カテゴリ:Histoires de Musique( 2 )

「アフリカへの憧れの旅」から帰ってきた永遠のギター・モボ

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 トーチカの深い穴ぐらからワタナベカヅミは出てきた。ブルー&レッドのキリンにまたがっていた。体型はあいかわらず小型冷蔵庫だったが颯爽としていた。ブルー&レッドのキリン上のワタナベカヅミはストラップを前に持ってきて、よく使いこまれたオベーションの12弦ギターを佐々木小次郎のようにかついでいた。その姿はさながら百戦錬磨の剣豪を思わせた。チュニジアの夜の闇の光がワタナベカヅミの顔を照らすと、ワタナベカヅミは少し目を細めた。

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 最後にワタナベカヅミに会ったのは19年前、「ナカムレサダノリ先生の還暦をお祝いする会」のパーティー会場だった。パーティーは渋谷の桜丘町にあるヤマハ音楽教室本館・大会議室で行われた。パーティーが終わるころ、ワタナベカヅミはオベーションの12弦ギターを持ち、ナカムレ先生のそばに近づいた。
「『マイ・ミスター・ギターマン』という曲です。ついさっきできあがりました。ナカムレ先生に捧げます。先生、聴いてください」

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 ワタナベカヅミはぼそぼそとひとり言のようにつぶやいた。そして、用意された椅子に座ると目を閉じ、しばし考えこみ、ギターを弾きはじめた。幾千億の鈴がいっせいに鳴りわたった。そのように聴こえた。グルーヴィー&クール&ハートウォームこのうえもない、心のこもったすばらしい演奏だった。参加者の中には肩をふるわせてすすり泣く者までいた。私だ。ナカムレサダノリ先生は奥様から渡されたターコイズ・ブルーのハンカチで何度も目頭を押さえた。それくらいいい演奏だった。もしかしたら、『DOGATANA』とともにワタナベカヅミの数ある名演の中でもトップ3に入るかもしれないとそのときの私は思ったものだ。残念ながら、このときの『マイ・ミスター・ギターマン』はいまにいたるもレコーディングされていない。おそらく、そのあたりがワタナベカヅミの心意気、仁義、心映えなのだろうと思う。「キリン・サーカス団の名において、ナカムレサダノリ先生にだけ聴いてもらいたい」と。

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「おい、ワタナベカヅミ!」
 私が声をかけるとワタナベカヅミは冷蔵庫みたいに頑丈そうなからだに気を漲らせ、一瞬だけ身がまえ、すぐに顔中をしわくちゃにして笑った。なつかしいモジャモジャつるつるした笑顔だった。「おまえ、太ったな」と私が言うと、ワタナベカヅミは答えるかわりに『Over the Rainbow』を弾いた。
 私とワタナベカヅミはJ.S. バッハの身長のことや、天国につづく階段の段数のことや、天国の住宅事情のことや、お互いの翼がめっきり年老いたことや、ワタナベカヅミの大好物の桃のことや、星影で歌うステラちゃんの髪の色のことや、シェルブールでなくした雨傘をカトリーヌ・ドヌーブがホテルまで届けてくれたことや、クレオパトラが毒蛇に噛まれる直前に見ていた夢のことや、宇宙へ向かって思いきりジャンプするコツや、二人で夜通し語り合い、酒を酌みかわしたチュニジアの『されど、われらが日々』のことや、月の砂漠を二人ならんでラクダに揺られながら「渋谷の新華楼のシュウマイを何個たべられるか?」について議論したことをなつかしく、そしてとても気持ちよく話し合った。時間はまたたく間にすぎ、ワタナベカヅミは旅の仕度をはじめた。

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「”いい日計画”は毎日でも立てようぜ」とワタナベカヅミは言った。
「もちろんだ」と私は答えた。
 ワタナベカヅミは私が言い終えるやいなや、ブルー&レッドのキリンに飛び乗り、ものすごいスピードで砂漠にかかった虹の彼方へと消え去った。まったく! あいかわらずすばしこいやつである。


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by enzo_morinari | 2012-09-13 16:10 | Histoires de Musique | Trackback

顔のない音楽家/ジャン・ミシェル・ミゴー

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 音楽家。文筆家。ストリート・パフォーマー。1938年、パリのバスチーユ地区に生まれる。父はユダヤ系フランス人、母はアルジェリア系フランス人。ジュリアード音楽院でピアノと音楽史を学ぶ。その後、NYのサウス・ブロンクスでアフリカ系アメリカ人の友人らとコミューンを形成し、ストリート・カルチャーに親しむ。住所、居所、生死、いずれも不明。フランス帰国後はコレージュ・ド・フランスの哲学科に編入。ブランショ、フコ、デリダ、ドゥルーズらの影響のもと、「哲学と音楽の批判的融合」をテーマとした論文で学長賞を受賞。ピアノのほか、パイプ・オルガン、アルト・サクソフォン、ギター、ベース、ドラムス、ヴァイオリンの演奏もこなす。主著に『Le Ruisseau de Bach』『HIP-HOP EXISTENCE』『L'ESPACE MUSIQUE』『La MUSIQUE INFINI』『Converso, Marranisme, Morisques, Musique, Reconquista』等がある。
 一貫して、「現在性」「匿名性」「偶然性」「縁」「反権力」「反権威」「漂泊」をみずからの創作活動、表現活動の主軸としており、ごくかぎられた人びとをのぞいて、ジャン・ミシェル・ミゴーの素顔を知る者はいない。また、「音楽は本来持っていた現在性、一回性をかなぐり捨てて、楽譜、記録媒体に依存することによって退廃腐敗した。その大罪の主犯は J.S. バッハである」として、演奏を記録することをかたくなに拒みつづけている。ジャン・ミシェル・ミゴーの即興によるパフォーマンスは彼の作品そのものであり、それ以外には、著作をのぞけば「作品」と呼びうるものはなにひとつ存在しない。
 ジャン・ミシェル・ミゴーの部屋の壁には、かの鈴木大拙揮毫による「一期一会」の書がかけられているといわれる。また、若き日、参禅を主たる目的として来日したおり、鈴木大拙本人から「未豪」なる号を授けられた。「禅」はミゴーを読み解くキーワードである。ミゴーはこの号がたいそう気にいったようで、サインを求められると必ず「未豪」と記す時期があった。
 1990年代末、K. ジャレットとの「インプロヴィゼーション・デュオ」が企画されたが、契約問題、特に「録音」を主張する K. ジャレット側との調整が難航し、企画は立ち消えとなった。記録された音源が公式にはいっさい残っていないため、一部の音楽愛好家のあいだで「リスト以上」とも賞賛されるピアノ演奏の超絶技巧や、エミネム、2PAC、ICE-CUBE、ICE-Tらが涙したといわれるライムを聴くことは不可能な状況である。2000年9月、イーベイ・オークションに、「ジャン・ミシェル・ミゴーのサウス・ブロンクス時代のストリート・ライヴ」と称される音源が出品され、高値を更新しつづけたが、突如として当該オークションは取り消された。オークションの存在を知ったジャン・ミシェル・ミゴー本人からイーベイに対する強い抗議があったためと推測されている。なお、URLは不明であるが、インターネット上で連日、ジャン・ミシェル・ミゴーがアノニマス・ライブ実況をしているといわれ、好事家のあいだではそのサイトを見つけだそうというコミュニティが数多く生まれている。筆者はパリのサンジェルマン・デ・プレ教会で行われたライヴを一度だけ聴いたことがある(ライヴは事前の告知などはいっさいなく、偶然サンジェルマン・デ・プレ教会を訪れたのであった)。そのとき、ジャン・ミシェル・ミゴーは黒マスクをかぶり、全身黒ずくめのジャンプ・スーツでパイプ・オルガンによるオリジナル楽曲、『Jardin Anonyme à Paris / Peur de la Liberté』を演奏したが、テクニーク、表現力、独創性のいずれもがリヒターを軽々と凌駕するものであった。


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by enzo_morinari | 2012-09-03 17:28 | Histoires de Musique | Trackback