カテゴリ:プールサイド畸譚( 1 )

プールサイド畸譚#1 プールサイドで1杯やる程度の御褒美、やさしい雨

 
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「このおれの沸騰し、滾る憤怒を受け止められるのか? 若造」と射すように光り、閃く言葉の銃口をGRIP GLITZに突きつけられて以後、しばらく世界は色と音と匂いを失っていた。世界が徐々に色と音と匂いを取りもどしはじめたのは先週のことだ。

第二次世界大戦のエース・パイロットだった老人との「奇妙な味の南国のフルーツ」を賭けたポーカー・ゲームは南から来た男ことミスター・フラミンゴ(奇妙な味の南国のフルーツ売り)の登場で台無しになってしまったが、御褒美がなかったわけではない。プールサイドで1杯やる程度の御褒美ではあるが。

それにしても、先週は実によく働いた。1週間でモーリスのミニ・クーパー5台分の利益を出した。フル装備のクーパー5台分。世が世ならカリブ海の小島をひとつふたつ買える額だ。プールサイドで1杯やる程度の御褒美に文句をつける者はいまい。

窓をあける。世紀末ホテルのプールが見える。水しぶきの音。若い男女の嬌声。アール・クルーのアコースティック・ギターの音。まだ5月だというのに? しかし、心は幾分か軽くなる。プールサイドで1杯やる程度の御褒美を受け取りにいくことを決める。

プールを目指して世紀末ホテルの中庭を抜ける。馴染みのコンシェルジュがよく訓練された笑顔を投げてよこす。新米のベルボーイはぎこちなくスーツケースを運んでいる。世紀末ホテルで仕事を始めてまだ3日と経っていないだろう。しかし、なにごとも経験だ。経験のない者には指先ひとつまともに動かせやしない。世界は扉を開かない。それがこのくだらなくも素晴らしき魅力に満ちあふれた世界のルール、プリンシプルである。

庭の芝生はとても手入れが行き届いている。いい庭師の仕事だ。芝生を刈り込んだ庭師の愛読書はヴェルギリウスの『労働と日々』にちがいない。

盛りを過ぎたヘレボルス・アルグティフォリウスの植え込みや溌剌としていかにも機嫌のよさそうな椰子の木が一糸乱れずに南方遠征軍の陣形を組んでいる。椰子の木のてっぺんでは強い南風にあおられた葉がバーナーで焼かれたような乾いた音を立てている。茶色い実が葉陰で揺れている。歩哨役の椰子の実の新兵。じきに斥候部隊への配属命令が下るはずだ。

プールに着く。プールサイドにはデッキチェアが全部で7脚置いてある。白いテーブル、パステル・カラーのパラソル、揺れる初夏の光。いい夕方だ。

あらゆることが可能な時間帯。グレース・ケリーを虜にすることだって可能だし、フレッド・アステアに負けないくらい軽やかで華麗なステップを踏める。ジャック・デンプシーと褐色の爆撃機ジョー・ルイスとロッキー・マルシアーノとモハメド・アリとアイアン・マイク・タイソンをまとめて一撃で世界の果てまで吹き飛ばすのだってできない相談ではない。そんな時間帯だ。

よく日焼けした男や女が腰を下ろしている。プールの中では若い女たちと若い男たちが水を撥ねあげ、大声を発しながらビーチ・ボールを投げ合っている。これなら、世界はまだしばらくは大丈夫だ。

目星をつけたテーブルの上にページが開かれた状態で1冊の本がある。題名を確かめる。途端に虫酸が走る。密かにカルトでひと儲けを企む車椅子のインチキ宗教家の詩集『底抜けのアホが十人いる町の住人の合言葉は"おおきに"』だ。間髪を置かずにゴミ箱に放り込む。これで世界はいくらか正気を取りもどすはずだ。

デッキチェアにからだを横たえ、彼らを眺める。娘たちはホテルに滞在しているらしい。若い男のほうは見たことがなかったが、聞こえてくるアメリカ風の発音から、おそらく今朝入港したアメリカ海軍の練習艦の士官候補生ではないかと踏んだ。そして、第二次世界大戦のエース・パイロットだった老人がやってきた。引金の引き方も照準と照星のちがいもわからない新兵のようにうなずくのが精一杯だった。

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「どういう風の吹きまわしですか? 新しい獲物でもみつかりましたか?」
「そうじゃない。きょうはおまえさんに靴下と手袋の見分け方を教えてやろうと思ってな」
「靴下と手袋、ですか。靴下のことならサンタクロースにすっかり教わりましたけどね。手袋のことなら手袋巡査に36回ぶっ叩かれてようやくおぼえましたよ」
「ふん。そんな程度かい。おまえさんにゃあ、靴下の右と左のちがいさえわかっちゃいないだろうよ」

第二次世界大戦のエース・パイロットだった老人は傲岸不遜を絵に描いたような態度でテーブルについた。テーブルにつくなり、第二次世界大戦のエース・パイロットだった老人は仔犬でも呼び寄せるようにギャルソンを手招きし、「まぜこぜシチュー」を注文した。そして、「父さんギツネバンザイ!」と叫んでカードを配り始めた。さらに、「ぼくらは世界一の名コンビだ!」と叫んだ。同時に10歳くらいの少女が現れた。

「きみは小さな大天才だね」と第二次世界大戦のエース・パイロットだった老人は少女に言った。そして、釘のように細くて長い指先で少女の髪の毛の生え際を撫でた。少女はされるがままだ。うっとりとさえしている。

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第二次世界大戦のエース・パイロットだった老人はそうすることがあらかじめ決められてでもいたように悪魔の指先で少女の10本の指を根元から切り取り、両耳を引きちぎった。指と耳の切口からはルビーの滴のような鮮血が滴り落ちた。

あまりの出来事に言葉も出ず、息もできず、瞬くことすら忘れた。そのことよりも驚いたのは、指を切り取られ、両耳を引きちぎられた少女が呻き声ひとつ立てないことだった。かたちのよい濃い眉は1ミリも動かなかった。

心配そうに少女を見つめていると、彼女は緑がかった瞳を向けてきっぱりと言った。

「大丈夫。あしたの朝には10本の指もお耳もきれいに生えそろうから。夜のあいだ、少し痛むだけ」

第二次世界大戦のエース・パイロットだった老人は「魔法の指」の持主だったのだ。

第二次世界大戦のエース・パイロットだった老人は「まぜこぜシチュー」を貪り喰いながら、「チョコレート工場の秘密」と「おばけ桃の冒険」の話をし、つづいて、飛行機乗りのヴァルハラへの昇天について語りはじめたが、もうタイム・リミットだ。とっておきの呪文を唱えるときだ。

「ヨンサメカ! ヨンサメカ! ヨンサメカ!」

1度目の呪文で第二次世界大戦のエース・パイロットだった老人の体は向うが透けて見えるようになり、2度目の呪文で頭が消え、3度目の呪文を唱えた瞬間に完全に消滅した。

霧のような雨が降り始める。ザ・シンガーズ・アンリミテッドがルイス・ボンファとマット・デュビイの『やさしい雨』を歌っている。


やさしい雨はいつもあなたの面影をよみがえらせる ── 。

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The Gentle Rain (Luiz Bonfá/Matt Dubey)
Oscar Peterson & The Singers Unlimited
Stacey Kent
Joe Pass
Barbra Streisand
Dianna Krall
Art Farmer
George Benson
Elizabeth Dawson
Astrud Gilberto
Emilie-Claire Barlow
Cheryl Russell
Eden Atwood
 
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by enzo_morinari | 2014-05-13 17:00 | プールサイド畸譚 | Trackback