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「村上春樹」という墓標#1 二十歳にして心朽ちたり

 
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村上春樹の『風の歌を聴け』を読んだのは二十歳の夏の初めだった。『群像』の1979年6月号掲載。その年の「群像新人賞」受賞作。吾輩も応募していたが、最終選考止まり。以後、一切の懸賞小説に応募するのをやめた。「スパゲティ・バジリコ野郎が認められるような世界なんかにコミットメントしてられるか!」というのが理由だ。「スープに毛が入っていようが、スパゲティ・バジリコが完全なるアルデンテに茹であがろうが、牛の胃の中にひとつかみの牧草しか入っていなかろうが、ある種の誇りを持ちつづけるためにアレック・ギネスが命がけで橋をつくろうが知ったことか!」ということである。

1980年の春に『1973年のピンボール』が出て、おなじ年に田中康夫が『なんとなく、クリスタル』で文藝賞を受賞したのをきっかけに、「文学青年」の日々とはきれいさっぱりおさらばし、「文学」と縁を切った。清々した。パスタを茹でつづける男の人生と厚さ5cmに積み重なった南京豆の殻と25メートル・プール一杯分のビールに担保された青春とナイーブなロースハムを売っているナイーブな肉屋に関する話とチャイナのC席に回収される不全感とカタログが文学、小説だというなら萩本欽一は合衆国大統領だと思った。

ひと冬をかけて1973年製のピンボール・マシン、スリーフリッパーのスペースシップを探したが街のどこにもスリーフリッパーのスペースシップはみつからなかったし、気のいい中国人のバーテンダーは中国行きの貨物船の船員になって街から消えていた。しかも、厚さ5cmに積み重なった南京豆の殻が火元になって街の半分は焼けてしまい、25メートル・プール一杯分のビールのせいで多くの人が痛風を発症し、ナイーブなロースハムの浮かぶ不全感の海で溺死した。街のあちこちに鈎状砂嘴ができて、鋭い切っ先を突きつけていた。街はクリスタルどころか灰色に濁り果てていて、TILT117回のおまけ付きだった。三百代言試験に合格したことを除けば、1980年は本当にひどい年だった。

『風の歌を聴け』を読んだ1979年は高野悦子の『二十歳の原点』と原口統三の『二十歳のエチュード』と奥浩平の『青春の墓標』とポール・ニザンの『アデン・アラビア』を同時進行で読み、ともにある日々だった。高野悦子と村上春樹は同い年だ。奥浩平は村上春樹より六歳歳上の同世代。原口統三はふた世代上。ポール・ニザンの『アデン・アラビア』はその当時の吾輩にとっては「青春」を象徴するもののうちのひとつだった。

二十歳は重要だった。人の一生で一番美しく傷つきやすく垢むけでなければならなかった。「区切り」であると思った。二十歳を過ぎて以降の人生は「本当のこと」「大切なこと」を見失い、手放して、あとは汚れ、醜くなり、ただ単に生き延びることにすぎないとさえ考えていた。二十歳になった時点で、なんらかのかたちで「死」を経験しなければならないとも。そのことは最優先の課題であるように思われた。


二十歳にして心朽ちたり秋桜子
 
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by enzo_morinari | 2013-10-15 04:57 | 「村上春樹」という墓標 | Trackback