カテゴリ:B.コールドウェルが泣いた夜( 1 )

ボビー・コールドウェルが泣いた夜#1

 
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風のシルエットには静かな痛みが隠れている。 E-M-M


古い友人のFから電話があって、ボビー・コールドウェルの『What You Won't Do for Love(邦題: 風のシルエット)』LP盤のミントコンディションを手に入れたので聴きがてら一杯飲みに来ないかと言うので、週末のお愉しみのすべてをキャンセルしてお台場くんだりまで出かけた。潮風公園の夕陽の丘で待ち合わせというのはいかにもスカしたFらしい。

音楽業界でそこそこの地位と名声を手に入れたFはオーディオ誌の取材を何度も受けるほどのオーディオ・ファイルでもあって、そのオーディオ装置は世界の名だたる機材で構成されており、そればかりか、視聴ルームは完全防音、非の打ち所のない音響対策が施されていた。再生音楽を視聴するのに、これ以上はない環境が整っている。Fは趣味はオーディオいじりとオーディオ・ショップめぐりという、根っからの音キチである。本業の音楽に関する仕事はまったく評価しないが、ことオーディオ機材に関する情報と”1980年代の”という限定付きで、Fの耳と意見は信用できる。

F宅への道すがら、互いの近況について簡潔にやり取りしたあと、寄る年波に関する愚痴をFが言いだしたところで大仰御大層な高層マンションの玄関に到着した。

エレベーターは音もなく上昇をつづけた。最上階のさらにその上。ペントハウスだ。「ばかばかしい」と内心思ったが、口には出さなかった。おそらくは数億はするペントハウスを手に入れるためにFが費やした時間と忍耐と流した悔し涙が手に取るようにわかったから。

3度目の美人の奥さんと通り一遍の挨拶を交わしたあと、吾輩とFは視聴ルームに入った。arflexのソファはそこそこにいい座り心地だ。スピーカーは木下モニターのバーチカル・ツイン。それをMcIntoshの真空管アンプの名機、MC275を4台投入してバイアンプ駆動している。

MC275のチューブはすべてウェスターン・エレクトリック社製の純正ヴィンテージ管。これだけで大卒のルーキーの年収を軽く超える。「ばかばかしい」と吾輩はまたもや思った。だが、やはり、口には出さなかった。うまく煽て賺してせしめてやろうと考えたからだ。人生と世界のよしなしごとのすべては「利益」と「思惑」で動いている。

各オーディオ機器を繋ぐケーブル類はすべてカルダスのGolden Referenceとエソテリックの最高級グレード、7N-S20000 MEXCELで固められている。ケーブル類だけで1000万円近い。「ばかばかしい」とまたもや吾輩は思った。しかし、口には出さない。理由はおなじである。

McIntoshのMC275を制御するのはKRELLのKSLだ。真空管のパワーアンプをトランジスタのプリアンプで制御するいう手法は吾輩がFに教えてやったものだ。肝心のターンテーブルは今は亡きマイクロ精機の超重量級の糸ドライブ方式。かつて、吾輩が喉から手が出るほど欲しかったヤツだ。

Fが未開封の『What You Won't Do for Love』を吾輩の目の前に置いた。USオリジナル盤。しかも、ファースト・エディション。ボビー・コールドウェルの音源には大した価値などありはしないが、吾輩にとっては重要な意味を持つ。それはFもおなじはずだ。

「一人では聴けない。おまえと一緒じゃないとな」

Fにしては神妙な面持ちで言った。

「理由はどうあれ、その音楽がなんであれ、音楽は一人で聴くものだ。それができないなら、とっとと音楽から足を洗うこったな」

憎まれ口を叩きながらも、吾輩はFの「一人では聴けない」という心情を十分に理解できる。それはおそらくは傷と痛みと誇りといった領域に属する問題である。

「まあ、いい。かけろよ」と吾輩は無造作に『What You Won't Do for Love』のジャケットを手にとり、びりびりと萎びたラップを引き破った。「ああ」という嗚咽がFの口から漏れた。
 
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by enzo_morinari | 2013-07-20 00:28 | B.コールドウェルが泣いた夜 | Trackback