カテゴリ:記憶する指( 1 )

記憶する指#1 近所のそば屋が必ず描かれる地図絵

 
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泡の時代に一緒に仕事をしていたアート・ディレクター(ひそかに「記憶する指」と呼んでいた)はいくつかの特技/特質を有していた。ひとつは道案内のための地図絵の作成。これはいつもみごとな出来映えだった。記憶する指は妹尾河童の部屋イラスト/室内鳥瞰図のようにきわめて立体的に地図を描いた。その地図絵にはなぜか必ずそば屋が登場した。道案内にはいささかも関わりがないのにそば屋が描かれる。

「なぜそば屋?」
「そば屋には恩がある」
「どんな?」
「いつもそばにいてくれる」
「なるほど。すごくよくわかった。ついでに訊くけど、好きなそば屋は?」
「飯倉片町の増田屋。麻布笄町の蕎一心。稲荷町の砂場と中十条のふつうのそば屋加藤」
「近く御一緒してみたいものですな。中十条のふつうのそば屋加藤が特に気になる」
「申し訳ないけども、それはできませんね。そばは一人さびしく食するものと相場が決まっているのでね。それに、そばにだれかいると気が散ってそばに集中できないんです。それではそばに対して誠に申し訳が立たない。ちなみに、中十条のふつうのそば屋加藤は一度どころか何度でも行っておくべきだと思いますよ。店主がかなりエキセントリックだけど」
「エキセントリックなそば屋のおやじか。疼くな」
「ふつうのそば屋加藤のおやじはなにかっつーとベン・E・キングの『Stand By Me』を歌うんです。ものすごく調子っぱずれに」
「ベン・E・キングの『Stand By Me』をね。調子っぱずれに。立ち食いそば屋ってことはないよね?」
「それはない。どちらかと言えば本格派。老舗の風情も醸し出してる。で、歌い終えると"いつもそばにいるよ、工藤ちゃ〜ん"って」
「だははは。"いつもそばにいるよ"はわかるけど、"工藤ちゃ〜ん"はなぜ?」
「ふつうのそば屋加藤のおやじは成田三樹夫にそっくりなんだ」
「ゲラゲラゲラ。成田三樹夫にクリソツなそば屋のおやじかあ。希少物件だ」
「しかも、フランス語をネイティブで話す」
「えええええっ! ただごとじゃないな。ほってはおけない」
「東大の仏文出だからね。ふつうのそば屋加藤のおやじは。成田三樹夫は東大の独文中退だけど」
「とんでもないそば屋のおやじだ」
「そう。ソルボンヌに留学してるし、ゴンクール賞の候補になったこともある。おまけにダニエル・ヴィダルは元奥さんだし」
「もうめちゃくちゃだ」
「"ダニエル・ヴィダルはわたしのエラン・ヴィタールである"とかなんとかかんとか」
「行こうよ。ふつうのそば屋加藤」
「掟を破るか。例外的に」
「破ろう破ろう」
「今回きりですよ」
「今回きり今回きり。そばきり奢っちゃう」
「かわりにと言っちゃあなんですけど、入稿日を1週間遅らせてください」
「そりゃひどい。すでにしてケツカッチンなのに」
「では3日」
「オーケイ。手を打とう。ついでにふつうのそば屋加藤でそばも打とう」

かくして、私と記憶する指は早々に仕事を切りあげ、中十条の「ふつうのそば屋加藤」に向かった。そして、記憶する指がなぜ地図絵に必ずそば屋を描くようになったのかの本当の理由を知ることとなる。だが、それはまた別の話だ。


*記憶する指がなぜ地図絵に必ずそば屋を描くようになったのかの理由の一端は『近所の「角の加藤のふつうのそば屋」のカドー・パンセ・ソバージュ』に書いてある。
 
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by enzo_morinari | 2014-05-02 05:32 | 記憶する指 | Trackback