カテゴリ:THE ART OF TEA( 1 )

「紅茶の芸術」のために僕が旅に出なければならなかったいくつかの理由

 
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鈴木ヒロミツが押すポンコツのワーゲン・ビートルのトランクに隠れていたにちがいないバラ色のベントレー・ミドラーGTに乗ったジャニス・ジョプリンと白いカローラに乗った小沢健二とスティーブン大司教と同期でアントニオ・カルロス・ジョビムにレーデ・ウォン・トノーな髭のマイケルくんが好きなふわりなのかふうわりなのかふんわりなのかフルールなのかフルーレなのかフルーチェなのかサンフレッチェなのかフリージアなのかフランチェスカなのかフィレンツェなのかフンコロガシなのかフンババなのかアテネ・フランセなのかフランセーズなのかフランシーヌの場合なのか微妙な京女に種子島銃を突きつけるがごとくに捧ぐ。(「別れの朝に飲んだ冷めた紅茶が日東の紙くさいティー・バッグではなく自由が丘ルピシアの『DARJEELING GRAND CRU』か『キャッスルトン FTGFOP1 2012-DJ4』だったなら自分の人生はもっと香り高くなっていた」というペドロ&カプリシャスな人々にもついでに捧げます。)


「なにもかもを話すわけにはいかないわよ」とローラ・フィジー・アイランドのゴーギャン・ウェイヴな島娘レレヴァカ・ナ・カルー・カ・ダカ・ナ・ツイに尖ったハイヒールのつま先による蹴り付きで告げられたうえ、西武系の新しいWAVE一味に「シンドラー社製死刑台のエレベーター」に無理矢理押し込まれ、グラン・クリュ・クラッセな恋に破れた挙げ句にセント・エルモスの業火に身も心も焼かれたあと、茶王樹の樹の下で夜ごと行われるタニムラ・シンジのお茶の会をさえすっぽかし、「紅茶の芸術」を窮めるために「Monkey See, Monkey Doo」と叫びながらスティーブン大司教の公用車であるクライスラーのマイケル・フランクス4ドアセダン1978年モデルをJIVEしてまで僕が旅に出なければならなかったいくつかの理由。


マイケル・フランクスとの合い言葉はふたつ。「茄子。」と「5拍子。」(あるいは「5分ばかり休憩しよう」)だ。
水曜の午後の野毛山動物園のような静寂に支配されたブエナビスタ・ソシアル・クラブにおける合い言葉を告げあう最初で最後の出会いと別れの儀式をつつがなく済ませ、われわれは缶コーヒーのJIVEで乾杯した。そして、リオのランデヴーに向かった。

マイケル・フランクス4ドアセダンの車中にはずっとアクースティック・ヴァージョンの『アントニオの歌』が村上春樹のできのいい短編集のような音量で聴こえていた。とても気持ちのいい時間がずっと流れた。途中立ち寄ったダイナーの「ニューヨーク市マンハッタンの南部エリアにおけるサンバ・パティ」という奇妙な名前のミート・パイは良心的で誠実でとてもおいしかった。

太陽が燦々と降り注ぐ冷たい学校(またの名を「異化したタコ学校」)の課外授業のように僕とマイケル・フランクスの傷つき焼け焦げた心を癒した。いま思い出しても泣けてくる。世界が「難しい」「理解できない」という実につまらない理由でいとも簡単に閉じられてしまうものだとしてもだ。狭量な者はいつの時代にもいることを学んだと思えばいい。以後は黙殺すればいいだけの話だ。

狭量な者どもとセコい輩どもと鈍感な奴らは黙っていても百年一日のクソ田舎で朽ち果てていくだけのことだ。ざまあない。彼らが無様に朽ち果てていく様子を生暖かく生ぬるく高みの見物してやるさ。マーク・トウェインだって言っている。「真実の価値がわからない者に真実を語ってはならない/Never tell the truth to people who are not worthy of it.」って。

巣立ってまもなく愚か者の猟師に撃ち落とされた歌う鳥、ブッポウソウ目カワセミ亜科カワセミ属のイーヴァ・マリー・キャシディ・カワセミの魂はいまも歌う。

「スキャット村の村人はいつも”なぜ?”と問いかける。愛の化学反応ではなくて不思議な作用でもなくて、相性なんだって言ってもわかってくれない」

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そして、17歳の地図

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人間は変わりはしない。ただ人間に戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。AN-GO

17歳の夏、「自殺」を解読しようとしたことがある。自殺の動機、方法、自殺者の年齢、職業、性別など、「自殺」にかかる事柄のすべてを収集分析し、定量化しようという無粋な試みである。

『完全自殺マニュアル』なる書物が出版され、話題にもなり、ベストセラーに名を連ねたときには、驚きとともに、わが「青二才の頃」の着想の的確さがひそかに誇らしかった。

インターネットは無論のこと、データベースなどという便利なシロモノも一般的ではなかった当時、「自殺の定量化」のための作業は困難をきわめた。

図書館にこもり、文学作品、思想・哲学書、辞世の句、新聞、雑誌など、「自殺」に関わる過去の文献・資料を虱潰しにあたり、可能な限りの方法を駆使して「自殺」を読み解くことに半年を費やした。

「悪法もまた法なり」と言い残し、従容として毒杯を仰いだソクラテスの死は自殺か刑死かを考えたのはこの頃であるし、人類史上初の純粋に哲学的な動機に基づく自殺をしたのはアナクシマンドロスであることを知ったのもこのときだ。

芥川龍之介が死の直前に遺した『或る阿呆の一生』をはじめとする散文のいくつかは、自殺者の心理の一端を覗き見るようで生々しかった。また、自裁した三島由紀夫を追悼する高橋和己の一文で「しおからを覆す」という言葉を初めて目にし、好敵手の死に直面した者の激情を知った。さらに、世代は異なるが、自分とほぼ同年代で自ら命を絶った高野悦子『二十歳の原点』や奥浩平『青春の墓標』などの文章には身につまされる「閉塞感」を共有できたような気がしたものだ。

思えば、私の「青春時代」の中心である1970年代は自衛隊市ヶ谷駐屯地における三島由紀夫の自裁の衝撃で幕をあけた。

エルビス・プレスリーは自室に閉じこもってドーナツを頬張り、ビートルズは「なるようになるさ」と言い放ってさっさと大衆に背を向けた。せめてもの救いはサイモン&ガーファンクルが得体の知れない明日に怯える個衆予備軍に向け、逆巻く渦にも負けない橋を架けてあげようと慰めてくれたことだった。

だが、その慰めも長くは続かなかった。そのような時代を経て、木綿のハンカチーフが真っ赤なドレスと靴に変わり、「のんびりゆこうよ~おれたちは~」などと暢気にほざき、ガス欠したポンコツのフォルクス・ワーゲンを押す鈴木ヒロミツの横を、「可愛いあの娘はルイジア~ナ」というどこかぎこちない和製ロックンロールに発情したクールスが駆け抜け、ウェストコーストの薄っぺらで上げ底の波がなんとなくクリスタルでただ居心地がいいだけの街に押し寄せようとしていた。

1970年代末、街には『ホテル・カリフォルニア』の物悲しい旋律がいつも流れていたと記憶する。当時は「アイデンティティ」だの「共通体験」だの「同苦」だの「共通感覚」だのといった言葉がある種のファッションのように語られていたが、私はそれらの言葉に対してなんとはいえない軽薄さ、皮膚が毛羽立つような異和、上滑りしたお祭り騒ぎのごとき印象をぬぐえなかった。

とはいうものの、私にも誰かとなにごとかを共有したいという気持ちは強くあって、やがて私のその気持ちのブレは熱病のような高揚感を伴って自殺者たちと同期してしまった。いつ知れず私は「自殺」に魅入られていたのである。

私は約一ヶ月間、「自殺」のことばかり考えた。しかし、それは「死にたい」「死のう」という熱い衝動、情念とは異なって、「どこで、どのような方法で死ぬか」といった冷たい形式、理性に関するものであった。やや哲学的な言いまわしで表現するならば、対自的な死ではなく、即自的な死の選択肢を私は模索していたのである。芥川は「死と遊んでいる」と表現したが、私もまた死と戯れていたのだと思える。

私は「自殺」を敢行するに際し、三つのことを念頭に置いた。

必殺の方法であること。
速やかに死に至ること。
見た者が嫌悪の情をもよおさない美しい死にざまであること。

そして、私は「自殺」を決断した。しかし、それは決して「死の決断」ではないのであって、「死にいたる方法の決断」であった。

私が決断した「死にいたる方法」は毒物の服用である。美しい死にざまであるための方法についてはすでに十全の知識があった。「美しい死にざま」とは、換言すれば「汚くない(酷くない、臭くない)死体」ということであるが、それを満足させるのが毒物乃至は薬物による死であった。しかも、使用する毒物は必殺、速効の薬理作用を有していなければならない。三つの条件を満足する毒物は青酸化合物であった。「遺書」めいたものもすでに用意してあった。

「コレニテ一件落着。スベテ清算カリニケリ」

私は使用する毒物を青酸カリと決め、薬局に向かった。薬局に向かう道すがら、奇妙に爽やかな、晴れ晴れとした気分であったことを覚えている。

薬局ははじめ人がいなかった。私は奥に続くやけに間の抜けた空間に向かって声をかけた。奥から素っ頓狂な返事が聴こえ、昼餐の最中だったのだろう、口をもぐもぐさせながら店主が顔をのぞかせた。

その顔を見て私は驚いた。殿山泰治そっくりだったのだ。あまりにも薬局の店主が殿山泰治に似ていたので私は思わず大声で笑ってしまった。私の笑いにつられて店主は口をもぐもぐさせたまま笑った。

「出直してきます」と笑い転げながら告げて、私は薬局をあとにした。薬局を出てもしばらく笑いは収まらなかった。このような劇的効果を現代の演劇理論ではなんと呼ぶのか私は寡聞にして知らないが、いずれにしても私の「自殺」を阻止したのは殿山泰治似の薬局の店主である。

『異邦人』のムルソーは太陽が眩しかったから殺人を犯した。私は薬局の店主が殿山泰治に酷似していたから自殺を断念した。このふたつは実存の前に等価である。同様に、「太陽が雲のかげに隠れていたら?」という問いと「薬局の店主が殿山泰治に似ていなかったら?」という問いも等価である。もしあのときの薬局の店主が成田三樹夫風のこわもてだったら、あるいは女主人で山田花子系だったら、さらには鈴木京香や伊東美咲ばりの美形であったら。妄想はつきない。

さて、「自殺」を断念した私はどうしたか? さめざめと涙を流したのである。それは熱病のごとき高揚感から解き放たれ、偶然にもせよ死なずにすんだ安堵感から出た涙であったように思われる。そして私は『堕落論』に出会ったのだ。

死を弄ぶこともある種の堕落であるなら、私はまぎれもない堕落を経験したと言える。私は『堕落論』を読み進みながら、愉快で愉快で仕方がなかった。途中、何度も高笑いしたくらいだ。

安吾は私に、堕ちるときは正統に真っ逆さまに堕ちよ。昇るときは堂々とどこまでも昇りつめてやれと言っていた。安吾の、人間、人生に対するときの清潔な姿勢が私には宝石のごとく輝いて見えた。眩しかった。嬉しくさえあった。それは読書というより、体験そのものであったと言ってよい。

人間。繁栄と没落。恐怖と怯懦。飽食の眠らぬ夜と飢餓の眠れぬ夜。享楽と放逸と困憊と忍従と。それらを丸ごと抱え込み、飲み込み、壮大な叙事詩は語り継がれる。

「アフリカの飢えた子供の前で文学は何をなしうるか?」といった類の問いにはなにかしら不潔なものを嗅ぎとってしまうが、「生きよ、堕ちよ」という祈りにも似た叫びの前では襟を正さずにはおれない自分がいる。だが、アフリカの飢えた子供も、淪落した少女も、実はみな同じなのであって、生まれ、生き、死に、苦しみ、憎み、哀しみ、慈しみ、儚く、しかししぶとく、慎重で、しかしいい加減で、強く、しかし弱くもあり、強引でありながら繊細で、強欲でありながら清廉で、狡猾でありながら善良で、勤勉でありながら怠惰な、物静かでありながらもかまびすしい、べらぼうな、高慢ちきな、泣いたと思えば笑い、笑ったと思えばまた泣く、ときに人情家で、ときに冷酷漢で、ときに賎しく、ときに高貴で、ときに醜く、ときに美しい、昇りつめ、堕ち、さらに堕ち、また昇り、また堕ちる、そのような人間の、人間であるがゆえの、人間であらんとするがゆえの、すべてが私はいとおしい。

『堕落論』はまぎれもなく、私の「17歳の地図」であった。約束の地も天国も極楽浄土も示されてはいないが、かけがえのない「17歳の地図」であった。
 
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by enzo_morinari | 2013-09-01 02:04 | THE ART OF TEA | Trackback