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ニーチェ爆弾/ある若い友人への招待状

 
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深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいている。 F-W-N


1889年1月3日、フリードリッヒ・ウィルヘルム・ニーチェ発狂。この日、ニーチェはトリノのカルロ・アルベルト広場で御者に鞭打たれる馬を目撃する。なにごとかを絶叫しながら馬に駆け寄るニーチェ。馬の首を抱きしめ、泣き崩れる。そして、その場に昏倒。広場は騒然となる。

気づかう者がいる。嘲る者がいる。罵声を浴びせかける者がいる。笑いころげる者がいる。まったく無関心な者がいる。無関心を装う者がいる。厄介事にはかかわるまいと見て見ぬふりを決めこむ者がいる。そこには故郷を喪失しつつある「近代」の醜悪なる貌の一端が見てとれる。

やがて警官たちが到着。人々の憐れみと奇異と冷笑の眼差しがニーチェに注がれる。ニーチェ44歳の冬である。得体の知れない新しい世紀の不気味で不可解で不条理な足音がすぐそこにまで迫っていた。ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞した『ニーチェの馬』はこの出来事を物語の端緒とした映画だ。

発狂の日、ニーチェはコジマ・ワグナーに手紙を送っている。自分は十字架にかけられし者である、豊饒と陶酔と混沌の神デュオニソスである、ブッダである、ナポレオンであるなどといった支離滅裂な内容。ニーチェは精神病院に収容された。そして、死ぬまで狂人としての日々を送ることとなる。

発狂以降、ニーチェは著作・論文等の執筆は一切していない。よって、ニーチェの思想と哲学は発狂以前の著作からしか知りえない。コジマ・ワグナーへの手紙には発狂以前のニーチェの片鱗をうかがわせる言葉が記されていた。その中の一節。

「私は人間ではなく爆弾です」

なるほど。爆弾か。ここ100年で考えても、ニーチェ爆弾にやられた者は洋の東西を問わずに数知れまい。芥川龍之介がそうだった。三島由紀夫もそうだろう。吾輩のまわりにも何人かいた。吾輩の友人たちにかぎって言えば、一人残らず社会的不適合者になるか、廃人になるか、発狂するか、自殺するかしている。残念ながら、乞食とホモ・セクシュアルと革命家はいない。

「ニーチェにハマったら終わりだ。ワグナーばかり聴くようになったら危ない」とまことしやかに囁かれているというが、わかる気がしないでもない。吾輩の場合はニーチェにハマることもなかったし、ワグナーは『ローエングリン』『ニーベルングの指環』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『タンホイザー』といった歌劇・楽劇をときどき聴くていどで、これらとて熱心に聴いたとはとうてい言えない。特に『ニーベルングの指環』などは全4編、総演奏時間15時間にも及ぶ長大な大作であるから、第1夜の『ワルキューレ』と第3夜の『神々の黄昏』を折にふれて聴くくらいのものだ。

たしかに、ニーチェには哲学や思想という厄介きわまりもない岩盤、一枚岩を一撃で吹き飛ばす力がある。ニーチェを読んでいると、行間からデュオニソスの荒ぶる魂が飛び出してくるのではないかと思える瞬間がある。その感覚は恐怖ともいいうるものだ。思わずうなってしまうような箴言や警句にふれると、一種異様な凄みに搦めとられて、そこから先には一歩も進めないような感覚が起こることもしばしばあった。いくつか挙げてみる。

神は死んだ。/悦ばしき知識
深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいている。/善悪の彼岸
怪物と戦う者は自身が怪物とならないように注意せよ。/善悪の彼岸
誇らしく生きることができないときは誇らしく死ぬべきである。/偶像の黄昏
自分に命令する力のない者は自分に命令する者を求める。/悦ばしき知識
悪とは「弱さ」から生ずるすべてのものである。/アンチ・クリスト
狂気は個人には稀有だが、集団・民族・時代にあっては通例である。/善悪の彼岸
脱皮できない蛇は死ぬ。精神もおなじである。/曙光
中途半端に多くを知るより何も知らないほうがいい。/ツァラトゥストラかく語りき
事実はない。あるのは解釈だけである。/権力への意志
自己言及は自己を隠蔽する手段である。/善悪の彼岸
恋愛は誤謬をその父とし、欲望をその母とする。/人間的な、あまりに人間的な
誰も学ばない。誰も知ろうとしない。誰も教えない。 孤独に耐えることを。/曙光
他者の考えで賢者になるなら愚者であるほうがましだ。/ツァラトゥストラかく語りき
自殺を思うことは強い慰謝剤である。これによって多くの夜が楽に過ごせる。/善悪の彼岸


吾輩はニーチェを読むとき、「これは現実ではない。これは文字にすぎない。惑わされてはならない。魅入られてはならない」と強く自分に言い聞かせた。そうすることでかろうじて精神の均衡を保つことができたような気がする。あのとき、もしニーチェ爆弾をもろに被弾していたら、ニーチェ爆弾の直撃を受けて斃れていった人々とおなじ運命をたどっていたかもしれない。

ヘーゲルの『精神現象学』と格闘したときもそうだったが、吾輩はニーチェの著作を「論理(ロゴス)」としてではなく、「物語(ミュトス)」として読んだ。ヘーゲルもニーチェも物語として向かいあうと、尊大きわまりもないロゴスの大伽藍に細くではあるが幾筋かの神話的でやわらかい光を見いだすことができた。あの光はおそらくは豊饒の光でもあったろう。その後の吾輩の人生に巻き起こる数々の混沌と不条理と困憊を差し引いても、あのとき垣間見た幾筋かの光は吾輩が歩む細く暗い道を常に照らしつづけた。

ニーチェは30年にもわたって、まさに血煙を上げながら執筆と思索に没頭した。ニーチェの血煙の意味を理解できない者はニーチェに近づくべきではない。ニーチェを読んで人生に活かそうなどとゆめゆめ考えてはならない。

ニーチェは世の中のためにはならない。いかなる意味でも役には立たない。ニーチェにはいささかも世間的な価値がない。19世紀のヨーロッパ世界において、傲岸不遜にも「神は死んだ」と言い放った者から学ぶべきものはない。国家が成熟してゆこうとする途上の時期に「永劫回帰」を提示し、「超人」を持ち出す輩がもたらすのは不幸と悲劇と苦悩だけだ。

まちがいなく強烈な痺れるような魅力はある。脳みそとはらわたを引っ掻きまわされるのに似ている。しかし、それはセックスの相性がいいだけの性悪女のようなものだと心得ておいたほうがいい。マルクスには復活の可能性がわずかに残っているがニーチェにはない。このことは断言できる。ニーチェは人間社会を成り立たせている諸原理とは金輪際相容れないのだ。反社会的ですらあると言ってもよい。ニーチェを読んでいるような輩にはかかわらないほうが身のためである。

しかし、だからこそ、ニーチェは空前絶後に凄いのだとも思える。その凄さを知るにはニーチェの「隠れた問い」を見つけださなければならない。ニーチェから「答え」を引きだそうとしたのではニーチェを読んだことにはならない。そもそも、ニーチェからは答えなどなにひとつ出てこない。

ニーチェは誰も気づかなかった「問い」をたった一人で見つけだし、たった一人でその「問い」と格闘した。ニーチェは思想と哲学の「たった一人の軍隊」なのだ。『ツァラトゥストラかく語りき』も『人間的な、あまりに人間的な』も『善悪の彼岸』も『この人を見よ』も『権力への意志』も、ニーチェの「問い」から生まれた問題集だ。

危険な問題集ではあるが、自爆誤爆の覚悟があるのなら、保身と利権に血道を上げる愚劣卑劣な木っ端役人どもや既得権益の上にあぐらをかいている守旧派守銭奴どもの牙城に風穴をあけるくらいの爆弾はもたらしてくれる。

この問題集でスキルアップすれば、人生という厄介なゲームに土塊ひとつ担保提供せぬまま恥知らずにもローリスク・ローリターンの定額貯金に精を出す善人づらした小市民や醜悪きわまりもない親和欲求に翻弄されるヘッポコ・スカタン・ボンクラや臆面もなく純朴偽装した能天気や暮らし自慢、趣味自慢、ライフ・スタイル自慢にうつつをぬかして日も夜もあけぬ極楽とんぼや裏切りと嫉妬と欲得と怯懦と保身に彩られた者たちに回復不能な一撃を加えることはお茶の子さいさいになるはずだ。だが、扱いにはくれぐれも用心すべし。

ニーチェ爆弾は使いようによっては核爆弾より威力がある。プルトニウムやストロンチウムよりはるかに有毒有害だ。世が世なら、まちがいなく「禁書」「焚書」「打首獄門」「磔」である。いったん汚染されてしまえば除染はできない。ニーチェ爆弾は究極の最終兵器、リーサル・ウェポンなのだ。セシウム? ニーチェ爆弾に比べたらアメ玉だ。

さて、若き友よ。いまだ浮かび上がることも喰い破られることもない血管を持つ者よ。
超人と狂人と善人と悪人と駱駝と獅子と赤児と魔神の住まう善悪の彼岸へようこそΨ
 
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by enzo_morinari | 2013-07-24 17:54 | ニーチェ爆弾 | Trackback