カテゴリ:ランボーは水色の自転車に乗って( 1 )

ランボーは水色の自転車に乗って#2

 哲学的な自転車乗りとそうでない自転車乗り(02)
 意識が遠のきかける。それでもランボーはペダルを踏みつづける。内堀通りがゆるやかに左にカーヴし、桜田門前、警視庁本庁舎屋上のパラボラ・アンテナの一部が視界のすみに入ったとき、ランボーの意識は完全に消失した。ブレーキ・レバーを引こうにももはやブレーキ・キャリパーを有効に作動させるだけの余力は残っていない。レバーを握りしめ、丸裸の筋肉の力を「梃子の原理」によって増幅する。増幅された力は1mmにもみたないインナー・ケーブルを通じてブレーキ・キャリパーに入力される。これらが間断なくなされなければ、カタログ・スペック上、いかに優れた制動力を持つ機材であってもその能力を発揮することはできない。すなわち、自転車は1ミリたりとも止まらないというわけだ。同様に、ペダルを踏み込み、引き上げ、クランクをまわしてチェンにエネルギーを伝達しなければホイールは回転せず、前へは進めない。つまり、自転車とは身体の延長、身体の一部分を構成しているとも言えるのだ。
 カーブの頂点で親指の爪ほどの面積で地面をグリップしているミシュラン・プロレース2-20Cが悲鳴をあげはじめる。タイヤは限界性能を超えようとしていた。鈍い擦過音を発しながら車線1本分右にふくらむ。もしもこのときペダリングが止まっていればタイヤはグリップを失い、車体もろとも遠心力によって外側にはじき飛ばされたはずだが、ランボーは失神しながらもペダルを踏み込んでいた。
 後続の大型車両から、悪意にみちたクラクションが鳴る。急ブレーキの鋭い音とゴムの焦げる匂い。そして、罵声。
「これで、やっと死ねるんだ」
 そう思った刹那、ランボーの胸の奥深くをよぎったのは「言葉の祖国」にたどりつくための地図ではなかったか。残念ながらそれはランボーにしかわからない。だが、けっきょく、きょうもまたランボーは死ななかった。毎朝のことだ。正気を取りもどし、しらみはじめた冬の空に一瞥をくれ、東京の中心にぽっかりとドーナツ状にあいた「聖なる空虚」の周囲をランボーは疾走する。ゴールなど見えようはずもない。内堀通りは環状道路だが、その「円環」は閉じられていないからだ。走りつづける道はけっして引返すことのできない細く長い一本道である。

(ファリエロ・マージの悪意のごとくにつづく。)

 
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by enzo_morinari | 2012-08-01 12:00 | ランボーは水色の自転車に乗って | Trackback