カテゴリ:超越論的美食学( 4 )

超越論的美食学をめぐる人と超人とピュグマリオーンのためのキュイジーヌ

 
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草木も眠る千三つ刻、帝王M.D.の『'Round About Midnight』を聴きながら、メープル・シロップとトリュフとシャンパーニュ入りのじゃがいものパテを塗りたくったフォルコーン・ブロートによる「オサレなカフェ」やら「おセレブさん御用達の最高級レストラン」やらとは遠く離れた清貧モードの夜食を喰らいながら官僚ファシズム・コードをロール・オーヴァーする秘策を練る。

マグノリアのR指定の魔女から「晩年のマイルス・デイヴィスなんか死ねばいいのに」と言われたことで無性に腹がへったので食料庫探索すること2時間。

フォアグラ? 痛風発作が起きるからパス。ノルウェー・サーモンの薫製? 強い南風が吹きつける七里ケ浜駐車場レフト・サイドで2000トンの雨に打たれる会用にとっておこう。イクラの一夜漬け? こいつも痛風の敵だ。喰いたいが。イクラは喰いたし痛風は痛し。炊きたてのめしにこいつとこいつの親の身のほぐしたのをぶっかけて、きざみ海苔をぱらぱらして、内緒で、だれにも気づかれないように味の素をひとふりして、栄醤油店の甘露醤油をひと垂らしして、あとは一心不乱にはぐはぐとかきこみたいのは山々だが。ここは我慢だ。

この夏をなんとしても痛風発作なしで乗り越えなければMAYBACH EXELEROが遠のいてしまう。MAYBACH EXELEROのテールライトが「愛してる」のサインを点滅しようと、見送るのは御免だ。

2時間の食料庫探索のすえにみつけたのは独逸MESTEMACHER社製の全粒粉フォルコーン・ブロート(ライ麦パン)とおなじく独逸TARTEX社製じゃがいものパテ(トリュフとシャンパーニュ入り)とカナダのケベック州産モンファボリ・メープルシロップ。これだ。いまの気分にぴったりなのは。メープルシロップがエミコットのNO.1エキストラ・ライトならなおいいが。

瞬時に頭の中でフォルコーン・ブロートの食感とかすかな酸味とじゃがいものパテの曖昧模糊とした鼻行類のエボニー&キドニー味とメープルシロップの風味と深く豊かな甘味を足し算する。悪くない。それどころか高得点が期待できる。

フォルマッジオもいっちゃう? この際だから、フォアグラもさっと炙ってみちゃう? ブリアの野郎の手先の食いしん坊悪魔どもが耳元で囁く。

いかん! 「清貧」という名の贅沢に生きようと14番目の月に誓ったばかりではないか!マットンヤー・ユミーンのようになってもいいのか? 声も出ず、呼吸もまともにできなくなるんだぞ。それでいいのか?

そりゃ、よかないさ。おねいちゃんたちの耳元で歯の浮くようなセリフをまだぶっこきたいし。蕩けるようなアレだってまだまだいっぱいいたしたいし。おねいちゃんたちをひんひん言わしまくりたいしするし。いたしたいし痛し痒し。それなら、ここはなんとしても我慢だ。いいな? 我慢できるよな? 我慢した。性欲が食欲に勝った瞬間だった。

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さて、吾輩はiTunesに、SHEPHERD MILESBLUE MILES/RED MILESFREE MILESBLACK MILESのそれぞれ代表する曲をスマートプレイ・リストとしてつくり、リピート・セットしてかけた。

iTunesというのは実によくできたアプリケーションである。気分、シーンに応じていかようにも曲、アーティスト、ジャンル、アルバム等々によって楽曲を抽出してくれる。なにしろ、外付けHD1テラバイト分になんなんとする音源、楽曲数は15万曲をゆうに超えているので、とうてい人力手動ではさばききれない。

そこで、たいていは「雨だ。雨の曲だ」ということなら、「雨」「RAIN」「CLASSICAL」「JAZZ」「POPS」「PIANO」といったキーワードをiTunesのスマートリストに放り込んでやる。さすれば、iTunesが勝手にF. ショパンの『雨だれ』やらブルック・ベントンの『Rainy Night in Georgia』やらマットンヤー・ユミーンの『雨のステイション』やらを勝手に抽出してくるという次第だ。あとはPLAYボタンをクリックするなりENTER KEYを押すだけである。まことに重宝である。

1曲目の『Moon Dreams』が静かにはじまり、吾輩はひときれのライ麦パンにじゃがいものパテをたっぷりと塗った。そして、メープルシロップをつけた。そして、指とデスクとキーボードとマウスをメープルシロップでべちょべちょにしながら(「べちょべちょ」という形態素、オノマトペというのは実に、その、なんというか、いやらすぃな。九州地方で、博多の中心部で言った日にはバサラカ喰らわされそうではなかですか? 「なんば言いよっとですか!」って。)、フォールコーン・ブロート500グラムを一気に貪り食ったのであった。

もちろん、トリュフ&シャンペン入りじゃがいものパテはひと舐めほども残らなかった。吾輩が舐めまくったからだ。レロレロレロレロと。うーん。無性にまぐわいたくなってきやがった。困った黄金バットちゃんであることよのう。と、一人詠嘆。さらにフォールコーン・ブロート500グラム1本とじゃがいもパテを追加調達。メープルシロップはたっぷり残っている。

全粒粉によるパンというものは実におもしろい。栄養面でどうたらいう話にはまったく興味がないが、とにかく食感がおもしろい。噛むたびにぷちぷちと麦のなれの果てがつぶれる感じは一種言いようのない快感である。

死ななかったひと粒の麦のやつめがわが口中で最期の断末魔をあげるのを直接に知るのはアンドレ・ジイドの野郎にひと泡吹かせたような気分に浸れもするのでたいへんにけっこうである。吾輩はアンドレ・ジイドが大嫌いだからだ。秋元康スカタン、和田アキ子ポンコツ、野村沙知代ブタとおなじくらいきらいである。死ねばいいのに。とっくの昔に死んではいるが、吾輩はそう呟かずにはいられない。焚書坑儒されてしまえばいいのに。ん? 焚書坑儒しなくたっていまやだれもアンドレ・ジイドなど読みはしない時代か。たいへんにけっこうなことである。

豆腐をベースにしたテリーヌを週に一度は作るが、その際にトリュフとシャンパーニュ入りじゃがいもパテを隠し味として混ぜるといい塩梅のコク、旨味がでる。豊かさと深みが増す。滋昧たる味わいである。

豆腐、野菜、木の実のたぐいのみによるテリーヌより、断然うまい。ベジタリアンどもにもすすめられる。豆腐をメープル・シロップにしばらく漬け込んでから焼くと、これまたけっこうな甘味どころとなる。好みに応じてスパイスをアレンジすれば色々おもしろいものが出来あがる。あまたある世界中の香辛料を組み合わせて用いれば、それこそ無限ヴァリエーションを持った調味料となる。

「オリジナル・ブレンデッド・スパイス」を作るたのしみは格別である。もちろん、失敗はある。しかし、失敗は成功の母である。失敗など酸っぱいのや塩っぱいのと似たようなものだ。なにごとも経験、場数である。こんなうまい話はそうそうないのに、存外香辛料は使われていないというのが吾輩の印象である。GABANがあればそれで十分などと考えるのは満腹感製造工場であるところのヨシギュー乃至はすき家、松屋で毎日のように汁だくだのつゆだくだのツメシロだのトロだくだのの汁かけめしを喰らって得意になっているポンコツ社会人とおなじである。まったくもってよろしくない。よろしくありませんとも! ポンコツはポンコツなものしか喰わないものと相場は決まっているのだ。

なにを喰ってきたかでその人物の人生、思想、哲学、趣味嗜好、性癖、血液型、読んでいる本、聴いている音楽、好きな体位、預金残高、残債務はたいていわかる。おそろしいことだが事実である。香辛料使いはわが友である。

曲が『'Round About Midnight』にかわる。強い北風が窓を叩いている。オーケイ。いい夜だ。夜はまだこれからだ。夜明けまでにはまだ十分時間がある。

フォルコーン・ブロートは500グラムの重量級だ。今世紀いっぱいだって食べられる量だ。それまでは『'Round About Midnight』だけを繰り返し聴こう。朝陽が昇りはじめたら帝王M.D.のストックホルムのライブ音源、『Softly as in a Morning Sunrise』を聴こう。そして、『Softly as in a Morning Sunrise』を聴きながら朝陽のように爽やかな眠りにつくことにしよう。


風は強く、闇は深い。夜はまだはじまったばかりだ。

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by enzo_morinari | 2014-05-27 21:24 | 超越論的美食学 | Trackback

トリトンは海に帰り、クルトンはスープに浮かぶ

 
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クルトンはいかにしてスープに浮かぶようになったか?


第三のしるしを持つ者・トリトンは青きオケアノスの海に帰還し、ポセイドンはオリュンポス山頂で愛人メドゥーサのために大地を揺るがしながら濃厚な塩味=一撃必殺のトライデントミサイル・ソースを仕込み、クルトンは「貧者のスープ」あるいは「良妻のスープ」の上に浮かび、ライ麦畑と燕麦畑のあいだにある貧しく清く美しき者たちのための「かたい黒パンでできた食卓」にならぶ。

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クルトンの語源はクルートCroûte. パンの外周外縁部の焼けてかたくなった部分を意味する。ちぎられてスープに入れられていたパンの痕跡がクルトンであり、これは地味悪く痩せて寒冷な土地から日々の糧をえていた人々の貧しくつつましやかな暮らしの名残りとみることもできる。彼らの土地では小麦は栽培に適しておらず、ライ麦や燕麦が彼らのいのちと暮らしを支えた。ライ麦や燕麦からなる「かたく黒いパン」がヨーロッパの庶民が食べた本来のパンの姿である。

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スープは元々は食べ物である。飲み物ではない。スープは「飲む Drink/Boire/Beber/Bere/Trinken」とは言わず、「食べる Eat/Manger/Comer/Mangiare/Essen」と言う。サパー SUPPER(軽めの夕食)とスープ SOUPは同じ語源を持つ。スープこそがヨーロッパにおける「庶民の日々の食事」の玉座を占めている。CUISINE FRANÇAIS も CUCINA ITALIANA もすべてひとすくいのスープから誕生したのだ。

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家長が黒くかたいパンを切りわけ、食卓についた家族に配る。主菜はハムやソーセージ、ベーコンなどと野菜類をやわらかく煮込んだ鍋ものだ。めいめいの前に置かれた小さくちぎられたパンの入った皿にスープがそそがれる。彼らはライ麦や燕麦でできた「黒くかたいパン」がふやけてやわらかくなるのをしばし待つ。このとき、食卓にはその日の出来事や過ぎた日の思い出や明日の糧のことが話題にのぼったかもしれない。

飢饉。種蒔きや収穫の時期。天気天候。神への祈り。シンプルな祈り。自然の恵みへの感謝。不安もよぎっただろう。長く病いに苦しむ者もいただろう。飢えに怯えもしただろう。食卓にのぼる粗末でつつましい糧。ひときれの「黒くかたいパン」もひとすくいのスープも、すべて彼らの日々の労働と勤勉と倹約と不安と自然がもたらした恵みから生まれたものだ。彼らには日々をただ生き延びることのほかにはなにもない。

黒くかたいパンが汁気を含んでほどよくやわらかくなった頃、彼らのつつましやかな夕餉ははじまる。パンとスープと祈りと家族と食卓と静かな夜。「オサレなランチ」とも「豪勢なディナー」とも遠く離れて、なんとつつましく美しく心温まる風景であることか。グロテスクなエゴイズムに蝕まれた者と恥知らずがこのパンの滋味とスープのあたたかさと貧しき者たちの囲む食卓の慈しみを理解することは永遠にあるまい。


遠い東北の地の人々にもそのような食卓がいつもともにありますように。
 
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by enzo_morinari | 2013-03-11 14:35 | 超越論的美食学 | Trackback

ブガッティ・プレヌリュンヌ・ブカティーニ氏のアンドロジナス・デイズ #1

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 泥棒かささぎ世界一のアンチ・ヴァーグナー足立荒川下町連合軍食堂、「ラ・ピエトラ・デル・パラゴーネ」の夜。
 満月の斥力とクロワッサンの花王CIぶりとブカティーニ・ディ・シチリアーノ・シシリエンヌの間に横たわる相互作用とジャーマン・シェパードの忠節とロベール・カサドシュの弾くモーツァルトのピアノ協奏曲42番の凡庸と純粋理性の二律背反と「無謬完全なるアルデンテ」の困難を思いながらブガッティ・プレヌリュンヌ・ブカティーニ氏はBUCATINI TYPE57を茹でる。
 チェネレントラ・ルネサンス様式の装飾で埋めつくされた「ラ・ピエトラ・デル・パラゴーネ」では、常に、いついかなるときにもヴェルディ・ミドリカワ・マコ作『ジャン=ピエール・ウィミーユとピエール・ヴェイロンのためのル・グルマン24のソネット』が黒死館門外不出弦楽四重奏団によって奏でられている。ミニマムかつファジーなノイズはよほどの健啖家でなければ食欲を失う。「ラ・ピエトラ・デル・パラゴーネ」は食を拒否するリストランテでもあるから十分に整合性はある。
「料理の三角形教団」の執拗で強引で素っ頓狂で闇討ち辻斬り的で突拍子もない布教活動の成果として、いまやありとあらゆる世界において食と生と性は分かちがたく結びついているが、「ラ・ピエトラ・デル・パラゴーネ」はそれらを分断するための試金石の役を担っている。食と生と性の解放を訴えるヰタ・セクスアリス・グルマンディー集団、「ラ・テテ・デュヌ・コクレ・エ・クー・ド・ブフ(鶏の頭と牛のしっぽ)」の本部でもある。「ラ・テテ・デュヌ・コクレ・エ・クー・ド・ブフ」はパン・ド・カンパニアを月に一度、「レシピ・ブログ」のトップページ左上に現れる鬱陶しいことこのうえもない広告で募集しているが、効果はゼロに等しい。「レシピ・ブログ」のメンバーは「今日の足あと」の数と「おいしそう!」の数と自分が「お気に入りメンバー」にされたかどうかしか眼中にないから、その余のことには目が行かないのだ。つまり、クリック・ゼロということである。
 42番テーブルでは苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべる悪魔の美食家、マエストロ・ロッシーニがお待ちかねだ。哀れなもののけ白鳥カウンターテナーが『ヨイトマケの歌』の絶唱とともにジブリ・ジビエ色に焼き上がった直後、マエストロ・ロッシーニは厨房のブガッティ・プレヌリュンヌ・ブカティーニ氏に向かってこれみよがしに言った。
「茹でて食す。一人二役。これぞ真の両性具有」
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by enzo_morinari | 2013-01-20 12:30 | 超越論的美食学 | Trackback

パスタをひたすら茹でつづける者はなにを考えるべきか?

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 エクリが定規とコンパスだけでイマドシルト中学校の校庭に「正65537角形」を描き上げたコヒーレントな午後、双子の素数猿、ヨタとヨクトが「ホメロスもダンテ・アリギエーリもフランソワ・ラブレーもウィリアム・シェークスピアもジェイムズ・ジョイスも紫式部も南方熊楠も超えた! おれたちはタイピングの王! 凄腕のタイパー! アンフィニ! モノリス! クマグス・マンダラ! ウィキペディア! エンサイクロペディア・ブリタニカ! ランダムハウス!」と叫びながら現れる。ヨタとヨクトが雄叫びを上げて部屋中を駆けずりまわっているときに、木下ウッドシェディング研究所からファイストス円盤を精密に模したホンジュラス・マホガニー製のダイニング・テーブルが届く。つづいて、地下茎世界を代表する5人の哲学者がやってくる。42日ぶりだ。地下茎世界を代表する5人の哲学者たちは届いたばかりのファイストス円盤型ダイニング・テーブルを正5角形を描いて囲み、議論を始める。
「絶望のパスタ=スパゲッティ・アーリオ・オリオ・ペペロンチーノに刻んだベーコンを入れるべきか。ベーコンはイベリコ豚のものでなくてもいいのか。隠し味にペスト・ディ・アッチューゲを使うのは是か否か。われわれが囲むこのファイストス円盤を模したテーブルはなにゆえにウォールナットでもヒッコリーでもホワイト・オークでもなくホンジュラス・マホガニーを素材としているのか。われわれはいったいいつ『哲学的お尋ね者問題』の張本人、ソバージュ・ネコメガエルのエクリチュール・ロゴスとの決着をつけつることができるのか」
 地下茎世界を代表する5人の哲学者たちの堂々巡りの議論を黙って聴いていた虹子は我慢しきれなくなって、ついにパスタを茹ではじめる。パスタ部屋に蓄えてあるパスタだけでは足りないと思ったのか、角の加藤のタバコ屋のユキチ爺のところからディ・チェコの42番、フェデリコ・フェリーニを42ケースくすねてくる始末だ。虹子がパスタを茹でる姿を見ていると、演説青年のスミジル・スミスと「パスタをひたすら茹でつづける者はなにを考えるべきか?」について小一時間話し合った遠い日の光景がよみがえってきた。
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「茹でるパスタはディ・チェコ No.10、フェデリーニでなければならない。1.4mm、茹で時間6分。バジリコ、アーリオ、ピノーリ、サーレ・マリーノ・グロッソ、パルミジャーノ・レッジャーノ、ペコリーノ・フィオレ・サルド、オーリオ・エクストラ・ヴェルジーネ・ディ・オリーヴァ。デノミナツィオーネ・ディ・オリージネ・プロテッタ議定書どおりのペスト・ジェノヴェーゼの用意も怠ってはならない。パスタをひたすら茹でつづける者は考えなければならない。塩加減、茹で時間。そして、ジャーマン・シェパードの忠節について。ロベール・カサドシュの弾くモーツァルトのピアノ協奏曲42番の凡庸さについて。純粋理性の二律背反について。未出現宇宙の沈黙について。自同律の不快について。虚體を満足させるためのステップについて。パトリオティズムの現在について。ビューロクラット・ファシズムの強度について。チャーリー・パーカーの饒舌の牢獄もしくはマイルス・デイヴィスの静寂の重量について。さらには、刻々と失われゆく時間について。孤独について。それをいつか食べるかもしれない人物の性癖について」
「時間は失われない。そもそもありはしないから。孤独は癒されない。そもそも、誰も、何も傷ついてはいないから。人間は孤独について考えつづけられるほど強くも勤勉にもできていない。木っ端役人に喰わせるスパゲッティ・アル・ペスト・ジェノヴェーゼはない!」
 最後にバラク・フセイン・オバマ・ジュニア似の演説青年は高らかに宣言した。
「このパスタを注文した奴は、できあがり、目の前にサーヴされたパスタをみつめ、それからフォークだけでか、あるいはフォークとスプーンのコンビネーション・プレーで食べる。けっして、パスタを茹でた人物について思いをいたしたりしない。世界はパスタを茹でる人間とパスタを食べる人間でできあがっている。生まれたときから”役回り”は決っているんだ」
 本当に? 本当に生まれたときから役回りは決っている? 本当である。現在、バラク・フセイン・オバマ・ジュニア似の演説青年、スミジル・スミスは日々自転車通勤で身体を鍛えながら、ときどき、神泉近くの交差点でワイド・ショーのインタビューを受け、アランの『プロポ』と山岡荘八の『徳川家康』を交互に読み、折りにふれて「差別的言辞」を弄し、「暴力反対反対!」を連呼し、ゼニアの70,000円の生地の前を行ったり来たりし、いつか来る「完全自由パスタの日」のために後背位の名手としての地位を維持しつつ、クレオソートの夢に向かってケイデンス168rpmで走りつづけている。「クマモト」はスワヒリ語で「涎を垂らしたホットなマヌコ」の意味だ。中国では「熊本」を「ションベン」と発音する。「チョットマッテ(ちょっと待って)!」は朝鮮語で「ティンコとティンコをくっつけあおう!」、「カガ・マリコ(加賀まり子)」はエスパニョールで「オカマ野郎のうんち」、「イソノ・カツオ(磯野カツオ)」はイタリアーノで「私はティンコ」だ。Testa di Cazzo! KATANA おろせ!
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 私はクレオソートの夢を主食とするガーデン・オクトパスとクリスマス島に大量発生して島中を亜音速の千鳥足で走りまわるレッドクラブのせいで蛸や蟹が全身を這いずる幻覚に苛まれながらも、事態の収拾のためにはなにをすればいいのか考えていた。ミニチュア・セントバーナードのポルコロッソは暇さえあればフランスタレミミウサギのアナスタシアとまぐわってばかりいる。人間とおなじだ。特に倫ならぬ劣情にかまけるいやしい人間と。あらゆる機会をみつけて、あらゆる嘘、あらゆる出鱈目、あらゆる出まかせを並べ立ててひたすらまぐわうことに一直線。まことにあさましいかぎりである。さて、考えても答えが出ないことは明らかなので、悪事と不幸と混乱を終わらせる者、ロキーを呼ぶために秘密の呪文を唱えた。
「エクステスコンクリ・コンエクステスコンクリ・キーヨ・エスタス・キーオ・グリオロン・アイアイススルム・スクリスミオーン・ウエノデロール・エクスグリフォン・コンエクスグリフォン・ラオウ! (吐き捨てる唾、さらに吐き捨てる唾。もっと吐き捨てたい! 去れ! 邪悪なる者どもは去れ!)」
 ロキーはすぐに現れた。しかし、それだけの話だ。ロキーはなにもしない。事態はなにひとつ変わらない。地下茎世界からやってきた5人の哲学者どもは相も変わらず堂々めぐりの議論の真っ最中だし、双子の素数猿、ヨタとヨクトは家の中を走り回っている。ロキーが現れてからというもの、事態は収束、改善するどころか、あらゆることがバラバラに分解しはじめた。虹子は頭と胴体と腕と脚にそれぞれ分かれてしまい、それぞれがあちこちで勝手になにかやっている。おまけに虹子の「虹」の字は「虫」と「工」に分解してしまった。ふたつが行儀よく並んでいればなんとかおさまりはついた。虫工。こんなふうに。でも、やっぱりへんだ。バランスが悪い。右肩が下がりすぎている。もはや、私にできることは深々と溜息をつくことだけである。こんなときはベニー・グッドマンのスクラッチ・ノイズだらけの『Memories of You』のEP盤を聴くにかぎるのだが、あいにくパワー・アンプリファイアーの Macintosh MC275 はメンテナンスのために秋葉原ラジオ館の真空屋にお泊まり中である。もう、なにからなにまでが私に盾をついている。
 しかたなく、庭に出る。見れば、虹子が庭で育てているブロッコロ・ロマネスコが季節外れも甚だしく盛りを迎えていたのでバケツ一杯収穫する。色と形のいいものを黒織部のへうげた大鉢に水を張って入れ、ファイストス円盤型ダイニング・テーブルの真中に置く。
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 パスタを茹でるので手一杯の虹子の胴体にかわって料理をいくつか作ることにする。ブロッコロ・ロマネスコはさっと茹でてからマダム・デュ・バリー風にアレンジした。断頭台の露と消える運命を生きる者たちにはうってつけだ。ジス・フィッシュの蒸し物、マケマケとラパ・ヌイのオストラコン・サラダ、パズズのフリット、トナカテクトリウオのカルパッチョ。料理を並べると歓声があがる。
 地下茎世界からやってきた5人の哲学者どもは絵に描いたようなフラクタルぶりのブロッコロ・ロマネスコに端を発してジュリア集合がどうの、リアプノフ-マルクス・フラクタルにおけるスタビリティとカオス写像がどうの、部分と全体の自己相似がどうの、蜜蜂の家系とフィボナッチ数の関係がどうの、スペインとポルトガルの国境線の長さの解釈の相違と地図の縮尺のロガリズムがどうの、ヒマワリの種を螺旋状にたどるシークエンスがどうの、血管の分岐構造と腸の内壁のフラクタル構造がどうの、近似的にフラクタルな図形は樹木の枝分かれやリアス式海岸の複雑な海岸線の形状といったかたちで自然界のあらゆる場面に出現してどうの、ハウスドルフ次元とミンコフスキー宇宙が等価でどうのと喧々諤々やりあっている。私はとうとう堪忍袋の緒がぶちきれた。空飛ぶスパゲティ・モンスター・ピンク・ユニコーン色のネピアでこれみよがしに音を立てて鼻をかんでから言った。
「エミール=オーギュスト・シャルティエ流に言うならばだね、諸君らの”論戦”はこどもの喧嘩と大差ないってことなのさ。そんなことでは諸君らにはなにものも見出すことはできまいな。まず身体を鍛えたまえよ。疾走し、腕立て伏せをし、腹筋をし、ヒンドゥー・スクワットで汗を思う存分流すんだ。酸素をたっぷり吸って吐き出すことだ。さすれば、黙っていても幸福は向こうから勝手にやってくる。それがプロポということさ」
 私がまくし立てても無駄だった。地下茎世界からやってきた5人の哲学者どもは、今度は『蝙蝠傘であるとはどのようなことなのか?』というクオリアの超難関問題に突入していった。虹子の胴体はまだパスタを茹でている。ポルコロッソは庭のガゼボでフランスタレミミウサギのアナスタシアとまぐわいつづけている。オランダタレミミウサギのコーネリアスは大きな耳で顔を隠してうなだれている。エクリはファイストス円盤を模したダイニング・テーブルで大の字になって大鼾だ。双子の素数猿、ヨタとヨクトはスミス・コロナの機械式タイプ・ライター Royal Quiet DeLuxe-Model1942 で『生命、宇宙、そして万物についての答え』を書き上げるべく夢中でタイピングの最中だ。130億年後には『電脳羊ドリーのソネット』くらいは書き上げるだろう。しばし、自分の仕事をしよう。5人の哲学者どもには勝手に議論させておけばいい。
 
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by enzo_morinari | 2013-01-19 01:00 | 超越論的美食学 | Trackback