カテゴリ:冬眠を忘れた熊( 1 )

冬眠を忘れた熊との遠い春の日のいくつかの思い出

 
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 遠くに巨大な岩山が見える。一枚岩。ひとつの岩の塊。標高1420m。外周21.42km。16億5千万年前、先カンブリア時代の中期に誕生した。剥き出しの岩肌に薄いオレンジ色の夕陽が照りかえっている。全体が花崗岩でできあがっている。カタジュタ、ウルルと同じだ。樹木はただの1本もない。わずかに群生するヘリトリゴケのほかには草木1本生えていない。禿げ山だ。住人たちはこの岩山を「魔の山」あるいは「魔物の棲む岩」と呼んでおそれている。
 夜中、耳を澄ますと魔の山から絹糸をゆっくり引き裂くような音が聞こえてくる。岩山の頂上で魔物が笛を吹いているのだ。満月の夜、その笛の音に魅入られた住人の何人かが岩山を登り、行方をくらます。市長の号令で捜索隊が組織され、徹底的な捜索が行われたこともあるが蜘蛛の子一匹見つかっていない。
 岩山に生き物はいない。いるのは魔物だけだ。あるのは風の音だけだ。風のないときは容赦のない静寂が支配する。行方をくらました者はすべて魔物に喰われたのだという者もいれば、大陸のギャング団にさらわれたのだという者もいる。真実は誰にもわからない。
 都市の中心に聳える岩山はいったいなにを象徴しているのか。災いがあるからという理由で誰もこの岩山に手を出さない。岩山を切り崩し、土地をならせば広大な「投資対象として極めて魅力的なエリア」ができあがる。過去に何度か大手のデベロッパーが開発を試みたがことごとく失敗に終わった。
 担当者の不審死。開発業者の倒産。悲運は家族にまで及んだ。現在までのところ、魔の山は手つかずのままである。国内のみならず、外国資本の開発業者が入れ替わり立ち替わり買収交渉したが岩山の所有者は決して買収に応じなかった。カネのにおいを嗅ぎつけた多くの政治家が硬軟取り混ぜたやり口で交渉の進展を図ったが無駄骨に終わった。闇の組織、裏社会の大物たちが束でかかっても魔の山の所有者は首を縦にふらないどころか会うことすらしなかった。岩山の所有者が冬眠を忘れた熊だった。
 冬眠を忘れた熊は正体不明の人物である。この街に冬眠を忘れた熊の本当の名前を知る者はいない。私も知らない。冬眠を忘れた熊とはある土地取引をめぐる騒動を収める交渉の過程で知り合った。互いに「双方代理」をやって、法外の報酬を得た。交渉の最中の「ディーラーとプレイヤーを同時にやれば勝利は100%だ」という私のひと言を冬眠を忘れた熊は聞き逃さなかった。その夜に冬眠を忘れた熊が訪ねてきた。「組もう。俺がディーラーでプレイヤー。あんたもディーラーでプレイヤー。ほかのやつらは全員プレイヤーだ。賭け金はすべていただく」

 庭に眼を移す。季節外れにすっかり葉を落とした欅の樹の近くに裸足の男が立ちつくしている。冬眠を忘れた熊だ。「勇者」の名声を持つ男。彼を「沈黙の殺戮者」「乱暴者」「無作法者」と呼ぶ者もいる。私は冬眠を忘れた熊を「友」と呼ぶ。心なしか背中の翼が萎れて見える。額の2本のツノは小さい。冬眠を忘れた熊は戸締まりをしていない扉を開け、がらんとした部屋に入ってくる。翼は折り畳まれて皮膚に溶け込み、ツノは跡形もなく消えている。いつものことだ。星野コカブの小賢しい陰謀によって大熊座のα星とβ星の間から目当てのポラリスが消えて半年。羽田空港1丁目天空橋の陰気な橋守がコビト王の「獅子の心臓」を止めた影響で株式市場が売り相場一色の中、冬眠を忘れた熊は裸足でやってきた。
 セイヨウトネリコの樹がやっと実を結んだ朝に冬眠を忘れた熊の最愛の妻がひっそりと死んだ。出産後間もない死だった。彼女は長い間、冬眠を忘れた熊のこどもを産むことを望んでいた。やっと授かったこどもだった。冬眠を忘れた熊は深く傷ついている。何者も冬眠を忘れた熊を癒すことはできない。冬眠を忘れた熊にかける言葉はない。最愛の妻が死んで1年が経つのに冬眠を忘れた熊は妻の遺骨をいまだ手放せずにいる。生まれた子といっしょに抱いて眠るそうだ。遺骨の中のひとかけらをペンダントにして肌身離さず身につけている。「この骨は死んだ女房の痕跡だ。この骨に触れているかぎり、おれと女房は繋がっている。これはおれの武器でもある。最終兵器なんだ。この骨のかけらを握りしめれば、おれはまだ息ができる。まだ生きつづけることができる。この骨を身につけているかぎり、怖いものはなにもない」

「ありのままを話してくれ。おれはやっとこさっとこここにたどりついたんだ」
 冬眠を忘れた熊は「呪われたアルマジロ」の署名がある小切手を差し出した。0が10個近く並んでいる。贅沢をしても100年は遊んで暮らせる額だ。
「なにかのまちがいじゃないのか? 0の数が多すぎる」
「いいんだ。当然の報酬さ。命を賭けたんだからな。賭け金が高ければ分け前も跳ね上がるものと相場は決まっている」
「わかった。遠慮なく受け取っておく」
「また頼むこともある」
「人殺し以外ならなんでもやるよ」
「いい心構えだ。ところで、こんなものを手に入れたんだがどう思う?」
 冬眠を忘れた熊は不思議な色の鉱物をファイストス円盤を模したホンジュラス・マホガニー製のテーブルの上に乱暴に置いた。「ランボー・ストーン。どうだ? いい色だろう? ランボー・ストーンには砂漠の商人どもの夢と栄光と挫折が含有されている」

「こんど、魔の山で星を眺めながらひと晩過ごそうぜ。あそこは本当に星がよく見える。あそこだけ空気が澄んでるんだ」
「いまからすごくたのしみだ」
「魔物がやってくるが、ただ挨拶にくるだけだ。なにも悪さはしない」
「紹介してくれよ。魔物の友だちはまだ一人しかいない」
「一人しかいない魔物の友だちというのは俺のことか?」
「そのとおり。あんただ」
 冬眠を忘れた熊はとてもうれしそうだった。
「さて、晩飯はなにが喰いたい?」
「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の敬虔なる信者であるパスタファリアンの我々としては、ここはなんと言ってもパスタ・アリメンターレだろう」
「パスタ・アリメンターレはなにがいい? スパゲッティ、ペンネ、ラザニア、ラビオリ、タリアテッレ、マカロニ、ブカティーニ、カネロニ、ヴェルミチェッリ、ニョッキ。ピザだって焼けるぜ。石窯を奮発して作ったんだ。マルゲリータ、マリナーラ、クアットロ・フォルマッジ、クアットロ・スタジョーニ、ボスカイオラ、ロマーナ。なんだってこいだ」
「いまさらリストランテを始めるなんて言いだすんじゃないだろうな?」
「さっきもらったギャラでやるという手もある」
「そうだな。スパゲッティ・アル・ペスト・ジェノヴェーゼでもいいし、絶望のパスタ=スパゲッティ・アーリオ・オリオ・ペペロンチーノでもいいし、リングィネでもいい。天空の地平線をゆく星どもを眺め、観察するにはうまいものをしこたま喰わなけりゃな」
「そのとおりだ」

「肉が入っていないじゃないか」
「菜食主義者に転向したものでね」
 私が言うと冬眠を忘れた熊は歯を剥き出して笑った。冬眠を忘れた熊には脱帽だ。私は冬眠を忘れた熊に胸の内を明かすことにした。本当のことを包み隠さず打ち明けよう。丸裸の自分を見せるのだ。危険な賭けではある。冬眠を忘れた熊はもともと飾りけのない人物だが剣呑すぎる。抜き身のナイフだ。冬眠を忘れた熊は剥き出しの刃を向ける。私が世間に秘密を公表して以来、予想どおり風当たりはさらに強くなった。
「話はわかった。胸をはだけろよ。ちょっと気になることがある。おまえの呼吸音」
 冬眠を忘れた熊はスピーカー・ケーブルの被覆を剥きながら出された料理を次から次に平らげた。
「最近、胃腸の調子が悪いので『熊の胆』を飲んでるんだ」
「そうじゃない。おまえの病いの根はもっと深く深刻だ。    長くねえぞ、このままじゃ」
 そう言うと冬眠を忘れた熊はニンニクをアルミホイルに包んでオリーブオイルとともに蒸焼きにしたものを音を立てて食べた。
 冬眠を忘れた熊は胸を張った姿勢を保ったまま、素手で出された料理を食べつづけた。冬眠を忘れた熊のがさつな振る舞いはいまにはじまったわけではない。それは冬眠を忘れた熊の誇り、矜持の表れでもあっただろう。冬眠を忘れた熊が「冷酷」「傲慢」「乱暴者」「無作法者」だという噂を広める者たちはよく胸に手を当てるがいい。おまえたちは冬眠を忘れた熊を貶められるほどのことをしてきたのか? ただ狡猾、要領よく立ちまわってきただけではないのか? 敵前逃亡、戦線離脱した者たちを咎めることもなく、莫大な負債をたった一人で背負ったのは誰だったか? 冬眠を忘れた熊だ。飢えたカラスのような群衆にただ一人耐え、抵抗したのは誰だったか? 冬眠を忘れた熊だ。真冬の山で倒れた者を担いで麓の町まで運んだのは誰だ? 冬眠を忘れた熊だ。貧しき者たちを圧迫する為政者たちに抵抗の刃をただ一人向けたのは誰だ? 冬眠を忘れた熊だ。潰しが利くというだけの理由で冬眠を忘れた熊に困難な仕事を押しつけたのおまえたちではないのか? 風向きが悪くなると冬眠を忘れた熊にすがりつき、風向きが変わると冬眠を忘れた熊に背を向けたのは誰だ?
 おまえたちの現在の不遇はもはや冬眠を忘れた熊にはいささかも関係がない。私は冬眠を忘れた熊に対する世間の絶え間ない誹謗中傷にはこれ以上耐えることができない。我慢も忍耐ももはや限界だ。冬眠を忘れた熊はただきれいごとを避けてきただけだ。おまえたちは丸裸、垢剥けの魂を殺そうとしていることに気づかない。いや、冬眠を忘れた熊はすでに何度も死んだ。何度も死に、何度も生き返った。自分だけの力でだ。おまえたちはそのときなにをしていんだ? 冬眠を忘れた熊に助けられ、命拾いをしたおまえはなにをした?

 傷。傷痕。傷跡。忘れてしまうほど古い。そして、途中で数えるのを断念してしまうほど多い。そんな「傷」をえぐりだされる出来事があった。これまでの人生において傷つけられたことを思い出し、傷つけたことを思いだす。それを避ける術を知らず、傷の意味もわからなかった。信用している人物がまったく別の顔を見せるのは恐ろしいことだ。私が悪いのだろうか。悪くないとしたら誰が悪いのだろうか。私は悪くない、相手も悪くない。すると、「ああ、まちがいだったのだな」と思うしかなくなる。まちがいだったとしても傷ついた原因を探しだすか作りだすかしないと納得できない。そこで、「生まれてきたこと自体がまちがいだったのだ」と問題の取りちがえを起こす。まちがいを「自分の存在」にまで還元してしまう。「なぜだ?」と問いかけることもできなかったし、誰かに打ち明けることもできなかった。明らかにすれば私の「世界」は崩壊すると思っていた。今でもそう思っているので私は沈黙する。語りつくせぬことについては完全な沈黙を守る。

 久しぶりに愉快な食事だった。時計を見ると10時を少し過ぎている。二人とも3本のワインとシングル・モルト・ウィスキーでかなり酔った。
「さて、それではお星様でも眺めるとするか。天空の地平線をゆく星どもを。BGMはわかってるよな?」
 オーディオ装置をセットし、部屋の灯りを落す。窓を開け放す。ウッドデッキに長椅子をふたつ並べる。iTunesで「星と月と人生」をキーワードにしたプレイ・リストをかける。冬眠を忘れた熊と並んで正面の東の夜空に眼をやる。リンダ・ロンシュタットの『When you wish upon a star』が流れはじめる。キース・ジャレット、ケニーG、ルイ・アームストロングとつづく。
 北東から南東にかけた空に北斗七星、春の大曲線、春の大三角形がある。北斗七星の柄杓の先端から牛飼い座のアークトゥルス、乙女座のスピカをたどり、獅子座のデネボラへ。大三角形の頂点のデネボラから天頂に向かって視線を延ばす。途中、土星にちらっと眼をやる。デネボラの西に並んでいる星たちがつくる「獅子の大鎌」。1等星レグルスがひときわ輝いている。「獅子の大鎌」から左下にある四角形がライオンの胴体だ。デネボラはライオンの尻尾。胴体からは足も伸びているはずだが、けたたましい光があふれかえる街中で見るのは難しい。獅子の雄々しい姿を想像する。今夜はライオンの夢が見れたらいい。勇ましく夜空を駆け上がるライオン。一番好きな星座だ。昨年に続いて今年も土星が獅子座の中にいる。昨年は前足のあたりだったが、いまは後ろ足のあたりで輝いている。
 しし座β星のデネボラがおとめ座のスピカにしきりにウィンクしている。そんなことをしたって無駄だ。とんがり屋さんの真珠姫はライオンの尻尾なんかに見向きはしない。真珠姫がへそを曲げないうちにやめておいたほうがいい。とんがり靴で蹴り飛ばされるのが落ちだ。真珠姫にあさっての方角にでもいかれたら、美しい大曲線も大三角形も台無しだ。麦の収穫に忙しい熊森が怒りださないうちにやめておくほうが身のためだ。
「デネボラの野郎め。相変わらず馬鹿なやつだ。身のほどもわきまえずに。大事なのは身のほどをわきまえるってことなのにな」
 冬眠を忘れた熊の言うことはいつも簡潔で的確で正しい。

「おおぐま座とこぐま座の話を知ってるか?」
「うん」
「あれは悲しい話だ」
「そうだ。とても悲しくてつらい話だ」
 ある日、ゼウスが森の妖精カリストに恋をする。やがて二人の間には男の子が生まれる。男の子の名はアルカス。これを知ったゼウスの妻ヘラは嫉妬に怒り狂い、カリストを熊にしてしまう。時が経ち、青年となったアルカスは森で大きな熊に遭遇する。アルカスは渾身の力をこめて限界まで弓を引き、狙いすまして矢を放つ。その熊はヘラに姿を変えられたアルカスの母親のカリストだった。一部始終を見ていたゼウスは驚く。カリストに矢が命中する直前にゼウスは二人を天へと昇らせる。母親のカリストがおおぐま座、息子のアルカスがこぐま座。以来、おおぐま座は子を思う母親のようにこぐま座の周囲を回りつづけている。この話にはいくつかの象徴的な問題が潜んでいる。ひとつはゼウスの「不倫」の問題。ふたつはヘラの「嫉妬」の問題。みっつは放たれた矢が命中するまでの刹那に救い出されるという「時間」の問題。ゼウスの不倫、浮気はいまに始まったことではない。手当たり次第である。大体、世界中の神話には神々の奔放な性が描かれている。親子婚。兄弟婚。いとこ婚。目眩がするほどゼウスを中心とする神々の相関図は混みいっている。混みいっているだけではなく欲望と嫉妬と思惑が坩堝の中で煮えたぎっている。人間どもの不倫だの浮気だのなど他愛ない。いざとなればゼウスの必殺技、最終兵器がある。そうだ。デウス・エクス・マキナ、機械仕掛けのゼウスだ。いざとなったらゼウスが現れてすべての問題を解決してしまうのだ。

「おまえは最高の友だ。まだ死んでほしくない。女房のことだってまだおれの中では決着がついていないってのにおまえにまで逝かれちまったらまたおれは元の木阿弥、修羅に戻らなきゃならない。もう人を生きたまま死人にするのも回復不能の傷を負わせるのもたくさんなんだ。だから、だから    もう少し生きてくれ。そして、おまえさんのうまいめしを月に一度は喰わせてくれ。な? いいだろう?]
「わかった。ありがとう、友よ」
「うむ。物わかりのいいやつだ。いい子だ」
 それだけ言うと、冬眠を忘れた熊は代赭色の翼をおもむろにひろげ、北の方角へものすごいスピードで去っていった。風が冬眠を忘れた熊を押す。
「とにかく生き延びろ、冬眠を忘れた熊。おれも生き延びる。がんばれ冬眠を忘れた熊!」
 叫んだが、風が容赦なくかき消す。風の中のライオンはふりかえらない。その後、冬眠を忘れた熊がどのような人生を生きたのか風の便りはない。

ソス・ド・ヴィは
オー・ド・ヴィへ

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by enzo_morinari | 2012-10-21 02:30 | 冬眠を忘れた熊 | Trackback