カテゴリ:アール・クルー日和( 1 )

アール・クルー日和#1

 
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鉄の掟、家事の得意な金持ちの友人、生涯にたった一人の友人。
かつて、[アール・クルー日和]と呼ばれる日々があった。1985年の夏のことだ。1985年の夏から27年の歳月が流れた。そろそろあの夏の日々について語る潮時である。なにごとも潮目潮時が大事だ。いまを逃しては永遠に語ることはできない。

いま私は語ろうと思う。1985年の夏の日々と私自身と猿の漫才師サルーのために。私と猿の漫才師サルー以外の人々に有用な教訓や慰めはこれっぽっちもない。あるはずもない。あるべきではないとすら感じる。しかし、少しは彼らを元気づけられるかもしれないし、勇気を与えられるかもしれない。そうあってほしい。

1985年の7月1日から9月15日まで。ひと夏を鎌倉の七里ケ浜ですごした。古い友人であり、ドゥービー・ブローでもある猿の漫才師サルーの別荘に居候である。猿の漫才師サルーとの共同生活はこれまでのジェットコースター・デイズの中でもっとも愉快痛快爽快刺激的でドープでクールでファニーでファンキーで天国音楽であった。あの2ヶ月半におよぶ海と波と光と風と星と月と雲と詩と(Beach Side店ではなく Hill Top Side店の、さらにわれらが「アロハ・ロングボード・オールバック・ファット・ヒゲマスター」のいる)珊瑚礁の海老みそカレー&ビーフ・サラダと音楽とクサ(あるいはハッパ)とマーティンD45と酒とバカの日々はこの世界とオサラバするときに持ってゆく宝石のうちのひとつである。

ゼニは持っているほうが出す」というわれわれの鉄の掟に従い、猿の漫才師サルーが夏のあいだの出費の全額を負担した。また、炊事、洗濯、掃除も猿の漫才師サルーが受けもった。持つべきは家事の得意な金持ちの友人である。その意味で猿の漫才師サルーは完璧な友人であった。おまけに猿の漫才師サルーは凄腕のガール・ハンター、当代一流のナンパ師でもあった。

猿の漫才師サルーが二人の女の子に声をかけ、その15分後には4人仲良くメイクラヴというのが最短最良の記録である。しかも、猿の漫才師サルーはかならず美人のほうを私に引き合わせるという配慮までしてくれた。私は1985年の夏の日々によって友人は猿の漫才師サルー一人でよいと決め、以後、きょうまでそれを守りつづけている。

背景音楽:Finger Paintings


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アルチュール・ランボー、謝辞、地獄の季節。
1985年夏の猿の漫才師サルーの法外ともいうべき「あつい友情」に対して私がしたことはアルチュール・ランボーの詩をフランス語と日本語の両方で読んで聴かせることだった。猿の漫才師サルーは大いに喜び、何度も感謝の言葉を述べた。そして、ときに涙を流した。猿の漫才師サルーの謝辞は独特で愉しかった。

「長年の友情にさらに磨きをかけるべく感謝する」
「シベリアの永久凍土を掘りおこしても足りないほどメルシィ・ボークゥ!」
「七面鳥のないクリスマスはゆるしても、きみへの感謝のない日々は断じてゆるさない」

といった具合である。

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「海とつがった太陽だ」という一節を読んだときには猿の漫才師サルーは声をあげて泣いた。なぜ猿の漫才師サルーが泣いたのか私はわからなかったが理由を尋ねたりはしなかった。「涙のわけに興味を示してはならない」というわれわれの鉄の掟に従ったのだ。私の推測にすぎないが、猿の漫才師サルーは海か太陽のどちらかに恋をしていたのだと思う。そうとでもなければ「海とつがった太陽だ」のたったひと言で涙を流した説明がつかない。実にいろいろな恋の相手方があるのだということを思い知らされる出来事ではあった。

われわれはより愉快痛快爽快快適効率的にすごすために1日24時間をいくつかのテーマに沿って分割し、名前をつけた。ランボーを私が読み、猿の漫才師サルーがそれを聴くのは夕方。庭にデッキチェアを出し、オレンジ色に染まってゆく湘南の海を見下ろし、ビールを飲みながら。約1時間におよぶランボー・タイムをわれわれは『地獄の季節』と名づけた。

背景音楽:Living Inside Your Love


名づけ遊び、宇宙、ゴッドファーザー。
われわれの「名づけ遊び」は1日のそれぞれの時間帯にとどまらなかった。各週、7月、8月、そして、9月の半分にも当然名前をつけた。われわれは日を追うごとに「名づけ遊び」に夢中になっていった。実際、「森羅万象に名前をつけよう!」というかけ声のもと、われわれは手当たり次第、目につくもの、耳にするもの、食べたもの、飲んだもの、嗅いだもの、触ったもの、踏んづけたもの、挿入したもの、排泄したもの、吐き捨てたものにどんどん名前をつけていった。

名前をつけてしまうと、それらはわれわれの所有物件であり、支配下に置いたような気分になった。当然である。なにしろわれわれは彼らのゴッド・ファーザーだからだ。われわれに新しい名前を与えられ、彼らはまったく新しい存在となった。われわれが名づけたとたんに彼らはピカピカと実にチャーミングに輝いた。それはわれわれへの感謝のウィンクのようにも思われた。

背景音楽:Heart Strings


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海老みそカレー、ビーフサラダ、ライ麦畑の投手。
われわれの1985年夏の昼餐はすべて珊瑚礁(いまのBeach SideE店ではなく山側、Hill Top Side店。われわれは「やまみせ」と名づけた)で執り行われた。われわれの1985年夏の昼餐はある種の儀式であった。注文するのは、

1.海老みそカレー
2.ビーフサラダ
3.生ビール(XLサイズのピッチャーで3杯)


と、夏の始まりを前に二人で密かに取り決めていた。これ以上でもこれ以下でもいけなかった。鉄の掟である。

われわれは1985年夏の昼餐を「象の綾取り」と命名した。それはいつまでも解決しない問題に取り組むわれわれ自身を象徴する名前だった。海老みそカレーとビーフサラダは各自が注文し、それぞれ食べた。1杯目と2杯目のビールは自分のペースで飲むことがゆるされていたが、3杯目はピッチャーをまわし飲みした。相手からピッチャーを引き継いだ者は3秒以内に3フィンガー分のビールをひと息で飲まなければならない。これもまた、命がけで守るべき鉄の掟である。それはわれわれの友情のかたさを確認するためには欠かすことのできない儀式であった。

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われわれはこのピッチャーから直接まわし飲みする儀式を Pitcher in the Rye [ライ麦畑の投手]と命名した。

ほとんどの場合、エース・ピッチャーは私で、私の豪速球を受けとめるのはキャッチャーである猿の漫才師サルーだった。猿の漫才師サルーはリリーフ・ピッチャーとして時折登板したが、彼の球種の中心は蠅がとまれそうなほどスローで素直な直球だっため、そのことごとくを私の稲妻スイングによって軽々と場外に叩きだされた。そのたび、猿の漫才師サルーは言ったものだ。

「おれはやっぱり敗戦処理向きだ」

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猿の漫才師サルーはときどき2フィンガー分しか飲んでいないのになにくわぬ顔で私に2フィンガー分しか減っていないピッチャーをよこした。金持ちにはこういったこすからい輩が多い。猿の漫才師サルーだって例外ではない。だが、私はそんな猿の漫才師サルーが愉快でたまらなかった。

「ビールのいいところは ──」と猿の漫才師サルーが言いかけた。私はそれを制して言った。
「ぜんぶ小便になって出ちまうところだとか言ったら鳩尾にメガトン・アッパーだぞ」

私が言うと猿の漫才師サルーは右の耳を少し赤らめた。そして、ビーフサラダのキュウリを2本手に取って自分の額のあたりに当てがい、蝸牛のツノに見立てておどけた。

背景音楽:This Time


村上春樹的なるものとの訣別、焚書坑儒、ボーン・トゥー・ビー・ファイアー。
「おまえの、ということはつまりおれの、すなわち、われわれのもっとも重要な問題は、一刻もはやく村上春樹とおさらばすることである」

私がそのように宣言すると猿の漫才師サルーは大きくうなづいて言った。

「手はじめになにをする? やっぱりあれかな? ビールを飲めばいいのかな?」
「ばかやろう! それじゃ、意味がないじゃないか! 手はじめにわれわれがやるべきことはわれわれの身近にある村上春樹的なるものをすべて破壊し、焼きつくすことだ。焚書坑儒だ! 電撃作戦だ! ボーン・トゥー・ビー・ファイアーだ!」
「オーケイ! フォート(猿の漫才師サルーの別荘をそう名づけていた)帰還後、すべてのハルキ関係の本を焼きつくそう! 犬の漫才師にもらったチクチクするTシャツはハサミでばらばらに切り刻む! もう2度とスパゲティ・バジリコは作らない! 食わない! 晩めしのメニューからも当然外す! ブルック・ベントンの『レイニーナイト・イン・ジョージア』もビーチボーイズの『カリフォルニア・ガールズ』も叩き割ろう! ミシェル・ポルナレフのLPレコードはすべて芝刈り機で粉砕してやる!」
「おいおい。ミシェル・ポルナレフはやめろよ。やつはおれたちのアイドルじゃないか」
「でも、メルドーだって」
「だれが?」
「フランスの船員が」
「まあ、落ちつけ。そして、深呼吸しろ」
「落ちつく。深呼吸もする。ミシェル・ポルナレフはわれわれのアイドルだ」

だが、けっきょく、私と猿の漫才師サルーがやったことは『午後の最後の芝生』が掲載されている1982年8月号の『宝島』を庭の芝生の上で焼くことだけだった。翌朝、黒く焦げた芝生をみつめながら猿の漫才師サルーが言った言葉を私は生涯にわたって忘れないだろう。

芝生ってどうやって世代交代していくんだろう?

背景音楽:Dance with Me


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闘う魚、波乗り、ビーチサイド・クルージング。
私と猿の漫才師サルーは肉体と精神から緊張感が失われることをもっともおそれ、忌み嫌った。その対策としてわれわれが行ったのは3点である。

1.ストリート・ファイト
これは[闘う魚]と名づけた。強そうな奴、われわれより人数の多い集団に無理難題いちゃもんをふっかけて怒鳴りあい、殴りあい、蹴飛ばしあい、取っ組みあい、そして、最後は仲良くなった。もちろん、仲良くなれない相手もいた。そういう奴らをわれわれは[タカハシイサオの給食袋]と名づけた。

小学校の同級生に「タカハシイサオ」という人物がいて、彼は陰気で気取り屋で言いつけ屋で口臭のひどい奴だった。つまり、「嫌な奴」の代名詞が「タカハシイサオ」だったのである。タカハシイサオの給食袋の中にはダンゴ虫やらゴキブリやら黒蟻やらカマキリやらモンシロチョウやら油蝉やらゴイシツバメシジミやらの死骸が羽根や脚をむしり取られた状態で詰め込まれていた。タカハシイサオの給食袋はわれわれの恐怖と嫌悪の象徴であった。

2.波乗り
これは[ジェリー・ロペス・チャレンジ]と名づけた。波が立ちあがらないときは江ノ島か稲村ケ崎までパドリングし、帰ってきた。一度など二人そろって気分が高揚し、葉山のデニーズを目指そうということになった。到着したらサーフボードを抱え、胸を張ってずんずん歩き、オープン・テラスにいるやつらを睨みつけ、生ビールの大ジョッキをひと息で飲みほそうと決めた。

由比ケ浜の少し先、材木座の手前で私と猿の漫才師サルーの無謀な挑戦は断念せざるをえなかったが、あの失敗はただ単に潮の加減がよくなかったからにすぎない。いま思いだしても癪にさわるが、けっしてわれわれがヘッポコだったからではない。猿の漫才師サルーも同意見だ。

われわれが使用したサーフボードはサウス・カリフォルニアのマリブ在住で、幻のボード・シェイパーと呼ばれたコヨーテ・トパンガが削った12フィートのスペシャル・ロングボード(リーシュ・コード・ホールなし)である。私が青、猿の漫才師サルーが赤だ。私の青いボードには、ラテン語で FLUCTUAT NEC MERGITUR と入れた。「漂えど沈まず」という意味である。猿の漫才師サルーの赤いボードにはギリシャ語で FESTINA LENTE と入れた。「悠々として急げ」という意味だ。

文字を入れた場所は巨大なバナナ・フィンの左側である。私も猿の漫才師サルーもグーフィー・スタンスだからだ。サーフボードが右に大きく傾くと、フィンの文字を大声で読む。われわれの鉄の掟だ。ふたり同時にライト・サイドに傾き、同時に雄叫びをあげるとまわりの波乗り野郎どもは驚いてひっくり返った。ざまあみろである。

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雲ひとつなく、月の美しい夜。猿の漫才師サルーは SEX WAX のにおいを嗅ぎながらマスターベーションすることがあった。猿の漫才師サルーは SEX WAX を鼻っつらにくっつけ、音を立ててにおいを嗅ぎ、月を見上げた。そして吠えた。

SEX WAX はおれを興奮させ、革命的にする。だから、興奮し、革命的になりたいときは SEX WAX のにおいを嗅いでマスターベションするんだ」

SEX WAX のにおいで興奮し、革命的になった猿の漫才師サルーはマスターベション終了後、必ずフォート前の134号線を素足で全力疾走した。このちっぽけな宇宙には実にいろいろなものに興奮し、革命的になる人間がいることを私は猿の漫才師サルーに教えられた。

3.暴走とガールハント
これは[ヴィルヌーブの風魂]と名づけた。ビーチ沿いの道を制限速度違反でぶっ飛ばす。赤信号も当然のごとくに無視して突っ走る。私と猿の漫才師サルーは満月の夜、七里ケ浜から鎌倉まで女の子をナンパしに出かけた。七里ケ浜から鎌倉駅前までのルートをわれわれは「猿熊悲劇の英雄サーキット」と命名した。

背景音楽:Forever Girl/Summer Song/The Cool School


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ソス・ド・ヴィは
オー・ド・ヴィへ

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by enzo_morinari | 2012-10-15 20:30 | アール・クルー日和 | Trackback