。嘘臭さは軽々と辻元清美を凌駕していた。辻元清美が「真実の口」の番人にさえ思えるほどである。あんなろくでもない女がもてはやされる時代がかつてあったのだ。

雇われ社長のポンコツ成田兄弟がへっぴり腰でやっていた麻布十番の「マハラジャ」VIP ROOMに出入りする能天気な坊やたちまでもが「刷り込み」だの「フラクタル」だの「パラダイム・シフト」だのといった言葉を誇らしげに口にしていた。『構造と力/記号論を超えて』とともに、『逃走論/スキゾ・キッズの冒険』を片手にナンパすることがいけしゃあしゃあと行われていた。ふざけた時代があったものだ。

総じて言えば、80年代は「スカ」だったということにでもなるのだろうが、同時にそれは、のちの「失われた十年」を生き抜くための準備運動の時代であったようにも思える。

あの「泡の時代」「バブル・フェスティバル」の意義は、現代ニッポンや現代ニッポン人や現代ニッポン文化がどこまでおめでたいかを知り、計測する絶好の機会になったということにつきる。

ニッポンおよびニッポン人ならびにニッポン文化の底の浅さとおめでたさはさらに拍車がかかったというのが吾輩の感想だ。大震災、原発事故以後、それはさらに顕著になり、恥も外聞もなくなり、露わになり、あからさまになった。

「絆」だの「友愛」だのが実現の道筋なき空虚な言説によって語られ、そのいっぽうで、「オサレなカフェ」やら「午後のお茶の会」やら「女子会」やらの極楽とんぼタームがふんぞりかえりながら臆面のひとかけらすらもなく大手をふって街を闊歩している。驚くべきことにそれらの事態に喝采を送るおっちょこちょいのお追従者、有象無象が山のようにいるという事態、現実。有終の美のかけらもなくニッポンは終わるという次第でもあるのか?

さて、ラカン先生のそばにはいつも鏡が置いてあった。大小様々。デザインも色々。中国の前漢時代の青銅鏡もあった。あれは本物だったのか? 本物だとしたらラカン先生はなにかしらの犯罪に与していたことになるな。もはや真相を究明することはほぼ不可能だし、究明したところでえられるものなどポンコツどもの「依存談義」ほどの価値もあるまい。

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1980年代から90年代にかけて影響を受けた思想家、哲学者、文学者のほとんどは死んでしまった。それもたてつづけに。なしくずしに。生きているべき者や死んではいけない人が死に、とっとと死んでしまったほうがいいような輩がごまんと生き残り、いけしゃあしゃあと生き延びる。

腹立たしかった。「鏡像段階」をさえ乗り越えることのできないニッポン国。「寸断された身体」のイメージ(Image morcelée du corps)の中にしか生きることができず、自分が一個の身体であることの自覚なきニッポン大衆。ラカンの鏡はこの国にはなく、あるいはあっても瞬時に木っ端みじんにされる。ラカンの鏡に自己を映したければよそを当たるしか手はあるまい。さもなくば、世界のどこであれ「午睡」「昼寝」を決め込むかだ。

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by enzo_morinari | 2012-12-28 11:30 | QUO VADIS? | Trackback

プリマス・バラクーダの殺戮と愛欲と食欲の日々 #2

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 人類史上、もっとも成功したギター弾きの一人であり、地上最後のカマシアン・スピーカーとしても知られるジェームス・パトリック・ペイジ OBEの右腕を喰いちぎったオニカマスのプリマス・バラクーダはリフェアン山脈を流れる川という川をいかにも勝ち誇った様子で泳ぎまわっていた。凶器そのものの顎と牙をみせびらかしながら。その顎と牙はなるほど恐ろしげだが、オニカマスのプリマス・バラクーダにはどこか憎めないところがある。噛みつくことしか能のない大馬鹿者ではあるがときどき噛みついた拍子に顎が外れるというファニーかつファンキーな面もあって、それは小さなコビトの大きな世界のル・サングロロンぶりにも匹敵するというのがサモエド釣師同盟員たちのもっぱらの評価である。クライスラーの『愛の哀しみ』が大層お気に入りで、ウナギイヌをひと飲みするときにさえ口ずさむところもカンパニーの全面的な支持を受けている理由のひとつだ。ただ強く凶暴凶悪なだけなら、オニカマスのプリマス・バラクーダはとっくの昔に刺身にされて世田谷おしゃれ食堂の昼定食(時価)になっていたはずである。刺身はすこぶるまずいが。干物か塩焼きにするべきだが。
 
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by enzo_morinari | 2012-12-27 07:30 | プリマス・バラクーダの殺戮の日 | Trackback

プリマス・バラクーダの殺戮と愛欲と食欲の日々 #1

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 世界で初めてHERCOのピックで魚を釣り上げたのはジミー・ペイジである。1972年6月23日の明け方、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ市にある小さな環礁、人呼んで「Long Tall Sally(のっぽのサリー)」でジミー・ペイジは釣魚史のみならず世界史、人類史に名を残す偉業を成し遂げた。
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 そのときはHERCOのFLEX 75を使い、ミニチュア・シーラカンスのハーモニー・ソブリンH1260 Flattopのトロフィー・クラスを釣り上げた。その日の夜の祝賀会のときのジミー・ペイジがこれだ。よほどうれしかったのか、ギターをサウスポーで弾いている。ハーモニー・ソブリンH1260 Flattopを釣り上げたときに使ったHERCO FLEX 75もはっきりと映っている。
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by enzo_morinari | 2012-12-26 13:00 | プリマス・バラクーダの殺戮の日 | Trackback

クリスマスのための無邪気な日々への挽歌

 
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雪の降るクリスマス・イヴのことだ。遠い昔、ずいぶんと悲しい思いをさせたかつての恋人と町外れの食料品店で出くわした。彼女は冷凍食品のコーナーの前に立ち、品定めに夢中で私に気づかなかった。

私はそっと彼女のうしろに近づいて彼女が着ている赤いマックのネルシャツの袖を引っ張った。初めのうち、彼女は私がだれかわからなかった。それでも、私が彼女と一緒だった頃にみせたおどけたいくつかの表情をすると彼女は目を大きく見開いて両腕をひろげ、とても強い力でハグしてくれた。勢いあまって彼女のポケットから財布が飛び出すほどだった。私と彼女は顔を見合わせ、涙が出るくらい大笑いした。

私と彼女は昔のように一緒に買い物をつづけた。買い物がすみ、やはり、昔のように二人並んでレジまで買ったものを運んだ。無愛想な若い店員によって品物はおなじ袋に詰めこまれた。私と彼女は立ちすくんでしまった。店員に「買ったものは別々にしてくれ」とはどうしても言えなかった。思いがけない事態に私も彼女も軽いジョークで切り抜けることさえできないくらい動揺した。

支払いをすませてから袋を1枚もらい、レジの横の台で品物をわけた。軽く飲みにいこうとしたがやっている飲み屋はみつからず、仕方なく酒屋で6本パックのバドワイザーを買い、彼女の白いカローラの中で飲んだ。私と彼女は互いにまだ無邪気だった日々と現在とに乾杯した。もちろん、思いがけない二人の再会にも。

乾杯はしたが気持ちはどこかうつろだった。そんな気持ちをなんとかしたかったがいい方法がどうしてもみつからなかった。それは彼女もおなじだったと思う。

「ひとまわり以上も年上の建築家と結婚したのよ」と彼女は突然言った。そして、「そのひと、わたしをすごく大事にしてくれるの」とつけ加えた。彼女はたぶん、その建築家を愛しているとも言いたかったのだろうけど、言わなかった。嘘をつきたくなかったのだと思う。大事なら冷たい雪の降るクリスマス・イヴに彼女をひとりで買い物になんか行かせるわけがない。しかも、夜ふけに。

「時間はきみにはやさしかったんだね」と私は言った。

「きみの青みがかった瞳の色はさらに深くなってる。すばらしい色だ」

しかし、本当のことを言えば私には彼女のことがほとんどわからなかった。幸せなのか信頼と慈しみに包まれているのか。彼女の心の中にあるものが感謝の念なのか猜疑心なのか。

「あなたのこと、たまにタワー・レコードで見かけるわ。昔とおんなじ。お目当てのアルバムを探すのに夢中でまわりのことはなにひとつ目に入ってなかった。仕事はうまくいっているの?」

「音楽はいまでも大好きだし、素晴らしいけど、生きつづけることは地獄の責苦のように感じることもあるよ」

私と彼女は再びまだ無邪気だった日々と現在と再会に乾杯した。そして、われわれのあいだに横たわる途方もなく長い時間にも。おしゃべりに夢中になるあまり、私と彼女は決して取りもどすことのできない遠い日々を思いだし、過ぎ去ったいくつもの季節をなつかしんだ。

ビールがなくなり、しゃべりすぎたせいで口は疲れ果て、話すこともなくなって私は彼女に別れを告げた。彼女はとてもやさしい笑顔をみせ、ハグし、そっとキスしてくれた。彼女の車からおり、白いカローラのテールライトが見えなくなるまで見送った。ほんの一瞬、無邪気だった頃の気持ちがよみがえりかけた。そして、なつかしい痛みを感じた。いつしか、雪は雨にかわっていた。

Dan Fogelberg- Same Old Lang Syne

*Daniel Grayling "Dan" Fogelberg (August 13, 1951 – December 16, 2007)。彼が死んで世界からは幾分かの「やさしさ」が失われた。12月でちょうど5年になる。曲の最後にソプラノ・サックスで『Auld Lang Syne(蛍の光)』を演奏しているのはやはり2007年に死んだMichael Brecker(March 29, 1949 – January 13, 2007)だ。

無邪気だった頃の私になにかしらの力を与えてくれたふたつの魂は奇しくもおなじ年に死んだ。世界はそのようにしてますますつまらなくなっていくんだろう。仕方ない。そんなめぐり合わせなんだ。配られたカードを交換することはできないし、どんな「最終解答」が待ち受けているとしても、このままゲームをつづけるしかない。


ゲームからおりるほかに手はあるんだろうか?
 
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by enzo_morinari | 2012-12-25 10:00 | The Innocent Age | Trackback

神の声のアンドレア

     その者、神の声をまといて、金色の野に降り立つべし。

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 アンドレア・ボチェッリ。Andrea Bocelli。1958年9月22日生まれ。イタリアの歌い手。「神の声」とも称されるアンドレア・ボチェッリは全盲である。少年時代、サッカーのゲーム中に頭部を強打し、それが原因で完全に視力を失った。ルチアーノ・パバロッティらに見いだされ、1994年に念願のデビューを果たし、同年のサンレモ音楽祭新人部門で優勝した。

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 はじめに「声」ありきである。アンドレア・ボチェッリはとにかく「声」がいい。アンドレア・ボチェッリについて声量不足だのただのポップス歌手だのCDで聴くぶんにはじゅうぶんだがわざわざコンサートに足を運ぶには及ばないだのといった事情通、クラシック通(おまえらがツーならおれはワンだ)の御託、能書きのたぐいが散見されるが、勝手にほざいておけというのが吾輩の率直な感想である。

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 何度でも言う。アンドレア・ボチェッリは「声」がいい。生きざまの声がする。スカした言い方をするならば、「魂の声」「ソウル・ヴォイス」であるということだ。私はアンドレア・ボチェッリの半生を知った上で彼の声を「神が与えたもうた声」「神の声」と聴いた。だが、彼にかぎらず、この宇宙に聴こえるすべての声は「神が与えたもうた声」であって、いい声か、いい声ではないかのちがいがあるだけである。そのことは、このちっぽけな世界にうまい酒とうまくない酒、うまいカマキリ・パスタとうまくないカマキリ・パスタ、たのしいメイクラヴと退屈なメイクラヴ、いい奴といやな奴があるのと等価である。

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 そもそも、「音楽」とはなんだ? 学問か? それはそういった分野もあろうし、学問としての音楽に一生を捧げる奇特な御仁もいるだろう。だが、たいていの音楽好きは、ただ気持ちよく心地よくなりたくて音楽を聴いているだけだろう。そうではない者がいてもいっこうにかまわないし、自由だ。お好きにどうぞということである。
 楽譜を読めずとも書けずとも、指示記号を理解できずとも、音楽史を知らずとも、楽器をなにひとつ奏でられずとも、歌を歌うことが下手くそであろうとも、われわれの前にはいい声とわるい声、いい音楽とわるい音楽、好きな音楽と好きではない音楽、気持ちのいい音楽と気持ちのわるい音楽があるだけだ。人間についても食い物についても酒についても服飾についても腕時計についても車についても自転車についてもオーディオ装置についても書物/テクストについても友人についてもメイクラヴの相手方についても同じである。
 音楽はわれわれのいつでも手の届くところにあって、iTunesであれYouTubeであれCDであれライヴであれ、われわれは知的財産権の許す範囲で自由に手に取り、足を運び、聴くことができる。なんと贅沢至極なことか。


 
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by enzo_morinari | 2012-12-25 03:30 | あなたと夜と音楽と | Trackback

アルマジロと宇宙と僕と#2

 
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ヒメノくんはPink Fairy Armadillo. Lesser Pichi Ciegoとも言う。ヒメアルマジロだ。本人はPink Fairy Armadilloが気に入っている。Lesser Pichi Ciegoはレッサーパンダとまちがわれるので好きではないらしい。ヒメアルマジロは女の子みたいだからやはり気に入らないという。「PFA」と呼ばれるのが一番いいそうだ。

ヒメノくんはアルマジロに変身するとからだの大きさは10cm足らずになる。体重は100グラムほどだ。とても小さい。性格は激変する。ものすごく臆病になるのだ。その臆病さと言ったら、平日の午前8時42分の新宿通りに放り出されたサボテンミソサザイの雛のようだ。それだけではない。音と光にとても敏感になる。だから、ヒメノくんはアルマジロのときは僕のポケットの中で息をひそめている。

ヒメノくんはうす桃色の甲羅をピカピカと光らせることがあるが、それは「いまはすごく気分がいい。講談社と竹書房につづけて殴り込むことだってできるくらいだ」という意味らしい。本人がそう言ったのだからまちがいない。そのことを彼に初めて聴いたときは、彼はピンク色の甲羅を一層ピカピカさせ、「ぼのぼのとアライグマのやつはいつか子分にしてやる」とも言った。

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さて、僕とヒメノくんは麹町警察署とイギリス大使館のちょうど中間にある「ソウル・エコロジカル・パティスリー シーツのあいだ」という変わった名前の店に入ったわけだが、これには深い理由がある。新宿2丁目のゲイ・バー「ポパイ」の隼人ママことサモトラケのニケに呼び出されたのだ。なにを隠そう、ヒメノくんとサモトラケのニケは熱烈恋愛中なのだ。

待ち合わせの時間をすぎていたがサモトラケのニケはいなかった。「シーツのあいだ」の店内にはどういう理由なのかわからないがマーヴィン・ゲイの『What's Going On』と『Mercy Mercy Me』、アイズレー・ブラザーズの『Between The Sheets』の3曲が繰り返し流れていた。僕とヒメノくんはクリスマス・イヴにはそぐわないうえにヘビー・ローテーションでかかる曲にややうんざりしながら、サモトラケのニケの慈悲と恵みによってもたらされた巨大でとてもおいしそうなクレーム・ブリュレからほのかに立ちのぼるエロティシズムにかなり動揺した。
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「はやくあたしを食べて」と巨大なクレーム・ブリュレが突然言った。僕とヒメノくんは顔を見合わせた。
「いまここは空耳アワー?」と通りかかったウェイトレスの女の子にヒメノくんが尋ねた。ウェイトレスは表情ひとつかえずに答えた。
「そのとおりです」
「やっぱり」
「でも、そのクレーム・ブリュレがおしゃべりしたのは空耳アワーとは関係ありませんよ」とウェイトレスはやはり無表情に言った。
 
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by enzo_morinari | 2012-12-23 16:30 | アルマジロと宇宙と僕と | Trackback