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秋霜烈日#1 仇討ち/やられたらやりかえせ

 
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埼玉少女連続誘拐殺人犯・宮崎勤の死刑が執行されたのは判決確定から2年4ヶ月後のことであった。刑事訴訟法に照らすならば遅きに失すると言わなければならない。

やられたらやりかえせ ── やくざの世界にはそのような不文律がある。昨今の性根の腐った輩どもによる悪行非道を見聞きするにつけ、「やられたらやりかえせ」という単純明快さがやけに説得力をもってくる。

「仇討ち」は国家が殺人を容認したシステムである。武士が「仇討ち」を果たせなかった場合、厳罰をもってのぞむ藩さえあった。原則としては武士階級にのみ「仇討ち」は認められていたが、例外的に一般市民にもゆるされることがあった。古典落語にも『宿屋の仇討ち』『芝居風呂』『花見の仇討ち』『役者息子』など市井の民による仇討ちを題材にした噺がいくつかあるほどだ。

「仇討ち」というと「忠臣蔵」が典型のように思われているが、これは事実誤認である。いわゆる「忠臣蔵」として扱われている美談は被害妄想の愚か者による「いわれなき衝動殺人未遂事件」に端を発しているのであって、巷間伝わるような吉良によるいじめ、仕打ちは客観的事実としてなかったことがあきらかになっている。真に仇討ちを果たすべきは吉良一門なのだ。

吉良上野介は名君の誉れ高く、その行政手腕は抜きんでていた。吉良上野介は浅野内匠頭長矩という「バカ殿」の被害妄想の犠牲者であると言ってよい。天下太平楽気分の時代への警鐘として「忠臣蔵」を読みとるときにはじめて大石内蔵助と幕府の裏の丁々発止がみえてくる。だが、それはまた別の話である。

さて、言うまでもなく、「仇討ち」は現在ではゆるされていない。法治国家という制度に飼いならされているわれわれは自明のこととして「仇討ち」の禁忌を受け入れているが、ことはそれほど単純ではない。「仇討ち」がタブーとされたのはたかだか近代以降100年あまりのことにすぎないのだ。

制度としては禁じられても、文化、あるいは、われわれの感情、心性はこれをすみやかに受け入れてはいない。実際、仇討ち的な殺人はおなじ殺人でも刑事裁判ではおおむね情状酌量による減刑がなされる傾向がある。法定減刑と併せれば執行猶予付き判決がくだされるケースもある。

親子兄弟、夫婦の情愛からほとばしりでた無念の思いを晴らさんがためのやむにやまれぬ行為をだれも裁くことはできない。鬼畜のごときたわけ者に被害者の遺族が一矢を報いたとしてだれもそれを糾弾することはできない。これがわたしの第一の立場である。「復讐の連鎖の不毛」などという青臭いことを持ち出してもわたくしには通用しない。実現の道筋なき絵空事はおとといだかあさってだかの方角にある極楽とんぼ長屋で花見の相談でもしながら議論でも討論でもディベートでも好きなだけやるがよかろう。

すべてのことどもに大切なのは、暮らし、生活実感、生きざまに根ざしたリアリティである。聖人君子づらして「実現の道筋なき空虚な言辞」を弄したければピースボートにでも乗り込んで暢気な船旅をたのしみながら、「アフリカの飢えた子どものために文学はなにをなしうるか?」といった類いの極楽とんぼ議論を夜っぴてやるがいい。そのうち、福島瑞穂やら辻元清美やら田嶋陽子やらあたりが歯をむき出しにし、けたたましく首を突っ込んでくるにちがいあるまい。壮観である。

さて、わたくしの第二の立場は、第一の立場であってもなお「国家」「秩序」といった否応のない理念を食い破れない以上、その余は実現の道筋なき空虚な言辞にすぎなくなってしまうというものだ。

本来的には国家などないほうがいいに決まっている。しかし、否応なく国家はある。否応なくある国家があからさまになってくるのは秩序を乱したときだ。国家は犯罪を「秩序を乱すもの」としてこれを取り締まる。「暴力装置としての国家」が顔をあらわすときだ。

乱された秩序を回復するために法の名のもとに裁き、刑罰が執行される。弁証法的に言えば刑罰は「止揚」としてこれをとらえることができる。国家となし崩しに契約を結ばされたわれわれは国家による「止揚」に「怨」やら「憤」やらをすべて委ねなくてはならない。しかし、妻、夫、子供、親といった対幻想の領域を国家という共同幻想がなりかわることはできない。

被害者遺族の対幻想を国家が簒奪し、おまけに「被害者の人権侵害」をする構図。それに荷担する夜郎自大なメディア。「加害者の人権」という言葉をこのごろよく耳にするが、お笑いぐさである。

わたくしは罪刑法定主義者ではあるが、それは国家が網をかけている範囲でのことにすぎない。網を逃れる方法はいくらでもあり、いくらでも編み出される。それもまたひとつのリアリティだ。

「被害者の(もしくは被害者の遺族の)人権」についても言われることが多くなってきた。いずれも、お先棒担ぎの脳天気な夜郎自大メディアがあるいはジャッキをまき、あるいは蹂躙しているのだが、かれらの錦の御旗は唯一、「人権」というメルクマールである。「人権」といえばなんでもまかりとおるという短絡的かつ低次の志がかれらをして大手を振って「人権」を蹂躙させている。もちろん、脳天気メディアに巣くう輩どもはその「皮肉」に気づくはずもないし、気づこうともしない。「品格」とは無縁なかれらに露ほども期待してはならない。

さて、「仇討ち」はどのようにして果たすのか? 仇討ちの場はいくらでもあり、方法もいくらでもある。だが、それを具体的に記すことは法に抵触するのでここではしない。万感の思いをこめて知恵をしぼれば、かならずみつかるとだけ言っておくことにしよう。
 
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by enzo_morinari | 2012-10-27 23:30 | 秋霜烈日 | Trackback