カテゴリ:師歌( 2 )

師歌/皿回し師のうた(沈黙の青い歌)

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「ほんとのことを言うよ」と癒し系天然ブルースマンは突然スカイプ・チャットで1ラインの文字列を送ってよこした。
「ん?」
「前にあんたがおれにたずねただろ。なんでトークをやらないんだって。あのことだよ」
 癒し系天然ブルースマンはインターネット・ラジオで「Blues Train」という番組をオンエアしていて、最初から最後までずっとトークなしでかたくなにブルースだけを流しつづける皿まわし職人、DJである。
「ブルースはジャンルではない。魂の奥底から沸きあがる叫びなんだ!」というのが癒し系天然ブルースマンの口ぐせ(スカイプ・チャットでの発言)だ。
 私とのスカイプ・チャットを検証したところ、2006年11月24日から2012年9月30日までのあいだに正確に15330回同様の発言をしている。これはたいへんな数字である。癒し系天然ブルースマンとはほぼ毎日スカイプ・チャットをしているが、1日平均約7回、「ブルースはジャンルではない。魂の奥底から沸きあがる叫びなんだ!」を私はくらっている計算になる。困ったものだ。いや、たのしいことだ。
「『ガープの世界』って映画を知ってるかい?」と癒し系天然ブルースマン。
「アービング原作のだろ。知ってるよ。ロビン・ウィリアムスが主演してたやつな。原作も読んだよ」
「おれはロビン・ウィリアムスが好きで、その流れで『ガープの世界』をみたんだ」
「おおかた、おまえの理想の皿まわし職人像は『グッド・モーニング・ヴェトナム』のあの伝説のDJなんだろ?」
「そうさ。そのとおり」
「やっぱり」
「おまえになんでトーク、ベシャリをやらないのかって言われたとき、おれは正直まいったよ。もうラジオをやめようかとさえ考えた」
「そうか」
「実はな。おれ、舌がないんだ。自分で切り落としちゃったんだ」
「ばかやろう! シャレになんねえことぶっこいてんじゃねえよ」
「シャレでも冗談でもないんだ。ほんとのことなんだよ」
「ほんとのことってのはそのことか?」
「うん」

 私は居ずまいをただした。0と1のデジタル・データでできあがった単なる文字列にすぎないチャットであっても、アナログ同様に「気配」「雰囲気」を読みとることはできる。私と癒し系天然ブルースマンのあいだにしばらく深い「沈黙」があった。「沈黙」を破ったのは癒し系天然ブルースマンだった。
「あの映画の中にレイプされた女の子が抗議の意思をあらわすためにみずから舌を切り落とすという話がでてくるんだ」
「知ってるよ。で、その女の子に共鳴したクレージーな女どもがどんどん舌を切り落としちゃうんだ。その女たちの一人、たしかプーとかいう女が女装したガープに気づいて悲鳴をあげる。だよな?」
「そのとおりだよ」
 ここでまた、私と癒し系天然ブルースマンのあいだにちいさな「沈黙」。私はたばこを1本吸い、飲み残しのビールをなめた。たばこもビールも苦かった。だがそれはビールのせいだけではない。また癒し系天然ブルースマンが「沈黙」を破った。
「おれはあの映画にすごく影響されちゃって、そんで舌の先を2センチほど切り落としちゃったんだ。当時のおれはどうかしてたんだ。あとの祭りだけどねwww」
「ばかやろう! ”w” とかつけて笑ってんじゃねえよ! しかもみっつも!」
「ごめん」
「おれはいまや、なにものもなにごとも信じちゃいないが『言葉』だけは信じるにあたいすると思っている。もちろん、『言葉』の使い手、使い方にもよるけどな」
「うん。よくわかるよ」
「じゃ、ほんとの話のつづきをしてくれ」
「わかった」
「あ、ちょと待て。乾杯してからだ」
「お    !」
「ながしま    !」
 私はお中元でもらったシーバス・リーガル12年の栓をあけ、マグカップになみなみと注いだ。長い夜になりそうだった。

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「いまでも痛む」と癒し系天然ブルースマン。
「だろうな。問題は   
 そこまでタイピングして送信したところで、私の指は停止まった。みずから舌を切り落とした者に伝えるべきなにがあるというのか? 私の残り少なくなった「常識」が問いかけていた。だが、私はありったけの言葉の集積を探索し、タイピングした。
   問題はおまえがその痛みを友とできるか、乗りこえることができるか、飼いならすことができるか。このみっつにかかっているとおれは思う」
「おれは   」と癒し系天然ブルースマンは送信してきた。「おれは世界が跡形もなく消えちまえばいい」
 動きかけた私の10本の指がぴたりと停止まった。

 世界なんか跡形もなく消えてしまえばいい。
 世界なんか跡形もなく消えてしまえばいい。
 世界なんか跡形もなく消えてしまえばいい。


 私は3回口に出した。そして、3回テキスト・エディタに書いてみた。そうだ。世界なんか跡形もなく消えてしまえばいいんだと私は思った。それはいつも私が考えていることだ。癒し系天然ブルースマンの言うとおり、そして私がいつも考えているとおり、世界なんか跡形もなく消えてしまえばいい。跡形もなく消えてしまえばいいけれども、そのいっぽうで、世界は『収穫の月』やCSN&Yや『レオン』やジャクソン・ブラウンやプライム紀尾井町店の大五郎(2リットル)298円や『海を見ていた午後』やシーズンオフの心や心の中のギャラリーや雪だよりや青いエアメイルや新しい恋人と来てほしくない男心や同じく女心やサングラスで隠して見せない涙やゴミアクタマサヒコや右翼や左翼や福島瑞穂・辻本清美・田嶋陽子一味のけたたましい唐変木どもや『カサブランカ』や「正義」や「公序良俗の原則」や「罪刑法定主義」やヨシダミナコや『星の海』やあめじや『My Love』やポ兄や「例の赤いTシャツ」やチャーリー・パーカーや沙羅双樹の花や『風の谷のナウシカ』や「年越しそばに命をかける女」やその息子のムラオサ君やライ麦畑風味のライムライトなラムネ売りのライムマンや星を継ぐ者やマイルス・ディヴィスやジョン・コルトレーンやニガブロ・ニザンやさえちゃんやうれし涙やくやし涙や『THE END OF THE WORLD』や怒りやいかりや長介や憎しみや憎しみの肉屋や喜びや喜び組のよろめきや悲しみや「きのう、悲別で」や『時間よとまれ』やウソやカワウソやカモノハシやビーバーや『人間の証明』やウジ虫どもやワタナベカヅミや『薔薇の名前』や「暴行傷害焼き定食」やインチキやニセモノやクワセモノやマガイモノや『ホテル・カリフォルニア』やシーバース・リーガル12年や『紅の豚』や発泡酒や「漂えど沈まず」や「悠々として急げ」や盛者必衰の理や猿の漫才師サルーやそのお天使ちゃんやかれらの小せがれ小娘どもや暗躍海星や数の子天井カズコや芸者ガールや25メートル・プール一杯分のビールや『風の歌を聴け』や2ちゃんねるや姑息低能愚劣下衆外道どもの巣窟「シンデレラの屋根裏部屋」や『La Vie en Rose』や祇園精舎の鐘の音や『雨を見たかい?』やベッシー・スミスや『奇妙な果実』やボブ・マーリー&ウェイラーズや『河内のオッサンの歌』や『WHAT A WONDERFUL WORLD』や諸行無常の響きや本好き料理好きささみ好き行列好きのヒメキリンの坊やや光と闇の幽玄の闘争に立ち会うZINや国大出で美人で木っ端役人で世界を2パーセントくらいつまらなくしているさっちゃんに番号非通知ワン切りの集中放火を浴びせるべく有志を募っている風変わりなバランス感覚でタブーもサンクチュアリもなんのそのな A-BALANCER や日本文学全集レプリカの背表紙に頬ずりするエストリル・ガールや世界で一番小さな庭で繰り広げられる「いのちの物語」のダイナミズムに心ふるわせるレイザ姫や葡萄酒を飲み過ぎたせいでオーバー・ドープし、夫をとうとう専業主「婦」にしてしまった地下鉄のジュジュのバサラカ冒険によってハラハラドキドキの抑圧デイズを生きるアーキテクチャー・ウーマンや自身の闇とのタイマン勝負に勝利すべく「てにをは」「句読点」の文章修行に精を出すビーチサイドのセイレーンや東京フェルメール・ガール代表の chisato Memories や「文字」を拡大表示するのと「!」を乱発するのが「お下品」であることに気づきはじめた七転八倒しつつも七転八起する神々の黄昏おやじやねじまき鳥看護婦の松坂世代や虹子やポーちゃんやメリケン帰りのバカ娘やを乗せて、明日もまた壮大にドタバタ満載に、喜怒哀楽、起承転結、ありとあらゆることどもものどもを乗せて走りつづけ、ジェットコースターしつづけ、メリーゴーラウンドしつづけ、なんどでも終わり、なんどでも始まらなければならない。そうだ。それがわれわれが生きている「世界」なんだと私は思った。
「おい、大馬鹿野郎の癒し系天然ブルースマンよ。おまえはおれがスキーター・ディヴィスの死を知ってひどくダウンだった夜、ブルースしかかけないおまえの本放送中にスキーティーの『THE END OF THE WORLD』をかけてくれたよな? おぼえてるか?」
「もちろんだよ」
「おれはこの世界とやらはどうしようもなくて救いようがなくて大きらいだけれども、あのとき、『THE END OF THE WORLD』をおれに聴かせてくれたおまえの世界は永遠につづいてほしい。そして、おまえのその世界をおまえの『言葉」で語りつづけてほしい。おれの言いたいことはそれだけだ!」

 かくして、モールス信号でトークする世界初の皿まわし芸人が誕生した。


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by enzo_morinari | 2012-09-30 14:34 | 師歌 | Trackback

師歌/釣り師のうた

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 黒塗りのマイバッハが滑るようにやってきて停まった。ドアがあき、体格のいい男二人が機敏な動きで飛びだしてくる。鋭い視線を私のほうにちらとよこす。白刃の切っ先を突きつけられた気分だ。
 伝説の釣り師はゆっくりと車の中から出てきた。濃紺のペンシル・ストライプのダブル・ブレステッド・スーツ、濃紺のボルサリーノ、上等のワニ皮の靴はピカピカに磨き上げられている。知らない者がみれば、その筋の親分である。右眼のまぶたがぴくぴく震える。チックだ。脇の下からは冷たい汗が大量に噴き出す。胃が痛い。吐きたい。いや、もう死にたい。
 ついてこようとする男たちを手で制し、私のほうに近づいてくる。私の足元に視線をやり、いくぶんか落胆の表情を見せた。「しまった」と思った。やはり、よそ行きの靴を履いてこなければならなかったのだ。履いているのはドンキホーテで買ったヴェトナム製の安物の靴である。980円。ゴム底。やれやれだ。まだなにも始まっていないのにすでに大量得点をゆるしてしまった。
 伝説の釣り師は身なり、服装のセンス、言葉づかい、礼儀作法にことのほかうるさいと事前に知らされていた。ある有名雑誌のこましゃくれた編集者が「あのさあ」のひとことで伝説の釣り師を激怒させ(もっとも、それにはいろいろな「伏線」があったらしいが、ここではふれない)、袋だたきのすえに病院送りになったのは業界では有名な話である。
 今回のインタビューにあたってメンズプラザ・アオキでスーツを新調し、ネクタイは妻に選んでもらった。なれない美容室で髪を切ってこざっぱりとし、念入りにひげを剃り、前歯の虫歯を治療した。出がけに末娘がぐずり、それをなだめていてつい普段履きなれたぼろ靴に足を入れてしまったのだ。
 今日のインタビューは仕事というよりも、私の興味、趣味が優先していた。伝説の釣り師の著作や発言、実績、経歴から私はどうしても彼に会いたかった。会って話を聞き、私の話を聴いてもらいたかった。なにしろ、伝説の釣り師は私が釣りに興味を持ちはじめた小学生の頃から、すでに「伝説の釣り師」だったのだ。彼がモンゴル奥地の河で巨大なイトウを釣り上げ、満面の笑みを浮かべている写真はいまも仕事部屋の壁に額装して飾ってある。

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「靴まではゼニがまわらなかったか?」
 待ち合わせのフレンチ・レストラン、ポルト・ドール前に姿を現したとたん、伝説の釣り師は言った。顔は赤銅色に灼け、声はひどく嗄れていた。スコットランド北部を流れる釣聖の川、ダブ川で夜通し釣り糸を垂れ、アイザック・ウォルトンの『釣魚大全』を枕にアフリカのサバンナで眠り、埠頭を渡る風に吹かれ、巨大なイトウを釣りあげるため、1年のあいだモンゴル奥地の清流の瀬に暮らし、釣りあげた巨大イトウを「神とともにあれ!」と叫んでリリースし、厳冬のカナダのユーコン川や秋風の渡良瀬川の川面を凝視し、真夏のアマゾン川でピラルクーと格闘し、極東の小島の磯で蟹とたわむれ、名著『Study To Be Quiet/おだやかなることを学べ』『ダブ川の夜/釣り師は誰も心に傷を持っている』『アメリカ北米大陸釣り紀行/釣って釣って釣り暮らそう』三部作を著し、世界中のありとあらゆる酒とシガリリョスと葉巻とパイプの煙りに親しんできた結果だろう。それを思うと私は胸がいっぱいになってしまった。こんなことではきょうはインタビューどころじゃないなとそのとき思った。このあと、私の予感はみごとに当たるが、そのときはわかるはずもない。
「いや、そうじゃない。気がまわらなかったんだ。おおかた、かみさんかガキにぐずられたんだろう。どうだ? 図星だろう?」
 図星だった。この人にはうそやごまかしやその場かぎりのとりつくろいは通用しない。私は心底おそろしくなってきた。
「運気の悪いマンションだな。サイスマサオもイモを引いちまったもんだ」
 伝説の釣り師は「三田マンション」の薄汚れたプレートに蹴りをいれてからそう言った。そして、うながされるまでもなく、真っ正面を見すえ、大股でレストランの入口に向かった。 
「あんたはいったいなにが釣りたいんだ?」
 案内されたテーブルの椅子に座るやいなやたたみかけるように伝説の釣り師は言った。強面の刑事の訊問より迫力があった。逃げ場はどこにもないなとそのとき私は腹をくくった。

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 伝説の釣り師はバケツ一杯のムール貝にむしゃぶりつき、プィフィッセの84年をガブガブ音を立てながら飲みつづけた。
「釣りの極意? 消すことだ。自分も世界も宇宙もなにもかも消しちまう。そうすりゃ大物、大漁まちがいなしだ」と伝説の釣り師は言い、2本目のプィフィッセを注文した。ムール貝をバケツ2杯きれいに片づけ、84年のプィフィッセを3本飲みほしたところで、伝説の釣り師はムニュにはじめて目をとおした。そして、「おい、あんちゃん」とドスの利いた声でギャルソンを呼んだ。伝説の釣り師が言葉を発するたびに店の中に緊張が走った。私は半笑いを浮かべ、脇の下から嫌な汗をしとどかきつづけていた。
「ああ、もうどうなってもいい。はやくなにもかもが終わってほしい。1秒でもはやく妻と娘の待つ家に帰りたい。妻のやわらかくてあたたかいワギナの中に入りたい。そして、いつまでも眠りつづけたい」と心の中でつぶやいた。
「クー・ド・ブフ・プレゼ、牛のシッポをメインに、エイのアレももらうか。ワインは料理にあわせてくれ。ところで、あんちゃん。サイスは達者か?」
「シェフのサイスマサオでございますか?」
「ああ。ほかにいねえだろうが」
 ギャルソンが厨房にすっとんでゆき、直後に顔面をひきつらせた男がギャルソン以上のスピードですっとんできた。
「先生! 来ていただけるのであれば、御連絡をいたたただだだだ   
「うるせえな。あいかわらず、アゴがよくまわる野郎だ」
「も、もうしわけありましぇえんんん」
「まあ、あれだ。食いもんがうまいから、文句はねえよ」
「あ、あ、ありがとござましゅしゅしゅしゅぅ!」
「ベルナール・パコーから伝言だ」
「は、はいっ!」
「貸した170フランをはやく返せだとよ」
「あすにも! いえ、いまからインターネットで送金手続きいたしまっすすすす!」
「それから、サイスよお、うまいはうまいが勢いがねえんじゃねえのか? ん? どうなんだ?」
「す、す、す、すみましぇぇん!」
「あやまってすみゃよお、デコスケはいらねえよ。おまい、パリのランブロアジー時代、パコんとこで鍋ふってたときのほうが料理に凄みがあったぞ。小金残してふやけたか? あん? どなの? どうなのよ」
「すみません、しゅみません、しゅみましぇぇぇん!」
 サイスマサオ・シェフは何度も頭をさげ、「すみません」を14回連続で言いながら、あとずさりで厨房へ戻っていった。円ひろしの『夢想花』がちらっと頭をよぎり、吹き出しそうになったがぐっとがまんした。目の前の現実に引き戻されると心臓が痛い。しかし、夜はまだはじまったばかりだった。

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「ちょいとつきあえよ」
「先生、もうなにも入りません」
「なに!」
「あ、いえ、だいじょぶです。じぇんじぇん、だいじょうぶです!」
 伝説の釣り師と私は雷門1丁目のさびれた通りを並んで歩いた。ポルト・ドールでさんざん飲み、喰ったにもかかわらず次の店に行こうというのだ。支払いはすべて伝説の釣り師がした。インタビューをしたこちらが支払いをするのが当然だが伝説の釣り師は決してゆるさなかった。
 護衛の男たちはつかず離れず、あたりに目を配りながら歩いている。ときどき、男たちのきびしい視線が私の背中に刺さった。痛い。「痛いんだよ、おまえら!」と叫びたかったが、もちろん、そんなことはできない。できる道理がない。私はじっと痛みに耐えた。「虹湖」と染めぬかれた浅葱色ののれんをくぐり、こじんまりとした料理屋に入った。板場では角刈りの若者が一心に包丁を動かしている。
「いらっしゃい!」
 奥から底抜けに明るい声がした。出てきたのは内蔵がよじれてしまうほどのものすごい和風美人である。正直に言うが酒を大量に飲んでいるにもかかわらず、私のペニスはそのとき激しく勃起した。それくらいの色気、艶のある女性だった。私はズボンのチャックをおろし、「こんばんは」とわがムスコで挨拶したかったが、もちろんそんなことはできない。できるはずがない。道理もない。私はじっとペニスがこすれる痛みに耐えた。
「イロの虹子だ」
 白木の一枚板のカウンターに座ると、伝説の釣り師は言った。「ボンクラへっぽこ物書きのニイザワだ。ニザンとでも呼べばいい。頭は悪いし、気はまわらないし、度胸もねえが気はそこそこよさそうだ」と伝説の釣り師は私を紹介してくれた。
 伝説の釣り師と私は冷やで羅生門を飲んだ。ここでも伝説の釣り師は豪快に食べ、ものすごい勢いで酒を飲んだ。しかし、ある変化があった。しゃべり口調がそれまでとはうってかわって物静かになったのである。物静かになったとはいえ、やはりドスが利いている。すごみがある。私はひたすら相づちを打ちつづけた。ときおり、「うばうば」とみょうちくりんな相づちを打ってしまい、そのたびに伝説の釣り師に睨みつけられた。
「いいか、若造。おれが釣り竿を垂れているのは目に見える海だの川だのじゃねえ。おれがまだ見ぬ大物を釣り上げるために釣り竿を垂らしているのは星の海のど真ん中だ。わかるか?」
「……」
「ばかやろう」
「すみません」

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 冬の夜の闇のなかで月の光を受けてきらきらと輝く隅田川の川面を見つめ、伝説の釣り師ははかなく哀しげなうたを歌った。呪文とも聴こえた。よく聴きとれないうえに理解できない外国語だったが言葉の響きは私の中のある部分、だれにも、私自身でさえも触れることのできない部分に届いた。ふと涙がこぼれ出た。涙はつぎからつぎへとあふれてきた。もうとどめようがないほどに。
「先生、それは? 何語ですか?」と私はしゃくりあげながら言った。
「ポルトガルのファド。アマリア・ロドリゲスのうただ。泣ける。おまいもいっしょに泣け」
「はい」
 私は伝説の釣り師のうたにじっと耳をかたむけ、35年分の涙を思うぞんぶん流した。街の喧噪も首都高速道路を行き来する車の騒音も消えた。私の息づかいさえ消えた。静寂のただ中に私と伝説の釣り師はいる。聴こえるのは伝説の釣り師のうただけだ。静寂と夜の闇は渾然となり、雲ひとつない星空にむけて飛びたとうとしている。いや、私自身がうるわしい星座のまたたきのひとつでもあると思われた。月の光があやかに映りこむ隅田川は星の海へとかわり、聖なる水面に幾百万の魚たちの跳ねる姿がはっきりと見えた。

 参考
 私の五感の中にはファドがある 心には悲しみ
 私の中にはなくした夢がある 孤独の夜に
 私の中には詩がある 音がある
 精神のきらめきが むこうみずな愚かさが
 私の中には月夜がある 花咲く平原がある
 空が 海が それよりずっと大きな悩みがある

 アマリア・ロドリゲス(詩人。ファドの歌い手&使い手。故人)

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by enzo_morinari | 2012-09-29 20:24 | 師歌 | Trackback